生きるための思想

大学院博士課程を中退してフラフラ生きてる31歳の男です。社会学などの知見をもとに市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます(低所得、精神障害、非モテetc)。もともとは韓国で農村移住者を研究してた。ゆるく生きたいフェミニンな仲間が欲しいです!ツイッターで思う所をつぶやいてる。

韓国の低収入で暮らす若者

以下は、2016年4月に韓国ソウルのオルタナティブ活動で運営されるシェアハウスに暮らす若者へのインタビュー記録である(活動家が有志から募った資金で社会変革活動をしている。シェアハウスは融資金で一軒家を借りる資金にしている)。この方は、大学を休学し生き方を手探りしていて、やりたいことを少しずつしていっている様子であった。

 

Mさん、(女性:24歳、大学休学中)

 

京畿道一山市で育つ。大学はテジョン(専攻は、演劇・映画、心理学・哲学)。大学には2年通ったが2015年5月に休学してソウルのシェアハウスに来た。2016年末まで滞在予定。

 

シェアハウスの人たちが書いた独立雑誌を見て知った。シェアハウスに1日生活して気に入った。シェアハウスで毎週おこなわれる会議の様子がHPに載せてあることがよかった。住人がどのように暮らしているのかがわかり、住人同士コミュニケーションがとれている印象をもった。

 

地方よりもソウルが、文化的に先に進んでいるので、ソウルに来たかった。独立映画などもソウルでは上映され、政策的なことも新しいものがソウルから始まる。地方は開発中心だが、ソウルは開発よりも文化の方向に舵を切っていると感じる。

 

大学に通っている時は、授業や課題に追われて忙しい。外から課題を与えられて、何とかこなしている感じ。

 

ここに来てから、学ぶことは自分の意思でしていかなければいけない。

今は、自分のしていることが直接、自分の結果になる(大学時代はそうではなかった)。大学時代は、文化活動をする余裕がなかった。

 

【今やっていること】

・マウル(町内)ラジオ(5日/週、11〜18時)→16年4月〜給料130万₩(13万円)

・帽子作りの勉強(週末の1日)。

・マンガや絵を描く。

 

ここでは、自分の才能を活かすことができる。

家の幕に絵を描いたり、友達のつくる文集に絵を描く。

 

性暴力反対の活動をしている知り合いが、活動で使うTシャツに絵を描いたり。

 

幼い頃から絵を描くのが好きだった。

 

大学では専門を美術にしようとした。

フランスに留学に行った友達が、留学試験のための絵の評価についてMさんに尋ねて、Mさんが評価したとおりに書いたら留学できるようになった。「自分の考えじゃなくて、教授に評価されるように、それらしいことを書けばOK」ということがわかった。結局、教授に気に入るようなコトをやらないと評価されないのかと入試をやめた。

 

 

【マウル(町内)ラジオ】

営利目的ではない。ソウルのメディアセンターが支援していて、事業が経済的自立できるまで支援。しかし、収益をあげるには広告費に頼らなければいけない。マウル放送(龍山区)は規模が小さく、広告を出してくれる会社もない。

 

マウル放送を通して、市民多くの人が自分の声を出して届けられるようになるのがいい。共同体事業の活性化に寄与したい。

 

セウォル号事件の後、KBSなど既存メディアの放送について市民から不信が生まれた。小さいメディアが生まれている段階。

 

李政権以降、小さいメディアへの支援が減り、マウル放送も減っている。

KBSは税金で支援を受けているのに、公共メディアとしてマウル放送などにも税金で支援すべきだ。

 

現在は、政府によってマウル放送が規制を受けないか神経を使っている。

 

【生活】

ここに来てからアルバイトをたくさんした。

食堂、化粧品店(LUSH、親環境化粧品)。どれも5500〜6000₩(≒600円)/時給

時間を仕事に投資すると自由の時間がなくなる。お金と時間は反比例の関係にある。

昼食は、食堂のまかないは8時間以上働かないともらえないので、コンビニで弁当を買って食べていた(3000₩、食堂で食べると6000₩もかかるので高い)。

 

生活が苦しかったので服は買わなくなった。人からもらったり、フリーマーケットで安く買ったり。大学時代は服をたくさん持っていたが、シェアハウスに移る際に必要最小限のもの以外は捨ててしまった。移動しやすく、いつでも別の場所に移れるように荷物を身軽にした。

 

ソウルに来る時はたくさん稼ごうと思っていた。しかし、シェアハウスで家賃と食事込みで22万₩(≒2万2,000円)の消費なので、適度に稼ぐ暮らしが良いんじゃないかと考えるようになった。

 

ひとり暮らしの時は、食べ物を買っても腐らせていたが、シェアハウスでは人が多いので一度つくった料理も残らず、食べきてしまう。

 

 

ソウルでシェアハウスでない家を借りたら家賃が34万₩(≒3万4,000円)。

月に70〜80万₩(≒7〜8万円)は生活費がいる。シェアハウス以外で暮らすのはしんどい。

女性性市場批判

0.女性性市場とは

 

売買春、ポルノなどの性行為や性表現、アイドルや女優に至るまでの女性の観賞的消費といった「女性性市場」について、永田えり子(1997)『道徳派フェミニスト宣言』(勁草書房)をもとに批判していきたい。

 

 

道徳派フェミニスト宣言

道徳派フェミニスト宣言

 

 

※女性性市場

生身の女性や表現された女性が、金銭を対価として、他者(男性)の、性的に魅惑されたい、性欲を喚起されたい、性欲を充足させたいという欲求を充足するサービスを提供しているとき、そのサービスを女性性商品(女性性の商品化)と呼び、この市場を女性性市場とする(p.116-117)。

 

 

1.性の商品化は女性への侮辱の公然化

 

例えば、ポルノは自由主義者に肯定される一方で、「あからさまに見せてはいけない」とも考えられている。なぜだろうか。それは、私たちは性に関して「非公然性の原則」という性道徳を保有しているからである(p.179)。

 

健全な空間において、もしわれわれが裸体、性器、性交や排泄を人に目撃されたら、通常どう思うであろうか。たとえそれが事故であっても、まさしく「恥ずかしい」と思うはずである。人間としての尊厳が失われた、と感じるはずである。そして、もしも裸体、性器、性交や排泄を見せるようにと他人に要求されたらどう思うであろう。すなわち、われわれは互いを猥褻化しないことによって、互いの尊厳を確保しあっているのである。

(p.196)

 

ポルノなどの性表現は女性の猥褻化である。公共空間において女性を猥褻化すれば、それは女性に対する敵対行為であり差別行為である。つまり、女性に対する侮辱でありセクハラである。

