生きるための思想

大学院博士課程を中退してキビしく生きてる31歳の男です。社会学などの知見をもとに市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます。金のかからない歩き野宿旅をしたり。ツイッターで思う所をつぶやいてる。

「自由」に生きられるか?

苫野一徳さんの『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)では、「自由」とは何かをヘーゲルなどをもとに述べ、どうすれば「自由」に生きることができるかが書かれている。

 

アーレントの「現れの空間」をつくることや、見田宗介のいう「交響圏」を目指すことにはその通りと思ったのだが、それらを「職業」に見出す方向しか示さなかったのは問題だと最後に少し述べた。今回も勉強ノートみたいな感じになる。

 

 

 

「自由」の本質とは、いろいろな制約がありつつも、「我欲する」(欲望)と「我なしうる」(能力)との一致の実感、あるいはその“可能性”の実感(「諸規定性における選択・決定可能性」の“感度”、p.81)であり、各人に「自由」が保障されるためには、他者とお互いに「自由」を認め合い尊重することが必要である(「自由の相互承認」)。

 

私たちは日本という民主主義社会に生きていて、職業選択や移動の自由も認められている。「自由」に生きることができるのに、「自由」に生きていないと感じているのはなぜなのか?

 

 

「自由」への欲求は「承認欲求」という形をとるという。

 

しかし、他者から「承認」されるために相手に力づくで「承認」させようとするのは、命の奪い合いや支配−被支配関係を生む(p.113)。

 

自分たちだけの「自由」―利得や信条―を主張し合うことがあったとしたら、それは「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)をもたらすことになる(p.113)。そして、それを回避する方法として「自由の相互承認」の原理(ヘーゲル)が示される。

 

また、あらゆる欲望を完全に満たし、「やりたい放題」ができる「恣意としての自由」(ヘーゲル)など、原理的にはあり得ないという。

 

美味しいものを食べたい、しかし太りたくない。人から愛されたい、しかし自分を曲げたくない、etc...

 

 

 

ルソーの『エミール』における言葉が引用される。

 

わたしたちの欲望と能力とのあいだの不均衡のうちにこそ、わたしたちの不幸がある(ルソー『エミール』)

 

欲望を満たし「自由」だと感じるためには、欲望と能力を均衡を完全に一致させることにあるとする(ルソー)。欲望と能力を一致させるには、「欲望を下げる」か「能力を上げる」か、あるいは「欲望を変える」ことによってできる(p.168)

 

そもそも自らの「欲望」が何なのかわからないこともある「自由であることの苦しみ」、p.169)

 

「欲望・関心相関性」の原理から、わたしたちは世界の“意味”を、絶えずわたしたちの欲望において見出している(p.177)。

 

喉の渇きを癒やしたいという欲求があるから、わたしたちは目の前の水を飲み水と認識する。虚栄や承認の欲望があるから、小さな装飾品が特別な意味を持つ。恋する人から送られたものだから、ただの便箋一枚が価値を持つ。

 

(p.177)

 

 

 

フランクルの『夜と霧』に見られるように、人は絶望のうちにおいても喜びを見出すことがあるのだという。

 

もしもわたしが、“欲望の中心点”を見出だせないことによる不自由を抱えているのだとすれば、日常の小さな喜びや意味を見出し、これにフックをかけ、“欲望の中心点”を少しずつ結んでいく必要がある(p.186)。

 

“欲望の中心点”がある程度結ばれていること、そしてその上で、その「欲望」と「能力」との均衡がとれていること、これが「自由」の実在的条件の本質である。ただし、どれほど「自由」の実在条件が解明されたところで、それを可能にする社会的条件が整わない限り、わたしたちが十分に「自由」を得ることはできない(p.188)

 

 

そして、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにある。

 

「自由の相互承認」のために必要なものとして、「法」、「教育」、「福祉」が挙げられる。

 

「法」は、わたしたちは相互に「自由」な存在であることを理念的に保障するものだ。そして、法だけでなくわたしたち自身に「自由」になれるための“力”が現実になければ、基本的自由権など有名無実にすぎないからだ(p.192)

 

そして、法はある一部の人の「自由」だけを承認するものであってはならず、成員全員の「自由」を承認し保障するものでなければならないことだ。法の根拠は「自由の相互承認」であり、またこれを保障するものこそが法なのだ(p.194)

