生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

野草を食べよう

春になると野山に野草が芽吹きます。

 

みんな雑草と言って目も向けないけど、農薬も何もつかっていなくて健康によい植物です。

 

大原扁理さんも野草をとって食べてますよね。

 

野草を上手くゲットできれば、生存能力が上がると思います。

 

以前、野草のプロのおばちゃんにレクチャー受けて、京都の加茂川で野草を摘んで食べました。その時の写真が以下です。野草で豪華な料理が出来上がります。

 

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そんなに詳しくならなくても身近に野草はたくさん生えています。例えば、そのまま食べるのが美味しいスイバ、おひたしや白あえにできるヨメナとか、硬くて苦いものは天ぷらに!!

 

2017年9月〜10月のお遍路の野宿旅行の時には、サラダを買わず、ミネラルとビタミンは全て野草でまかなっていました。

 

道を歩いていて、野草を見つけたら、摘み取ってムシャムシャ食べます。

  

さて、以下はこれまで食べてきた野草を紹介します。

 

 

 

◎(左)人参葉、(右)カラスのエンドウ

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人参葉もカラスのエンドウも茎が硬く苦いので天ぷらにします。美味しいですよ!!

カラスのエンドウは沸かしたお湯に入れるとお茶になります。美味しいです。

・人参葉の天ぷら

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・カラスのエンドウの天ぷら

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かき揚げにしてもGOODですよ!!

 

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 ◎ヨメナ

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春になったら芽吹き始めます。春菊の仲間でほろ苦いです。私はおひたしや白あえで食べます。

 

ヨメナのおひたし

 

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ヨメナの白あえ

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◎ハルジオン/ヒメジオン

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 ヨメナに似ています。葉っぱは苦いですが湯がけば大丈夫です。僕はお遍路中に道草でとって食べていました。

 

 

タンポポ

 

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タンポポのおひたし

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どこにでもある可愛いタンポポも食べれます。

 

 

 

◎スイバ

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スイバも道路脇とか、空き地にたくさん生えています。冬以外は青々しています。これは摘んで生で食べるのがいいです。茹でたりすると酸味が変な具合になって、吐くほどまずかったです(というか吐いた)。ミネラル豊富です。

 

 

 

◎クズの葉

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葛の葉はそのまま食べましたがマズイです。芽を天ぷらにしましょう。

 

 

 

ツユクサ

 

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ツユクサもどこにでも生えてますね。6~9月くらいに花は咲きます。花の部分を取って葉を食べます。僕はお遍路中に生でムシャムシャ食べてました。おひたしもいいかもしれない。炭水化物の吸収を抑える効能があり、ダイエットや糖尿病にいいですね。

 

 

◎オオバコ

 

公園とかによく生えてます。おひたしや天ぷらにしたら美味しいらしい。

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★★ラーメンとかに入れるとおいしい★★

 

キャンプとか野宿とかで調理が面倒くさい時に、カップラーメンとかに野草を入れるだけでお手軽に栄養がとれる。

 

タンポポツユクサ、山菜を入れたカップ

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◯即席ラーメンにタンポポとオオバコとヨメナを入れる

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◎笹の葉茶

 

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ヤブに生えている笹の葉をお湯で沸かすとおいしいお茶になります。笹は一年中いけますね。

 

 

 

では、みなさんも野草に興味があればいろいろ摘んで図鑑で調べて食べて下さい。

 

性欲は飼い馴らせるか?

1.発情するのは本能か?

 

「発情のしくみは生理的なもの以上に文化的・社会的なもの」

 

上野千鶴子(1998)『発情装置』筑摩書房、p.13)

 

ミニスカに興奮する者は、ミニスカを履いてるのが女性であっても男性であっても(それを男性だと知りながら)反応するのだと言われている(森岡正博(2005)『感じない男』筑摩書房)。つまり、ミニスカという「女性性の記号」に欲情して反応しているのだ。

 

これは、性欲が本能ではなく、文化的につくられるということがよく分かる事例である。

 

