生きるための思想

脱・引きこもりする気のない引きこもりです。グダグダ生きてます。生存権や多様性の尊重をメインテーマに、引きこもり問題/貧困問題/ジェンダーなど。何をやるにもパワーが無いのでぶらぶらして生きていきたいです。メッセージなど →→ haruka.omae@gmai.com

トーン・ポリシングについて

1.トーン・ポリシングとはマイノリティ封じ込めの手段

 

社会問題や権利要求について発言をすると、発言した内容自体への反論ではなく、相手の態度や立場をつつくことで、相手の主張をおさえこみ無効化させようとする人がいる。こういうやり方はトーン・ポリシングと呼ばれる。

 

女性や障害者、セクシャル・マイノリティ、在日外国人、生活困窮者といったマイノリティ属性にある者が権利の主張、差別の告発などをおこなう時に、「そんな言い方じゃ誰にも聞いてもらえない」などと言い、その人たちの態度をつつくことで主張を封じ込めようとする。「マジョリティの人たちの機嫌を損ねるようなやり方をするな」と言わんばかりに、マイノリティは礼儀正しく謙虚であればその主張を聞いてあげようという態度である(でも、そうしても聞かないでしょう)。しかし、マイノリティがマジョリティに踏まれていることを今まで散々告発してきたのに、マジョリティの側が、その声を聞かなかったり、封じ込めたりしてきた。だから、多少口調が荒くなったり怒っているのである。丁寧に言ったり笑顔で受け答えしても、無視したりつけ上がることをマジョリティは散々してきたのである。マジョリティはそもそもマイノリティの主張に対して聞く耳をもたない。そうであるがゆえに、いくらマイノリティの側が説明をしたところで理解する気がない。マイノリティは自分たちが踏まれてきて名誉を傷つけられてきた事に対して、何が問題であり、どういう点で差別になるかを言語化して説明するためのコストばかりかけさせられてきた。言語化には知識と能力が必要とされる。立場の弱いマイノリティが追い打ちをかけられるかのように言語化や忍従のコストをかけさせられるのである。

 

2.トーン・ポリシングの類型

トーン・ポリシングの目的は、ひとえに相手の主張を封じ込めることにある。そのため、この目的にために、相手の態度・立場・弱み・ミスなどあらゆる点を利用してくる。トーン・ポリシングは日常の人間関係に溢れている。以下は、代表的なトーン・ポリシングのやり方である。

 

①相手の態度に対する攻撃

②相手の立場に対する攻撃

③違う話題をぶつけることで相手を封じ込める

 

 

 

①相手の態度に対する攻撃

 

「そんな言い方じゃ聞いてもらええない」

「態度がなってない」

「不真面目だったら何を言ってもダメだ」

 

などなど

 

 

②相手の立場に対する攻撃

 

「子供のくせに生意気だ」

「学生なのに一丁前のことを言うな」

「新入社員のくせに偉そうだ」

「引きこもりで親のスネをかじっているのに生意気だ」

 

などなど

 

 

③違う話題をぶつけることで相手を封じ込める

 

こちらが、Aの主張をすることに対して、「Bについては言わないのか?」などと言い、こちらの主張を無効化させようという魂胆がある。その人は、B(高邁そうな話題)について積極的に何かをしたいわけではなく、ただこちらを潰す目的でBを利用している場合が多い。今はAについて話しているのにBについて持ち出す必要はあるのか?Bについて関心があるなら自分が率先してやればよいのに、自らは手をつけずAを話題にしている人になぜわざわざ迫るのか?ただ、難癖を付けたいだけだからである。

 

【例】慰安婦問題

日本の植民地支配における従軍慰安婦問題(A)を話題にしている際に、韓国軍もベトナムで強姦をしていたという話(B)をしてくる人がよくいる。これは、韓国のおこなった非道を持ち出して、日本の戦時性暴力の責任を曖昧にしようという意図がある。日本も韓国もどっちもどっち、戦時における性暴力は仕方ない、という方向にもっていくために言われる。こういう人たちは別に戦時性暴力を告発することが目的ではなく、ただ日本の加害責任をないことにしたいだけである。

 

 

3.私の受けたトーン・ポリシング

まず、私は実家ぐらしの引きこもり(少し働いてる)であり親の世話になっている。この立場について、「ぬるま湯にいるから何言っても説得力ない」と言われたり、「自立できないくせに大きな事ぬかすな」とか言われたりする。これは②の【立場に対する攻撃】である。こちらの言ってる事を無化するために立場をあげつらうのである。