 

フェミニストのマッキノン、ドゥオーキンらは、「ポルノを女性全体への侮辱であり、脅迫であり、支配であり、すなわち女性差別行為そのものである」と述べている(p.196-197)。

 

ポルノなど性商品に対して、「空想だからよいではないか」という説があるが、女性を陵辱する言説や行為が空想にとどまり個人の内面において完結するだけでなく、それらが市場化され公然となることが問題である。

 

私は以前ブログで、性に関する言動のルールについて書いた際、女性を性的に侮辱し貶める言動はセクハラになると述べた。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

性の商品化はセクハラになる言動を市場化することで公然となることが問題である。

 

「性は解放されており、猥褻を公然化してはいけないという性道徳など無くなっている」と、「非公然性の原則」の性道徳を「頭の固いPTAのおばさんの言うこと」とあしらわれるが、ポルノなどの性商品が猥褻たり得るのは性行為や性表現が猥褻であるという性道徳があるからである。つまり、性商品の猥褻性は現行の性道徳によって成り立っており、「性の商品化」肯定論者は私たちのもつ性道徳を否定することはできないのである。

 

よって、性の商品化(市場になり公然化されること)は私たちの性道徳に反するからダメであるという明快な結論が出る。

 

ある社会において、ある行為が不当であるというためには、そうした行為に対する社会全体からの反作用がなくてはいけない。泥棒が少々いたところで、所有権制度は崩壊しない。だが、もしもわれわれが泥棒を不当なものとして処罰する意志を失ったとき、それは崩壊する(p.201)

 

棲み分けをすればよいと言われるが、それは不可能である。

 

「ポルノの広告がポルノ」である限りは、構造的にそれは不可能であろう。ポルノも、他の商品と同様に流通しなくてはならず、流通するためには「いかに猥褻であるか」を公然と語らざるをえない。そして、それを公然と語ること自体が負の外部効果を与えてしまう。すなわち、ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快と感じる人がいる。これがポルノ市場の問題点である(p.139)。

 

2.市場化の対象はどこまで許されるか

 

売買春含め全ての労働は奴隷的扱いとも言えるが、どこまでを市場経済による自由取引で認め、どこからを規制すべきかは、最終的には私たちの道徳により決めなければいけない。

 

ある材やサービスについて市場化を認めるかそうでないかは、それらが流通することで社会秩序や自然環境に与える影響が考えられなければならない。ある工場を稼働させることが公害を発生させる場合は負の外部効果を生むため、その工場の稼働は認められないとされる。結局、何を市場化の対象として許すかは、私たちがどういう社会で生きたいかという問題に行き着く。

 

私たちは、性に関する「非公然性の原則」という性道徳を持っており、あからさまな性行為や正表現を嫌う。よって、性の商品化はこの原則を侵すので「公害」となる。

 

職場のヌードポスターはセクハラであるという。すなわちこの性商品は、これを楽しむ人々が別の人々に対して不快を強いるという点で、職場における公害である。そして職場に限らず一般社会においても、公然と性表現や性的な行為が流通しているならば、それは人々に広く不快を感受させているかもしれない(p.183)。

 

 

 

このように、性の商品化は、一部の人々の自由な取引のために社会全体の構成水準の悪化をもたらす。

 

また、「非公然性の原則」は、何が人間の尊厳であるか、何が侮辱であり恥であるかというわれわれの感覚もまた、作り出している(p.180)。

 

繰り返すが、性道徳の話に行き着くのである。

 

道徳はそれ以上さかのぼることができない最終根拠=公理である。道徳には根拠がないと言われるが、どんな命題でも最終的な根拠はない。道徳は無根拠で可変なものである。無根拠ゆえに、常に「何が正しいか」が言い争われる。

 

今のところ、売買春やポルノなどは「非公然性の原則」に照らし合わせると、道徳的に「悪」となる。大っぴらに取引がなされていないことが不道徳なものと考えられている証左である。これが、現代において私たちが採用している道徳であり、この道徳を守るためにも性の商品化を公然と認めることはできないという結論が導かれる。

 

 

3.女性性市場の成立の帰結 

 

女性性市場が公然化すると、すべての女性は「性的魅力」という財をもつことになる。本人が売る気がなくても、勝手に価格がついてしまう。

 

私たちは所有する財を取引する自由をもっている。しかし、その財を売る意思がなくても、その財の市場が成立したとたんに、その財は無条件に「価格付け」がなされ値踏みされることになる。

  

女性性市場が成立したとたん、すべての女性は「女性性」という財の所有者となる。つまり市場が成立した瞬間に、すべての女性は「自分の性的サービス」の所有者となり、それを処分する権利と管理する義務を負うことになる(p.145)。事実として取引されなかったとしても、それらには潜在的に価格がついているのである。そういう意味でならば、この市場が成立している限り、すべての女性は潜在的に売春婦である(p.145)。

 

女性性市場には、売春行為など風俗がになう「下級財」から、ミスコンなど観賞用としての「上級財」まである。

 

直接、性を売るのではないミスコンやアイドルや女優などの「上級財」女性性市場も批判されるべきだと私は考える。これらは、「性的魅力」のメルクマールとなり、女性性市場を補強する。

 

ミスコンは、どのような付加価値が加われば、彼女の性的魅力が最大限に評価されるのかに関する情報を公示する。ちょうど銀座の一等地の価格が、つねに土地の値段のメルクマールになっていたのと同様である。すなわち、何が、いま、もっとも高価な性的魅力であると公に評価されるかを人々に周知すること。そうすることによってミスコンは、共通の相場情報を人々に与えることになる。すんわちミスコンは情報面で女性性市場を下支えする能力をもつ(p.128)。

 

一般的な労働において、女性の美醜や性的魅力を採用基準として公然と掲げている企業はないだろう。それは、女性性が売り物でないことが建前とされているからである。つまり、女性性市場は公然化されていない。それが、現代において私たちが採用している性道徳である。

 

しかし、女性性市場が成立している場合、企業が女性の美醜や性的魅力を採用基準に堂々と掲げることになる。その場合、自らの女性性を売り物にしたくない女性にも無理やり女性性を売ることを強いることになる。

 

このように、女性性市場が公然化されると、不都合を被る人々があらわれる。全ての女性がその女性性を値踏みされることが公然化され、女性性を取引の財としたくない女性も女性性を売ることを強制される。これは、私たちが採用している性道徳に反する。性道徳に反する取引がおこなわれる市場は公然化されるべきでないとう結論がえられる。

 

 