「性豪」と呼ばれる男性を思い起こせばよい。かれらは「モノにした」女の数を誇るが、逆に言えば女と言えばだれにでも発情するほど、あるいは女体や女性器に、あるいは女性性の記号やパーツに自動反応するほど、条件づけされた「パブロフの犬」であることを告白しているのも同然だろう。かれらが反応しているのは、女ではなく、実のところ、女性性の記号なのだ。でなければどんな女でも「女というカテゴリー」のなかに溶かしこんでしまえるわけがない。

 

上野千鶴子(2010)『ニッポンのミソジニー紀伊国屋書店、p.8)

 

私たち男は、発情装置の溢れるこの社会に生きる中で「女性性の記号」に脊髄反射的に反応してしまうよう仕向けられてきたのではないか?

 

「男ならオンナに欲情するものだ」という文化的な圧力に不断にさらされ、それを本能だと勘違いしているのかもしれない(男なら子どもの時から、エロに関心をもつことが男らしいと、仲間から刷り込まれてきた)。

 

2.性犯罪は性欲が原因ではない

 

性欲があるから性交するわけでない。

 

人は、さまざまな理由から性交する。他人を支配したり、陵辱したり、愛撫したり、所有したり…‥するために性交する。強姦者が性欲から強姦するわけでないことは、よく知られている。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.115-116)

 

以下の記事の中で、男性学研究者の伊藤公雄は、「性暴力の背景にあるのは性欲ではなく支配欲である」と言う。斉藤章佳氏の『男が痴漢になる理由』では、「痴漢の半数が勃起していない」という調査結果を踏まえ、「性犯罪の動機を性欲だと決めつけることは、暴力の本質を見誤る」と指摘されているという。

 

www.buzzfeed.com

 

 

近年の研究では、レイプとは社会的弱者の立場にある男性が、自分の攻撃性をさらに弱い相手に向けて発動する行為だということがわかっている

上野千鶴子『発情装置』、p.71)

 

 なお、強者男性の強姦は「犯罪化」されにくい。

 

はあちゅう事件であったように、性暴力をおこなう者は職務上の優位な力関係を利用して女性へ性行為を強要する(地位利用型の性暴力)。

 

女性は上司などの男性からの性的誘いを断れば、その上司との関係が悪くなり、自分のキャリアへの支障が出る、あるいは職場に居づらくなると考えてしまい「ノー」と言えない状況に追い込まれる。労働権を人質にとられていると言ってよい。また、性交後も女性は自身が被る不利益を考え、誰にも打ち明けられずに黙ってやりすごしてしまう。何もなかったこととして「犯罪化」されない。

 

集団強姦はどうか?2003年の早大スーフリ事件を受けて、当時自民党太田誠一議員は「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」と述べて強い非難をあびた。

 

スーフリ事件の集団強姦には、早稲田大学の学生はじめ、東京大学、慶応大学などエリート学生がケダモノ君になった。2005年には京大アメフト部の部員が女性を酒に酔わせ集団強姦した事件もあった。

 

エリート君でもケダモノになる性欲とは本能であろうか?

 

彦坂諦は『男性神話』(1991)のなかで、戦時強姦の目的は男同士の連帯を深めるため、と答えている。こんな状況でも男は勃起できるものだろうか、と素朴な問いを立てる必要はない。こういう状況で勃起できることが、「よぉーし、おまえを男と認めてやる」ことの条件なのだ。こうして女を共通の犠牲者とすることが、男同士の連帯のための儀式となる。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』p.30-31)

 

 

集団強姦は、「女をモノにする」ことで得られる男同士の性的主体(と認めあった)としての連帯感を生み出すためになされる。自分も強姦に加担することで、男同士から「度胸がある」と〈男らしさ〉が認められ連帯感を得る。

 

男同士の下ネタ(猥談)も男同士の連帯感を深めるためで、下ネタを話せない男は「ウブ」「女女っちい」など言われ男集団の中で劣位におかれる。男が男に対して「オンナ」、「ホモ」と言うことがいかに侮蔑的意味をもつか私たちは経験している。

 

男という性的主体への同一化は女を性的客体とすることで成り立ち(上野、2010、p.30)、男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった(上野、2010、p.28)。