 

また、2020年1月31日に路上で「最低賃金を1500円に上げろ」というアピールをおこなった。その際に、通りがかりのおっさんが突っかかってきて、「お前、そんなことよりもビニール袋削減の方が大切やろ」と何度も言ってきた。その、おっさんに対して「そんなに声高に言うなら、ご自身でやったらどうですか?」と言ったのだけど、ええかげんうるさいので、「もう、あっちいけよ!」と追い払った。そしたら、「お前、そんな態度やったら結果も出えへんぞ」と言い放って去っていった。ここでは、③の【違う話題をぶつけることで相手を封じ込める】ことと、①の【態度に対する攻撃】の両方をやられたわけである。こういうのは、ネットでもよく見る初歩的なトンポリだったので打ち返せた。トンポリ野郎は迷惑ですね〜〜

 

4.トーン・ポリシングはなぜおこなわれるか?

「権利の主張」を「目上の人へのお願い」と勘違いしているからである。権利の主張はマイノリティのマジョリティに対するお伺いという見方が支配しているから、権利の主張者に対して低姿勢や誠実さを求めてくるのである。だから、マイノリティが「権利を保障しろ」と声をあげた時に、マジョリティは「それが人にお願いする態度か?」と言わんばかりの高圧的な姿勢をとるのである。「権利の主張」は「お願い」ではない。権利の主張とは「本来あるべきものが奪われているから、それを保障しろ」と言っているだけなのである。マジョリティは当然のように享受しているから気づきにくい権利をマイノリティが主張すると、あたかもマイノリティがマジョリティを脅かすことであるような図式で語られがちだ。しかし、マイノリティが求めているものはマジョリティとの対等な関係である。マジョリティ中心の社会システムにおいて割を食わされ権利を奪われてきたマイノリティがその立場上のマイナス(−)をマジョリティと同じ地平(±0)にしろと言っているだけである。特権=プラス(+)を求めているわけではないのである。

 

 

というわけで、トンポリ野郎なんて「その話、今関係ないですよね」とか「それ立場とか関係ありますか?」と返して追い返そう〜〜

生存権の保障【労働システムの脱・家族主義】

1.日本の最低賃金生存権を保障しない水準

 

 国連から2013年に日本の最低賃金は「最低生存水準および生活保護水準を下回っている」と勧告されている。2019年度における最低賃金は東京が1013円、最低は沖縄など790円である。全国加重平均は901円となっている。

 

厚生労働省:地域別最低賃金の全国一覧】

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/minimumichiran/

 

 全労連が2017年におこなった最低生活費の調査によると、25歳単身者がいわゆる普通の暮らしをするには税込み月収で22万〜24万円が必要であるという。最低生活費は都市部と地方であまり差はない(地方は家賃が安いが、自家用車が必要であり冬の暖房費などがかさむ)。この最低生活費を維持するには173.8時間労働(参考:8時間×22日=176時間)だと時給1300〜1400円相当の賃金が必要だという。つまり、現行の最低賃金は最低生活費(生存権)すらも保障しない水準となっている。また、都市と地方で最低生活費があまり変わらないにもかかわらず、最低賃金に大きな差があることで都市と地方の生活格差を生んでいる。

 

www.rengo-news-agency.com

 

 

2.非正規労働者の賃金が低いのは世帯主男性に養ってもらうことを前提とした水準に設定されているから

 

 日本の最低賃金はなぜ生存権を保障しない水準に設定されているのか。それは、日本の賃金体系が家族単位の発想から設計されていることが大きな原因である。パートやアルバイトなど非正規労働者の賃金が最賃レベルで低水準なのは世帯主(男性)に扶養してもらうことを前提としているからである。一方、世帯主となる者は年功制度の正規雇用として家族を養う水準の比較的高額の賃金が支給される(最近は、正規雇用者でも手取り10万円台などの「名ばかり正規職」も多くなっているが)。つまり、家族単位の賃金体系のもとでは、正規雇用者である世帯主が家族を扶養する水準の給与を得るが、世帯主に養われる配偶者や子どもは経済的自立することを想定されず低水準の賃金でも構わないということになる。男性に正規労働者(基幹労働者)が多く、女性に非正規労働者(パート、補助的労働)が多いのも、このような「男=養う者、女=養われる者」というジェンダーロールが根強いためである。

 

 

