(仮)はるかの日記

大学院博士課程中退でフラフラしてる。あまり働かず、頑張らずゆるく生きていきたい。野菜づくりとか手作り生活とか適当にやりたい。社会学などを参考に生き方について書いていきたい。もともとは韓国研究者。ゆるく生きたい仲間が欲しいです!ツイッターで思う所をつぶやいてる。

「生きづらさ」を問い直す

1.「生きづらさ」は克服されるべき対象ではない

 

ニート、引きこもり、低所得生活などの情報を、いろんな媒体を見て思うのだが、いわゆる「生きづらさ」について、かゆい所に手が届くような情報が少ないと感じる。

 

ニートや引きこもりは、脱出すべき対象として、社会復帰できたハッピーエンドの事例ばかりが紹介される。

 

また、ニートや引きこもりを肯定する識者インタビューなども、識者自身が社会的に地位を得た人であるため、生きづらさについて語られても空虚感を感じることもあるだろう。

 

phaさんや大原扁理さん達が、社会に適応できない人がゆるい生活を送り、仲間たちと楽しく生活している様子を本で描いて、社会にオルタナティブを提示したことは画期的ではあった。

 

しかし、どうも社会に提示される「生きづらさ」への処方箋では、「生きづらさ」は克服されるか、楽しみに変えていこうという方向性しか示されていないようだ。

 

しかし、生きづらさを抱えた大抵の人は、彼らのように器用ではなく、つまらなくて変化のない日常を送っている。実際は苦しさの中でもがいている人が多い。

 

仲間もいないし、楽しみを見つけることもできない、あるいは、楽しんでいる余裕すらないのかもしれない。

 

「生きづらさ」は簡単に乗り越えられるものではないし、そのまま肯定されてよい。

 

 

2.灰色の生活でも仕方ない

 

逆に言うと、みんなが真似できない憧れの生活をphaさんたちが実現しているからこそ注目され本が売れるのだ。誰もが実践できる生活は憧れの対象でもなんでもなくなる。

 

しかし、生きづらさを抱えた人の多くは、不器用で、大した能力ももっていなく、思うようにいかない灰色の日常をおくっている。

 

残念ながら、そのような灰色の生活を描いた本はつまらないので売れないだろう。

 

つまらない生活は避けられるものとして価値を与えられてない。ネガティブなことは隠すべきことで無化されてしまう。

 

でも、生きづらい人は、つまらない生活を送っている他人の存在を知ることで、共感できることが多く、心の安定にもつながるのでは無いだろうか?そこから繋がりも生まれそうである。

 

3.「生きづらさ」をそのまま見せつける

 

生きづらい人には、楽しいニート生活とかの情報ではなくて、楽しくない、パッとしない日常を、何とかしのいで生きているという存在証明が必要ではないかと考える次第。

 

楽しい情報を見てると、自分のつまらない日常と比較して心がヘコんでしまわないだろうか?

 

生きづらい人には、むしろ逆に、人生を楽しめていない人の情報こそ価値があるかもしれない。

 

だから、つまらなくて苦しい日常を公開して、ブログを書いたりツイッターでつぶやいたりすることで、他の生きづらい人への貴重な情報を提供していることになりうる。

 

「私たちは、21世紀日本での生きづらさの中で、なんとか生きている」

 

私たちは生き証拠を発信している。歴史的資料を残しているのだ。

 

なので、生きづらい人は面白くなくても、どんどん自分の情報を発信していけばよいのでないか。きっと誰かの心の安定に寄与するはずだ。

希望「弱者」社会

1.「弱者」の誕生

「弱者」という言葉が最近飛びかうようになった。

 

さて、気づくことは、「私は弱者です」と言う人はたくさんいても、「私は強者です」と言う人はいない。

 

「弱者」になれば、さまざまな義務が免責され、支援が受けられる対象となる。しかし、「強者」になれば、社会的責任を果たさなければいけないし、弱者を助けたり配慮したりしなければいけない。従って、「強者」はいろいろ面倒くさい役割を果たさなければいけないので、「座りたくない席=貧乏くじ」と映るのだろう。

 

もちろん、障害者など明らかに生活や就労にハンディがある人は必要な支援が受けられるべきだ。しかし、日本の社会保障が貧弱なために支援を受けられない「弱者」も多く存在する。