マイノリティと自己アイデンティティ

1.自己アイデンティティの確立

 

私たちは、「自分らしさ」とか「ありのままの自分」という言葉が好きだ。今の時代に象徴されるのは「個性」という言葉だ。

 

私たちは「自分が何者なのか?」を問われ続け、他者とは違う自己を示すことを強迫される。

 

「人は一人で生きていけるか?」という命題があるが、生を充実させるなら「親密な他者が一人は必要だ」と私は考えている。

 

人は自己アイデンティティが他者から肯定され承認されることで、安心感を得ることができて喜びを感じるのだろう。

 

自己アイデンティティの確立は一人ではできない。他者の存在を必要とする。

 

「自分らしさ」、本来の自分なんてそもそも存在しない。

 

他者から自分はどう名指しされているのか、そして、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れるというポジショナリティ(位置性)によって自己は形成される、というアイデンティティを巡る知見が定着しているようだ(千田有紀、2005、「アイデンティティとポジショナリティ」上野千鶴子編『脱アイデンティティ勁草書房、p.269)。

 

アイデンティティは真空地帯のなかで獲得されるのではなく、他者との関係のなか、社会関係のなかで作り続けられるものである。

千田有紀、前掲論文、p.269)

 

 

 

自己アイデンティティの確立は最重要である。自己アイデンティティがグラグラしていると、自分のポジショニングができないので心が安定しない。 つまり、自己アイデンティティが確立されていないというのは、他者や社会との関係の仕方が確立できていない状態である。

 

また、他者や社会との関係は常に変動するもので自己アイデンティティは流動的であるといえる。

 

現代のジェンダー研究における構築主義という立場からは、自己アイデンティティパフォーマティブ(行為遂行的)に構築されるものである。

 

私が他者や社会に対して、どのような言葉を発し、どのような行動をおこなうのかで、他者や社会との関係のありようもつくられていく。

 

女は「女」としてあらかじめ存在するものではなく、女として生きることで「女」になる。つまり、女が何かを発言し行動すると、後からそれらが「女」の発言や行動としてジェンダー化されていくのだ。

 

アイデンティティは言説実践によって生産・再生産されるものであるなら一貫性はもたない。場当たり的に変化していくものである。

 

以上から言えるのは、他者との関係で立ち現れた自己は絶えず変動するが、立ち現れる自己が他者から承認されることで、「自分は今の自分でいいのだ」と安心できるようになるということあろう。

 

 

2.自己アイデンティティの抑圧

 

前近代における村社会の人々は、自分が何者かであるかは考える必要はなかった。

 

前近代では、人々は生まれた村から移動することもなく、村の規則に従いながら村の一員として生きていき、自分の果たすべき役割は村によって決められる。

 

自分が何者であるかは一義的に決定されており、自分の生き方を自分で主体的に選択しなくてよいし、できない社会である。

 

さらに時代を経て、近代と呼ばれる19世紀から20世紀を支配していたのは「大きな物語」(A.ギデンズ)である。

 

戦時では、日本人全員が皇国臣民としての役割を与えられ、「戦争に勝つ」という物語を共有していた。戦後の復興そして高度経済成長の時代には「頑張れば豊かになれる」という物語があった。

 

男は会社人間になってよく働き、女は主婦になることが人生のストーリーとしてあった。

 

全員が就職できて仕事をすれば豊かになり、全員が結婚して子どもを産み育て、マイホームやマイカーを備え、定年まで勤め上げることが「幸せ」だとされた。

 

大きな物語」が支配していた時代には、個性は求められず生き方も画一的だった。みなが共有する目標に自分を重ね合わせて、皆が同じことを一心不乱に努力する時代である。

 

しかし、現代では終身雇用制の崩壊によってサラリーマンとして一生を過ごすことは当たり前ではなくなり、就職難や非正規雇用の拡大によって、正社員のサラリーマンという今までの「正規」とされる生き方ができない人が増えている。

 

日本社会の組織や集団に馴染めなかったり、低賃金や非正規、過度な労働など新自由主義的な構造で市場経済から疎外され「規格外」となる人が溢れている。

 

引きこもり、ニート、低収入労働者、精神障害者などの人々は、資本主義的な枠組みでは多数派に馴染めず、「規格外」として生きづらさを味わうことになる。低収入、障害、非モテなどの「規格外」とされる人々は、他者からその存在を認めてもらえずに、自己アイデンティティの確立に苦しむことになる。他者から肯定されないと、自己に否定的になり生きづらさを過重させてしまう。

 

皆が同じような人生をおくる前近代や「大きな物語」の時代が終わり、「自分らしさ」が強調される現代では、自己というものが他者から承認される必要があるが、社会的弱者は他者からの承認が得られにくく苦しむことになる。

 

つまり、社会的弱者にとっては自己アイデンティティの確立が迫られることは抑圧となる。

 

3.自己アイデンティティの撹乱

 

自己アイデンティティは他者との関係性によって生まれるが、他者から自分へのまなざしや、関係性によっては息苦しさや苦痛がもたらされる。

 

他者からどう見られるかを自分がコントロールしたり、他者からの見え方を変えるために自己アイデンティティの撹乱という戦略がとられうる。

 

自分のポジティブな部分だけを相手に示して、その部分だけで自己アイデンティティとされることは、それが本当の自分とまなざされるようになり息苦しさを感じるだろう。しかし、自分の生きづらさについて語ることは、「恥ずかしいこと」や「みっともないこと」とされて言うことを憚(はばか)られる。

 

何らかの障害をもっていたり、社会に適応できず生きづらさを感じている人は、自身の正直な気持ちや感情を抑え、一般社会の通念に合うように自己を見せようとする。

 

自分の正直な気持ちは他人から受け入れられず、理解されるのが難しいと思ってしまう。

 

マイノリティにある人は、多くの人に理解してもらえる言葉を発せられるかといった(話が上手いとか)「言説の資源」の点でマジョリティに劣るとされる(齋藤純一、2000、『公共性』岩波書店)。

 

「言説の資源」という点で劣位にあるマイノリティにとっては、そうした限界に挑むうえで、自分たち自身の言説の空間を創出することが有効である(p.14)。多数派からは、「異常である」「劣っている」「遅れている」といった仕方で貶められてきた自分たちの生のあり方を肯定的にとらえ返し、優生な多数派の言説とは異なった言説のモードで語っていく(p.15)。

 

社会的弱者などマイノリティとされる人々は、強者であるマジョリティの人々に受け入れられたいという理由に、マジョリティの言語コードで語り、マジョリティと同じような行動をして、マジョリティの仲間として自己アイデンティティをつくり認められたいのだろうか?