3.家族賃金制は性差別を生んでいる

 

 年功制度のもとでは終身雇用が前提とされていて勤続年数に応じて賃金は上昇する。しかし、その上昇の仕方も社内でのポジション如何で変わるので、昇進のために常に出世競争をしなければいけない。社内で昇進するためには上司から評価を得なければいかず、会社への貢献度を示すために長時間労働を厭わなかったり、上司や同僚との関係を良好に保つために酒や食事などの付き合いをするなど、一日の大半の時間を仕事と仕事上の付き合いに費やす会社人間となる。このような長時間労働が可能になるのは、家事・育児をすべてしてくれる配偶者(妻)がいるからである。つまり、日本企業の年功制度自体が「男=仕事人間/女=主婦」というジェンダーロールをもとにつくられており、男性を経済的優位にして女性を無償労働や低賃金労働においやる性差別を生み出している。一家の大黒柱となる男性は家族を養わなければならず、会社からクビにならないよう会社に尽くさなければならない。残業や転勤にも応じなければならない。男性が結婚し、子どもができると、住宅費や教育費が増えてくるので、それに合わせて昇給がおこなわれるのが年功システムである。若いうちは低水準の給料に抑えるが、年をとり昇進すると相対的に高賃金がもらえ退職金ももらえる。このように将来の高い利得をエサとして労働者を企業に縛り付けておくのが家族主義に基づく日本の年功システムなのである。

 

*日本型雇用システムと性差別の関係については前回のブログ記事を参照。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.年功制に基づく各種手当ても家族単位となっている

 

 扶養すべき家族がいる者に加算する「家族手当、扶養手当」といった手当も、同一労働をしているのにシングルには不利になっている。住宅手当も世帯主に多く支払われたり、既婚者が優遇される傾向にある。社宅が借りられるのも世帯主に限られており収入の低い女性はアクセスができない。企業が福祉の機能を果たしており、それも標準家族(男女のカップルとその間の子)をつくる者だけが恩恵を得られるものとなっている。本来は国家が保障すべき福祉が企業に丸投げされている状態でもある。企業が正規労働者を削減し非正規労働者を増やすことは、労働者に家族をつくるなと言っているのに等しい。このような新自由主義による雇用崩壊を放置したまま、結婚して子どもを産み育てよと促しても無理なのである。

 

 

5.賃金体系を年功システム(家族単位)から同一価値労働同一賃金システム(個人単位)へ

 

 長時間労働が家族単位の発想に基づく働かせ方そのものである。長時間労働者は家事・育児をする暇がないので、配偶者にそれらを任せなければならず、家事提供者としての配偶者を主婦やパート主婦という経済的に弱い立場においやっている。主婦パートやアルバイトがあまりにも低賃金であり生存権が保障されていないため、彼・彼女らを扶養する世帯主が多く稼がなければならず長時間労働を迫られるという構図がある。パートやアルバイトなど非正規雇用者も経済的自立できるように最低賃金を上げることが世帯主の労働時間短縮にもつながり、家事や育児などの負担の平等化にもつながりジェンダーフリーに近づくことになる。

 

 さらに、正規雇用と非正規雇用の間の差別をなくすためにも、年功=家族賃金制度(職務とは関係なく家族を養う水準の賃金を与える)に基づく賃金システムを改め、同一価値労働同一賃金(実際の仕事の質や量に見合った賃金)にすべきである。パートやアルバイトを「労働時間の短い正規労働者」とみなす方向にする。賃金を上げ短時間労働でも経済的自立ができるようにすべきである。経済的自立ができる水準にするためには賃金体系が家族単位ではなく個人単位とならなければならない。生存権の保障のためには労働システムにおける脱・家族主義を進めなければいけない。

 

 

***

このブログにおける労働システムの脱・家族主義(=個人単位化)については、伊田広之さんの『シングル単位の社会論』(世界思想社)や『はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店)を参考にしました。

性差別と生存権

 生存権の保障は経済基盤が脆弱になりやすい女性にこそ求められる。資本主義のシステムにおいては女性が不利な立場におかれる。労働がジェンダー化されており女性を低賃金・構造的劣位の地位に押し留めている。このため女性が経済力をもつのが難しく、女性が男性に経済的に依存する状況がなかば強制され女性が自立できなくなる。生存権の保障により個人の経済的自立を達成することで他者への従属が排除され、個人の自由が確保される。生存権に基づく生活保障がなされることが性差別の解消に寄与する。

