生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

オス負け犬の「愛」

1.「愛」は性的交流を必ずしも伴わない

 

性愛とは「自分が他者の身体を必要とする(欲する)」という現象橋爪大三郎、2017、『性愛論』河出出版、p.18)と言われる。性的志向の対象となる相手と話したい、手を握りたい、触れ合いたい、そして心でも繋がりたい、そのような欲求が性愛である(異性愛者にとっては性愛の対象は異性となる)。心は見えない。だから心が宿る身体を欲するようになるのだという。

 

私は、「愛」について性愛と異なる定義をしておきたい。「愛」は友人、家族など性的志向の対象とならない者へも抱く感情。親密性とも呼べる。心の通じ合い、引き合うものであろう。自分の正直な心でつながっていたいという感情に基づく。

 

しかし、私たちの社会は、人間関係の中でも「性愛」でむすびつく関係を一番深く価値のあるものと位置づけ、結婚という制度的な優遇も与えている。

 

 

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「性愛」関係にあることは「愛」があるからだという前提が想定されている。

 

しかしながら、「性」が満たされても「愛」が満たされないという状況は往々に生じる。

 

結婚をしていて性的なパートナーがいても、「私のことを理解してくれる人はいない」、「誰からも必要とされない」という感情をいだくのは誰にも愛されていない、もしくは、愛が感じられていないと思うゆえだろう。

 

 

2.「愛」と「性」が一体となった近代

 

婚姻率が90%台後半であった「全員結婚社会」(落合恵美子)では、ほぼ全ての男女がペアになれた。1950〜60年台の男性の生涯未婚率(50歳までに一度も結婚したことがない人の割合)は1%台であった(2015年は男性23.37%、女性14.06%、データは国立社会保障・人口問題研究所)。

 

貞操観念の強い時代では、結婚して男女はセックスをするようになる(婚前交渉・結婚初夜などの言葉が存在した)。そこでは「愛」があったのかは疑わしい。

 

「全員結婚社会」とは、男にとってはだれにもひとりは女が配当される社会、女にとっては結婚しなくては生きていけない社会上野千鶴子(2013)『女たちのサバイバル作戦』文藝春愁)。

 

男女の経済格差が今以上に大きく女性は男性に経済的に依存せざるをえない状況にあった。高度経済成長時代も女性にとって結婚は「永久就職」であり、生存がかかっていた。

 

すべての男に女があてがわれる社会では、女性は男に従属する存在として犠牲になった社会であった。女性は夫からの人権侵害や暴力に耐え忍んできた。男の独りよがりで暴力的な性行為にも耐えてきてきただろう。

 

1960年代には恋愛結婚が見合い結婚を上回るようになる。近代は「愛」と「性」と「結婚」が一体となったロマンティック・ラブ・イデオロギーに支配されたが、間もなく、婚前交渉が当たり前となった1970年代から「性」と「結婚」の結びつきは切れた。しかし、結婚が恋愛によってなされるものへと変わり、恋愛の価値はますます高くなり、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは猖獗(しょうけつ)をきわめた。「愛」と「性」の結びつきは強固になった。それが近代を支配する性愛観である。

 

恋愛の価値が高まる時期は、都市化が進んだ時期であった。向都離村の人口移動によりムラの共同体生活から都市の個人生活へと移った。個人個人はバラバラとなり、人の絆は所与のものではなく選び取るものになった。自立し孤独になった個人は「愛」への渇きを深め、ますます惹きあう。

 

恋愛病は、個人になった近代人の宿痾(しゅくあ)のようなものである。ひとりになった。だからひとりではいられない。ひとりになったことない人が、恋愛を求める理由はない。

 

上野千鶴子(1998)『発情装置』筑摩書房、p.84)

 

 

 

 

私たちは孤独を選んだと同時に、誰かから「愛されたい」とも願っている。そして今では、身分や肩書ではなく「ありのままの自分」、つまり「個人」としての自分を愛されたいと願ってしまった。

 

恋愛病は近代人の病いだ。娘も妻も「恋愛したい」と渇くように思い始めたとき、彼らはやっと「個人」になったのだ。男も「愛されたい」とグラグラした思いを持ち始めた時、やっと男という役割を脱ぎ捨ててタダの「個人」になったのだ。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.85)

 

 

3.「性の解放」は愛への渇きの救いにはならない

 

近代はロマンティック・ラブ・イデオロギーが「愛」と「性」を一体のものとしてきた。「愛」があるからセックスをする。しかし今では、セックスは「愛」からも分離してしまった。今日では、セックスはできても「愛」が得られない状況が生まれる。

 

セックスがこんなにお手軽に手に入るようになったいま、わたしたちが飢えているのはカネでも肉体でも贖えない「恋愛」だけだからだ。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.83)

 

 

女性が性的自由を獲得することで「性の解放」は進んだ。「女性は愛がないとセックスをしない」という神話は崩れ去った。女性側の「性の解放」が進むと同時に、男性側も多くの女性とのセックスを経験できることになる。セックスは純粋な快楽行為となりつつある。セックスによって愛(≒人格的なつながり)が深まるという考えに囚われた人は、セックスによって裏切られる思いをするのかもしれない。人との人格的なつながりは「性」により作り上げられると信じる者は、セックスを重ねても愛への渇きだけを深めるという逆説が生じる。

 

「性」と「愛」の結びつきを特権化した近代のエートスは未だに支配的だが、「性の解放」が進み、「性」へのアクセスが容易になったことで、「性」は獲得できても「愛」は得られないという落差が生じている。