 

 

これは、見田宗介が『社会学入門』で述べた「ルール圏」の原則

 

ここで、「福祉」が挙げられるのは、貧困や障害などの理由から、「教育」だけでは十分に「自由」を実質化しえないからである。「福祉」は「自由」を支える。

 

社会の根本原理は「自由の相互承認」であるとして、近代以降においては、「税」の根拠もまた、この「自由の相互承認」の実質化のほかにない(p.212)

 

そして、過度な「自由競争社会」についても「自由の相互承認」の観点からメスを入れる。

 

わたしたちは、どれだけ「自由」だといわれても、結局は社会が決めた競争ゲームの中を生きているだけであり、そして「自由」(自己責任)の名のもとに序列化されている(p..213)

 

もしも、過度な自由競争社会のゆえに経済格差が広がり、そしてそのことによって、「自由」を著しく侵害される人びとが出現したとするなら、その社会は「自由の相互承認」の原理を根拠に是正される必要がある(p.213)。 

 

 

アーレントは私的領域、社会的領域、公的領域の三領域に分類した(p.219)。そして、アーレントは、社会領域、すなわち経済(市場)社会をとりわけ問題とした。

 

経済社会において、わたしたちの多くは、ただ生命を維持するためにのみ労働をしている。あるいはそのような労働を余儀なくされている。それはまさに、わたしたちが資本主義というシステムの歯車と化し、そのシステムの存続のために生きている(=労働している)という実感を与えるような社会である(p.219)。

 

そのような現代の経済社会において、わたしたちは、“who”――「自由」な人間としてどのような個人でありうるか――ではなく、“what”――労働システムのどのような歯車であるか――として生きている(p.219)。

 

アレントは言う

 

「〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になるのである」

 

アーレント『人間の条件』p.195) 

 

 

わたしたちはどれほどの「余暇」を得てもなお、結局は労働―消費の歯車であり続けざるを得ないだろう……。P.221

 

ではこの問題をわたしたちはどのように克服することができるのか?

 

アーレントは、「言論」と「活動」の空間を創出することによってである、と言う(p.221)。

 

 

《「言論」と「活動」について》→過去ブログ参照

 

わたしたちが他者と対話するとき、人々の集会で発言するとき、それは生命の維持を目的とした労働でも、作品を製作する仕事でもない。それは他者に働きかけて、わたしたちが生きる世界をよりよいものとするための行為なのである中山元アーレント入門』p.80)。

 

私たちは、言論と活動をもって他者に働きかけることで、自己と他者が立ち現われ、自己アイデンティティを獲得していく。それを通して世界をよりよいものにしてい

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

わたしは、そしてあなたは「だれ」(who)であるか。そのことを、「人間関係の『網の目』」(アーレント、前掲書、297)の中において、お互いの言論と活動を通して見出し合える空間を作り出すこと(p.222)。この空間が「現われの空間」である。

 

わたしたちが押し込められた経済競争社会の中から一歩抜け出し、自らが「だれ」であるかを表明し合える空間を作り出す。それは、経済的な安定を直接もたらすものではないとしても、わたしたちに一定の「自由」の実感を与えてくれるはずである(p.222)

 

デューイの「グレイト・コミュニティ」の創出も取り上げる(剥き出しの市場社会を、文字通り自由な思考と自由なコミュニケーションが可能になるような圏域へと、作り変えていく必要がある、p.223)。

 

一人ひとりの存在や意見が十分に承認されうる機会を充実させ、民主主義――「自由の相互承認」――をより実質化していく必要がある(p.223)

  

 

次に見田宗介交響体(symphonicity)の概念を取り上げている。

 

交響圏は、「個々人がその自由な意思において、人格的personalに呼応し合うという仕方で存立する社会」(見田、p.20)

 

苫野によると、

 

「交響体」は、過度の連帯や同質性を要請するようなものではなかく、わたしの言葉でいえば、あくまでも「自由の相互承認」を基礎とした社会圏域でなければならないということだ(p.226

 

そして、見田は「ユートピアたちを選択し、脱退し、移行し、創出することの自由」(社会学入門、p.182)という「遊動性」を重視する。

 

