生きるための思想

大学院博士課程を中退してキビしく生きてる31歳の男です。市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます。金のかからない歩き野宿旅をしたり。ツイッターで思う所をつぶやいてる。メッセージなど→→ haruka.omae@gmai.com

居場所イベントします(大津)

1月に大津にて社会で孤立しがちな人たちの居場所をつくる集まりをします。今後月1回のペースでやりたいと思います。

 

【初回日時】2019年1月14日(月・祝) 14:00〜17:00

【名称】弱さで交流する会

【場所】大津市市民活動センター1F 交流スペース(パーティションで区切られた円卓)

http://movementotsu.com/access.html

 

【やること】集まって話したり、ぼんやりしたり(自分の作業をしてもいい)

【対象】どなたでも

   生きづらさを抱える方、孤独を抱える方、「普通」に生きるのがしんどい方

 

【本イベント主催の経緯】

 私は大学院を中退して仕事をしたものの、障害などの理由もあり、どの仕事も中々続かず、経済的自立ができない者です。しっかりできない、頑張れない者です。私自身も社会で居場所がなく、孤独を感じている者です。

 

 社会で「普通」とされる生き方にしんどさを感じ生きづらさを抱えている人たちがいるようです。仕事ができない、あるいは人に認められる何らかの能力をもっていないと他者と繋がることができず、社会で孤立してしまい居場所がなくなってしまう状況です。このように、社会に適応できずに孤立しがちな人の中でも、一人孤独に過ごすのではなく、人との交流を欲している人もいるでしょう。そういう人たちが、がぼちぼち集まってのんびりと交流できる場を設けたいと考えています。

 

・話してもいいし、話さなくてもいい。

・自分のやりたい作業(読書・パソコン・スマホetc)をしていいです。

・言い合ったりはしない。助け合いの精神で。

 

(会場は食べ物禁止です。飲み物は可。100円でオーガニックコーヒーが飲めます)

 

 

質問等ございましたら、ツイッターのDM、もしくはブログトップのメールアドレスに連絡ください。

もくもく会(居場所つくり)

もくもく会という名のオフ会をやっている。

 

もくもく会とは、ネット上で「●●日に××(場所)でもくもく会」しますと主催を呼びかけ、指定した場所に行ってもくもくと自分の作業をする会である。

 

この会は『ニートの歩き方』や『持たない幸福論』など書いたphaさんがやり始めて有名になった。

 

 

やることは、読書、ネット、絵を描くなど何でもいい(何もしなくてもいい)。

 

人が集まるには何かをしなければいけないというのもしんどさを感じる時がある。何もしなくても人同士が接することができないものか。

 

私のような社会で孤立しがちな人は、多少とも人とのつながりが必要である。しかし、オフ会などで人と会っても話し続けるのは疲れる人もいるし、話す話題に尽きてしまうこともある。この会は、ただ集まるだけである。

 

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ファミレスでのもくもく会

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某所でのもくもく会

 

 

 

 

もくもく会ツイッターで告知する。事前に告知する時もあるし、その日の予定がキャンセルになり企画することもある。

 

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ツイッターでの呼びかけ

 

もくもく会のよいのは、主催して人が来なくても、一人で自分の作業をやればいいことである。

 

家で読書や作業ができない人、家にいてはもんもんとする人など、外に出て作業ができるようにもなる。

 

会を主催して告知しても、人が来ない日が多い。

今まで10回ほどやり、2人の参加者があった。

 

 

人が来た時に何をしたかというと、一対一なら話をしたり、ぼんやりしたり、絵を描いたりであった。

 

ずっと話していた時もあり、その時は、もくもくしていなかったが、話したかったら話したらいいし、話すことが無いなら場が沈黙になってもよい。

 

 

社会に適合できず生きづらさを抱え孤立しがちな人は、つながりが必要かもしれない。

 

弱者には人と接することができる居場所が限られてくる。どこかの集団やコミュニティに入って適応して居心地がよくなればいいのだが、弱者ほど受け入れてもらえるような集団がない。結果、部屋で一人で孤独に過ごすしかなくなる。