 

非モテ」という言葉は、単にセックスができないことを指すのではない。「愛」が得られない状況を指すようになっている。

 

 

実際に、恋人がいなくても、別に悩まず、幸せに、ごく普通に日々を過ごせる人もいる。逆に、恋人や配偶者がいても、つねに非モテ意識に悩まされている人もいる。多くの女性とやりまくっても本命から愛されず虚しい、という人もいる。

 

杉田俊介、2016、『非モテの品格』集英社新書、p.92)

 

 

  

「100人の女を抱いても、1人の女から愛されなければ、それは非モテである」というような小谷野敦のような言葉も論壇で席巻している。

 

ナンパ師やヤリチンは、「愛」の無いセックスをたくさんおこなうが、最終的には「愛」のある関係を求めるようになる。フリーセックスという非近代の性行為に走りつつも、「性=人格の結びつき」を求めるという近代への回帰をおこすのである。しかし、純粋な「愛」の関係を築き維持するのかがいかに難しいかを気づかざるを得ない。

 

「性」には「愛」が必要だというコードはやはり支配的である。

 

さまざまな性行動に対する是非を定める基準として登場してくるのが、愛やコミュニケーションにもとづいた関係性、すなわち親密性を有しているかどうかが決定的に重要だとする「親密性パラダイム

 

 (赤川学、1999、『セクシュアリティの歴史社会学勁草書房 、p.375)

 

  

親密性パラダイムは、性=人格論が性欲=本能論を凌駕するために編み出した最強の言説であり、多くの人にとって、愛や親密な関係性は理想郷とされているからだ。それはたしかに耳当たりがよい言葉だ。しかし親密性ばかりが強調されると息苦しくもある。親密でない性、愛のない性を否定するという点に関しては、親密性パラダイムはファッショ的ですらあるからだ。誰もが愛や親密性を求めて生きなければならない社会。それを窮屈に感じるのは、私だけであろうか。

 

赤川学、前掲書、p.390)

 

 

「性に関する苦しみの原因は、性に愛がないからではなく、性には愛がなければならないとあおっていること自体にあるのではないか」

赤川学、前掲書、p.390-391)

 

 

セックスをいくらしても心が満たされない。「愛」=親密性が感じられないから心から充溢できない。そして嗜癖として性行為に溺れてしまうという悪循環にも陥ることになるのだろう。

 

 

4.性愛を相対化する

 

「童貞が恥」だという意識も、自由恋愛が社会に定着し、セックスができない男性が増えたから生まれたものであろう。渋谷知美によると、80年代以降に童貞に対して好奇のまなざしが向けられ、童貞が恥じらいをおぼえるようになったのは、恋愛とセックスが強固に結びついている社会であるゆえだという(渋谷知美、2003、『日本の童貞』、文春新書、p.221)

 

 

 

必要なのは、性を私的領域におしこめることではなく、何か特定の言説が力を持たないように、より多くの性にまつわる言説を公の場であみだしていくこと―つまり、オルタナティブな性への干渉を提示していくことである。

 

渋谷知美、2003、『日本の童貞』文春新書、p.224)

 

  

童貞がこんなにイシューになるのも、セックスに対して過剰な意味付与がなされているためである。セックス=愛の最上級表現という近代のロマンティック・ラブ・イデオロギーが支配している中で、非モテが苦しみを感じるは「愛=セックス」という性愛幻想を意識してしまうからであろう。

 

 

性の自由市場が成立し、オナニーする男・童貞が「もてない男」、処女が捨てるべき厄介物とされるような社会にあっては、この苦しみは増えることがあっても減ることはないように思われる。

 

赤川学、1999、『セクシュアリティの歴史社会学』p.391)

 

 

 

以下のブログで学んだことであるが、「他者とつながる手段として、セックスが特権化される理由はない」。オナニーとセックスは序列を競うものではない。オナニーを相手がいない「恥ずべき」性行動として貶める必要はない。

 

 

minadt.hateblo.jp

 

 

 

世の中は「恋愛は素晴らしいこと」であると喧伝し、「恋愛ができない人は人格欠落者である」と多くの人は考える。異性にモテない自分に対して否定的になり鬱勃した感情に苛(さいな)まれることになる。私たちは、恋愛へと駆り立てる社会の装置に支配されているといえよう。

 

一番にいいのは、恋愛・セックス・結婚などの性愛に対する価値が相対化されるべきなのだ。人との話において「恋バナ」は一番盛り上がり、みんなが楽しむであろう共通の話題とされる。「恋バナ」ができないと人としての経験値が低いとしてバカにされてしまう。恋愛至上主義が支配する社会は、恋愛弱者にとって息苦しい社会である。

 

5.「愛」について

 

オス負け犬がとる戦略は否認、逃避、嗜癖の3つだという(上野、2013、前掲書p.198)。非モテに関して言うと、「みんな自分の本当のよさを知らない」(否認)、「僕なんて、どうせ人から必要とされない」(逃避)、と言ったり、「酒やギャンブル、ゲームなど即効的なものに依存する」(嗜癖)などであろう。いずれも「男らしさ」を守るための防衛的反応である。

 

しかし、愛されたいという気持ちを押しやったり誤魔化したりせず、「弱さを抱えながらも生きる」という選択もありではないか?