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

3.性欲によって肯定される売買春

 

「男の性欲は女よりも強いから売買春は必要悪だ。売買春を無くしたら、性欲をもてあました男がどんな不届きな行為に及ぶかもしれない。強姦などの性犯罪が増える」などと言われる。

 

「射精は男にとっての生理」だの「性欲は本能だから仕方ない」だのの理由で売買春が肯定されるが、そんなものは小倉千加子が『セックス神話解体新書』(1988)で論破しているとのこと。

 

『解体新書』を説明した牟田和恵(2001)によると、

 

人は本能によってセックスするのではないし、いわんや性欲が満たされないからといって、強姦に走るわけでもない。排出されなかった精子は体内に吸収され、「溜まった」のに発散できないからといって爆発したりはしない。そこで「暴発」的な行為に走るとすれば、それはその行動のレパートリーをしっかりと学習した結果に他ならない。

 

だいたい、売買春の実態を見れば、既婚者が大半で(既婚者しか買わないとすれば売買春はじめセックス産業はなりたたないだろう)、セックスパートナーがないから買春するわけではない。売買春は、交接しそのことによって生理的欲求を満たすためだけに買春するのではなく、売春女性とのセックスに付随するイメージを買うのだ。現実に取り引きされるのは性サービスであるかもしれないが、観念の上では、買春とは「セックスを買う」のではなく、品のよろしくない表現でいうように、まさに「女を買う」行為なのだ。

 

(牟田和恵(2001)『実践するフェミニズム岩波書店、p.177)

  

金は権力であり支配の手段である。「女を買う」とは「女を支配する」ということである。男は、性欲という名のもとに女を支配しようとしているに過ぎないのだ。

 

男が「女を買う」のは、経済的取引であるだけではなく、力関係を象徴する。手に入れることの難しいはずの、禁止されているはずのものを金銭という権力を介して入手し相手の性を支配する―その充足、達成の快楽が性の欲望を形作っている。

 

(牟田和恵『実践するフェミニズム』、p.188)

 

 4.性欲はコントロール可能か?

 

食欲と違って性欲は、満たされなかったとしても死ぬわけではない。男はたまったら出すというが、なにも女性器に出す必要はない。使わなければポテンツが低下する「非作業性萎縮」もある。

  

一ヶ月はおろか一年以上、さらに数十年にわたって「セックスがない」人々が、十分に健康であるばかりか精神的にも充実した生活をおくっている調査もあるという(マイケル、ガニオンなど(1994=1996)『セックス・イン・アメリカ日本放送出版協会)。

 

性欲とは男の場合、生理的欲求ではなく、「女性性という記号」に反応するもので、その記号は文化的・社会的につくられたものだ。むらむらするのは大脳であって、性器ではない。

 

フーコーによれば、性は「自然」に属する本能的なものではなく、性は社会や文化の影響を受けて変化し、わたしたちが思っている以上にその変化のスピードが速いという(上野千鶴子(2016)『<おんな>の思想』集英社文庫)。

 

例えば、テレビでも見たことがある光景だが、社会によっては、服を着ない所もあり、そういう所では女性は裸で乳房を出して外を出歩いている。それが当たり前の光景なら男はいちいち乳房を見て欲情しない。江戸時代には人前で授乳したり混浴なども一般的で、乳房に対する関心は低いものであったという。胸を隠すという習俗は日本では比較的新しいものだという(ブラジャーの普及が乳房の性的価値を高めたとも)。

 

何がエロいのかは歴史的に変わり、発情の対象である記号は文化的につくられるものだ。性欲は文化的につくられ学習されて身についたものであるから、性欲は学習によって飼いならすことが可能ということになる。

 

自分が何に欲情するのか、それはどのような文化から学習されたのか、つまり、発情の機序を暴くことができれば、エロいとされることに欲情しなくなるのだろうか。

 

 

【文献】

 

 

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

実践するフェミニズム

実践するフェミニズム

 

 

 

 

結婚制度を問う

 

1.結婚制度は差別を生み出す

 