 

そうすることは、結果的にマジョリティへの従属につながり、マジョリティから支配されて抑圧を増大させる結果になるだけだろう。それでは、マイノリティはマジョリティの侍女に成り下がるだけだ。

 

マイノリティである「規格外」の人は、「規格外」のまま肯定され居場所がつくられればよい。

 

ならば、「規格外」の人は、自分に正直に「規格外」の言説実践をおこない肯定される方向で自己アイデンティティをつくっていくのが生きやすい。そうやって僅かながらでも肯定し合う仲間をつくっていくしかないだろう。

 

 

【参照文献】

 

 ● 上野千鶴子編、2005、『脱アイデンティティ勁草書房

脱アイデンティティ

脱アイデンティティ

 

 

 

 ● 齋藤純一、2000、『公共性』岩波書店

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

 

 

「普通」からの解放

フロイト理論がマルクス主義とちがう点は、マルクス主義が抑圧からの解放をめざすのに対して、フロイトの理論は、抑圧への適応―精神分析医はこれを「治療」と呼ぶ―をめざすことにある。

 

上野千鶴子、1990、『家父長制と資本制』岩波書店、p.5)

 

 

 

ザックリ言うと、私たちを抑圧し苦しめるのは、市場経済ジェンダー規範である。

 

私たちは「家父長的な資本主義システム」によって苦しめられている。

 

マルクスは資本制下における資本家の労働者に対する搾取の構造を暴き出した。市場経済が資本家による抑圧のもとに成り立っていることは明らかだ。

 

だから、マルクスは我々が資本家に命ぜられて渋々おこなう「疎外された労働」ではなくて、支配−被支配の関係のない「自由な労働」を求めた。つまり、「市場」のレベルにおける抑圧からの解放と自由を求めた。

 

しかし、マルクスは「市場」における抑圧を暴いたが、「市場外」の抑圧は手をつけなかった。「市場外」、つまり、「家族」であり「ジェンダー」ある。

 

フロイトフェミニズムにとって欠かせなかったのは、家族を解明するためであった。

 

エディプス・コンプレックス」とは、ギリシャ神話に想を借りたらちもない妄想なのではなく、「息子が父になる物語」なのであり、それを通じて男の子が父との同一化を果たすメカニズムのことである。女性の側から見れば、それは、女児が「男根羨望」を通じて自分の劣等性を内面化し、「性支配」のもとへ組みこまれていくプロセスを意味する。

 

上野千鶴子『家父長制と資本制』p.5)

 

 

フロイトの心理学説は、いかに父と母、息子と娘になっていくかについての物語、つまり、「家族」という制度の再生産のメカニズムについての理論であった。

 

上野千鶴子『家父長制と資本制』p.5)

 

 

 

しかし、フロイト精神分析理論は、抑圧の構造を解明するが、抑圧からの解放を目指さなかったという。

 

私たちは、抑圧からの解放を求めて、ヒステリーのような心身症状を示しても、精神科医は私たちを「患者」として薬漬けにして「痛み」を麻痺させたり、認知行動療法などによって抑圧への再適応を強いる。それが「治療」と呼ばれる。

 

私たちが受ける理不尽に対して抵抗せず、私たちが感情を押し殺して適応するのが穏当であると見なされ、精神分析における治療はそれを手助けするもののように思われる。

 

抑圧に順応できる個人をつくることで、社会に対する牙を削ぎ落とすことは、個人の魂をつぶすことである。

 

「普通」の生き方ができない者に対して、「普通」を迫るというのは抑圧的で暴力的である。

 

仕事ができることが「普通」とされ、ジェンダー規範においては、恋愛ができたり結婚できたり子どもを育てることが「普通」だとされている。

 

「普通」に生きられずに、「普通」の社会通念に従えないから、それによって他者から見放され、苦しさを感じる人に対して、「普通」になることで社会への再適応を強いるのはファッショ的である。

 

 

しかし、世の中が求める「普通」とは、家父長的な資本主義を存続させるために要請されることである。

 

労働をして国家に税金をおさめ、結婚して子どもを生んで資本主義存続に必要な労働力を再生産させる必要がある。

 

全体のシステムを存続させるために「普通」の生き方を個人が強いられているのだ。

 

「普通」に潜む抑圧の機制を暴き出し、私たちは抑圧からの解放を求め、時に闘い、時に逃げることが必要である。

 

 

 

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

 

 

猥談でないエロの話

1.「人権侵害となるワイセツ」が問題

 

性愛の世界に住まうのは、身体として生きる人間の宿命である。この世界に入るには、その切符=性別を受けとらなければならない。この世界に生きるには、その文法=猥褻をわきまえなければならない。

 

橋爪大三郎、1990、「性愛のポリティクス」『エロス』岩波書店、p.390)

 

 

 

エロス (現代哲学の冒険 4)

エロス (現代哲学の冒険 4)

 

 

 

性愛にかかわる身体部位や表現行為は両価性をもつ(橋爪大三郎(1995=2017)『性愛論』、河出出版)

 

両価性をもつというのは、普段は猥褻(わいせつ)な事象として有害であるとされマイナス・イメージをもたれているにも関わらず、ある場面では適当で、積極的な事象とされているからである。

  

そうしたものの帯びる両価性は、対象(身体部位や行為)の内在する実体によってではなく、それがおかれるある(社会的)文脈に照らして理解すべきなのである。

 

橋爪大三郎(1995=2017)『性愛論』、河出出版、p.43)。

 

 

性愛論 (河出文庫)

性愛論 (河出文庫)

 

 

橋爪大三郎の『性愛論』に書いてあるとおり、私は、ワイセツに関しては人権侵害となるものは公が取り締まり、それ以外については習俗の秩序で抑制すればよいのではと考えている。

 

以上のようにワイセツのあり方を位置づけると、「人権侵害となるワイセツ」とは何なのかが問題となる。

 

 

2.性の話は男によって猥談にされる

 

何がワイセツでありそうでないかは社会的文脈で決まる。

 

公衆によりワイセツと見なされることは、公の場で話すのはタブーとされる。このタブーを破り、人前で話すことで動揺が生まれる。

 

それは、「猥談」(下ネタ)と呼ばれる。

 

「性の解放」は進んだが、女性が性の話を発することは、まだまだ稀である。社会的にも女性は性の話をするべきでないという強い規範は根強い。女性同士であっても性の話はしずらいと多くの女性から聞いている。

 

性に関する言葉を生産しているのは男である。そして、男がする性の話は多くの場合は猥談となってしまう。逆に、男は猥談にしなければ性について話せない。いや、猥談として話すことを強制されている。