 

・女性の仕事は安くてキツイ

 

 育児(保育)・介護・看護など女性ジェンダーがつきまとう労働は賃金が低く抑えられる。女性が担う労働とみなされているがゆえに賃金が低いのである。これらの仕事は家事や育児など無償労働の延長として見られ二流労働として扱われる。ケアは女性が無償で提供すべきというジェンダーロールがあるため、それらを労働化したら安価になってしまうのである。保育士資格をもつが実際に保育士として働いている人は5割程度である。安すぎる給与水準であるにもかかわらず重責を任されるなど労働条件が悪いため保育士の就業希望者が少ないのだという。待機児童問題は保育士不足が大きな原因であるが、保育士の労働条件が悪いという職業におけるジェンダー差別が保育士不足をもたらしているのである。介護士不足も同様に低賃金問題に起因している。

 

・キャリア女性も困難である

 

 男女雇用機会均等法の成立以後に、女性にも総合職という働き方が広がるようになった。それまでは企業に入社する女性は男性社員を和ませる「職場の華」という位置づけであり、男性社員の花嫁候補であった。女性が企業の中でキャリアを積むことは念頭に置かれてなかったのである。女性にとってもOLという立場は結婚までの腰掛けとして機能していた面もある。均等法の成立以後、女性にもキャリア社員となる道が開かれたが、女性社員は男性並みの働きぶりを期待されつつも女性として男性社員に気配りする能力も求められる。女性社員を男性社員の補助的な立場におしとどめるジェンダーロールも根強い。まだまだガラスの天井は分厚く、女性が企業の重要ポストに就く機会は十分に開かれてない。育児・家事が女性に求められるジェンダーロールは根強く女性は育児などに時間を取られて男性社員並に働けない現実もある。

 

 そもそも、総合職は男性に有利な働き方である。総合職=年功システムとは家族主義(=性別役割分業的な発想)に基づく雇用形態である。年功システムは家族賃金制を採用しており、給与取得者が家族全員を養うことを前提に給与水準が設定されている。比較的高い給与を得られるかわりに一日のほぼ全ての時間を労働に費やすことを求められる。このような仕事一辺倒の働き方は労働者のケアや家事を担う配偶者の存在を前提としている。男性は仕事/女性は家事というジェンダーロールがまだ強い中、総合職社員には男性が多くなり、総合職男性の妻となった女性は家庭に入り家事・育児の担い手となる。総合職的な働かせ方とは企業のために生活の全ての時間を捧げる男性と、その男性を家事によって支える女性の存在がいることで成り立っている。女性が総合職となり男性社員と伍して働こうとしても、妻が何でも世話してくれる男性社員と同様には働きにくい。総合職は男性優位の働かせ方であり、女性が勝ち残れない仕組みとなっている。このため、女性は働き続けることへの意志を冷却させられ結婚することに希望を見出すのである。女性の専業主婦志望者は現代でも多いのである。

 

 家族において「夫が仕事/妻が家庭」という役割分担となっても夫婦で話し合って決めたのならば民主的だと言えるだろうか?否である。男女の賃金格差が大きく、企業における昇進システムも男性優位になっており、職場環境やビジネス慣行は男性的にできており、女性が働くには不利である。女性が男性集団の中で働くことで感じる居心地の悪さ、女性ということで見くびられたりセクハラを受けること、妊娠中や育児中における女性の働きにくさと周りの無理解や嫌がらせ、などなど労働において女性の置かれる条件は悪い。結婚をする際に男女のどちらが離職するかとなると女性が働き続けるより男性が働き続けたほうが経済的なメリットとなるため、大抵は女性が職をやめ家庭に入ることになる。社会における性差別構造によって性役割分業(男は仕事/女は家)が強制されている。民主的な家族というのは幻想である。

 

生存権の保障は支配/従属の関係からの解放をもたらす

 

 以上、述べたようにジェンダー化された労働システムにおいては女性が不利になる。そもそも資本主義というシステム自体が本質的に女性差別を生み出すのである。「生む体」をもつ女性は労働生産性において不利であり二流労働者の地位に陥りやすい。資本主義の中で男女が非対称的な労働者となり、ジェンダー構造上不利な立場におかれる女性は貧困に陥りやすい。貧困になり経済的自立ができない者は誰かの経済力に依存せざるを得ない。ここに、経済的に弱い女性が経済力のある男性に依存・従属する仕組みができあがる。つまり、結婚が女性にとっての生活保障として機能しているのである。結婚して家庭内暴力などが起きてもすぐに離婚ができないのも女性が経済的自立しにくく福祉など生活保障(生存権保障)が乏しいからである。このような性差別構造がある中での結婚システムは男性に女性を従属させるように機能している。