結婚制度の問題を述べる。

結婚こそ既婚者と非婚者の間に差別を生み出している。

人間関係にはいろいろあるが、性愛で繋がる関係やそこから生まれる親子の関係こそが最も深い人間関係であるという考えが支配するのはなぜなのか。

 

そもそも、人類は子孫を残し存続すべきだという論拠もわからない。地球に大きな環境的負荷をかける人類が滅ぶことは、他の生物にとって願ったり叶ったりのことであるかもしれない。


さらに、「性愛で繋がる二者とその子ども」だけを家族の単位として、制度的な優遇が与えられている。

 

結婚しているというだけで、税金の控除を受けたり、国民年金第三号被保険者として年金保険料が無料になったりする。

 

いかに仲の良い同性の人間関係であっても、扶養されていることで国民年金が無料になることはない。

 

その他にも結婚による利点とされるものは、シングル単位社会を提唱するの伊田広行によると、

 

「死んだ人の遺産を相続する権利を獲得できます。相続税贈与税上の優遇もありますし、子どもを嫡出にできる、性行為をすることが社会的に承認される、重婚・姦通・不倫を排除(批判)できる、離婚妻・寡婦に保護がある、住宅獲得の際に有利になる、慶弔金(休暇)、結婚手当(休暇)、銀婚式賞与、子どもへの入学・進学手当、出産手当、家族入院手当などを得られる、介護や病院つき添いの権利(休暇、休業手当金)があるなどのさまざまな利点があります」

 

伊田広行、2008、『「まだ結婚しないの?」に答える理論武装』、光文社新書、p.146)

 

 

「まだ結婚しないの?」に答える理論武装 (光文社新書)
 

 

「これらは裏を返せば、結婚制度に入っていない者への不利益(差別)とつながっている」(ibid、p.146)のである。

 

「結婚して有利になるということが、同時に結婚しない人を不利にしているということ」(ibid、p.145)を意識しておかなければならない。

 

また、結婚によって理由のない社会的信用も生まれる。結婚は人格と結びついているとされる。結婚して家庭をもつ者が一人前として社会的に高く評価され、結婚していない人が半人前と言われたり差別されるのである。

 

結婚していても、人間的絆が切れて破綻した二者関係もたくさんある。結婚した者が人格的に優れているなんて保証はない。

 

 

2.経済と権力により強制される異性愛主義

 

M.ファインマンの言うとおり、私は夫婦や男女カップルを否定しているわけではない。それが、制度的に保護され正統とされる特権的なかたちであることを問題としている。

 

同性愛者どうしには一部を除き結婚は認められていない。結婚には愛だけではなく、生殖が発生しないといけない。つまり、子どもという将来の労働力を生み出すから制度的に優遇するということである。このことから、結婚制度が資本制を支えてきたシステムだということがわかるはずだ。

 

そういったエコノミクスと人口増大の観点をベースに、男女の生殖をともなう二者関係を近代社会は人間関係における最上位の関係として位置づけてきた。これは、男女はつがいにならなければいけないという対幻想を生み、「強制異性愛主義」を導く。近代社会が強調した異性愛主義によって、生殖をともなわない同性愛が「異常」とされてしまうのである。異性愛主義は差別をも生み出しているのである。人間関係において優劣をつけるシステムであると言っていい。

 

 

3.結婚制度がなくなれば暴力を容易に裁ける

 

フェミニストは100年以上前から結婚制度が虐待と暴力の温床であると言い続けてきた。男性を妻子の上に君臨する一家の頭とみなす、不平等で権力支配構造を持つ制度がそうなるのに何の不思議もない。制度的遮蔽が取り除かれるなら、社会のあらゆる成員の相互関係を規制する同じ基準で、あらゆる行為を裁けるようになるだろう。

 

(M.ファインマン『ケアの絆』p.127)

 

 

例えば、夫婦間の暴力(物理的でなくても)や、一方的なセックスは、「夫婦だから多少は我慢すべきだ」と多くの女性が忍従を強いられることも多い。家族という「私領域」には外部の者が立ち入ることも難しかった。結婚制度がなくなれば、こうした行為を容易に告発し犯罪化して法で裁くことができる。