 

何らかの会がきっかけで人が交流できればよい。

 

 

もくもく会のことをツイキャスで話したら、以下のようなコメントがきた。

 

「日常から離れた場所の同一空間に二人だけの状態になると、初対面でも上手く交流ができる確率が高くなります」

 

これは、旅をしている感じなのかもしれない。旅先で出会った人とは自分の内面もさらけ出して話せることもあるので。非日常のなせる技であろうか。

 

 

 

これからは、日に余裕をもたせてもくもく会の日程を設定して告知しようと思います。

 

京都でやっているが、用事があり大阪方面に出向く際は、大阪でもやっている。

 

気になる方は、ツイッターで告知するのでよろしくです。

個性を求められることのしんどさ

以前、恥を覚悟で私の苦しさをブログに書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

この苦しみは、私が自己アイデンティティを確立できていないゆえから生じているのだろう。

 

活動や表現活動がうまくできない、センスがなく他人から反応が薄く自己アイデンティティがグラグラしてる。私には高尚な部分もあるし下劣で未熟な部分もある。どっちつかずであることなど。

 

 

 

私たちは「自分が何者なのか?」を問われ続け、他者とは違う自己を示すことを強迫される。

 

アイデンティティとは他者との関係性のなかで立ち現れる。

 

 

他者から自分はどう名指しされているのか、そして、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れるというポジショナリティ(位置性)によって自己は形成される

 

千田有紀、2005、「アイデンティティとポジショナリティ」上野千鶴子編『脱アイデンティティ勁草書房、p.269

 

 

 

 

自己アイデンティティがグラグラしていると、自分のポジショニングができないので心が安定しない。 つまり、自己アイデンティティが確立されていないというのは、他者や社会との関係の仕方が確立できていない状態である。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

 

しかし、この自己アイデンティティというものを示していく作業はしんどいものだ。

 

自己が何者であるかを表現するのは難しい。自己の内面を表現する言語能力やアートの能力が必要とされるからである。

 

ゆえに、表現能力にハンディをもつ人にとって自己表現は難しく、他者からもその人がどんな人なのかうまく認知されず承認を得ることも難しくなる。このようなコミュニケーション弱者(コミュ障などと呼ばれる)は自己表現がうまくできず、他者との関係の中で自分が何者であり、何を考えているのかを示すことができず、結果、他者から受け入れらない、あるいは、自分が示したい自己とは違うイメージが他者から認知され、居心地の悪さや生きづらさを感じるのである。

 

 

他者から自分を認知してもらうには、絶えず自己アイデンティティ(自分は何者なのか)を示していかなければいけない。自己アイデンティティとは他者との差異=記号である。

 

現代消費社会においては自己アイデンティティも記号として他者から消費されるのである。

私たちは、社会のなかで誰かから反応され受容されるためにも、自己アイデンティティ(=個性=自分らしさ)という記号を他者に示していかなければならない

 

そして、自分は何者であるか自己のオリジナリティが示せないと不全感に陥ることになる。

 

 

現代消費社会においては、絶えず新しい何かを生み出さないといけないと駆られ、私たちは常に他者との差異を示し自己のアイデンティティを際立たせることを迫られているからだ。

 

現代消費社会においては、モノにまとわりつく記号や観念が消費されるというのは社会学ボードリヤールが示している。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

差異の提示、これは、競争(他者と比べて自分はどのように違うか、どのように優位なのか?)、あるいは、成長・改革(過去の自分と比べて今の自分の違いを示す、あるいは、「今の自分のままではダメだ」と思ってしまうこと)といった言葉で語られるのである。

 

 

この社会では他者から承認されるには、金を稼げるか、人の役に立つか、面白いことができるか、など生産性や有用性といった条件を求められる。 ゆえに、それらの魅力資源がない弱者は他者に示せる自己アイデンティティすら持つことができず存在そのものがまなざされることもなく、承認もされない。 それによって、疎外感を覚えしんどさを感じるのである。

 

 