 

 

男はほんとうに性について語ってきたのか?あんなに猥談好きに見える男が、ほんとうは猥談という定型のなかでしか自分のセクシュアリティについて語ってこず、定型化されない経験については、言語化を抑制してきたのではないだろうか。

 

上野千鶴子、2010、『女ぎらい ニッポンのミソジニー紀伊国屋出版、p.33)

 

 

男同士の猥談は、女性を辱(はずかし)める内容を帯びる。女性を共通の犠牲者とするのは男同士の性的主体としての連帯感を深めるためで、下ネタを話せない男は「ウブ」「女女っちい」などと言われ男同士から「男」と認められない。男という性的主体への同一化は女を性的客体とすることで成り立つ(上野、前掲書、p.30)。

 

男同士の猥談を例にとってみよう。女を性的客体とし、それを貶(おとし)め、言語的な陵辱の対象として共有する儀礼トークが猥談だ。下半身ネタを語ればすなわち猥談になるわけではない。猥談には作法があり、ルールがある。それは自分がいかに男として「性的主体」であるかを相互に確認する儀式である。

 

上野千鶴子、2010、『女ぎらい ニッポンのミソジニー紀伊国屋出版、p.32)

 

 

 

男は性の話を猥談として生産し消費する。性の言葉は男性市場で流通するものである。猥談は、女性の主体性を無視して、女性を男性の性欲の客体として位置づけることで成り立っている。

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

3.猥談はセクハラとなる

 

対象を性的に侮辱し尊厳を貶める言動はセクハラとして非難されるべきである。そのような猥談は「人権侵害となるワイセツ」と位置づけるべきだ。なにが侮辱であるかはその言動がなされた文脈で決まる。

 

永田えり子(1997)『道徳派フェミニスト宣言』(勁草書房)では、セクハラを「尊厳への侮蔑」としている。

 

 永田(1997)の、セクハラは「性に関わる公認されていない被害」であると定義でき、見られる、見せられる、言われる、聞かされるなど公認されていない権利侵害というのはもっともだ(p.72)。

 

【セクハラの例】(永田えり子(1997、p.60-62)より一部参照した)

 

◯触られる

→性的関係の合意がないのに、性的な目的で身体に触ることは性暴力である。

 

◯見られる

・上から下まで品定めをするようにじろじろ見られる

 

◯見せられる

・テレビなどで水着姿の女性が写ったり、胸やお尻にズームすること。

・職場にヌードや媚びたポーズのポスターが貼られている。

・ワイセツとされる言葉・画像・動画をみんなが見えるようにする。

 

◯言われる

・「男出入りが激しい」「ふしだら」

・「いくら?」「どうせ遊んでるんだろう」

・「女の幸福は結婚だ」

・強姦事件で。警察官がニヤニヤしながら「それで?それから?どんなふうに?」と被害者に聞く。「16歳ならたいがい経験している」「女の子がイヤというのはいいということだ」など言われる。

 

◯聞かされる

・買春体験など、性的な体験の自慢話を聞かされる。

・宴会や集まりなどでワイセツな話をする。

・周りに聞こえるようにワイセツな話をする。

 

 セクハラをするということは相手を人間と扱わない行為なのだ。

  

すなわちこの手のセリフや失礼な視線などには「私はあなたに対して最低限のマナーすら守る価値もないと考えている」という宣言がメッセージとして含まれていることになる。そなわちこれら(セクハラ)は「尊厳に対する侮辱」なのである。

 

永田えり子、前掲書、p.74)

 

 

 

道徳派フェミニスト宣言

道徳派フェミニスト宣言

 

 

 

 

4.性的侮辱に陥らない性の語りを

 

女性が性について語ったり表現すると、「淫乱女」「ビッチ」などという言葉が男から投げつけられる。女性による性の語りは性消費の対象とされるか、汚れたものとして貶(さげす)められ、侮辱される対象となる。

 

 

lite-ra.com

 

AV女優・作家の紗倉まなが「週刊プレイボーイ」(集英社)2018年2月12日号に掲載された落合陽一との対談のなかで、こんな驚きの証言をしたのだ。

 

「一番イラッとすることは、何を言っても『肉便器』って言われることですね」


「以前言われたのは、『おまえいろいろ物事を多く語って、まるで文化人気取りだな』みたいな。『肉便器は黙って脱いでろ』って言われたことがあって」

 

(貼り付け記事より引用)

 

 

性表現をする女性に対して女性器名などの言葉を投げつける男がいる。そういう男は、女性を自分の性欲の客体としてしか捉えてない。性的選択を自分の意思でおこなう性的主体としての女性を認めない。

 

 「尻軽女」扱いは、女性に性的自己決定権を認めていない、すなわち選択主体から排除することの宣言である。

 

永田えり子、前掲書、p.74)

 

 

女性に対する「オトコと遊んでいるでしょ」などのセリフについても、男は女性を「自分とセックスする客体」としか見ていない。やはり、自分の性欲の対象として女性を従属させようとする。

 

他の男と「やっている」ことが実証できれば、公理によって自分も「やれる」はずなのである。すなわちこのセリフは、性交しているかどうかを女性の側が選択しているということを捨象して(あえて無視して)はじめて出て来るセリフである。

 

永田えり子、前掲書、p.74-75)

 

セクハラや強姦を告発した女性が、性的な侮蔑の言葉にさらされる光景もよく見る。性被害にあって性について話そうにも、男から性的侮辱の対象とされてしまうのだ。

 

性の話は、男によって猥談に貶められて消費されてしまう。特に女性は「異議申し立て」も含め、性の言葉を発しにくい。

 

何がワイセツであるかは社会的文脈により決まると冒頭に書いたが、猥談とそれによる被害であるセクハラも文脈に依存する。猥談は、対象の性的主体性を否定し、対象を侮辱する文脈で発せられる「人権侵害となるワイセツ」だから悪いのである。

 

「性の解放」は女性も性について話すことを推し進めた。それまで性の客体としてしか語ることができず、行為することができなかった女が、性の主体として乗り出してきている。しかし依然、女性の性の語りについては男性側からの抑圧の対象となり、侮辱され性消費の対象とされてしまう。

 

男による性の語りも猥談へと疎外されている。

 

私たちは、侮辱を受忍するのを拒否し、侮辱とならない性の語りをしていくべきだ。

 

人を侮辱で傷つけない「性の解放」を!!