 

 

この見方による結婚制度廃止の実際上の意味とは何だろうか。結婚が法的地位を失うために夫婦間のセックスには強姦が成り立たないという抗弁が使えなくなる。さらに、一部の暴力行為を、“家庭内”暴力と表現し、家庭外の暴力に比べれば深刻ではないかのような言い逃れもできなくなる。あるいは、他人どうしなら許されないのに、家族だからと野放しになっていた行為について、性的関係にある一方から他方に損害賠償請求ができる法理すらつくられるかもしれない。相手を情緒的・心理的に傷つけることが、故意による不法行為とされ、(ストーカー行為などの)ハラスメント、言葉による暴力、心理的虐待を禁じる基準を、他人だけでなく性的親密関係者にも適用できることになるだろう。

 

(M.ファインマン『ケアの絆』p.128)

 

 

 

 

ケアの絆―自律神話を超えて

ケアの絆―自律神話を超えて

 

 

 

 

 

結婚制度により、結婚しない者が不利になるのなら、そのような現行の結婚制度は民主的ではない。暴力も「結婚」の名のもとに沈黙を強いられることもある。差別意識をまず無くすためにも、私たちの結婚に対する特権的意識が変革を迫られなければいけない。

 

次回は家族について話そう。

 

 

社会の役に立たない人間はゴミだと?

1.社会の役に立たない人間はゴミだという論理

 

発達障害者は社会にとって迷惑だから、子孫を残さないでくれ」、「障害者はゴミ」というメッセージが、ツイッターの質問箱を通して発達障害者当事者に送られていることが騒ぎになっている。

 

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以上の「障害者は社会の迷惑で、ゴミだ」という発言と、それに対する反論等を見ていて思う所があるので、ブログに書いておきたい。

 

 

 

まず、「障害者」とはそもそも存在するものではなくて、社会的に構築される。

 

マジョリティと相対的に異なり、その程度が甚だしかったり、生きるのに不自由がある者が、医療により「障害者」と名づけられる。社会が均質性を求め不寛容になるほど「障害者」は増える。

 

空気を読むことが求められたり、お笑い番組などの影響で会話の中に面白さやイジリなどの要素が求められたりと、コミュニケーションが複雑化して、それについていけない、耐えられない人たちが「発達障害者」や「精神障害者」と判を押されるのではないか、という見方もある(周りと同調できない人を「アスペ」と呼んだりするのに典型的)。

 

障害者はマジョリティの支配する社会では生きづらいので、公的サポートやマジョリティからの支援や理解を要請する。そこで、マジョリティと異なる言語コードをもつため軋轢をおこしたり、自立できない障害者に対して、「障害者は役に立たない」「社会にとって迷惑だ」というマジョリティ側の発言がよく露出する。

 

以上の発言に対して、「障害者も輝かしい実績をあげている」、「障害者も社会で役に立つ」という語り方で、障害者を肯定する流れが出てきている。

 

しかし、「社会で役に立たない者は必要ない」という発言に対して、「無用と思われているモノが実は役に立つ(人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり)」(荘子)とか、「種の中に多様性があるほうが、種の存続が保たれる」などという反論の仕方は、何かしら違和感を感じざるを得ないのだ。

 

「役に立たないと思われていた人間も、見る視点を変えれば役に立っている」という主張も、結局は誰もが社会の役に立つことが必要だという前提があるからである。

 

多くの場合、社会の役に立つこととは、富を生み出したり、富を生み出す者を支えたりする行為である。

 

私は、この市場経済において評価されるか否かで、人の存在価値が決まってしまうという根本的な選別的思考が問題だと考えるのである。

 

 

2.存在自身が無条件に肯定されることが必要

 

マルクス経済学での「労働」の定義は、有用つまり役に立って価値を生む人間活動ということです。ただし、この価値というのは交換価値、つまり「売れる」、市場に出してお金と交換できるということ

 

(落合恵美子(1994)『21世紀家族へ』、有斐閣選書、p.35)

 