 

社会の構成員である私たちは、その能力に応じて社会的な役割を果たし、ハンディがある場合はそれが補完される措置がとられるという市民社会の原則は重要である。

 

しかし、自分こそが最も「弱者」であり人から手心を加えてもらい助けてもらうべき存在だと主張する人がたくさん出てきて、「弱者」の地位の争奪戦が繰り広げられている雰囲気がある。

 

この社会において、生きづらさを抱えている人が多くなり、「孤独な群衆」(リースマン)となった個人の「誰かから助けてもらいたい」「自分の生きづらさを知ってもらいたい」という欲求の反映なのだろう。

 

2.みんなが「弱者」になりたがっている

問題は社会の構成員全員が「弱者」と認定されたがっている現状である。

 

エリートサラリーマンや大学教員でさえ、自分を「弱者」と位置づけたがる人はいる。

 

私の大学の知り合いで総合商社(年収1,000万クラス)で働いている男性は、

 

「俺まったく仕事できないわ。まさに社会不適合者だわ」と言っていたが、大学教授の両親のもとで育ち、高い年収と肩書を得て、友達も多いし恋人も途絶えたことがないほどなので、やはりフェアに評価するとエリートのサラブレッドだろう。

 

 

ある大学の准教授は、

 

「私の言うことは教授会で通らないし、著書をたくさん書いているにも関わらず教授になれない。私なんて末端だよ」とボヤいていた。

 

社会的地位が高いにも関わらず、「弱者」ヅラする人は多いのである。

 

3.社会的責任から放免されたい「強者」

やはり、この社会で社会的階層の高低を決定づける最大のパラメータは経済力である。例外もあるが、やはり経済力がある人は強者と位置づけてよいと考える。マルクスの言う通りではあるが、経済力は権力を付随させる。

 

「ノンブレス・オブリージェ」という言葉がある。

 

経済力や権力を持つ者は、社会的責任を果たさなければいけないという意味だ。

 

「強者」は放っておけば自己の利益追求のために、その権力を利用して「弱者」を食い荒らしかねない。そのため、「強者」には高い倫理観が求められるのである。

 

社会的義務を果たさなければならない「強者」に誰もなりたがらない。みんな「弱者」の椅子に腰掛けて、社会的責任を免除され、好き勝手やりたいと思っている。

 

パワハラやセクハラは、権力を持つ者による倫理観の欠如した人権侵害である。こうした行為をおこなう権力者たちも、自分たちのことを「強者」とは言わない。自身を「弱者」と位置づけているからこそ、好き放題やるのである。

 

社会的責任を果たすことは、「徳」から生まれる行為であろう。

 

「徳」については以前ブログで書いた内容を見てもらいたい。

 

徳のある人間とは、「他人の痛みを理解し、他人に共感する有徳=内発的な振る舞いができる人間」である。

 

徳のある人間が少ないのが、今の日本社会の問題点であろう。

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.「オトナ」不在の日本

太平洋戦争の戦争責任についてはどうだろうか?

 

敗戦を迎え、戦争を推進した軍部トップや政治家たちは自ら責任をとるようなことはなかった。「雰囲気に流されて」戦局を拡大してしまい、引くに引けない泥沼に陥った。「自分のせいじゃない、みんなのせいだ」と。

 

これも、責任をとろうとしない「弱者」的態度である。どうやら、日本にはこのような体質が染み込んでいて、民主主義国家となった現在でも、誰も社会的責任をとりたがらない。

 

東日本大震災の時の福島の原発事故の時に、誰が責任をとったのか?

