生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

社会保障の強化のために

現代社会では金は生存に直結する

 

障害はインペアメントとディスアビリティに分けられて考えられる。

 

社会モデルは、社会が負担を負えば解決する障害のことをディスアビリティと呼ぶ。そして社会が負担を負っても解決しない障害はインペアメントとする。

 

(「まえがき」石川准・倉本智明編『障害学の主張』、p.3)

 

 

 

現代資本主義社会では、金が無いと生きられない。金は命に直結する。

 

野菜の自給をしようにも、自然の別名であった土地は市場経済の中に組み込まれてしまい、金と社会的信用がなければ土地にはアクセスができない。

 

障害など何らかの事情で働けずに稼得能力がない者は、金を得られず死んでしまう。金があれば生存はできる。経済困窮者への再分配は、ディスアビリティの問題だと言えないこともない。

 

すべての生の生存が保障されるためにも、「金がなくて生きられない」というディスアビリティが解消されなければいけない。そのために社会保障がなされるべきである。

 

「命は最上位におかれ、人はその業績や属性に関わらず無条件に尊重されなければならない」というのは生の道徳であり、これ以上はさかのぼれない最終的な公理と位置づける。

 

私たちは、殺人や差別を禁止している。これは、人権が根拠となっている。

 

他者の人権を尊重するのは、自分の生命や尊厳、自由が守られるためでもある。

 

他者を否定したりおとしめることが許されると、公準として自分も否定されたりおとしめられる。

 

これは、戦争になる。

 

自分の存在が肯定され尊重されるためにも、他者に対する否定やおとしめがなされてはいけない。自由の相互承認が求められるのだ。

 

自由の相互承認が守られなければこの世の不幸は無くならない。

 

 

 

 ●財の配分のあり方を見直す

 

 社会保障が拡充されるためには、所有を正当化する論理を組み替えることにある。

 

 所有とはなんだろうか。所有は持っていることと同じではない。たとえば、あなたが隣に座っている人から黙ってペンを取り上げたとしても、あなたがこのペンを所有していることにはならない。

 なぜだろうか。それは、持っていることを他人から承認されていないからだ。持っていることを他人から認められて、はじめてそれは所有となるのである。つまり、所有とは承認された占有にほかならない。

 

佐々木隆治『カール・マルクス』p.160

 

 

 

 

現代における資本主義社会では、市場を通して得た財や貨幣の所有こそが正当なものとみなされる。市場を媒介とした所有が正当であるという観念が強すぎるから、生活保護など市場を媒介しない所有が非難されたりする。

 

しかし、所有を成り立たせる承認のあり方は、もともと市場によったのではない。

前近代において、所有は人格的関係に基づいていた。封建領主の土地の所有権は封建領主としての身分に基づいていたし、古代ローマ市民は、彼がローマ市民であるがゆえにローマの土地の私的所有権が認められた。

 

 

原始社会では集団の中で互酬や再分配が働き、集団の飢えはあっても個人の飢えはなかったとされる。ポランニーは、利得を目的とした商品の交換をおこなう市場経済が浸透してから個人の飢えは生じたと述べている。ポランニーが引用したが、人類学者マリノフスキーによる原始社会とされるカフィール族の社会では「窮貧生活はありえず、援助が必要なら誰でも問題なくそれを受けられる」と飢えの脅威がなかったと報告された。

(カール・ポランニー『経済の文明史』) 

 

 

資本主義社会においては、商品や貨幣という物象の力が所有を成り立たせるようになる。

佐々木隆治、前掲書、p.161)

 

 

財の分配のなされ方が市場経済に強く依存している社会、つまり市場の論理が強い社会では社会保障(市場を介さない財の分配)は貧弱になる。そして、その社会に適合できずに生存を脅かされたり、生きづらさを抱える者が出てくる。

 

既存の財の配分のあり方では《ある人》が生存できなくなることが問題なのである。その《ある人》が「生きさせろ」と声をあげて、既存の財の配分のあり方に対して批判することはもっともだ。そういった主張をもとに障害者運動があった。

  

しかし、今、市場の論理を全面否定するのは現実的ではない。まだ可能性のある方向として、市場の論理を弱めるか(相対化)、それとは違う論理を付け加えることが挙げられる(価値の増殖)。

 

生の肯定、つまりすべての人の生存が保障されるように再分配が強化されるためにも、能力主義に基づく私的所有の原理が弱まる必要がある。

 