「交響体」は、ともすれば個々人の「自由」を抑圧する、閉鎖的「共同体」へと変貌してしまうことがある。それゆえ「交響体」は、「自由の相互承認」の原理に基づく限り、出入りや創出の自由にいつでも開かれる必要がある(p.230)

 

圏域の数は複数あり、そらに新たに作られ、その圏域間で自由に行き来できるのが交響圏における重要性。「遊動性」が求められるということだ。

 

 

 

【残念だったポイントと、私の願い】

 

苫野は、「現れの空間」が可能な領域は「職業」に求めなければいけないと言っている。「現実的にいって、わたしたちが“who”(だれ)として現れ出ることのできる可能性の最も高い場合、あるいはできるだけそうあるべきだといえる場面は、やはり市民社会(市場)における「職業」の世界といえるのではないか?わたしはそう考えている」(p.242)。

 

ただ、「市民社会(市場)とは比較的独立したところに、「現れの空間」を作ることも重要である」とは述べつつも、やはり「職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現れの空間」になる必要がある」(p.242)と述べる。

 

苫野が何のためにアーレントを引用したのかが分からない。

 

「職業」の場で自分の欲望と能力が一致し、「自由」を実感できるのならばよいが、それを可能にする「自由な労働」(マルクス)ができる人は能力やリソースに恵まれた人に限られるのではないか。自分のやりたくない不本意な労働に従事して低賃金に甘んじざるをえない人々がおり、私も含め労働市場においては全く使い物にならない人間もいる。

 

ある人にとっては、労働は生に充実をもたらすものかもしれない。それだからといって、苫野のように「職業」に優位な価値をおくことを強調してしまうと、「職業」(市場経済)の世界に生きづらさを感じる人々を圧迫することになる。

 

障害をもっていたり、あるいは、体力がなかったり、どうしても対人関係が円滑にいかずに「職業」の場にとどまることができない人もいるだろう。

 

市場経済の中では息苦しさを持つ者が、市場への〈包摂〉以外でも生の充実を目指すオルタナティブを作り出していく必要もある。

 

市場での評価とは別の尺度で、人と人とが人格的につながり〈包摂〉される社会の可能性も捨てきってはいけない。

 

自分の能力の範囲で社会に働きかけることによって(それは市場に限らない)、つまりアーレントのいう「活動」や「言論」によってお互いの存在を見出す「現れの空間」をつくり、「自由」を達成したいとも願う。

 

 

 

 

 

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

 

 

経済的自立できない人は劣っているのか?

 私は大学院博士課程を能力不足と精神障害躁うつ病アルコール依存症)のため退学した。それから4年ほど先輩の家にほぼタダで居候させてもらい、その先輩との関係が悪くなり現在は実家に戻り半ニート状態である。働こうにもバイトでも長続きしない。いわば、他人の金で生きている身である。他人の金で生きることはどういうことなのか以下で考察してみたい。

 

 生活保護受給者や引きこもり、ニートなどは「穀潰し」と呼ばれ立場が弱い。経済的自立ができないことが悪いことだとされ、経済的自立ができない人に対するスティグマ(負の烙印)が強すぎる。生活保護受給者などは保護費が支給され生存は保障されるものの、「他人の税金で飯を食っている」と後ろ指を指されて社会的に承認を得られにくい。ニートや引きこもりも「親のスネをかじっている」と言われ人間以下の存在として扱われる。経済的自立ができず社会的承認が得られないことは苦しさを生み、自殺に至ってしまう場合もある。

 

 人間は生き延びるためにあらゆる手を使うのだが、生活保護受給者や引きこもりなどは他人の金を生き延びる手段にしているのである。他人の金で生きることはなぜ悪いと考えられるのか?それは道徳的に大勢がそうだと思っているからである。論理的には説明することはできず、「よい」「悪い」という道徳の問題に行き着いてしまう。道徳はそれ以上さかのぼることができない最終根拠=公理である。道徳には根拠がないと言われるが、どんな命題でも最終的な根拠はない。道徳は無根拠で可変なものである。無根拠ゆえに、常に「何が正しいか」が言い争われ、戦争にもつながる。

 

 