一般的に「役に立つ人間」という言葉は、マルクスの言うところのお金を生み出す「価値のある人間」という意味で使われる。

 

発達障害者でいうと、ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブス、科学技術が富と結びついた現代ではアインシュタインなどは、「役に立つ人間」とされる。

 

「歴史に残る天才や社会変革を起こした人物は発達障害者が多い。発達障害者は社会に必要だ」という主張は、発達障害者は何らかの才能をもち、「社会に役に立つ」=「価値を生み出す」存在にならないと肯定されない、という危うい選別的思想を導き出すことに繋がりかねない。

 

障害者や生きづらさを抱えた人にプレッシャーを与えることになると思う。

 

例えば、ニートが自身への嫌悪感を込めて「自分は社会の役に立たない。お荷物だ」と言う。

 

この社会が市場経済の価値に支配されているから、「役に立たない」=「価値を生み出さない」存在として自分を蔑んでしまっているのだろう。

 

 

価値を生み出す有用なことをしなけらばいけないと私たちはプレッシャーを受ける。

 

存在自体が無条件に肯定される社会を目指すべきではないのか?

 

我々は、「この世に生を受けたからには、何か成さねばならない」という強迫の軛(くびき)から解放されるべきだ。

 

これは、障害者に限った話でなく、生きづらさを抱えた人にも当てはまる考えである。

「生きづらさ」を問い直す

1.「生きづらさ」は克服されるべき対象ではない

 

ニート、引きこもり、低所得生活などの情報を、いろんな媒体を見て思うのだが、いわゆる「生きづらさ」について、かゆい所に手が届くような情報が少ないと感じる。

 

ニートや引きこもりは、脱出すべき対象として、社会復帰できたハッピーエンドの事例ばかりが紹介される。

 

また、ニートや引きこもりを肯定する識者インタビューなども、識者自身が社会的に地位を得た人であるため、生きづらさについて語られても空虚感を感じることもあるだろう。

 

phaさんや大原扁理さん達が、社会に適応できない人がゆるい生活を送り、仲間たちと楽しく生活している様子を本で描いて、社会にオルタナティブを提示したことは画期的ではあった。

 

しかし、どうも社会に提示される「生きづらさ」への処方箋では、「生きづらさ」は克服されるか、楽しみに変えていこうという方向性しか示されていないようだ。

 

しかし、生きづらさを抱えた大抵の人は、彼らのように器用ではなく、つまらなくて変化のない日常を送っている。実際は苦しさの中でもがいている人が多い。

 

仲間もいないし、楽しみを見つけることもできない、あるいは、楽しんでいる余裕すらないのかもしれない。

 

「生きづらさ」は簡単に乗り越えられるものではないし、そのまま肯定されてよい。

 

 

2.灰色の生活でも仕方ない

 

逆に言うと、みんなが真似できない憧れの生活をphaさんたちが実現しているからこそ注目され本が売れるのだ。誰もが実践できる生活は憧れの対象でもなんでもなくなる。

 

しかし、生きづらさを抱えた人の多くは、不器用で、大した能力ももっていなく、思うようにいかない灰色の日常をおくっている。

 

残念ながら、そのような灰色の生活を描いた本はつまらないので売れないだろう。

 

つまらない生活は避けられるものとして価値を与えられてない。ネガティブなことは隠すべきことで無化されてしまう。

 

でも、生きづらい人は、つまらない生活を送っている他人の存在を知ることで、共感できることが多く、心の安定にもつながるのでは無いだろうか?そこから繋がりも生まれそうである。

 

3.「生きづらさ」をそのまま見せつける

 

生きづらい人には、楽しいニート生活とかの情報ではなくて、楽しくない、パッとしない日常を、何とかしのいで生きているという存在証明が必要ではないかと考える次第。

 

楽しい情報を見てると、自分のつまらない日常と比較して心がヘコんでしまわないだろうか?