ブログを読んでもらえればわかる通り、私は自己表現が極めて下手くそである。そして、表現能力が乏しいゆえに、何か新しいことを示したり、他者との違いを示すような言語能力をもてない状況にいる(能力をつけるにはトレーニングしかないが、それもキツい人はどうするのか→私は本を読んだり文章を書くのがしんどくなってきている)。

 

絶えずオリジナリティ(=他者との違い)を提示することを迫られるのがしんどいのである。

 

だいたい、自分のオリジナリティを他者との違いによって示せる人がどれだけいるのか。みんな、「普通」や「大きな物語」に合わせて自分を語っているだけで、自分はオリジナルだと錯覚しているのではないか。

 

この記事では、個性(=他者との差異に基づき自己アイデンティティを示すこと)を求める社会は息苦しさを生むという問題を提示した。

 

「自分らしさ(=個性)を示すなんて、こりごりだ」と開き直ってしまうのがよいのかもしれない。

 

有用なことを示さずとも、キャスなどもだらだら気の向くまま適当に語るのがいいのかもしれない。

 

うまい打開策が見つからない。コミュ障の当事者研究などやるのがよいのかも。テキトーになれれば楽になれそうなのだがねー。

いのちの電話

いのちの電話という題名だが、私が自治体のいのちの電話にかけたのではない。相談員になったわけでもない。

 

私がSNS上でラインIDや電話番号を晒して、「しんどい人は電話してくれ」と呼びかけていた。

 

 

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10月3日にツイッターに公開して、2ヶ月で10人くらいと話しをした。ラインに友達登録して一言二言交わして途絶えた関係がたくさんあって残念ではあった。

 

同じアルコール依存症の人であったり、職場で理不尽な処遇をされた人など背景はさまざまであるが「生きづらさ」を抱えた人からである。中には、通話はせず自分の状況などについてメッセージを送ってきた人もいた。

 

一度だけ話した人もいれば、数回話した人もいたし、交流が今も続いている人もいる。

 

対話が終わると、「気分がよくなった」「気が晴れた」「死ぬに死ねなくなった」など言ってもらえた。感謝の言葉は気持ちいい。そして、人の話を聞くことはセラピー効果がある(援助者療法効果=ヘルパー・セラピー効果)。

 

私は悩みや生きづらさを聞くのに何もテクニックをもっていない。相手の話にうなずいて聞いているだけのことが多かった。自分の人生と他人の人生は違う。他人の人生は自分が経験していないので分からない。だから聞いてうなずくだけになってしまう。しかし、常識や普通の観念といった「思い込み」や「とらわれ」はないか注意して聞いている。

 

自分は何も知らない(=無知)という立場から耳を傾け、好奇心に導かれて対話をすすめていくのは「無知のアプローチ」(アンダーソンとグーリシャン)とも言われ、相手は自由に語り物語を構成していく。

 

しかし、相手は私のSNSでの発言などを見て私を選んでラインに登録し電話してくれた。相手に対して私は多く語らないが、相手は私のことを既に知っていて、話を聞いてもらいたい意味ある実体として私は立ち現れている。

 

いのちの電話はやっているうちに、援助者というより相手との対等さで話をするようになってくるし、いのちを救うようなこともできないなと思っているので、今では「交流の電話」と名前を変えた。

 

 

●ナラティブ・セラピー

 

いのちの電話でやってることはナラティブ・セラピーと呼べるものだろう。

これは、「言葉は世界をつくる」という社会構成主義という立場から生まれたもので、言葉によって自分の「現実」はつくられるし、言葉によって「現実」は置き換え可能という考えである。

 

言葉によって世界の見え方が変わるのである。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

また、一人で言葉を発するのではなく、誰か自分にとって意味ある他者との相互作用、つまり社会との関わりによって「現実」は立ち現れる。「共同で物語としての自己を構成していく実践」が必要。

 

私がひとり物思いにふけって作り上げた自己イメージはそれだけでは現実とはならない。他者との関わりのなかで、他者が私に対して思い描くイメージとぶつかりあい、すり合わされるなかで、現実の私が形づくられていく。つまり、現実は他者との交流という社会過程を通して構成される。