 

 貧困は自立の妨げになる。経済的な自立ができないことで誰かの経済力に依存せざるを得ないからである。経済力の格差は権力勾配を生み出す。養う/養われるという関係は支配/従属の関係を生み出す。生存権の保障はこのような支配/従属の関係を解消する。つまり、自由が保障されるようになる。

 

 日本における社会保障は個人単位ではなく家族単位でなされ、一人一人が経済的に自立することを目指すのではなく家族単位で経済的に充足していればよいという発想である。この発想では家族の中の個人の貧困が見逃されてしまうし、問題化もされない。実家ぐらしの引きこもりやフリーター、経済的ネグレクト、主婦の困窮などは家族単位発想により問題化されない貧困である。特に主婦の貧困・孤立については結婚しているから問題ないとみなされている。個人単位発想に基づく生存権の保障こそが求められる。

能力主義(近代合理主義)を問う

能力主義による序列づけの正当化

 

 出自やジェンダーなど属性によって人の間に序列をつけることは差別として非難される。しかし、能力については、それが劣ると本人の落ち度として責を問われてしまう。能力というものは本人の努力によって変えられると思われており、それが変えられないのは本人が努力を怠っているからだと非難が正当化されてしまう。才能があり努力をして能力をつけた者が上に立ち、能力のない者は下に甘んじる。人を価値づける最大の基準が能力であり能力による序列づけは正当化される。

 

 我々が一般的に評価する能力とは、今の資本主義システムや差別的秩序の中でうまく立ち回ることができる能力である。勉強ができる/スポーツができる/文化的素養がある/仕事ができる/コミュニケーション能力、などである。それらもパターン=型が限られる。多様性がないのだ。さらに、世の中でうまく立ち回ることができる能力というものは時代や地域の文化によっても変わる。求められる能力とは今の社会の価値体系を表すものである。今で言ったらホリエモン的な自己責任論的な価値体系に基づく能力が求められのだ。それはマジョリティにとって有利な価値体系なのである。そのような能力を信奉することで主流の価値体系を強めてしまいマジョリティをますます有利に、マイノリティをますます生きづらくする。多様性が損なわれる。能力における多様性が実現されるためには秩序の攪乱が必要である。

 

 自己責任論は能力主義にもとづく。能力のない者は努力のできない落伍者としてスティグマを貼られ、生存も脅かされ人としての尊重もされにくい。事実、生活保護の給付水準は低く人が人らしく生きることを保障していない。福祉の給付水準は最底辺の労働者の生活水準よりも低く抑えるべきという「劣等処遇の原則」が未だにまかり通っている。福祉を受けるにあたって剥奪される権利も多く、プライバシーは侵害され世間からの非難がなされる。

 

 能力主義は近代において強まった。前近代では出自や身分により本人の生き方は決まっていた。職業選択の自由もなかった。農民の子は農民として生き、商人の子は商人として生きることが決まっていた。生まれた村の共同体に属し、村の成員としての立場を生き、村の中で生涯を終えた。そのような前近代の時代には、いかに能力をつけても階層や共同体の越境ができない(インドなどカースト制が残る国もまだある)。しかし、近代に入ると個人のライフコースは出自や身分で決まるのではなく個人の能力により作り出すものとされる。能力主義封建社会を脱却するための革新的な考えとなった。能力がある者は階層を上昇させ、逆に能力が無い者は階層の下位に甘んじなければいけないという発想から格差が肯定されるのである。

 

●「意志の力」の信奉

 

 能力主義は「意志の力」の信奉に基づく。近代社会が想定している個人とは、選択の自由がある中で自ら意志をもち自己決定する主体というものである。近代主義のもと意志をもち努力をして有用な成果をあげるという考えが支配する。自分の運命は自分の意志で切り開くという観念が強まり、立身出世の考えが支配した。その裏返しとして不運で不本意な人生をおくるのは努力が足りない=意志の力が弱いからだという非難が正当化される。意志によって自己決定をして自らの生き方をよいものにできるという観念は、よい生き方ができないのはしっかりとした意志をもたないからだと生きづらさを個人の内面の問題に還元させる。