 

東電の幹部は逃げたり責任転嫁に躍起になり、原発を推進してきた自民党の誰も責任をとらなかった。

 

自分に被害が及ばないように誰も責任をとりたがらない。

 

学校では、イジメがあっても大人である教師たちは見て見ぬふり。面倒くさいことに関わろうとしない。

 

会社では、「俺がすべて責任とるから、お前は好きなことをやれ」という上司はいなくなった。失敗を部下に押し付け自分は関係ないよという態度のトップが増えてくる。

 

仏哲学者の内田樹は、誰も責任をとらない今の日本を、「オトナ」がいない社会と言っていた。

 

5.「弱者」を巡る闘争

みんなが「弱者」認定を望む社会になれば、誰が真の「弱者」であるかを巡って不毛な競争が生じ、「強者」と「弱者」に、あるいは「弱者」同士も(恣意的に)分断され、下手をすれば敵対することになる。

 

「弱者」同士がいがみ合うことで社会システムや政治の問題への批判がそらされるので、それを狙っている権力者もいるだろう。

 

また、「弱者」認定されることで自由を奪われる危険性もある。「弱者」として認定してやるから「弱者」らしく振る舞えという問題だ。「弱者」は支援を受ける代わりに、社会に対して文句を言うなという封じ込めがおこなわれる。こういうのは、生活保護者バッシングに代表されるだろう。

 

歴史社会学者の小熊英二によると、人々は今の不公正な秩序を変えることができない無力感や苛立ちを、秩序に合わない存在とされる「少数派」や「弱者」に向けているという(朝日新聞、2017年12月21日付『論壇時評』)。

 

「弱者」には、「在日」「生活保護」「沖縄」「LGBT」「障害者」「ベビーカー」などが含まれているとする。

 

www.asahi.com

 

 

6.各々ができる範囲で社会的役割を果たす

 

「個人的なことは政治的なこと」であるので、各々の抱える生きづらさや問題はこの社会のあり方と背中合わせにある。

 

地味ではあるが、自分の「弱さ」を自分の言葉で語ることが、社会変革に結びつくのだろう。

 

「弱さ」を正直に語ることができれば、自己肯定にも繋がりうる。私はこじらせていた時に以下の本で少し楽になった。

 

 

 

 

気をつけなければいけないのは、ミソジニーミサンドリーなどの性差別や、特定集団に対するヘイト言動に陥らないことである。

 

さきほどの、「モテる人間になりたい」というブログにも書いたが、社会学者の宮台真司「人から理解され、肯定され、承認されるという感情的な安全は、自分にとって、そして相手にとって「生命の安全」さえ保障する」という。

 

生きづらい人は自分のことで精一杯なのかもしれないが、自分も語り、そして他者の語りにも耳を傾け「弱さ」を認めあうことで、繋がりあうことだ。

 

他人に共感できない人にはこのような関係を築くのは難しい。成熟した市民になれるかどうかだ。

 

そして、自分の能力の範囲内で社会的役割を果たすという姿勢が生まれれば、誰もが「弱者」を競うようないびつな社会を脱皮できる。

遊動生活のススメ

1.定住化による暇と退屈

以前、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)のレビューを書いた。

 

それとも関連させて、今回は遊動生活のススメを書いてみる。

 

人類は人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた

が、1万年前(縄文時代)より定住生活を始めると書いた。

 

 

遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。

しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。

 

現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかについて、資本につけこまれないような暇の潰し方が必要であると説いた。いや、暇さえも楽しんでしまえという趣旨だった。

 

 カネを使わない暇つぶしの方法を見出すことは、phaさんや大原扁理さんなども提言していたことである。

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

 

2.定住に向かない人は遊動を

理論上は以上の通りなのだ。しかし、私みたいに暇つぶしが下手くそで、常に新しい刺激を求めてしまう、そういう落ち着きのない人間もいる。

 

そういう人間は、どう生きるべきか?

 

その一つとして、遊動生活を挙げてみたい。

 

ずっと同じところに住んで、同じ仕事を毎日やって、同じ面々と顔を合わす生活って、ウンザリしませんか?

 

現代社会では、一つの場所に定住し、学校や職場など一つの集団に属する。 しかし、集団のメンバーが長期に固定されると、そこには強者・弱者が生まれ権力関係が形成されるようになる。 学校や職場でのイジメなどが好例だ。

 

しかも、学校や企業などの集団は閉鎖的で内部が外からは見えにくく、いびつな人間関係がはびこりやすい。 どうしても風通しが悪くなってしまい、外部からは見えにくくなる。外部の監視が届かない集団で、メンバーが固定されると権力関係が生まれてイジメなどが発生する。

 

いびつな人間関係が形成されるのは、日本人が民主的な人間関係に無頓着だからであり、一朝一夕ではどうにもならない。

 