 

野口裕二(2005)『ナラティブの臨床社会学勁草書房、p.23

 

これは、他者との関係性により自己アイデンティティが立ち現れることに話が結びつき、さらにはアレントの「現れの空間」をつくるに至る。ここのところは、また整理して話したい。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

  • 話を聞いている人も癒やされる

 

ガートナー・リースマン(1977)『セルフ・ヘルプ・グループの理論と実際』には、ヘルパー・セラピー原則というものが提示されており、「援助をする者がもっとも援助を受ける」というものである。

 

援助者になることによるメリットが以下のように指摘されている。

 

(1)援助者は依存的であることが少なくなる。

(2)同じような問題をもつ人のことで苦闘するなかで、援助者は自分の問題を距離をおいてみる機会が与えられている。

(3)援助者は援助の役割をとることによって社会的に役立っているという感じを持つことができる

 

 

 

野口(2005)によると、ヘルパー・セラピー原則は「医療社会学が指摘してきた「専門家支配」の意外な落とし穴を見事に示している。専門家が患者を援助するという常識的な構図が、実は、患者を専門家依存の状態におき、患者自らが病気や問題に取り組む姿勢を阻害する可能性があることを示している。人は助けられるより助けるほうが気持ちよい。その気持ちよさ、そして、そこから生ずるアイデンティティの確かな感覚を、専門家が独占してしまうのが専門家支配の体制であるという視点が開けてくる」(p.111-112)

 

 

  • 専門家支配を超えて

 

 I.イリイチは、「現代の医学は病弱な人々から、医師によって与えられる以外の看護を受ける機会を奪っている。」(『コンヴィヴィアリティの道具』p.122) と専門家による医療やケアが独占されることを批判した。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

このように医療やケアが専門家に独占されることで、私たちは専門家だけが提供しうる規格化されたサービスを一方的に消費させられる役割に落とし込まれていく。

 

これによって、専門家による医学の文脈でしか自己の生きづらさの表現ができなくなる。医学への疎外がおこり、自分の言葉で自分自身と社会を語れないということが起こってくる。

 

 

いのちの電話についてだが、自治体のいのちの電話相談員になるのには、講習を受けなければならず、講習代が10万円近くかかるらしい。善意を行使するのに金が取られるというおかしな制度になってきた。

 

自治体のいのちの電話相談員は有料の講習を受けてトレーニングを積んだ「専門家」であり、いのちの電話は規格化されたサービスとなっている。しかし、いのちの電話は誰が対応するのかわからない。受話器の向こう側の相手の正体が見えない。それで、人格と人格による対話ができるのか?

 

私は無資格でやっているただの素人である。しかし、ツイッターやブログなどで私はどういう人間であるかを示している。相手も私の人となりや考え方を知った上で連絡してくるのである。そこには、人格と人格の対話が生まれる。

 

 

人の苦しみは、医者やカウンセラーといった「専門家」の技術によってしか回復できないのか?「専門治療」という権威に対するゲリラ的セラピーとしていのち(交流)の電話を続けていければよいと思う。

 

もちろん、ブログを読んでもらってる人からのコールも歓迎である!

 

(追記)

以上のようなことを書いてみましたが、僕は人助けができる訳ではないく、何か大したこともできない。ただ、他人の苦しみを聞くのは大切だと思う。私自身もメンヘラだし経験値は低いので話を聞くくらいしかできない。でも、話を聞くだけで自分が助けられ癒やされる感覚を得ているので電話がかかればよいと思う。

 

恋愛してもしなくてもよい

ネット上で47歳の童貞の人が「もう結婚できない」と嘆いていて、話題になっていた。

 

anond.hatelabo.jp

 

 

童貞の苦しみはあると思う。男性は「女性とたくさんセックスしないといけない」、「結婚できないと恥ずかしい」とった男性性の価値意識を内在化してしまい、こじらせることで苦しみに至る人がいる。

 

「男たるもの女の一つでもモノにしなければいけない」という言葉がよく男たちの間で交わされる。

 