 

生きづらい人には、むしろ逆に、人生を楽しめていない人の情報こそ価値があるかもしれない。

 

だから、つまらなくて苦しい日常を公開して、ブログを書いたりツイッターでつぶやいたりすることで、他の生きづらい人への貴重な情報を提供していることになりうる。

 

「私たちは、21世紀日本での生きづらさの中で、なんとか生きている」

 

私たちは生き証拠を発信している。歴史的資料を残しているのだ。

 

なので、生きづらい人は面白くなくても、どんどん自分の情報を発信していけばよいのでないか。きっと誰かの心の安定に寄与するはずだ。

遊動生活のススメ

1.定住化による暇と退屈

以前、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)のレビューを書いた。

 

それとも関連させて、今回は遊動生活のススメを書いてみる。

 

人類は人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた

が、1万年前(縄文時代)より定住生活を始めると書いた。

 

 

遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。

しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。

 

現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかについて、資本につけこまれないような暇の潰し方が必要であると説いた。いや、暇さえも楽しんでしまえという趣旨だった。

 

 カネを使わない暇つぶしの方法を見出すことは、phaさんや大原扁理さんなども提言していたことである。

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

 

2.定住に向かない人は遊動を

理論上は以上の通りなのだ。しかし、私みたいに暇つぶしが下手くそで、常に新しい刺激を求めてしまう、そういう落ち着きのない人間もいる。

 

そういう人間は、どう生きるべきか?

 

その一つとして、遊動生活を挙げてみたい。

 

ずっと同じところに住んで、同じ仕事を毎日やって、同じ面々と顔を合わす生活って、ウンザリしませんか?

 

現代社会では、一つの場所に定住し、学校や職場など一つの集団に属する。 しかし、集団のメンバーが長期に固定されると、そこには強者・弱者が生まれ権力関係が形成されるようになる。 学校や職場でのイジメなどが好例だ。

 

しかも、学校や企業などの集団は閉鎖的で内部が外からは見えにくく、いびつな人間関係がはびこりやすい。 どうしても風通しが悪くなってしまい、外部からは見えにくくなる。外部の監視が届かない集団で、メンバーが固定されると権力関係が生まれてイジメなどが発生する。

 

いびつな人間関係が形成されるのは、日本人が民主的な人間関係に無頓着だからであり、一朝一夕ではどうにもならない。

 

だから、一つの集団の同じメンバーといつづけることは危険なんだ。個人にできることは、集団から離れるくらいしかできない。いちいち、改革と言って人に説法をするのも面倒だろう。

 

人間関係はシャッフルしていく必要がある。

 

以上は、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書、2009年)のいじめ研究から得た知識に基づく。

 

いろいろな集団を渡り歩いていく遊動生活は、権力関係に侵されにくい。 嫌な集団に属することになれば、身軽に離れられるのが遊動生活のメリットだ。

 

考えてみろよ。短期バイトばかりやってたらイジメなんて起こらないし、嫌になってもすぐ辞められる。

 

 

たびたび、場所を移動するのも刺激になり、常に新鮮な気持ちを持ち続けることができて楽しい。

 

 

 

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 

3.遊動は本来あるべき姿

柄谷行人の『遊動論』(文春新書、2014年)によると、柳田国男も、定住化が権力関係を生み出したと書いていた。それ以前の遊動民の生活では富と権力の不平等や葛藤がないような社会が存在していたのではないかと書いてあった。

 

まだ、ちゃんと読んでないがな。笑

 

マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』によると、ジャングルで遊動生活をおくる未開人なんて、食材確保と調理で4時間しか生きるために働いてない。あとの時間は昼寝だ。

 

ジャングルの中に食材は豊富にあり狩りをして肉も食べれる。未開人の生活は貧相だと思われがちだが、実は豊かな生活が存在していた。

 

その未開人たちに、先進的な生活と現金収入を勧めるために農場で働かせたところ、仕事をやめてジャングルに戻ってしまったらしい。

 

それほど、遊動生活は気楽だったらしい。

 

毎日、10時間も働いてカネはあってもしんどそうに生活している現代人はいったい何なんだい??

 

 

 

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

 

 

 

石器時代の経済学 (叢書・ウニベルシタス)

石器時代の経済学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

消費社会における暇と退屈。

國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)を読んだ。

 

人類はいつから暇を手に入れ、退屈するようになったのか?