 

たとえ愛や承認を得られず、誰かから抱きしめられず、ルサンチマンや自己嫌悪をずっと解消できなくても、それらを抱えたまま、しかしそれを他人や自分への過度な暴力にしてしまうことなく、こじらせることなく生きていく、そこそこ幸福で楽しんで生きていく、そうした生き方もまたありうるのではないか。

 

杉田俊介、前掲書、p.128)

 

 

しかし、人間には承認欲求が存在する。私は承認欲求が恥ずべきものだとは考えない。生きる上で、自分を認めてくれる他者は必要だからだ。

 

何かしらアクションをおこしていれば、人との関わりはできるのではないか。SNSでは自分と価値観なりが合う人も最低1人は見つかるだろうし、その場から去れば惜しまれる存在くらいにはなれそうだ。

 

自分を気遣ってくれる人は見つかるはずだ。苦しい時に、そーっと声を掛けてくれる人も見つかるはずだ。

 

過剰な「愛」を求めすぎると、自分も相手もしんどくなる。どんな「愛」のあるカップルでも溶け合うことはできない。付かず離れずのゆるい「愛」という形態でも満足できる関係をつくっていければと願う。

 

 

 

 

【取り上げた文献】

 

性愛論 (河出文庫)

性愛論 (河出文庫)

 

 

 

 

 

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

 

 

 

 

 

セクシュアリティの歴史社会学

セクシュアリティの歴史社会学

 

 

 

日本の童貞 (文春新書)

日本の童貞 (文春新書)

 

 

 

お遍路の思い出(4)食料調達術

 ◎サバイバル術【食料調達】

 

野宿旅行では野生になっている食料も豊富に使います。今回は、徳島市内でラーメンを食べたのを除き、基本自炊で行きました。スーパーとかあれば安い食材を買って調理します。

 

野生の食べ物を見つけるとワクワクします。旅が楽しくなる。果物は一目でわかるけど、野草やキノコの知識があると食の幅が広がる。

 

 

 

 

①野草

 

今回の旅行ではサラダ類は一切買わず、道端の野草を食べてビタミン、ミネラルなどの栄養補給をおこなった。

 

野草については、以前ブログに書いた。食べれる野草を知っておき、野草に出会ったら採ってムシャムシャ食べます。栄養に留意したいため、野草見つけたらたくさん食べます。なお、湯でたら食べやすくなる。

 

【一例】道端でヒメジオンを採って茹でる

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・ブログに野草のことを書いているので是非ご覧あれ。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

 

 

②拾った野菜で調理

また、やそ道端や空き地になっている所有者のわからない野菜たちです。畑の近くには野菜が転がっていることもあり、運良くゲットできたらそれを利用して料理をする。今回は空き地でゴーヤを見つけ、ナスや玉ねぎを拾いました。RPGゲームでアイテムを拾ったみたいで面白い。

 

・空き地で採ったゴーヤでチャンプルーを作る

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・ナスを拾って麻婆茄子

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・玉ねぎを拾う

 

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・野生のシソを採取して焼肉

 

 

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③キノコ 

・山でイグチを採って野菜炒めに

 

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④果物をとる

地方の道を歩いていると果実の木がそこら辺に生えている。秋になれば果物を頂きましょう。柿などは疲労回復によく一つ食べるだけでも空腹が満たされます。サバイバルには必要でしょう。

 

果物と野草だけでも一食やりすごせる。

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・柿

 

シブ柿でも、食べれないことはないです。腹が減ったら食べよう。ほんのり甘いです。

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・イチジク

 

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・梨

 

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・みかん

 

みかんは緑色でも食べれます。甘酸っぱくておいしいです。

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・はっさく

 

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・ぶどう(畑の横に落ちてた)

 

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・クリ

 

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ざくろ

 

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お遍路の思い出(3)野宿編

お遍路記録3回目ですが、10月の半ばに再び徳島駅に発ち3回目のお遍路に挑戦しました。でもまあ、旅のスタイルは前回と変わりありません。

 

 

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3回目は徳島駅から南下して二箇所目の難所(遍路ころがし)を経て太平洋側に到達。しかし、途中で連日の雨という天気予報を見て、先に進む意欲を失いました。同じJRの駅で3泊ほどしました。その間は、温泉に行ったり、ウミガメ博物館に行ったりしました。徳島はすだちの産地で、すだちサイダーが美味しかったです。

 

さて、お遍路を断念したのは、駅で3泊もしてたら地域住民から心配され、警察に通報がなされたようで、警察が駅にやって来て職務質問を受けました。人生2回目の職務質問です。

 

「家出じゃないだろうな?」とか自分の身元について執拗に聞かれ、カバンの中身を取り出されて、ナイフを見つけると質問をされという、気持ち悪いことをされました。

 

あと、鉄道の駅で洗濯物を干してて、パンツも人が見えるところに堂々と干してました(笑)。警察から、「君、パンツとか人の見える所に置いたらあかんやろう」と。

 

鉄道駅でパンツ干すなんてありえないですよね(笑)。別に、見せたかったとかいう訳ではなく、人通りも少ないから洗濯物干してもいいや、という感じで干していました。

 

雨で立ち往生となり、警察にもウザい絡みをされたので野宿旅行の意欲を失っていました。

 

22番礼所の平等寺までクリアして、23番の薬王寺手前でやめました。23番の薬王寺を超えると次の礼所(高知県最御崎寺)まで70km以上あり、その行程は延々と太平洋の横の国道を歩いていくというもの。野宿場所や食料確保、そして長い海側の単調な景色を見て歩くことに嫌気が差しました。

 

次にお遍路に行くかどうかは分からないです。

 

 

◎サバイバル編【野宿】

今回の歩きお遍路の大部分は野宿でした。3週間の旅行で宿泊に要したのは遍路小屋での一泊の500円です。以下は、野宿の記録です。屋根のある所がいいです。屋根がないところだと雨が降った時に詰むので。

 

 

①鉄道駅

鉄道駅にはよく野宿しました。地方の駅だと人があまりいません。夜になると電車の到着時以外は人はいないですね。ベンチなどにマットを引いてシュラフで寝ましょう。2泊くらいまでならば通報されない?