 

 

 

かわいく見せたい欲求と「男らしさ」

「男としての行動をやめたとき、僕は男でなくなるのだろうか?」(No.968)

 

クリスチャン・ザイデル(2015、長谷川圭翻訳)『女装して、一年間暮らしてみました。』(サンマーク出版Kindle番)を読んでみた。

 

 

女装して、一年間暮らしてみました。

女装して、一年間暮らしてみました。

 

 

 

 

私は、女装までは行かないが、かわいい服を着たいし、綺麗に見られたいという欲求がある。大学に入学した18歳くらいから、そういう欲求があったようだ。大学生時代は花柄の服や、ピンクやパープルなどカラフルな服を着ていた。

 

 

学生時代の服装を載せてみますww

 

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なお、大学院生になってからは服装の派手さは抑圧していた。卒業論文の研究でつまずきを感じてから、大学院時代におけるプレッシャーにより、うつ症状はじめ自己肯定感が一気に低下し、能力も何もないのに外見で目立ったことをしてはいけないという抑制が働いた。

 

目立ったことをして、叩かれたりしたくなかった。「出る杭は打たれる」が怖くなってしまった。

 

大学院生〜今までは地味でユニクロ的な服装であった。というか服装に全く気を使う余裕がなかった。

 

さて、最近はオシャレ欲求が高まり(笑)、以前のようにバラや花がらの服やカラフルな服を着たいという思いが強くなり(実際買った)、簡単な化粧にも関心がありBBクリームを買ってしまった!!

 

 

こんな服を買ったよ!

 

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私は30歳過ぎているミニオッサンなのに、かわいくなりたいとか綺麗に見せたいという欲求がある。

 

男がこういうことを言うと気持ち悪がられるが、この「キモい」という反応については後に述べよう。ミソジニー女性嫌悪)が関係しているようである。

 

 

 

このクリスチャンの女装の本の簡潔な概要は以下(訳者あとがき、より)

 

 

男性が女性として生活したら、心に、体に、そして生活にどのような変化が生じるのか、男性と女性とのあいだの垣根は一般に思われているよりも低いのではないか、という個人的な考えをもとに、著者が自分自身の身体を使っておこなったおよそ一年間の実験

(No.3394)

 

 

 

クリスチャンの女装の始まりは、冷える足元を何とかしたいと、デパートで女性用ストッキングを恥ずかしさとためらいを感じながらも購入したことから始まる。

 

私もストッキングまでいかないが、レディースの登山用服を買ったことがある。男性用よりも女性用の方が、色が鮮やかでかわいかったからだ。店員にどういう反応をされるか少しドキドキしてレジに持っていった記憶がある。

 

 

クリスチャンは女装をすることで、妻や友人から気持ち悪がられ、次第にみんな離れていったという。女性に見られ街で暴漢に襲われたこともあった。女装で窮屈さも感じたこともあったが、女らしくなることの快感もあったという。

 

男のファッションには多様性がない。服装は、軍隊や組織由来のものが多く、カラーも目立たないものが多い。

 

私も女性のファッションは多様で、色合いも鮮やかなものが多く、女性のファッションコーナーをチラッと一瞥し羨ましく思うことがある。

 

クリスチャンは妻のマリアにストッキングを履いていることを告白したら、絶句されたそうだ。

 

 

「あなた、本気なの?」マリアは呆然としている。

ストッキングをはいた僕の足を目にしたとたん、彼女の表情は凍りついてしまった。これまで信じ切っていたもの、当たり前と思っていたものに裏切られた、そんな表情だ。

男は強く、たくましくてはならない。ナイロンのストッキングははいてはならない。男とはそういうものなのだ。それなのに……。(No.117-124)

 

 

 

妻のマリアは言う

 

「でもどうして、よりにもよって女性用下着なの?変態チックなことをしたければほかにも方法があったでしょ?」

 

「ホント、みっともないわ。あなた、男でしょ?」(No.142)

 

 

 

クリスチャンは以下のようになった。

 

だんだん腹が立ってきた。誰もわかってくれないだろうと予想はしていたが、予想どおりの言葉が返ってきた。

 

彼女は「変態」「目立ちたがり屋」と言った。ほんの少し普通とは違うことをしただけで、そんな言葉でレッテルを貼ろうとする。普通でないとレッテルを貼られた者は、ほかの人々から隔離される。そこに交流はない。社会から締め出され、忘れ去られる。マリアとの会話で僕が感じたのはそんな不安だった。すべてを失う怖さ。妻を、そしてそれ以上のものも。ストッキングをはいて、ただそれを告白しただけなのに。(No.148)

 

 

ストッキングが―初めは単なる思いつきだったが―僕のなかにある壁を打ち破った。自由を感じた。男として、いや、人としての自由を。(No.326)

 

 

クリスチャンの女装の実験はますます進む。化粧、ペディキュア、スカート、ハイヒール、メーキャップ、乳房などなど。

 

日を追うごとに、「社会における男女の役割」について考える時間が増えていった。考えれば考えるほど、“男の役割”が人工的で不自然なものに感じられる。能力、成績、評価。そうした言葉が、僕も含め男たちを縛りつけている。(No.326-332)

 

 

テレビ業界で働いていたことから、僕はいやと言うほど男の醜さを目の当たりにしてきた。

常に他の人よりも気の利いたコメントを発し、機知に富む(あるいはそう聞こえる)ジョークを飛ばさなければいけない。誰もが実際以上に自分を大きく見せようと必死だ。そういう男たちを見るたびに僕は「痛々しい」と感じていた。腐った友情を捨てられない男や、自分と違う意見をもつ相手はこてんぱんいやっつけなければ気がすまないやつらも同類だ。そんな連中とは距離を置きたいと願うようになった。(No.338-344)

 

 

 

男らしく振る舞うことに息苦しさを感じたクリスチャンは、女装を通して「男らしさ」を考えていった。女性となり、自由度の高いファッションや化粧をすることで、解放された気分を味わえたそうだ。私もBBクリームをぬって肌がスベスベになったときは、なんだかテンションが上り、思わず自撮りしてツイッターに載せてしまった。 

 

本書でも書かれていたが、男性が女性のような格好をすると、「気持ち悪い」や「変態」と言われることだ。

 

私は先程写真で見せたとおり、学生時代に赤いバラの柄シャツや、原色のカラフルなシャツを着ていたのであるが、そのような服装に引いたり、茶化したりするのは男性が多かったように記憶している。

 

女性からは、「似合っている」とか「綺麗だね」とか肯定的な声をかけてもらったことが多い。

 

これは、ホモソーシャルな男社会のありようと関係しているのだろう。女性らしい格好をした男が生きづらさを味わうのは、「男」という規格から外れて居場所がなくなるからだ。