だから、一つの集団の同じメンバーといつづけることは危険なんだ。個人にできることは、集団から離れるくらいしかできない。いちいち、改革と言って人に説法をするのも面倒だろう。

 

人間関係はシャッフルしていく必要がある。

 

以上は、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書、2009年)のいじめ研究から得た知識に基づく。

 

いろいろな集団を渡り歩いていく遊動生活は、権力関係に侵されにくい。 嫌な集団に属することになれば、身軽に離れられるのが遊動生活のメリットだ。

 

考えてみろよ。短期バイトばかりやってたらイジメなんて起こらないし、嫌になってもすぐ辞められる。

 

 

たびたび、場所を移動するのも刺激になり、常に新鮮な気持ちを持ち続けることができて楽しい。

 

 

 

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 

3.遊動は本来あるべき姿

柄谷行人の『遊動論』(文春新書、2014年)によると、柳田国男も、定住化が権力関係を生み出したと書いていた。それ以前の遊動民の生活では富と権力の不平等や葛藤がないような社会が存在していたのではないかと書いてあった。

 

まだ、ちゃんと読んでないがな。笑

 

マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』によると、ジャングルで遊動生活をおくる未開人なんて、食材確保と調理で4時間しか生きるために働いてない。あとの時間は昼寝だ。

 

ジャングルの中に食材は豊富にあり狩りをして肉も食べれる。未開人の生活は貧相だと思われがちだが、実は豊かな生活が存在していた。

 

その未開人たちに、先進的な生活と現金収入を勧めるために農場で働かせたところ、仕事をやめてジャングルに戻ってしまったらしい。

 

それほど、遊動生活は気楽だったらしい。

 

毎日、10時間も働いてカネはあってもしんどそうに生活している現代人はいったい何なんだい??

 

 

 

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

 

 

 

石器時代の経済学 (叢書・ウニベルシタス)

石器時代の経済学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

消費社会における暇と退屈。

いつもながら雑文で失礼します。

 

今回は、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)について。

 

人類はいつから暇を手に入れ、退屈するようになったのか?

現在社会では、暇と退屈が資本によって搾取される。資本主義における暇と退屈との付き合い方を考えてみた。

 

●暇と退屈の誕生

 

p.71-

退屈は、人類の歴史の中でも比較的新しい現象だという。退屈は多くの場合近代と結び付けられる。

 

人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた。

 

ところが、1万年前(縄文時代)より定住生活を始める。定住生活の開始とともに退屈に襲われるようになる。

 

p.87-88

遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。

しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。

 

そこで、大脳に適度な刺激をかけるべく、高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体型や芸能などを発展させた。

 

縄文時代では、土器には使用するのに必要ないにも関わらず複雑な装飾が施されていたり、数々の工芸品がつくられた。

 

こうして、定住化による退屈の発生は「文明」を生じさせた。

 

●消費社会における暇と退屈

 

さて、資本主義が発達した社会において、人々の暇は新たな問題に直面するようになった。

 

マルクスの『資本論』に出てくるような時代には、人々は1日の大半を過酷な労働に費やされ暇や退屈はなかった。

 

p.23

長時間労働は依然深刻だが、先進国の人々は裕福になるとともに余暇を手に入れるようになった。

 

だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からないという問題が生じる。

 

 

 

p.34-38

パスカルの退屈論によると、人々は部屋でじっとしていられないから、退屈しのぎとして気晴らしを求めるという。

 

ウサギ狩りをする者は、ウサギを欲しているだけではなく、狩りをして退屈をしのぎたいのだ。

 

賭け事をしている人に金を渡しても、賭け事をやめないのと同じである。

 

p.17

ガルブレイスの『ゆたかな社会』(1958)によると、現代人は暇な時間の中で、自分が何をしたいのか分からない。そこで、広告屋などに「これが欲しいんでしょう?この趣味がいいですよ」と言われて始めて、それらのモノやサービスが欲しくなるのだという。

 

それまでの経済学の定説とは逆に、「ゆたかな社会」では、人々の需要は、供給側に操作されるのだ。

 

p.23

人々の暇と退屈に、資本主義がつけ込むのだ。文化産業が産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。

 