 

 

・野宿の様子

 

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・地方のJR駅の電車は本当に少ないので、落ち着いて休めます。

 

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②公園などの東屋

 

公園の東屋は屋根があるのでいいですね。でも、激しく雨が降ると横から雨に打たれます。その時は中央の地べたに避難しましょう。

 

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③道の駅

 

地方には道の駅や休憩所が多いですね。屋根がある可能性が高いです。夜の人気が居なくなた時に寝る準備をして朝早くに発ちましょう。ベンチとかがなければ、トイレの横など屋根がある所をみつけて地べたに寝よう。

 

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④使われなくなった施設

 

地方には廃ガソリンスタンドや廃工場が多いです。屋根付きの場所をみつけたら雨はしのげます。

 

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以上、野宿場所の記録です。

 

野宿は基本ストレスがたまります。まず布団ではないので固い地面からの緩衝がなく、体が痛みます。シュラフでも体のあちこちが痛くなります。

 

シュラフはいいものを買うべきです。安物のシュラフでは体への負担が大きいと思います。

 

野宿については、地方よりも都会の方が難易度高いです。

 

地方は人が少ないので、野宿していてもあまり人目が気にならない。それでも、JR駅などはたまに人が来ることが有り、神経が図太くないと気にしてしまう。

 

都会だと人の往来が激しいため、常に人目を気にしてしまう人にとってはかなりしんどいと思う。

 

だから、都会のホームレスで路上生活者は常にストレスでいっぱいだろうと、今回の野宿で学んだこと。

 

野宿は人への神経を使うし、体への負担も大きいので大変でした。

お遍路の思い出(2)旅の様子編

前回記事の続きです。前回は去年9月の4日間のアル中状態でのお遍路について書きました。

 

 

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9月のお遍路は酒浸り状態がひどくて、神戸にもどりアルコール病院に駆けつけ、それからリハビリ生活をおくりました。

 

そして、リハビリでジーとしていると、またお遍路に行きたくなったのです。3週間くらい休んだ後、病院には内緒でまたお遍路に旅立ちました。9月29日の私の誕生日に旅立ちました。

 

松尾芭蕉は人生は旅と言っている。「旅をしたいと思ったら、誘惑の神に取り憑かれたように、心を取り乱し、何も手につかなくなる」という。芭蕉病にかかりました。

 

 

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神戸の三宮から徳島駅まで高速バスで2時間。お遍路コースに戻るのではなく、寄り道として鉄道に乗り美馬市穴吹駅まで足を伸ばし、「うだつの町並み」を見ました。翌日は百名山の剣山に登りました。

 

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◎うだつの町並み

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◎剣山

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最初の2日は、吉野川の河川敷にあった東屋で野宿しました。水道もベンチもあり料理も作りました。料理レポについては次回に。月が明るく綺麗でした。

 

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しかし、睡眠障害には困りました。毎日ヘトヘトに歩いても寝れません。夜中の3時頃まで寝れない。朝は6時くらいに起きて出発しなければいけません。睡眠時間は3時間くらいとなり歩いていると昼頃に体力の疲労がピークになります。目は朦朧としている。

 

 

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10月1日からお遍路コースに戻りました。のんびりと農道を歩きました。晴れて気持ちいい。

 

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夕方になり、どこに泊まろうかとねぐらを探しながら町中をウロウロしていたら、地元のおばちゃんに声をかけられました。遍路さんが無料で泊まれる場所があり、宿泊できるか確認してくれるとのこと。

 

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お遍路さんが無料か格安で泊まれる小部屋を「善根宿」という。9月のアル中お遍路の時も500円の部屋に泊まりました。今回は写真もアップします。宿泊の感謝の意を示すため御札をみんな貼っていきます。部屋の広さは6畳くらい。収容人数は6人とのことだけど、明らかに3人が限界だろう。

 

 

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カナダ人のカップルが別の小部屋に泊まっていて少し話しました。カナダ人の男性はお遍路は2回目だということ。今回は恋人を連れての挑戦だということ。キャンプ道具をいれたカバンは大きく重そうでした。プロですね。

 

夜に寝たが、一緒に泊まってたおっさんのいびきがうるさくて外に出た。

 

 

翌日は雨で、お遍路の難所と言われる8時間位の登山が待っていました。11番礼所の藤井寺から12番の焼山寺までは山道です。

 

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山道は上り坂が多く、ゼエゼエ言いながら歩きました。なにせ15kgのカバンを背負いながら山登りは苦行です。自衛隊の訓練かよと。バテるので何度も立ち止まり、ゆで卵やピーナッツなど食べてエネルギーを補っていました。途中、集落の中を貫く道があったり、景色が開ける箇所があったりと楽しんで歩けました。

 

 

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その日は、焼山寺への到着が16時半ごろ。そこから野宿スポットまで3時間かかりました。足の裏は砕けそうになるほど激痛でした。その日は道の駅のベンチで寝ました。 