 

 しかし、確固たる意志というものは万人に期待できるのだろうか?意志の力はもろい。意志の力で何事もできるのならば、みなダイエットに成功しているはずである。依存症においては意志の力というのは否定されている。薬物依存になり厳しい刑罰を受けても薬物を手放せない人もいる。アルコール依存症と診断を受けても断酒を続けられる者はわずかである。酒をやめなければならないと思っていても、ついつい酒に手が伸びてしまう。

 

 近代における自立した個人を特徴づける「意志の力」は疑問にさらされているという。自らの意志でやるor誰かにやらされるという能動/受動ともきれいに判別しがたい行為を私たちは日々おこなっており、『中道態』という概念が哲学者の國分功一郎さんにより提示されている。

 

「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志”の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志”の存在を前提とした“常識”が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」(引用記事)

 

https://bunshun.jp/articles/-/2461?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink

 

 自らの意志で主体的に何らかの行為をしている【能動】の状態ではなく、さりとて、他者から何かをやらされている【受動】という状態でもない、何かに取りさらわれる感覚で無意識的に行為をおこなっているという【中動=能動とも受動とも判別つけがたい】の状態において、人が人らしく快をもって生きられるという考えもある。

 

 依存症治療においてもこのようなアプローチが採用されている。アルコール依存症者の断酒も、酒をやめようと前のめりのなるのでもなく、人から強く酒をやめるように言われて断酒をするのでもなく、何となく気がついたら断酒が継続したという状況が多いのではないろうか。

 

 人は何かを為さなければと躍起になったり、人から命令されたり、何かをせざるを得ない状況に追い込まれたら抑圧を感じる。能動や受動により人は自由から疎外されているともいえる。自分が無意識のうちに何かに夢中になる(=とりさらわれる)空間や状況に自分が置かれることで、人は時を忘れるように何かに集中したり気づいたら何かをやっていることがある。それは、勉強でも趣味でも芸術鑑賞でも、いろんな場面で生じる。意志の力に裏切られた者の居場所は中道態的な世界にあるのではないだろうか。

 

 人は思い通りに動けない。図らずして不遇になってしまうこともある。意志の力を前提とする近代合理主義に基づく社会システムも見直されるべきである。

結婚制度を問う(2)

結婚制度は差別を生み出すことや、家族主義についての批判はこれまで書いてきた。今回は、カップル主義の相対化が必要であることを述べ、制度的保護の対象は「性愛関係」(性の絆)から「ケアされる者とケアする者」(ケアの絆)へと 変わるべきだという家族社会学の知見を紹介します。

 

以前書いた結婚制度批判の記事

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

1.カップル主義を相対化する

 

 近代家族への批判とは、「一対一の性ダイアドからなる関係を家族と呼ぶという強制異性愛秩序compulsory heterosexismへの批判であった」(上野千鶴子、2009、p.8)。

 

 性愛で結びつく関係に対して婚姻という法的保護は必要なのか、そして、それが二者関係であること(モノガミー)、異性愛に限定されることが問われてきた。

 

 ゲイやレズビアンカップルにも異性愛の婚姻関係と同じ法的保護を与えるという形で同性婚が一部の国や地域で実現されている。しかし、同性婚ではモノガミーやカップル主義の問題がなお残る。また、ゲイやレズビアンが、異性愛の単婚家族を「モデル」として模倣することによる限界があるという(上野、2009、p.8)。

 

 同性婚を支持するということは、カップルを制度的に特権化して差別を生み出す結婚制度を温存することであり、カップル主義を強化する作用もある。婚姻関係が人間関係のあるべき規範として特別視されてよいのか、それが多様な人間関係をつくることへの障壁として機能するのではないかというクィアスタディーズにおける指摘もある。

 

「婚姻」がさまざまな関係における範型になってしまうおそれがないとはいえないということである。「婚姻」制度の要求のみに「新たな関係性」形成の問題が還元されてしまうことによって、婚姻以外の可能性を含む関係性が排除されてしまうことに対する警戒は怠ってはならないように思われる。

(河口和也、2003、『クィアスタディーズ』岩波書店p.74)

 

 

 婚姻制度を正当化するのはカップル主義である。この社会はカップル単位(家族単位)の発想から制度がつくられているだけでなく、愛し合う二者関係(カップル)をつくることが素晴らしいという観念にも支配されている。結果、シングル、および3者以上の恋愛関係(ポリアモリー)を排除している。