人々は暇の中で、退屈することを嫌う。だから、広告などに楽しみを提示されると、それを購買してしまう。

 

p.142

これからわかることは、消費社会は退屈と強く結びついていることだ。

 

p.145

ボードリヤールによると、現代社会において我々は物に付与された観念や意味を消費している。

 

例えば、どこかの有名なレストランで料理を食べた時、そこで提供された料理を味合うとともに、「有名なレストランに行った」ということで満足を得ているのだ。

 

このような、いわば記号の消費には限界がない。いくら消費しても満足がえられず、消費を続けてしまう。それでは、資本の思うがままになってしまう。

 

●暇と退屈の扱い方

 

現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか?

 

 

資本は退屈につけ込んでくる。資本のとりことならない楽しみ方が必要である。つまり、何でもモノやサービスを買って満足を得たり、退屈しのぎをしないことである。観念の消費なんて終わりがない。

 

知人と、これについて少し話をしたが以下のような楽しみ方がいいのではないかという話が出た。

 

・読書をする

・芸術活動に打ち込む

・仲間とだべって時間を過ごす

・散歩をする

 

カネを使わず素朴にできることを大切にしていきたい。これは、phaさんや大原扁理さんなども提言していることである。

 

國分功一郎氏が、どこかのブログ記事で語っていたのは「暇な時間をぼんやりと過ごす」ことの大切さである。

 

氏の近著『中動態の世界』の紹介でも書かれていたが、「暇な時間をぼんやり過ごす」ことは、依存症や精神病の人にとっても重要なことだ。

 

なぜなら、依存症の人は、暇な時間に耐えられず、手持ち無沙汰で依存物に手を出してしまうのだから。

 

暇な時間や退屈を、何もせずに耐える力も必要かもしれない。

 

私みたいな落ち着きがなく、じっとしているのが苦手な人間にとっては難しい。だから苦しんでいる。笑

実務的な勉強は身に入らぬ

現在、職業訓練に通っている。

 

職業訓練のパソコンスキルの勉強は関心が無いのでやっても頭に入ってこない。けっこう勉強したつもりがテストの成績も悪かった。

 

職業訓練校の受講生の中で、一番学歴が高いが、一番成績が悪い。泣ける。

 

やっぱり、仕事のための勉強=有用性のある勉強は好きになれない。ただ、金稼ぎのスキルをつけるための実務的な勉強はしんどいだけだ。

 

 

バタイユは、生産活動が非生産活動よりも優位にあることを批判した。有用性のない非生産活動こそが人間が生の満足を得られるものだ。

 

 

「人間の生の真の目的が非生産的な消費(祭典、豪奢な大建造物、遊戯、見世物、芸術etc…)にあるにもかかわらず、近代の西欧社会は生産と蓄積という人間の生にとっては手段の地位にある活動ばかりを重視してきた。消費が肯定されてもその消費は生産に貢献する消費でしかなかった」

酒井健バタイユ入門』ちくま新書、p.104)

 

人間の真の目的である非生産的なことこそ真の喜びが得られる。

内面からあふれだす、純粋な知的好奇心からの勉強がしたい。

モテる人になりたい!

宮台真司の『きみがモテれば、社会は変わる』は、今の閉塞する日本社会にはどういう人が必要であり、どういう人がモテてほしいかを書いた本である。

 

今の日本社会では、ひとたび職を失いカネを失うと、人との縁が切れ、孤立してしまう。

 

カネの切れ目が縁の切れ目。

 

男は会社での人間関係に偏重し、地域コミュニティーとの関わりが無いので、職を失うとたちまち人間関係が無くなり孤立してしまう。また、離婚して一人になると待っているのは孤独死である。

 

なぜそうなるか?