 

10月3日は、また雨であり、足も痛いので移動せず地元をブラブラすることにしました。

 

寄ったのは、「雨乞いの滝」と「幸福神社」です。服をきたまま滝壺にダイブして川の水に浸かりました。天然風呂です。ものすごく気持ちよかった。

 

 

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この後、温泉施設の休憩施設で寝転んで新聞読んで一日が終わる。この日も道の駅で野宿でした。

 

10月4日は晴れなので先を進みました。徳島市の市街地に戻っていきます。以下のように進んでいきました。途中、別格2番の童学寺にも往復2時間かけて行きました。

 

この日もかなり歩きました。道路をずっと歩いて、アスファルトは足の裏へのダメージが大きいです。山道の土は足の裏に優しいのでまだマシですが。

 

この日は徳島市内のJRの駅に泊まりました。市街地なんだけど駅には人はあまりいないですね。夜になれば静かになります。

 

 

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駅の前には給水所があり、便利でした。水をストックしました。

 

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10月5日は、徳島駅まで歩いて移動した後、最初に行き逃した別格一番の大山寺に行こうと電車で向かいました。電車で板野駅に到着。駅にカバンを置いて荷物を軽くして別格1番に向いました。

 

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この日もたくさん歩き疲れました。地元を歩いていたらたまたま大きな公園に東屋があったのでそこで一夜を明かしました。スーパーで食材買って自炊して食べました。

 

10月6日は神戸に戻りました。スマホのバッテリーが壊れて徳島駅でバッテリー交換しようとも最低一週間かかるということ。疲れたのと服が洗っても臭いので、臭いに耐えられなかったことなど色々理由が重なりました(服の臭いは、ちゃんと洗剤使って洗えばいいんだけどね。コンビニで小さい袋の洗剤が売っている)。

 

 

 

 

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まあ、無理せずに、自分のやりたいペースで旅行は楽しんだらええと思います。

次回は野宿旅行のサバイバル術を話します。

 

 

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お遍路の思い出(1)アル中遍路編

去年の9月と10月のお遍路旅行について書いておこうと思った。

 

昨年のお遍路は、歩きと野宿です。

 

15~20kgのカバンを背負い20~30km歩いていました。

 

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9月のお遍路は、アルコール依存症が再発して酒浸りの状態からスタートしました。一週間くらい焼酎を一日中食らっている酒浸り状態だったが、「お遍路に行って充実すれば酒は止まるはず」と思い出発しました。

 

とりあえず当時は無職で何もヤル気が起こらないので、何かパーッと楽しいことをしようと思いついてお遍路を始めただけなので、計画はほとんどゼロ。バスターミナルで降りて、いきなり目的地への移動の仕方がわからなかった。

 

当初は長期の放浪で行き当たりばったりでいいやと思っていたので。

 

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最初は鳴門市の高速バスターミナルで降りて、一番礼所の霊山寺まで12kmほど歩きましたバスを降りるやいなや近くのスーパーに寄って、カップ焼酎を3個買いぐい呑みしてからスタートしました。アル中全開です。

 

お遍路の礼所の行き方は丁寧に標識などで示されているので、略地図と標識に頼れば目的地にたどり着けます。ただ、手書きの道案内とかは見逃しやすいので注意が必要です。

 

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一番礼所の霊山寺で納経帳を買いました。納経帳は小型のもので2,000円弱しました。これに88ヶ所の礼所で、礼所巡りの証拠として墨書きしてもらいます(300円)。納経した時に納めるお札も買います。納経時間は7時から17時の間です。

 

お遍路は納経でおカネをじわじわ取られ、数珠やらも買わなきゃとか迫られるので、お遍路も完全にビジネスですね。巡礼も資本主義に取り憑かれてしまってます。

 

 

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さてお遍路ですが、1日目は大雨に見舞われていきなり全身ビショビショになりました。

 

霊山寺で雨が止むのを待って2番礼所の極楽寺に17時前に着いて納経して、その日は近くのJRの無人駅で野宿しました。

 

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電車の本数は一時間に2〜3本なのでほぼずっと一人です。人が通ろうとシュラフで寝ていました。

 

とりあえず、翌日は朝早くに目覚めて、起きると同時に焼酎をかっくらいました。2日目もアル中全開でスタートです。

 

お遍路の行程はほぼアスファルトの道です。国道と県道がメインで車も多い。重いカバンを背負っているので足は痛くなります。

 

でも、道を歩いていると周りは畑が多い。畑を見ていたら地域の特産品もわかってくる。鳴門市は鳴門金時などサツマイモが有名だが、レンコンや梨の畑も多くあり、これらの産地でもあるのだなと。歩いているだけで地域特産品がわかります。

 

・レンコン畑

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地方に行くと道路脇に無人の直売所があり、かなり安く野菜や果物を買える。何度か買いました。

 

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さて、歩いているのは楽しかったのだが、コンビニで焼酎パックを買い、ちびちび飲みながら歩いていた。酔は回ってくる。

 

坂道で転んでヒザをものすごく擦りむいた。痛い。この時にカバンの横ポケットに入れていた大事な地図や雨具を落としてしまった。雨具はノースフェイスの3万円のやつだったので、後で落としたのに気づいてかなりへこんだ。

 

とうとうダウンして、道端の喫茶店の前でうなだれていると、近所のおじちゃんが心配そうに声をかけてくれた。そして、僕が動けない様子を見たのか、警察に連絡したようだ。パトカーが来て怖そうな警察官に囲まれた。