 ある生き方に「よい」「悪い」という価値観が差し挟まれるのはなぜなのか?人は「よい人生」をおくりたいと願い、「よい生き方」とは何かを考える。私たちは「よい生き方」が何であるかを示すと同時に、「よい生き方」でない「悪い生き方」が何であるかを提示する。人間は生きることに意味付けをせずにはいられない。そして、人生をよいものにしたいと願う。近代以降のリベラリズムにおいて想念される「よい生き方」とは「自己決定を自由におこない結果に対して自己責任を負う」というものである。個人は何にも妨げられることなく、その能力を発揮して欲望を達成することができると考える。そこには、能力主義によって個人として独立することが善だとされ、それが「よい生き方」となる。

 

「よい」「悪い」という二分法による「思い込み」は言ってみれば宗教である。ある事柄を絶対に正しいと信じたり、二分法によって一方がもう一方よりも無条件に価値があるという思いこみから解放されることは容易ではない(島田裕巳『私の宗教入門』ちくま文庫、p.259)。社会学者の橋爪大三郎宗教とは信じることが核心であり、「ある事柄を真実と前提してふるまうこと」としている。

 

二分法を打ち崩す方法は、脱構築という哲学上の考えである。あらゆる存在や現象に二項対立を打ち立てて「思い込み」や「決めつけ」によって優劣をつけることが脱構築の考えによって批判された。

 

【メモ】脱構築的アプローチ(N.フレイザーによる)

セクシュアリティを例とすれば、LGBTアイデンティティを強化する再評価ではなく、同性➖異性の二分法を解体していく方法である。

性の領域を、多様かつ脱二項対立された、流動的で絶えず変化する差異によって成り立つものに維持しようとすること。

 

N.フレイザー(1995=2001)『再分配から承認まで?ポスト社会主義時代における公正のジレンマ』原田真美訳(『アソシエ』(5)、御茶水書房に収録)p.116

 

経済的自立ができないのは市場のゲームで負けただけである。勉強・スポーツ・芸術とお互いの技能や能力を競い合うゲームは色々あるが、市場のゲームも色んなゲームのうちのたかだか一つである。その一つのゲームで負けただけで「人としても劣っている」と見られる。経済的自立ができないと人として尊重されないのは、市場のゲームでの勝敗の結果がその人の人格に対する評価にまで結びついていることにある。「経済的自立できていないから人としてダメ」という経済的成功と社会的承認とを無条件で結びつける「思い込み」や「決めつけ」から脱却するべきだろう。

 

「経済的自立ができる人は偉い/経済的自立ができない人は劣っている」という経済的成功と人格を結びつける二分法的な価値観が解体されるべきなのだ。

 

 

私の宗教入門 (ちくま文庫)

私の宗教入門 (ちくま文庫)

 

 

 

 

(※)この文章は、ツイッターの友人さっちゃんの企画「スクリーム 社会的弱者の叫び」に収録された内容に一部加筆したものです。さっちゃんに感謝。

0円マーケットをやってみて

10月24日に京都の三条大橋で0円マーケットをやりました。

 

供出した物品は、アウトドアグッズ、マフラーなど小物、本(旅行系、小説、ゲバラのやつなど)でした。

 

今回、0円マーケットをやったのは、単純に鶴見済氏の0円ショップや0円生活の考えに共感したからである。以前からやってみようかなとは思っていた。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

0円マーケットを2時間ほどやってもらわれた物品は以下

 

コッヘル、ライター、扇子、マイバック、ライダーグローブ、地球の歩き方(韓国)、バイク旅行の本

 

やってみて単純に良かったのは、要らないものをあげただけなのに「ありがとう」と言われて気持ちよさを感じたことである。

 

毎週水曜日の13時頃にやろうと思います。また、一緒にやってくれる人も募集しています。

 

メール haruka.omae@gmail.com

 

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【贈与について】

 

生活に必要なものをなんでも金を払って手に入れる市場経済というシステムでは、貧乏人ほど購買力が低く生活に困ってしまう。市場以外で財をやり取りできることが広がれば、貧乏人も生きやすくなる。

 

これは、『贈与論』でM.モースが示唆したことでもあるよう。

 

およそ100年前の1925年にM.モースは『贈与論』を書き、トロブリアント諸島における物材の移動の仕方を調査して、未開社会での財の贈与返礼について記した。市場経済によらない財の流通システムに着目して、行き過ぎた市場原理に対して早くもオルタナティブを示そうとしたとも言える。

 