現在社会では、暇と退屈が資本によって搾取される。資本主義における暇と退屈との付き合い方を考えてみた。

 

●暇と退屈の誕生

 

p.71-

退屈は、人類の歴史の中でも比較的新しい現象だという。退屈は多くの場合近代と結び付けられる。

 

人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた。

 

ところが、1万年前(縄文時代)より定住生活を始める。定住生活の開始とともに退屈に襲われるようになる。

 

p.87-88

遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。

しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。

 

そこで、大脳に適度な刺激をかけるべく、高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体型や芸能などを発展させた。

 

縄文時代では、土器には使用するのに必要ないにも関わらず複雑な装飾が施されていたり、数々の工芸品がつくられた。

 

こうして、定住化による退屈の発生は「文明」を生じさせた。

 

●消費社会における暇と退屈

 

さて、資本主義が発達した社会において、人々の暇は新たな問題に直面するようになった。

 

マルクスの『資本論』に出てくるような時代には、人々は1日の大半を過酷な労働に費やされ暇や退屈はなかった。

 

p.23

長時間労働は依然深刻だが、先進国の人々は裕福になるとともに余暇を手に入れるようになった。

 

だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からないという問題が生じる。

 

 

 

p.34-38

パスカルの退屈論によると、人々は部屋でじっとしていられないから、退屈しのぎとして気晴らしを求めるという。

 

ウサギ狩りをする者は、ウサギを欲しているだけではなく、狩りをして退屈をしのぎたいのだ。

 

賭け事をしている人に金を渡しても、賭け事をやめないのと同じである。

 

p.17

ガルブレイスの『ゆたかな社会』(1958)によると、現代人は暇な時間の中で、自分が何をしたいのか分からない。そこで、広告屋などに「これが欲しいんでしょう?この趣味がいいですよ」と言われて始めて、それらのモノやサービスが欲しくなるのだという。

 

それまでの経済学の定説とは逆に、「ゆたかな社会」では、人々の需要は、供給側に操作されるのだ。

 

p.23

人々の暇と退屈に、資本主義がつけ込むのだ。文化産業が産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。

 

人々は暇の中で、退屈することを嫌う。だから、広告などに楽しみを提示されると、それを購買してしまう。

 

p.142

これからわかることは、消費社会は退屈と強く結びついていることだ。

 

p.145

ボードリヤールによると、現代社会において我々は物に付与された観念や意味を消費している。

 

例えば、どこかの有名なレストランで料理を食べた時、そこで提供された料理を味合うとともに、「有名なレストランに行った」ということで満足を得ているのだ。

 

このような、いわば記号の消費には限界がない。いくら消費しても満足がえられず、消費を続けてしまう。それでは、資本の思うがままになってしまう。

 

●暇と退屈の扱い方

 

現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか?

 

 

資本は退屈につけ込んでくる。資本のとりことならない楽しみ方が必要である。つまり、何でもモノやサービスを買って満足を得たり、退屈しのぎをしないことである。観念の消費なんて終わりがない。

 

知人と、これについて少し話をしたが以下のような楽しみ方がいいのではないかという話が出た。

 

・読書をする

・芸術活動に打ち込む

・仲間とだべって時間を過ごす

・散歩をする

 

カネを使わず素朴にできることを大切にしていきたい。これは、phaさんや大原扁理さんなども提言していることである。

 

國分功一郎氏が、どこかのブログ記事で語っていたのは「暇な時間をぼんやりと過ごす」ことの大切さである。

 

氏の近著『中動態の世界』の紹介でも書かれていたが、「暇な時間をぼんやり過ごす」ことは、依存症や精神病の人にとっても重要なことだ。

 

なぜなら、依存症の人は、暇な時間に耐えられず、手持ち無沙汰で依存物に手を出してしまうのだから。

 

暇な時間や退屈を、何もせずに耐える力も必要かもしれない。

 

私みたいな落ち着きがなく、じっとしているのが苦手な人間にとっては難しい。だから苦しんでいる。笑