 

人生で初めて職務質問をされた。

 

免許証の提示を求められたり、出身地や職業聞かれたり。

 

私は「僕、アル中で酒飲みすぎて動けないんです」と情けなく言った。

 

もう泥酔していたんで記憶が定かではない。警察は僕をパトカーに乗せた。僕はパトカーの中で完全に意識を失った。

 

どこか小さい部屋に連れて行かれて、部屋に入ったとたんに寝転がった。しばらく酔いつぶれて寝込んで、目が覚めた。

 

「ここはどこ??」

 

6畳ぐらいのプレハブ小屋にいた。道路に面していた。その時僕は、「酒が飲みたい」と衝動に駆られた。自分の状況よりも酒を買いに行くことしか頭になかった。

 

アイフォンで徳島県警に連絡して、「僕はどうなったんですか?」「近くにコンビニはありますか?」といきなり聞いた。

 

何を話したかはあまり記憶にない。ただ、電話でコンビニの場所を聞き、すぐさま酒を買いに行った。完全にアル中脳だ。

 

酔いつぶれてまた寝た。

 

朝になって誰か入ってきた。

 

どうやら、この部屋はお遍路さんが泊まるための部屋で一泊500円。管理人が僕のヒザの出血を見て包帯やらで処置をしてくれた。優しい方だ。

 

僕は二日酔いがひどく昼過ぎまでその部屋にいた。

 

13時頃になって、さすがに出発しようと思い、カバンをもって部屋を出た。

 

しかし、また酒を飲み始めた。

 

歩くのが面倒くさくなって、通りがかりの公園の影で寝転んだり、道路の横の影の部分で酔いつぶれて寝てたりした。この日歩いたのは5kmだけだった。何をしに四国に来たんだ??

 

さて、その日はお寺の駐車場の東屋の中で寝た。

 

ここは、野宿禁止らしい。後から知った。

 

寺の売店の人からコンビニの場所を聞いており、酒は飲まないでおこうと思ったが、やはり買いに行ってしまった。往復40分くらいかかるのに、焼酎のためならどんな手間でも掛けられるアル中そのものだった。

 

翌日、目覚めたがものすごく体調が悪い。

 

先に進むのも不安感しか無かった。このままでは絶対にアル中でぶっ倒れるなと感じた。

 

助けを求めたくて、寺の宿の人に「救急車呼んでくれませんか」と懇願した。しかし、宿の人たちは奥で話し合っていたようで「遍路は自己責任。下手に遍路さんを助けたら後で面倒なことになる」という旨のことが聞こえた。悲しかった。助けてくれてもいいのに。

 

「救急車は自分で呼んで下さい」と言われ、またしばらく休憩所で休んでいた。

 

救急車を呼んだ経験がない。病院に電話をかけようかかけまいか悩んだ。悩んだ末、今回は遍路をあきらめて神戸に引き返そうと考えた。これは、後から思い出して賢明な判断であった。

 

最寄りのJR駅までかなり遠い。とにかく歩いた。1時間くらい歩いて、スーパーを見つけた。情けないことにまたカップ焼酎を買った。もう飲まないでおこうと思ったのに。スーパーでタクシーの連絡先を聞き。タクシーに乗って最寄り駅へ。鴨島駅という。電車に乗って徳島駅に着いて、そこから高速バスで神戸に帰った。

 

同居人は優しく迎えてくれた。

 

一人では酒を止めることは無理と判断して、かかりつけのアルコール病院に向かった。二日酔いで酒浸りのまま病院に行って、ケースワーカーにスリップ(再飲酒)しましたと言うと、優しく対応してくれた。

 

酒が止まらなかったのは離脱症状のせいだった。アルコールが切れると酒が欲しくなって衝動が抑えられない。離脱症状を抑える薬(ジアゼパム)を病院で緊急処置しえもらい、離脱症状は和らいだ。

 

血液検査をしたところ、GOT1,954など、とんでもない数値を叩き出した。肝臓はボロボロだ。急性肝炎である。後から医者が言ったのだが、完全に入院が必要なレベルだったらしい。

 

 

 

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離脱症状や飲酒欲求には数日悩まされたが、なんとか酒は止まった。

 

9月11日に断酒開始でまだ続いている。

 

断酒が軌道に乗ったから、10月にまた遍路に行けた。

 

次に続く

 

 

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野草を食べよう

春になると野山に野草が芽吹きます。

 

みんな雑草と言って目も向けないけど、農薬も何もつかっていなくて健康によい植物です。

 

大原扁理さんも野草をとって食べてますよね。

 

野草を上手くゲットできれば、生存能力が上がると思います。

 

以前、野草のプロのおばちゃんにレクチャー受けて、京都の加茂川で野草を摘んで食べました。その時の写真が以下です。野草で豪華な料理が出来上がります。

 

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そんなに詳しくならなくても身近に野草はたくさん生えています。例えば、そのまま食べるのが美味しいスイバ、おひたしや白あえにできるヨメナとか、硬くて苦いものは天ぷらに!!

 

2017年9月〜10月のお遍路の野宿旅行の時には、サラダを買わず、ミネラルとビタミンは全て野草でまかなっていました。

 

道を歩いていて、野草を見つけたら、摘み取ってムシャムシャ食べます。

  

さて、以下はこれまで食べてきた野草を紹介します。

 

 

 

◎(左)人参葉、(右)カラスのエンドウ

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人参葉もカラスのエンドウも茎が硬く苦いので天ぷらにします。美味しいですよ!!