これについては、カール.ポランニー研究者の若森みどりさんの論文(「贈与 私たちはなぜ贈りあうのか」橋本努編著『現代の経済思想』勁草書房、2014、p.87-112)を参照。

 

 

市場経済による材・サービスの交換が強まる現代社会の弊害を述べる。

 

カール・ポランニーは社会統合の形態を「互酬」「再分配」「交換(市場経済)」の3つに分類した(ポランニー『大転換』など)。この3つが上手くバランスをとることで社会の構成員が幸せになればいいのである。

 

しかし、現代の日本は「交換(市場経済)」が支配的で、「再分配」は弱く、「互酬」はオマケみたいな位置づけである。市場を絶対化する資本の側は、「交換(市場経済)」が全てを解決する万能薬であると言い、他の2つの領域は「交換(市場経済)」を歪める邪魔者として扱かわれる。

 

「交換(市場経済)」によってのみ富を得ることが正しいこととされ、「再分配」「互酬」によって富が分配されることは好ましくないとされる。 だから、生活保護(再分配)には負のスティグマが貼られ、人から物をもらう事(互酬)はズルいとされる。

 

市場経済の問題として、例えば、人々は低価格な商品を選ぼうとするが、商品価格が安くなればなるほどその商品の生産をおこなう労働者の賃金も安く抑えられていくことになる。市場経済において経済的利得で動くようになれば私たちは社会に対して責任を負わなくなってしまうのである(以上は、の若森みどり(2015)『カール・ポランニーの経済学入門』から)。

 

 

「交換(市場経済)」の地位が高くなると、市場経済で評価される商品や貨幣が絶対であるという見方になる。 そのような社会では私たちは商品や貨幣の奴隷となり、人を傷つけたり時に不正義な行動をとることになる。環境破壊なども生じる。商品や貨幣が独り歩きする物象化が進み社会が壊れてしまうのだ。

 

 

「交換(市場経済)」の優位のもとでは、生きていけない人が生まれるし、社会問題も生み出してしまう。「再分配」や「互酬」の地位が上がらなければならない。そのため、「互酬」である与え、受け取り、与え返すという贈与が広がればと考える。

 

アナキスト人類学者と自らを名乗るグレーバーは、贈与は社会関係をつくりだすという。

 

グレーバーは、新しい社会関係や新たな絆を創出することを「社会的創造性」と定義するが、社会的創造性には「媒介物(medium)」の役割が大きい(若森みどり、2014、前掲論文、p.93)。

 

また、モースによると贈与によって個人や集団間での争いごとを未然に防ぐという役割もあるらしい。贈り合いは平和維持のための行為なのである。

 

物をもらった人は「お返しをしなければならない」という思いに駆られる。 しかし、私たちはすぐに返礼をしてはいけないと考えており(反対給付の原則)、その場では返礼はなされず、時間をおいて別の誰かに贈与がなされることがある。

 

贈りもののやりとりは瞬時におこなわれるのではなく、財と人と生命の循環が一定の期間を経ることで社会関係がつくられる。

 

(若森みどり、2014、前掲論文、p.110)

 

 

このように、物の循環は社会全体に広がり様々な関係をつくる。贈与は人を結びつけ社会を形成すると言える。

 

要らないものをみんなが贈り合い、善の輪が広がればと願う。

 

 

[新訳]大転換

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現代の経済思想

現代の経済思想

 

 

 

新書784カール・ポランニーの経済学入門 (平凡社新書)

新書784カール・ポランニーの経済学入門 (平凡社新書)

 

 

「世界」をつくる(『アレント入門』より)

言説実践による社会変革についてハンナ・アレントの考えを私の血肉としたい(中山元、2017、『アレント入門』ちくま新書)。

 

私たちは、言論と活動をもって他者に働きかけることで、自己と他者が立ち現われ、自己アイデンティティを獲得していく。それを通して世界をよりよいものにしていく。

 

アレントは人間の活動性の領域を、労働仕事活動と3つに分けた。

 

 

労働は個人の生命を維持するものであり、個人の生命の維持とともに、その成果は消滅する。そして個人が死去した後には、その痕跡も残らない。しかし、仕事は個人の生命を超えて存続する作品を作りだし、それが人々の間で成立する「世界」を構築する(p.78-79)。

 