女をモノにすることで、男同士は性的主体としてお互いを認めあい連帯を深めようとする。童貞や非モテは「男になりそこねた者」という扱いを受けて、男の階級の中で劣位に置かれてしまう。男は男同士の中でよいポジションを得るために、男として認められるよう童貞を捨てよう、恋人をつくろうと必死になるのである。

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

そういう男性性の価値意識は、女を性的客体としてモノ化するだけでなく、男は女を支配の対象としてまなざすことになる。そこには、相手を人として尊重する意識は含まれない。

 

「童貞は恥ずかしい」という言葉には、「男は女をモノにして当たり前だ」という価値観が前提としてあり、女の人格や性的主体性は捨象され、性的な客体としてのみ女を対象化している問題がある。童貞いじりは究極のミソジニーであるといえよう。

 

 

 

この社会は「恋愛」を持ち上げ過ぎである。古典、小説、ドラマでのテーマは「恋愛」ばかりであり、文化によって「恋愛は素晴らしい」という価値観が常に生産されている。「恋愛はよい」という価値観はあってもいいのだが、それが強調されることで、恋愛しない人・恋愛できない人が圧迫される。

 

恋愛はみんなができるものではない。性愛にはコードが存在し、それを身につけるには技術と練習が必要である。「恋愛工学」という言葉が示すとおり、恋愛は自然発生的に起こるものではなく、作為をもって成されるものである。性愛のコードは論理のコードではない。恋愛至上主義は理知で動く人をますます息苦しくするだろう。

 

恋愛が重視される社会では、性愛の関係があらゆる関係において優位とされる。「異性との親密な関係」に高い価値が置かれる。 あらゆる人間関係の中で「異性との親密な関係」のみが特権化されるが、そこには論理的な根拠はない。 私たちは、この無根拠な価値観によって異性と親密になり恋愛関係にならなければいけないと煽られている。

 

「恋愛やセックス経験の多寡などどうでもいい」と言うことで、社会を支配する異性愛秩序が解体されるべきだ。

 

 

人から愛されることがみんな素晴らしいというが、誰からも愛されなくても人はそれ自身で尊い

 

「愛されても愛されなくても私は肯定される!」と言おう。

近況(半ニートの苦しみ・・)

弱音をはきたい。

 

大学院博士課程を辞めて2年半が経過したが、状況は良くない。

 

実家ぐらしの半ニートである。

 

私は、徹底的に無能である。仕事はできない起業もできない。ブログもアフィリエイトの審査で落とされた。とはいっても一日100PVもいかない弱小ブログであるが。

 

学生時代や大学院時代の人は離れていった。何もしていない(=生産的で有用なものを生み出せない)私のような人間は、誰からも相手にされない。

 

誰かに会っても「大学院辞めて、何をしているのか?」、「何か面白いこと、有意義なことができなければいけない。金を稼げるような能力がないといけない」という有音・無音のプレッシャーを受ける。

 

人の言葉あるいはネットなどの情報から、「生産的な人間であらなければいけない」、「有用な価値を生み出せる人間ではなくてはいけない」というプレッシャーを受けるたびに、息苦しくて頭が締め付けられるように痛くなる。

 

私は何もできない。生産的で有用なことをしなければ社会的承認が得られないという地獄をこれでもかというほど味わった。

 

私は、以前ブログで「何もしなくてもいい。何かをしなければいけないというプレッシャーから自由になりたい」と書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

しかし、一方で何かしら成さなければならないというプレッシャーは隠すことはできない。やはり、人間は承認の生き物であるからだ。

 

今は、ツイッターやブログで知り合ったわずかな人との交流で生かされている感じだ。感謝している。しかし、京都には誰も会ってくれる人はいないので寂しさを感じている。

 

 

 

私は、7月に神戸から京都の実家に帰った。前にルームシェアしてた元同居人から家から出ていくように言われたからだ。元同居人は寂しがりやだったのに私があまり構わなくなったのが原因だろう。しかし、ルームシェア(事実上の居候だったが)していたら、毎日会うから話すことも無くなっていかないだろうか?