 

男が男たちから「オンナ」、「ホモ」と言われることがいかに侮蔑的意味をもつかを私たちは経験している。ホモ・フォビア(同性愛嫌悪)である。

 

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

上野(2010)によると、男の値打ちは男同士の覇権争いで決まる。男に対する最大の評価は男から「デキる」と認められることにあるという。

 

男同士の間で、男としての性的主体として認められることである。男は男同士の連帯から外れることを恐れる。それは、ファッションにおいても「男らしい」と認められる装いを強いられ、知らず知らずのうちに外的表現も抑圧される。

 

私にあるのは、ただただ、少し綺麗に見せたいという欲求である。私は「男らしさ」とかいう基準には興味がない。ファッションにおいても性格においても。

 

男はこういうファッションをすべきだという空気に抑圧されずに、自分の好きなようにかわいいファッションを目指していきたい(オッサンで、顔が不細工なのはゴメンナサイ)。

オス負け犬の「愛」

1.「愛」は性的交流を必ずしも伴わない

 

性愛とは「自分が他者の身体を必要とする(欲する)」という現象橋爪大三郎、2017、『性愛論』河出出版、p.18)と言われる。性的志向の対象となる相手と話したい、手を握りたい、触れ合いたい、そして心でも繋がりたい、そのような欲求が性愛である(異性愛者にとっては性愛の対象は異性となる)。心は見えない。だから心が宿る身体を欲するようになるのだという。

 

私は、「愛」について性愛と異なる定義をしておきたい。「愛」は友人、家族など性的志向の対象とならない者へも抱く感情。親密性とも呼べる。心の通じ合い、引き合うものであろう。自分の正直な心でつながっていたいという感情に基づく。

 

しかし、私たちの社会は、人間関係の中でも「性愛」でむすびつく関係を一番深く価値のあるものと位置づけ、結婚という制度的な優遇も与えている。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

「性愛」関係にあることは「愛」があるからだという前提が想定されている。

 

しかしながら、「性」が満たされても「愛」が満たされないという状況は往々に生じる。

 

結婚をしていて性的なパートナーがいても、「私のことを理解してくれる人はいない」、「誰からも必要とされない」という感情をいだくのは誰にも愛されていない、もしくは、愛が感じられていないと思うゆえだろう。

 

 

2.「愛」と「性」が一体となった近代

 

婚姻率が90%台後半であった「全員結婚社会」(落合恵美子)では、ほぼ全ての男女がペアになれた。1950〜60年台の男性の生涯未婚率(50歳までに一度も結婚したことがない人の割合)は1%台であった(2015年は男性23.37%、女性14.06%、データは国立社会保障・人口問題研究所)。

 

貞操観念の強い時代では、結婚して男女はセックスをするようになる(婚前交渉・結婚初夜などの言葉が存在した)。そこでは「愛」があったのかは疑わしい。

 

「全員結婚社会」とは、男にとってはだれにもひとりは女が配当される社会、女にとっては結婚しなくては生きていけない社会上野千鶴子(2013)『女たちのサバイバル作戦』文藝春愁)。

 

男女の経済格差が今以上に大きく女性は男性に経済的に依存せざるをえない状況にあった。高度経済成長時代も女性にとって結婚は「永久就職」であり、生存がかかっていた。

 

すべての男に女があてがわれる社会では、女性は男に従属する存在として犠牲になった社会であった。女性は夫からの人権侵害や暴力に耐え忍んできた。男の独りよがりで暴力的な性行為にも耐えてきてきただろう。

 

1960年代には恋愛結婚が見合い結婚を上回るようになる。近代は「愛」と「性」と「結婚」が一体となったロマンティック・ラブ・イデオロギーに支配されたが、間もなく、婚前交渉が当たり前となった1970年代から「性」と「結婚」の結びつきは切れた。しかし、結婚が恋愛によってなされるものへと変わり、恋愛の価値はますます高くなり、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは猖獗(しょうけつ)をきわめた。「愛」と「性」の結びつきは強固になった。それが近代を支配する性愛観である。

 

恋愛の価値が高まる時期は、都市化が進んだ時期であった。向都離村の人口移動によりムラの共同体生活から都市の個人生活へと移った。個人個人はバラバラとなり、人の絆は所与のものではなく選び取るものになった。自立し孤独になった個人は「愛」への渇きを深め、ますます惹きあう。

 

恋愛病は、個人になった近代人の宿痾(しゅくあ)のようなものである。ひとりになった。だからひとりではいられない。ひとりになったことない人が、恋愛を求める理由はない。

 

上野千鶴子(1998)『発情装置』筑摩書房、p.84)

 

 

 

 

私たちは孤独を選んだと同時に、誰かから「愛されたい」とも願っている。そして今では、身分や肩書ではなく「ありのままの自分」、つまり「個人」としての自分を愛されたいと願ってしまった。

 

恋愛病は近代人の病いだ。娘も妻も「恋愛したい」と渇くように思い始めたとき、彼らはやっと「個人」になったのだ。男も「愛されたい」とグラグラした思いを持ち始めた時、やっと男という役割を脱ぎ捨ててタダの「個人」になったのだ。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.85)

 

 

3.「性の解放」は愛への渇きの救いにはならない

 

近代はロマンティック・ラブ・イデオロギーが「愛」と「性」を一体のものとしてきた。「愛」があるからセックスをする。しかし今では、セックスは「愛」からも分離してしまった。今日では、セックスはできても「愛」が得られない状況が生まれる。

 

セックスがこんなにお手軽に手に入るようになったいま、わたしたちが飢えているのはカネでも肉体でも贖えない「恋愛」だけだからだ。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.83)

 

 

女性が性的自由を獲得することで「性の解放」は進んだ。「女性は愛がないとセックスをしない」という神話は崩れ去った。女性側の「性の解放」が進むと同時に、男性側も多くの女性とのセックスを経験できることになる。セックスは純粋な快楽行為となりつつある。セックスによって愛(≒人格的なつながり)が深まるという考えに囚われた人は、セックスによって裏切られる思いをするのかもしれない。人との人格的なつながりは「性」により作り上げられると信じる者は、セックスを重ねても愛への渇きだけを深めるという逆説が生じる。

 

「性」と「愛」の結びつきを特権化した近代のエートスは未だに支配的だが、「性の解放」が進み、「性」へのアクセスが容易になったことで、「性」は獲得できても「愛」は得られないという落差が生じている。

 

非モテ」という言葉は、単にセックスができないことを指すのではない。「愛」が得られない状況を指すようになっている。

 

 