この労働と仕事はどちらも人間の生命の維持と世界の確立に貢献するものであるが、わたしたちはこれらの活動性とは別に、人間と人間の間での交流を作りだす行為もまた遂行している。これが「活動」(アクション)である(p.80)。

 

わたしたちが他者と対話するとき、人々の集会で発言するとき、それは生命の維持を目的とした労働でも、作品を製作する仕事でもない。それは他者に働きかけて、わたしたちが生きる世界をよりよいものとするための行為なのである(p.80)。

 

「現われの空間」をつくるのだ。

 

この空間は、たんに政治的な活動の場であるよりも、わたしたちが一つの明確なアイデンティティをもって登場する場である(p.81)。

 

アレントは、この活動と言論という行為によって、初めて人間にとっての公的な領域というものが生まれる一方で、人間がこの「わたし」というアイデンティティを獲得できると考えている(p.81)。

 

「人々は活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現す」(p.81)。

 

よりよい生のためには、自己アイデンティティの確立が必要である。自己アイデンティティは真空地帯からは生まれず、言説実践により他者との関係のなかで立ち現れる。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

 

私も言説実践を通して、他者へ働きかけ、世界を変革する活動をしていきたい。

ニート・引きこもり私論

引きこもりやニートなどの社会不適合者に対して社会の目は依然厳しいが、引きこもりやニートがあまりにも多くなったため、社会もそのような人に対する見方を変えつつある。

 

斎藤環などの「引きこもり」の専門家は、安心して引きこもり生活ができればよいと論を述べていて、以前ブログでも紹介した。

 

 

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しかし、今でも「引きこもりやニートになってしまうことは仕方ないが、いずれ引きこもりやニートの人たちは社会に出なければいけない」という考え方は社会に根強い。

 

例えば、表に出てくる引きこもりやニートなどの経験談も、引きこもりやニートを脱出して社会に適応できた人たちが過去の日々を振り返るような形態が多い。

 

引きこもりやニートを脱出できた「成功者」が、過去の引きこもりやニート経験を「挫折経験」として語る仕方が一般的である。そして、しばしばそれらは美談となる。

 

引きこもりニートであったけれどもそこから脱出した人ばかりが称賛される社会は息苦しくないか?

 

引きこもりやニートは脱出「すべき」生き方という見方が強すぎるのだ。

 

引きこもりやニートは必ずしも脱出すべき状況ではない。状況的に脱出した方がよくて、脱出可能ならば、脱出すればよいのである。だが同時に、引きこもりニートのままで生きても問題ないと肯定される必要がある。「何もしない」ことも生き方としてアリである。

 

以前の記事で、生存に条件は必要ないということを書いた。

 

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引きこもりやニートでも楽しく穏やかに問題なく過ごせるなら、それも肯定されるべきだろう。 仕事をしたり何らかの活動をして社会参画する事のみが生き方の解ではない。

 

つまり、「してもいいし、しなくてもいい。してもしなくても何の報奨も受けず、懲罰(サンクション)も受けない」という選択の自由の問題である。

 

親などに経済的に依存して、「他人の金で生きていくこと」が良くない事と言われるが、それは倫理であって、論理ではない。

 

生き方なんてさまざまである。

 

自分の金で食っていきたければそうすればよいし、人の金で食っていかざるをえなければ、それもまた肯定されるべき。

 

「自分の金で生きること」と「他人の金で生きること」の間に優劣はない。どちらも価値等価である。

 

生き方に優劣は存在しないのだ。

 

引きこもりやニートを叩く言葉で多いのは、「引きこもりやニートは親元でぬくぬくして経済的自立できていないからダメだ」というのものだが、論理的な話ではなく価値観の問題である。

 

「経済的自立できる人が偉い」と言いたいだけで、「偉い/偉くない」は論理ではなく価値観の問題だからである。

 

論理なき言説は信仰である。

 

また、「自分は一生懸命働いているのに引きこもりやニートは怠けてけしからん」という感情があるかもしれないが、働きたくなければ働かなければいいだけの話である。「好き好きである」としか言いようがない。

 

そういう叩き方をしている人は、他人を叩いて自己の生き方を肯定しようとする方法をとっている場合がある。

 

他人の評価を下げて相対的に自己の優位性を示したいのである。

 

それに対しては、「自己を肯定するために他人を否定しなくてもいい」と言えばいい。

 