 カップル主義は恋愛主義から成り立っている。恋愛が好きな人は是非すればよいのだが、恋愛主義はみんなが恋愛すべきだという強迫感を植え付けるものである。恋愛主義が強いと、恋愛しない者や恋愛できない者は疎外されてしまい、居心地の悪さを抱えて生きることになる。恋人がいない者は「ワケあり」と世間から眼差されてしまうことも恋愛主義が幅を利かせているからである。

 結婚によってカップルを優遇することは、恋愛に対して制度が中立的でなく、制度が差別を生んでいる。

 

 カップル主義の問題についてクィアスタディー研究者の森山至貴さんの言葉を引用しておきたい。

 

 

 カップルの解消という論点は、そもそも特定の相手と長く関係を続けることがそんなに偉いことなのか、言い換えればなぜカップルが法的保護の対象となるべきなのか、という問いに帰結します。二〇一七年において、夫婦の間には配偶者控除などさまざまな権益が与えられています。しかし、誰もが等しく(性的)魅力を持つのではなく、パートナーシップを結ぶことが双方の自由意志に任せられている(どちらかの意志を無視する形で、パートナーを「あてがう」ようなおぞましい制度は当然存在せず、存在すべきでもないでしょう)のであれば、パートナーと生きているわけではない人は必ず一定数存在します。何もかもをパートナーシップの権利保障の枠内で解決しようとすれば、「独り身」の人の権利が侵害されることになりかねません。

 そもそも、性的指向性自認を固定的で永続的なものと前提してしまうことを、クィアスタディーズは批判してきました。端的に言って、人は変わるし、変わってよいのです。

 そのクィアスタディーズの視座を貫徹するなら、特定のパートナーの永続的で固定的な関係を前提とする人間観も、また誤りです。もちろん、性的指向にかかわらず多くの人が特定のパートナーとの永続的な関係を望んでいることは確かでしょう。でも、婚姻を含む社会の制度がそれを前提にせず、もっと開かれた人間観に基づく平等なものになりうるのならば、それを拒む必要はありません。性的欲望や関係性の可変性を制限するものとして同性婚制度が成立するのだとしたら、それに歯止めをかける必要も生じるでしょう。

 実際、同性婚を求める主張の中にあるモノガミー(単婚、一対一の婚姻)主義やカップル主義は批判の対象となっています。パートナーシップに関する制度でどこまでを解決するかは議論のあるところですが(個人単位の社会保障を充実させて、現行の婚姻よりも権利保障を弱めたパートナーシップ制度と組み合わる方法もありえます)、同性婚・同性パートナーシップに関する議論が、「カップルだと得をする社会が望ましい社会なのか」という議論を開いたことは、軽視してはならないでしょう。

 

森山至貴、2017、『LGBTを読みとく』ちくま新書、p.169-170

 

 

 

2.「性愛に基づく二者関係」を保護するのに正当性はない

 

 家族社会学では、もはや「家族」は定義ができないとされる。居住の共同、血縁の共同、性の共同など定義付けをおこなおうとすると、そこからこぼれ落ちる形態の「家族」がでてくる。家族というのは、当人にとって誰を家族と見なすのかという問いからでしかアイデンティファイできない(上野千鶴子、1994; 2009を参照)。家族も言語やパフォーマンスによって構築されるものである。

 

人びとが「家族とは何か」を語る言説の多様性を前にして、構築主義の立場からすれば、問いは次のように逆転することができる。「何が家族であるか?」を決定することが不可能であるとしても、「人びとが何を家族と呼ぶか?」という問いの探求をつうじて、「家族」という概念に当事者が託した価値や規範意識を逆説的にあきらかにすることができる。

上野、2009、p.6

 

 

  家族は観念により成り立つ「幻想」であり無限のパターンが存在する。恋愛関係にない友人やペットを家族だと感じる人はいる。死者を家族と見なす例もある。見たこともないネグロスの子どもの「里親」になり、その子どもに家族意識をもったりする例もある(上野、1994)。このように多様な家族の形態があるなかで「性愛に基づく二者関係」のみを法的制度的な「家族」と定め特権を与える根拠はない。生殖に基づく関係として制度的保護があっても、結婚して子を産まない場合もある。そして、性愛カップルを作れない者は冷遇される。

 

3.制度的保護の対象は「性愛関係」から「親子関係」へ

 