実際に、恋人がいなくても、別に悩まず、幸せに、ごく普通に日々を過ごせる人もいる。逆に、恋人や配偶者がいても、つねに非モテ意識に悩まされている人もいる。多くの女性とやりまくっても本命から愛されず虚しい、という人もいる。

 

杉田俊介、2016、『非モテの品格』集英社新書、p.92)

 

 

  

「100人の女を抱いても、1人の女から愛されなければ、それは非モテである」というような小谷野敦のような言葉も論壇で席巻している。

 

ナンパ師やヤリチンは、「愛」の無いセックスをたくさんおこなうが、最終的には「愛」のある関係を求めるようになる。フリーセックスという非近代の性行為に走りつつも、「性=人格の結びつき」を求めるという近代への回帰をおこすのである。しかし、純粋な「愛」の関係を築き維持するのかがいかに難しいかを気づかざるを得ない。

 

「性」には「愛」が必要だというコードはやはり支配的である。

 

さまざまな性行動に対する是非を定める基準として登場してくるのが、愛やコミュニケーションにもとづいた関係性、すなわち親密性を有しているかどうかが決定的に重要だとする「親密性パラダイム

 

 (赤川学、1999、『セクシュアリティの歴史社会学勁草書房 、p.375)

 

  

親密性パラダイムは、性=人格論が性欲=本能論を凌駕するために編み出した最強の言説であり、多くの人にとって、愛や親密な関係性は理想郷とされているからだ。それはたしかに耳当たりがよい言葉だ。しかし親密性ばかりが強調されると息苦しくもある。親密でない性、愛のない性を否定するという点に関しては、親密性パラダイムはファッショ的ですらあるからだ。誰もが愛や親密性を求めて生きなければならない社会。それを窮屈に感じるのは、私だけであろうか。

 

赤川学、前掲書、p.390)

 

 

「性に関する苦しみの原因は、性に愛がないからではなく、性には愛がなければならないとあおっていること自体にあるのではないか」

赤川学、前掲書、p.390-391)

 

 

セックスをいくらしても心が満たされない。「愛」=親密性が感じられないから心から充溢できない。そして嗜癖として性行為に溺れてしまうという悪循環にも陥ることになるのだろう。

 

 

4.性愛を相対化する

 

「童貞が恥」だという意識も、自由恋愛が社会に定着し、セックスができない男性が増えたから生まれたものであろう。渋谷知美によると、80年代以降に童貞に対して好奇のまなざしが向けられ、童貞が恥じらいをおぼえるようになったのは、恋愛とセックスが強固に結びついている社会であるゆえだという(渋谷知美、2003、『日本の童貞』、文春新書、p.221)

 

 

 

必要なのは、性を私的領域におしこめることではなく、何か特定の言説が力を持たないように、より多くの性にまつわる言説を公の場であみだしていくこと―つまり、オルタナティブな性への干渉を提示していくことである。

 

渋谷知美、2003、『日本の童貞』文春新書、p.224)

 

  

童貞がこんなにイシューになるのも、セックスに対して過剰な意味付与がなされているためである。セックス=愛の最上級表現という近代のロマンティック・ラブ・イデオロギーが支配している中で、非モテが苦しみを感じるは「愛=セックス」という性愛幻想を意識してしまうからであろう。

 

 

性の自由市場が成立し、オナニーする男・童貞が「もてない男」、処女が捨てるべき厄介物とされるような社会にあっては、この苦しみは増えることがあっても減ることはないように思われる。

 

赤川学、1999、『セクシュアリティの歴史社会学』p.391)

 

 

 

以下のブログで学んだことであるが、「他者とつながる手段として、セックスが特権化される理由はない」。オナニーとセックスは序列を競うものではない。オナニーを相手がいない「恥ずべき」性行動として貶める必要はない。

 

 

minadt.hateblo.jp

 

 

 

世の中は「恋愛は素晴らしいこと」であると喧伝し、「恋愛ができない人は人格欠落者である」と多くの人は考える。異性にモテない自分に対して否定的になり鬱勃した感情に苛(さいな)まれることになる。私たちは、恋愛へと駆り立てる社会の装置に支配されているといえよう。

 

一番にいいのは、恋愛・セックス・結婚などの性愛に対する価値が相対化されるべきなのだ。人との話において「恋バナ」は一番盛り上がり、みんなが楽しむであろう共通の話題とされる。「恋バナ」ができないと人としての経験値が低いとしてバカにされてしまう。恋愛至上主義が支配する社会は、恋愛弱者にとって息苦しい社会である。

 

5.「愛」について

 

オス負け犬がとる戦略は否認、逃避、嗜癖の3つだという(上野、2013、前掲書p.198)。非モテに関して言うと、「みんな自分の本当のよさを知らない」(否認)、「僕なんて、どうせ人から必要とされない」(逃避)、と言ったり、「酒やギャンブル、ゲームなど即効的なものに依存する」(嗜癖)などであろう。いずれも「男らしさ」を守るための防衛的反応である。

 

しかし、愛されたいという気持ちを押しやったり誤魔化したりせず、「弱さを抱えながらも生きる」という選択もありではないか?

 

たとえ愛や承認を得られず、誰かから抱きしめられず、ルサンチマンや自己嫌悪をずっと解消できなくても、それらを抱えたまま、しかしそれを他人や自分への過度な暴力にしてしまうことなく、こじらせることなく生きていく、そこそこ幸福で楽しんで生きていく、そうした生き方もまたありうるのではないか。

 

杉田俊介、前掲書、p.128)

 

 

しかし、人間には承認欲求が存在する。私は承認欲求が恥ずべきものだとは考えない。生きる上で、自分を認めてくれる他者は必要だからだ。

 

何かしらアクションをおこしていれば、人との関わりはできるのではないか。SNSでは自分と価値観なりが合う人も最低1人は見つかるだろうし、その場から去れば惜しまれる存在くらいにはなれそうだ。

 

自分を気遣ってくれる人は見つかるはずだ。苦しい時に、そーっと声を掛けてくれる人も見つかるはずだ。

 

過剰な「愛」を求めすぎると、自分も相手もしんどくなる。どんな「愛」のあるカップルでも溶け合うことはできない。付かず離れずのゆるい「愛」という形態でも満足できる関係をつくっていければと願う。

 

 

 

 

【取り上げた文献】

 

性愛論 (河出文庫)

性愛論 (河出文庫)

 

 

 

 

 

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

 

 

 

 

 

セクシュアリティの歴史社会学

セクシュアリティの歴史社会学

 

 

 

日本の童貞 (文春新書)

日本の童貞 (文春新書)