他人の生き方を否定することに心血を注ぐよりも、自己を肯定できるのがいい。

 

「みんな違って、どうでもいい」という姿勢が大切である。

「何もしない」という究極のオルタナティブ

1.経済活動ができない人間はつまはじきにされる

 

コミュニティという言葉をよく聞くようになった。

 

今使われるコミュニティという言葉には、人々が孤立しがちな現代において新しい価値観によって人と人とが繋がろうという甘美な意味が匂う。

 

伝統的な村落や町内会などの地縁集団、企業社会といった機能集団などに溶け込めない人たちの集まりや居場所としてコミュニティという言葉が使われる傾向がある。

 

人と人との繋がりの生み出すのがコミュニティだと言われるが、非経済活動で純粋な関係性を作るのは難しい。

 

金がらみの関係は強く、金が介在しない関係はもろくて弱いという公理は重要である。 人との関係を維持するには、与え与えられる利害関係がないといけない。

 

だいたい優良なコミュニティと言われるものは、金稼ぐ能力がある人たちが集まるので、真の弱者は仲間に入れてもらえない。

 

人と人とが繋がりを手っ取り早く作るには、誰かと生産活動をしたり、消費をしたりするといった経済活動をすることである。労働などの経済活動をすれば協働などで必然的に人と連帯することが求められる。また、金でモノを買うにも最低限店員とのやりとりは必要になる。

 

資本主義は実は人との繋がりを必然的に作ってしまうシステムでもある。 だから、生産活動や消費活動が十分にできない資本主義のシステムに適応できない経済的弱者は孤立してしまうのである。

 

 

2.魅力資源が乏しく人との繋がりが作りにくい社会的弱者ほど救済されなければならない

 

人を引きつける魅力資源は、金、地位、オモシロさなどであり、これらは社会的弱者には乏しい資源であるといえる(女性の場合は「性的魅力」で他者を惹きつけることもある)。

 

社会的強者はそれらの魅力資源を持っているがゆえに人が寄ってきて人との繋がりが作りやすいが、社会的弱者はそれらの魅力資源が乏しいのでますます人が寄って来なくなり、孤立を深めていくという救いようのないアリ地獄のような状況が生まれてしまう。

 

つまり、人との繋がりを生み出せるのは、 「金を生み出せる人」もしくは、「オモシロイ人」である。そうでない人(=「金が無くてオモシロクない人」)が他人との繋がりを生めない真の弱者となっていく。 弱者問題の救いの手は、誰とも人との繋がりが作れない「金が無くてオモシロクない人」に差し伸べられなければならない。

 

「金稼げなくてツマラナイ人」が悪いのではなくて、「金稼げなくてツマラナイ人が生きられない社会」が悪いのである。

 

我々が目指すべき社会とは、金稼げなくてツマラナイ人でも不自由なく生きていける社会である。 人間の生存に条件をつけてはいけない。

 

 

金や権力の関係ではなく、支配依存によらない「純粋な関係性」(A.ギデンズ、1995、『親密性の変容』而立書房 )こそがあらゆる人間関係で目指されるべき民主的な関係であり、そういう関係を作るトレーニングを私たちはしていかなければならない。 条件無しで人と人とが認め合うことは民主主義の成熟における命題でもある。

 

 

3.何かをして何者かになることが強迫される社会において、「何もしない」ことはラディカルなオルタナティブである

 

私たちは条件付きで人を受け入れるようである。

 

勉強や仕事などをしろと、私たちは常に「何かをしなければならない」と社会から強迫されている。 そして、何かを成して何者かになることを要請される。「何もしない」という生き方が認められない窮屈な社会だ。

 

何かしなければ、何者かでなければ誰にも認められずに孤立してしまう。 何もしないと人として生存が肯定されることが難しい。

 

良い子でいなくてはならない、勉強がちゃんとできなくてはいけない、金を稼がなくてはいけない、人を楽しませなくてはいけない、そういった何かをしなければ認められないという強迫が存在する。

 

しかし、人が認められるのになぜ条件が必要なのか?

 

何もしなくてもいいじゃないか!!!

 

「何もしない」「何者でもない」ことが肯定されることが必要である。 

 

「何もしない」というのは、何かをしなければならないと強迫する社会に対する究極のオルタナティブである。 「何もしない」はラディカルなのだ!