カラスのエンドウは沸かしたお湯に入れるとお茶になります。美味しいです。

・人参葉の天ぷら

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・カラスのエンドウの天ぷら

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かき揚げにしてもGOODですよ!!

 

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 ◎ヨメナ

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春になったら芽吹き始めます。春菊の仲間でほろ苦いです。私はおひたしや白あえで食べます。

 

ヨメナのおひたし

 

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ヨメナの白あえ

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◎ハルジオン/ヒメジオン

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 ヨメナに似ています。葉っぱは苦いですが湯がけば大丈夫です。僕はお遍路中に道草でとって食べていました。

 

 

タンポポ

 

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タンポポのおひたし

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どこにでもある可愛いタンポポも食べれます。

 

 

 

◎スイバ

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スイバも道路脇とか、空き地にたくさん生えています。冬以外は青々しています。これは摘んで生で食べるのがいいです。茹でたりすると酸味が変な具合になって、吐くほどまずかったです(というか吐いた)。ミネラル豊富です。

 

 

 

◎クズの葉

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葛の葉はそのまま食べましたがマズイです。芽を天ぷらにしましょう。

 

 

 

ツユクサ

 

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ツユクサもどこにでも生えてますね。6~9月くらいに花は咲きます。花の部分を取って葉を食べます。僕はお遍路中に生でムシャムシャ食べてました。おひたしもいいかもしれない。炭水化物の吸収を抑える効能があり、ダイエットや糖尿病にいいですね。

 

 

◎オオバコ

 

公園とかによく生えてます。おひたしや天ぷらにしたら美味しいらしい。

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★★ラーメンとかに入れるとおいしい★★

 

キャンプとか野宿とかで調理が面倒くさい時に、カップラーメンとかに野草を入れるだけでお手軽に栄養がとれる。

 

タンポポツユクサ、山菜を入れたカップ

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◯即席ラーメンにタンポポとオオバコとヨメナを入れる

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◎笹の葉茶

 

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ヤブに生えている笹の葉をお湯で沸かすとおいしいお茶になります。笹は一年中いけますね。

 

 

 

では、みなさんも野草に興味があればいろいろ摘んで図鑑で調べて食べて下さい。

 

性欲は飼い馴らせるか?

1.発情するのは本能か?

 

「発情のしくみは生理的なもの以上に文化的・社会的なもの」

 

上野千鶴子(1998)『発情装置』筑摩書房、p.13)

 

ミニスカに興奮する者は、ミニスカを履いてるのが女性であっても男性であっても(それを男性だと知りながら)反応するのだと言われている(森岡正博(2005)『感じない男』筑摩書房)。つまり、ミニスカという「女性性の記号」に欲情して反応しているのだ。

 

これは、性欲が本能ではなく、文化的につくられるということがよく分かる事例である。

 

「性豪」と呼ばれる男性を思い起こせばよい。かれらは「モノにした」女の数を誇るが、逆に言えば女と言えばだれにでも発情するほど、あるいは女体や女性器に、あるいは女性性の記号やパーツに自動反応するほど、条件づけされた「パブロフの犬」であることを告白しているのも同然だろう。かれらが反応しているのは、女ではなく、実のところ、女性性の記号なのだ。でなければどんな女でも「女というカテゴリー」のなかに溶かしこんでしまえるわけがない。

 

上野千鶴子(2010)『ニッポンのミソジニー紀伊国屋書店、p.8)

 

私たち男は、発情装置の溢れるこの社会に生きる中で「女性性の記号」に脊髄反射的に反応してしまうよう仕向けられてきたのではないか?

 

「男ならオンナに欲情するものだ」という文化的な圧力に不断にさらされ、それを本能だと勘違いしているのかもしれない(男なら子どもの時から、エロに関心をもつことが男らしいと、仲間から刷り込まれてきた)。

 

2.性犯罪は性欲が原因ではない

 

性欲があるから性交するわけでない。

 

人は、さまざまな理由から性交する。他人を支配したり、陵辱したり、愛撫したり、所有したり…‥するために性交する。強姦者が性欲から強姦するわけでないことは、よく知られている。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.115-116)

 

以下の記事の中で、男性学研究者の伊藤公雄は、「性暴力の背景にあるのは性欲ではなく支配欲である」と言う。斉藤章佳氏の『男が痴漢になる理由』では、「痴漢の半数が勃起していない」という調査結果を踏まえ、「性犯罪の動機を性欲だと決めつけることは、暴力の本質を見誤る」と指摘されているという。

 

www.buzzfeed.com

 

 

近年の研究では、レイプとは社会的弱者の立場にある男性が、自分の攻撃性をさらに弱い相手に向けて発動する行為だということがわかっている

上野千鶴子『発情装置』、p.71)

 

 なお、強者男性の強姦は「犯罪化」されにくい。

 

はあちゅう事件であったように、性暴力をおこなう者は職務上の優位な力関係を利用して女性へ性行為を強要する(地位利用型の性暴力)。

 

女性は上司などの男性からの性的誘いを断れば、その上司との関係が悪くなり、自分のキャリアへの支障が出る、あるいは職場に居づらくなると考えてしまい「ノー」と言えない状況に追い込まれる。労働権を人質にとられていると言ってよい。また、性交後も女性は自身が被る不利益を考え、誰にも打ち明けられずに黙ってやりすごしてしまう。何もなかったこととして「犯罪化」されない。

 

集団強姦はどうか?2003年の早大スーフリ事件を受けて、当時自民党太田誠一議員は「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」と述べて強い非難をあびた。

 

スーフリ事件の集団強姦には、早稲田大学の学生はじめ、東京大学、慶応大学などエリート学生がケダモノ君になった。2005年には京大アメフト部の部員が女性を酒に酔わせ集団強姦した事件もあった。

 

エリート君でもケダモノになる性欲とは本能であろうか?