 

私は、一人暮らしできるほど労働ができない。前のバイトは9:00-18:00勤務の週3やってたが、体調不良をおこして休んだり早退をよくしていた。稼ぎは月10万もいかない。

 

なので、実家に戻るしかなかった。

 

7月はまるまる野宿旅行をしていた。京都ー和歌山100km歩いたり、埼玉から仙台まで420km歩いたり。琵琶湖に泳ぎに行ったり。

 

旅をしている間は爽快だ。悩みや不安なんて歩いているうちに吹っ飛ぶ。歩き終わったら食事の準備やトイレで体を洗ったり洗濯をしたりして時間はあっという間に過ぎていく。

 

野宿旅は金ができたらまたやってみたい。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

10月からはバイトをようやく見つけた。生活については実家の世話になるが、活動費や通院費は自分で稼ぎたい。

 

私は、もう仕事は全然できないし、本を読んでも頭に入ってこない。ブログでも何か独特な知見を生み出せるわけでもない。諦念を覚えつつある。もがけばもがくほど、何も有為なことを成すことができない虚しさからの苦しみを感じる。

 

しかし、何もせずにじっとしていられないので何かをしてしまう。しかし、人から評価されることは全くできないので、またもや自己肯定感を失い、苦しさが襲う時もある。

 

 

図書館で鶴見済完全自殺マニュアル』を読んで、自殺した漫画家の山田花子さんの言葉に目が止まった。

 

「何の取り柄もなく人に好かれないなら死んじまえ」

 

 

私は言いたい。

 

「何の取り柄もなく人に好かれなくても、ぼちぼち気楽に生きられないものだろうか」

生活保護制度の隠れた問題点

ざっと書く。

 

 

・単身居住を求められる

 

私は、以前役所に生活保護の相談に行ったことがある。その時は、知人の男性の家に同居させてもらっていた。生活保護を受給するためには独身者の場合、単身にならなければいけないと言われた。生活保護制度は本人の「自立」を目指すものであり、誰かと同居していることは「自立」とは認められないためだという。シェアハウスなどで暮らしている人の生活保護受給も認められないだろう。

 

知人や友人と暮らしていた者が、生活保護を受けるために単身世帯となって一人暮らしをするようになれば、ますます社会から孤立していくようになる。生活保護制度はなぜ人との繋がりを断ち切るような仕組みにするのだろうか。一部は仲間に支えてもらい、不足する分は生活保護で助けるという仕組みになればよい。

 

 

 

・モノがもらえない

 

私は、生活保護受給者の知り合いで、受給保護を受けていてもなお生活が困窮してしまう人を見てきた。フードバンクの利用も生活保護受給者は受けられないという話も聞いた。私は、その方への食料などの物資の支援をツイッターで呼びかけたのだが、「生活保護受給者は寄付などを受けるのはルール違反だから、送ってはダメだ」とツイッター上で注意を受けた。生活保護受給者でも最低限度の生活に困っているのに、それは自業自得だからと見殺しにするのか?

 

 

人が生活するにあたって活用するのは「自助」「共助」「公助」の3つである。

 

「自助」は、自身の経済活動や自給などで自分を支えること。

「共助」は誰かに助けてもらうこと。

「公助」は、「自助」と「共助」だけでは足りない部分を公による再分配として支援されることである。

 

人間は生きる上でこの3つを組み合わせて生きれば良い。自力で生きようが人から助けられて生きようが自由である。

ところが、生活保護制度(「公助」)は、受給者に対して「自助」による生活再建しか許さない。他人から助けられて生きることを許さないのである。こういう仕組みも、人との繋がりを断ち切るものとして作用している

 

 

生活保護制度は、憲法における生存権(最低限度の生活を営める権利)を保障する仕組みであるので、就労意思を問うことや一人暮らしを強制するといった条件をつけることは本来的にはおかしいはずである。

 

そして、生活保護制度のいう「自立」や「自助」を受給者に求めれば求めるほど、受給者が人との繋がりを創造することを妨げたり、繋がりを断ち切る作用があることを指摘しておきたい。