 

「私は何もしない」と堂々と言えるのが究極の自由である。 「何かをしなければならない」と強迫されてる今の社会には、「何もしない」という自由が存在しないのである。

 

 

親密性の変容

親密性の変容

 

 

摂食障害・セックス依存(1)

女性にとって思春期とは、自分の身体が性的なまなざしで見られることに気づく時期である。

 

思春期とは、女性にとって何でしょう。それは、自分の身体が自分のものではなく、誰かの快楽の道具であり、誰かに見られることに気づく時期を指します。

 

小倉千加子、2001、『セクシュアリティの心理学』有斐閣選書、p.3)

 

   

男の欲望の対象となるとき、人は「女になる」。男の欲望の対象とならなくなったとき、人は「女ではなくなる」。

 

上野千鶴子、2010『ニッポンのミソジニー紀伊国屋書店、p.221)

 

 

 

セラピストのスージー・オーバックは1986年に出版された『拒食症』という本の中で、現代にいたるまで社会が女性に要請してきた無言の圧力を3つに要約している。

 

1.女の子は「他人の意見に従わなければならない」ということ

2.女の子は「他人の欲求を予想して、それを満足させなければならない」こと

3.女の子は「他人との関係の中で自己定義を求める」こと

 

 

小倉は、3番目の「誰かとの関係の中で自己を確認せよ」という圧力が女性にとっていかに強烈であるかについて1997年におこった東電OL殺害事件を例に挙げる。

 

東電OL殺害事件の殺害された慶應大卒で東電に総合職で務めていた女性は夜には渋谷で立ちんぼうをしていた。

 

39歳のエリート女性は、エリートであることで企業社会の勝利者であっても、関係性の中で、つまり男性との性的関係によって自己を定義してもらわない限りは安心感が得られないという「女らしさの病」にかかってしまったのではないか(前掲書、p.9)。

 

上野千鶴子も述べるが、名目上は業績主義の企業社会で頑張ってきた彼女はガラスの天井にぶつかり、気がつけば周りの女性たちはみんな寿退社していた。彼女は能力にプライドをもちながらも頭打ちを強いられ、女性性の価値からも取り残されてしまった。そんな彼女が最後に自分が女だということをもっとも直接的なかたちでつかもうとした行為が、売春でした(上野千鶴子、2008『サヨナラ 学校化社会』ちくま文庫、p.96)。

 

思春期の少女の逸脱病理は、摂食障害と性的逸脱に分かれる傾向がある。セックスに依存するか食に依存するかは機能的に置き換え可能だという(上野、2008、 p.111)

 

さて、摂食障害の原因には女性が感じる股裂き状態にあるという。

 

1985年に男女雇用機会均等法ができて女も「がんばって働けばキャリアを積める」という状況が生まれると同時に、一方で旧態依然の「女らしくあれ」という圧力も受ける。「女らしくあれ」とは男を立てるということである。能力と気配りの両方が求められるのだ。

 

現代の日本の社会では女性はこの二つの相反するメッセージを受けとることになる。

 

身体というのは本人にとってたった一つの、自分が思うようにコントロールできるテリトリー(領土)である。身体という自分の領土にたいして暴虐の限りをつくしているのが摂食障害だという説明がある(加藤まどか、2004『拒食と過食の社会学岩波書店←引用は上野(2008)p.103−104から)。

 

 

セックスだと他人から女として値踏みされる。拒食症は女性的身体の持ち主になることを拒否する行為である(上野、前掲書、p.111)。

 

 

臨床心理士信田さよ子によると、摂食障害に悩む女性は加齢とともに症状が収まるという。それは、女性自身が加齢とともに性的魅力が低減して他者から性的にまなざされなくなり、女性としての値踏みから解放されるからであるという。

 

上野千鶴子信田さよ子、2004『結婚帝国 女の岐れ道』講談社

 

 

思春期の逸脱病理として男の子は引きこもりになり、女の子は摂食障害か性依存になるという。いずれも長期化する可能性が高い。これは、他者から自分がどうまなざされるかという自意識から解放されれば解消できるのかもしれない。

 

 

 

セクシュアリティの心理学 (有斐閣選書)

セクシュアリティの心理学 (有斐閣選書)

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

 

 

 

結婚帝国 女の岐れ道

結婚帝国 女の岐れ道