 子どもや高齢者などは誰かに依存しなければ生きていけない。子どもや認知症をわずらった高齢者は自己決定能力をもたないので、彼らの意志決定を代理したりケアを与える存在が必要になる。依存的弱者と、そのような依存的な他者を抱え込んで「二次的依存」の状態にいる者に対する保護はなされるべきである。しかし、婚姻関係(性の絆)に対して特権を付与するカップル単位の制度では、子どもを抱えていてもシングルマザー世帯などは制度の外におかれる。このような問題から、「性愛でつながる二者関係」(性の絆)ではなく「ケアを受ける者と与える者の関係」(ケアの絆)を「家族」として保護の対象とすればよいという論が家族社会学ではなされている。M.ファインマン氏が著書『家族 積みすぎた方舟』で提起した考えである(上野、2009参照)。

 

 子どもや高齢者といった依存的な他者を抱えることによって「二次的依存」の状態になるのは女性が多い。これは、無償のケアは家事労働の延長であると見なされ女性の役割になるというジェンダー秩序が存在するためである。これは、男女の賃金格差などジェンダー不平等のもとに生まれる性別役割である。このため、「二次的依存」の状態になった女性は誰かの経済力に依存せざるを得なくなる。離婚してシングル世帯になると貧困状態になることからDVやパートナーとの不和が生じても離婚ができない。実際、離別したシングルマザー世帯は貧困に陥っている。働いても非熟練労働では生活保護費と同等、それ以下の給与しかもらえないので貧困から抜け出せない。

 

 「二次的依存」の状態にある者が第三者に私的に依存せずともすむ程度の現金給付がなされる必要がある。

 

 私は子どもには「子どもベーシックインカム」なるものが支給され、子どもが意思決定できるようになれば誰の世話になりたいのかを自由に選べるようにできるのがよいと考える(血縁上の親、里親、親ではないが面倒みてくれる他人、もしくは施設で暮らすのか等々が選べる権利)。高齢者には介護費の公的補助が要介護者に渡され誰にケアをしてもらいたいかを当事者が自由に選択できるようになり「自分の望むケアを受けられる権利」が保障されるのがよいと考える(親、子、親戚、あるいは血縁関係にない他人、ヘルパー、施設などを自由に選べる)。そしてケアの与え手には血縁関係の者であってもそのケアが労働として要介護者から支払われるべきだ(原資は公的補助)。

 

※介護の公的補助が要介護者本人に渡されるのがいいという話は伊田広行さんのシングル単位論から学んだことです。

 

 

 

【引用・参照文献】

伊田広行、1998、『シングル単位の社会論』世界思想社

上野千鶴子、1994、『近代家族の成立と終焉』、岩波書店

上野千鶴子、2009、「家族の臨界ーケアの分配公正をめぐってー」(牟田和恵編『家族を超える社会学新曜社、所収論文)

・河口和也、2003、『クィアスタディーズ』岩波書店

・森山至貴、2017、『LGBTを読みとくークィアスタディーズ入門』ちくま新書

 

【告知】5/23「六甲山で野いちごを取る会」

19年5月23(木)に「六甲山で野いちごを取る会」を主催します。

 

13時に東灘区の阪急の駅に集合です。

連絡頂いたら待ち合わせ場所を教えます。

haruka.omae@gmail.com

 

駅から20〜30分坂道を登ります。

藪の中にも入りますので服装に注意して下さい。

 

友人(女性)が一人来ます。

おいしい野いちごを取りましょう♫

 

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昨年5月に採った野いちご

 

ハーブティーの作り方

5月をすぎると街中や野原でミントなどのハーブ類が繁茂しているのを目にします。ハーブをとって乾燥させると長期保存できます。

 

(1)ハーブをとる

根本近くを切って収穫します。茎は硬いのでハサミなどで刈ります。

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繁殖力が強いのでアスファルトの間からも生えてくる

 

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乾燥したら縮むので、たくさん採っても良い。

 

(2)

洗ってから風通しのよい暗所で干す。数束の茎の根元を輪ゴムで縛ってハンガーなどにつるす。一週間くらい置いたら乾燥する。

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数束を輪ゴムで縛ってハンガーなどにつるして風通しのよい暗所で干す

 

(3)適当な大きさに切って保存

乾燥したハーブをハサミなどで適当な大きさに切ってポットや袋などに入れて保存。除湿剤であるシリカゲルを入れておくのがよい。

 

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乾燥したらこのような感じ

 

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ハサミなどで適当な大きさに切って保存