 

まずは、打算的につながるだけの人間関係があるだろう。

 

もう一つは、単に学校や会社が同じだということでの繋がりが多いためだ。

 

つまり、人と人とが真の親密さによって繋がっていないのだ。場所の共有がなくなると、それだけで縁が切れてしまうもろい関係。

 

宮台真司によると、アリストテレスは、本当に良い社会とは、経済的に豊かな社会でも犯罪が少ない社会ではなく、徳のある人があふれる社会だといった。

 

カネの切れ目が縁の切れ目という社会が変わるためには、徳をもった人間が増える必要があるという。損得だけで動くあさましい人間はいらない。他人の痛みを理解し、他人に共感する有徳=内発的な振る舞いができる人間が必要だと。

 

他人に共感できる人は、尊敬・尊重を集め、周囲に感染的な模倣(ミメーシス)を与えるという。 そのようにして、多くの人が徳ある行動をするようになった社会が、よい社会。

 

他人を思いやり、共感できる人が増えれば、人の縁がそう簡単に切れない強靭な社会ができると思う。

 

人から理解され、肯定され、承認されるという感情的な安全は、自分にとって、そして相手にとって「生命の安全」さえ保障するという。

 

人が幸福に生きられる社会には必ずそうした<包摂>があるという。

 

他人を幸せにすることで、自分も幸せになる、そういう関係を築いていけるのか?

 

 

モテる人間が増えなければならない。

 

俺もモテる人間になりたい。

 

 

 

きみがモテれば、社会は変わる。 (よりみちパン!セ)

きみがモテれば、社会は変わる。 (よりみちパン!セ)

 

 

働きたくても働けない社会

 若年無業者についての本を読んだ。

 

www.amazon.co.jp

 

 

 この本では、職に就かない者を無業者と呼んでいる。ニートと異なるのは、何らかの職業訓練などを受けている者も無業者に含めているからである。

 

 若年無業者の数は200万人を超え、15〜39歳の若者の16人に1人の割合となっている。

 

 この本では、働いていない若者は働きたくないから無職状態にあるのではなく、「働きたいのに働けない」、つまり働けない状況に若者が追い込まれていると指摘する。

 

 正社員では、パワハラ長時間労働などが横行し心身を壊し仕事を辞める若者。さらに、そういった経験がトラウマとなり就業意欲を失って無職状態を長引かせてしまう者。

 

 人とのコミュニケーションが苦手であったり、HSP(神経が繊細であり、他人からちょっと怒られただけでも萎縮してしまう人)であったりするため、仕事がしにくい人たちもいる。また、そのような性格の者で、仕事をすることに対して一歩前に踏み出せずにいる人たちもいる。

 

 この本では、誰もが無業状態になりうる可能性があり、無業状態から抜け出しにくい社会を「無業社会」と呼ぶ(p.148)。

 

 日本社会では、一度、無業状態になってしまうと、人間関係や社会関係資本、意欲も失ってしまいがちなのである(p.25)。

 

 湯浅誠氏が「すべり台社会」と言うように、いったん「正規ルート」から外れてしまうと、すべり台に乗るように、そこから先、下げ止まらない。

 

 ニートなど就労意欲がない若者が話題となっているが、本当に働きたくないと思っている若者は少ないのではないか。

 

 私がオフ会で会った無職の男性(25歳)は、アニメーターとして働いていたが、仕事の覚えが悪かったりして、上司から「冗談抜きで、知的障害ではないか?」と言われ辞職に追い込まれた。彼は働く自信を失っていた。現在は就労支援施設に通う。

 

 私が「仕事はしたいんですか」と問いかけると、「仕事をしたい。仕事をしていることで社会と繋がっている感覚をもてるから」と語った。

 

 私もできることなら働いて金を稼ぎたいと思っているが、条件の合った求人に出会えないことや、仕事がキツくて尻込みしてしまうのだ。

 

 

 皆が働ける社会になるには、無業状態にある若者が働く自信をつけるだけでは不十分で、労働環境が働きやすいものへと変わる必要もあると考える。

 

 労働教の支配する日本社会での仕事は容易ではない。日本では仕事をするためのハードルが高い。仕事を少しのミス無く完璧にこなすことを求められる。それで、仕事が少しでもできない者は助けられるどころか、攻撃されひどい扱いを受ける。

 

 少々のミスが大目に見られて、社員がお互いにフォローしあう助け合いの労働環境となれば、どれだけ働きやすくなることか。 仕事の難易度が下がり、ひどい扱いを受けることが減れば皆が働きやすくなり無業者も減ることだろう。

 

 働きたい者が、自分に適した働く場所を見つけられて、適切なフォローを受けながら働くことができれば、人々から社会不満も消え健全な社会になっていくと考える。