 

彦坂諦は『男性神話』(1991)のなかで、戦時強姦の目的は男同士の連帯を深めるため、と答えている。こんな状況でも男は勃起できるものだろうか、と素朴な問いを立てる必要はない。こういう状況で勃起できることが、「よぉーし、おまえを男と認めてやる」ことの条件なのだ。こうして女を共通の犠牲者とすることが、男同士の連帯のための儀式となる。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』p.30-31)

 

 

集団強姦は、「女をモノにする」ことで得られる男同士の性的主体(と認めあった)としての連帯感を生み出すためになされる。自分も強姦に加担することで、男同士から「度胸がある」と〈男らしさ〉が認められ連帯感を得る。

 

男同士の下ネタ(猥談)も男同士の連帯感を深めるためで、下ネタを話せない男は「ウブ」「女女っちい」など言われ男集団の中で劣位におかれる。男が男に対して「オンナ」、「ホモ」と言うことがいかに侮蔑的意味をもつか私たちは経験している。

 

男という性的主体への同一化は女を性的客体とすることで成り立ち(上野、2010、p.30)、男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった(上野、2010、p.28)。

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

3.性欲によって肯定される売買春

 

「男の性欲は女よりも強いから売買春は必要悪だ。売買春を無くしたら、性欲をもてあました男がどんな不届きな行為に及ぶかもしれない。強姦などの性犯罪が増える」などと言われる。

 

「射精は男にとっての生理」だの「性欲は本能だから仕方ない」だのの理由で売買春が肯定されるが、そんなものは小倉千加子が『セックス神話解体新書』(1988)で論破しているとのこと。

 

『解体新書』を説明した牟田和恵(2001)によると、

 

人は本能によってセックスするのではないし、いわんや性欲が満たされないからといって、強姦に走るわけでもない。排出されなかった精子は体内に吸収され、「溜まった」のに発散できないからといって爆発したりはしない。そこで「暴発」的な行為に走るとすれば、それはその行動のレパートリーをしっかりと学習した結果に他ならない。

 

だいたい、売買春の実態を見れば、既婚者が大半で(既婚者しか買わないとすれば売買春はじめセックス産業はなりたたないだろう)、セックスパートナーがないから買春するわけではない。売買春は、交接しそのことによって生理的欲求を満たすためだけに買春するのではなく、売春女性とのセックスに付随するイメージを買うのだ。現実に取り引きされるのは性サービスであるかもしれないが、観念の上では、買春とは「セックスを買う」のではなく、品のよろしくない表現でいうように、まさに「女を買う」行為なのだ。

 

(牟田和恵(2001)『実践するフェミニズム岩波書店、p.177)

  

金は権力であり支配の手段である。「女を買う」とは「女を支配する」ということである。男は、性欲という名のもとに女を支配しようとしているに過ぎないのだ。

 

男が「女を買う」のは、経済的取引であるだけではなく、力関係を象徴する。手に入れることの難しいはずの、禁止されているはずのものを金銭という権力を介して入手し相手の性を支配する―その充足、達成の快楽が性の欲望を形作っている。

 

(牟田和恵『実践するフェミニズム』、p.188)

 

 4.性欲はコントロール可能か?

 

食欲と違って性欲は、満たされなかったとしても死ぬわけではない。男はたまったら出すというが、なにも女性器に出す必要はない。使わなければポテンツが低下する「非作業性萎縮」もある。

  

一ヶ月はおろか一年以上、さらに数十年にわたって「セックスがない」人々が、十分に健康であるばかりか精神的にも充実した生活をおくっている調査もあるという(マイケル、ガニオンなど(1994=1996)『セックス・イン・アメリカ日本放送出版協会)。

 

性欲とは男の場合、生理的欲求ではなく、「女性性という記号」に反応するもので、その記号は文化的・社会的につくられたものだ。むらむらするのは大脳であって、性器ではない。

 

フーコーによれば、性は「自然」に属する本能的なものではなく、性は社会や文化の影響を受けて変化し、わたしたちが思っている以上にその変化のスピードが速いという(上野千鶴子(2016)『<おんな>の思想』集英社文庫)。

 

例えば、テレビでも見たことがある光景だが、社会によっては、服を着ない所もあり、そういう所では女性は裸で乳房を出して外を出歩いている。それが当たり前の光景なら男はいちいち乳房を見て欲情しない。江戸時代には人前で授乳したり混浴なども一般的で、乳房に対する関心は低いものであったという。胸を隠すという習俗は日本では比較的新しいものだという(ブラジャーの普及が乳房の性的価値を高めたとも)。

 

何がエロいのかは歴史的に変わり、発情の対象である記号は文化的につくられるものだ。性欲は文化的につくられ学習されて身についたものであるから、性欲は学習によって飼いならすことが可能ということになる。

 

自分が何に欲情するのか、それはどのような文化から学習されたのか、つまり、発情の機序を暴くことができれば、エロいとされることに欲情しなくなるのだろうか。

 

 

【文献】

 

 

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

 

 

 

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

 

 

 

実践するフェミニズム

実践するフェミニズム