まず、本人の能力で得た富は本人が独占してよいとは言えない。その人の能力はただ一人の努力によってのみ形成されたのではない。その人の能力も親、学校、環境など社会によって培われたと言えるからだ。ならば、能力で得たものはある程度は社会に還元すべきである。

 

自分の能力で得たものは自分だけが所有してよい、そのような能力主義に基づく私的所有の原理が強すぎては、金を生み出す能力がない障害者などは何も取り分が無くなる。

 

立岩真也さんの話(「ないにこしたことはない、か・1」『障害学の主張』)

から私も思った事は以下である。

 

本人ができるようになる事で、本人の快や便利さが増すならできた方がよいが、その必要以上には、できても、できなくてもよい。できなくても、他の誰かが負担して社会の総量でできるようになったらそれでよいのではないか。

 

みんなが能力をもつようにしよう、落ちこぼれを出さないようにしよう、という考えが強すぎる社会は、できない人を抑圧する。 みんなが有能でなくてはいけないという能力主義への信奉が強い社会では、真の落ちこぼれはより疎外される。 目指すべきは、落ちこぼれても安心して生きていける社会である。

 

財の所有の正当化の論理は歴史によって変わった。ならば、財の分配のあり方を組み替えることはこれからも可能である。

すべての人が生存を保障される社会になるためにも、財の分配のあり方が見直されるべきだろう。

 

 

 

 

※財の配分のパターンについては以下を参照ください。

 

nagne929.hatenablog.com

 

家族と同居する経済困窮者が社会保障を受けられない問題

民法における家族の扶養義務が家族と同居する経済困窮者を追い詰めるという問題を提起する。これは、実家ぐらしの引きこもり・無業者などの経済的問題を生み、「自立」の妨げとなっている。経済的自立できない主婦や介護者も対象にする問題でもある。

 

私は、実家ぐらしで月6万円のアルバイトをしている。経済的自立ができない者である。

よく実家から離れたいと思うが、貯金がなくアパートすら借りられない。保険などでアパートの部屋を借りたとしても、一人暮らしができるほど稼げない。

 

私は、自身の陥っている問題と、その問題を生んでいる社会保障のあり方について指摘し、そして実家ぐらしの経済的困窮者への施策としてなされるべきことをツイートで提言した。

 

このツイートは少し注目された。

 

 

 

 

 

https://twitter.com/Haruchan_cafe/status/1085478058851586049 

 

結論、すなわち政策提言から言うと以下の通りである。

 

https://twitter.com/Haruchan_cafe/status/1085519008235810819

 

 

私は、障害者手帳の等級は3級だが障害年金はもらえそうにない。以前、役所に生活保護の相談に行ったが「家族に面倒見てもらえ」と言われ引き返さざるを得なかった。

 

【余談】

その時は、友人とルームシェアしていたのだが、ルームシェアしている状況でも生活保護は認められない。生活保護を受けるためにはカップルや友人同士の同居が認められず、保護を受ける代わりに人間関係が分断される問題がある。これは、ますます保護者の孤立につながるという問題がある。

 

 

 

経済困窮者はまず家族に面倒をみてもらえ、それが無理なら国が面倒を見るという家族主義が強いため(家族の扶養義務=家族を福祉の機能と位置づけている)、経済困窮者は経済的支援を家族に依存せざるを得ない。家族間に軋轢があり同居が難しいと認められれば、生活保護を受けられる場合もあるが、家族とそこまで衝突がない場合、扶養義務により家族に経済的に頼ることになり、家族との同居しか選択がなくなる(実家に縛り付けられる)。生活保護受給者や年金受給者の場合とちがい、経済的支援がない実家ぐらしの人は金の供給源がなく、家族に頼らざるをえなくなる。

 

民法の「家族の扶養義務」があるため、経済困窮者を家族が養うことが義務とされ、実家から離れ一人暮らしをしたくて生活保護を受けたいと思っても、実家から離れられないという問題がある。

 

また、実家に暮らしており家賃や水光熱費がかからないとしても、金がなければ何もできない。所得0の人は親などから小遣いをもらうことになり負い目を感じながら生活をしなければいけなくなる。人としての尊厳が失われうる。

 

 

反貧困ネットワーク埼玉の代表をされている藤田孝則さんからも若年層の社会保障の未備として引用RTで紹介され、多くの人から反応をもらった。

 

 

 

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私のツイートに対し、ブログなどで交流のあるよしりんさんが日本の社会保障の問題を的確に指摘いただいた。

 

 

 

 

 

 

↑ 訂正 リプ元ツイートの「親兄弟」→「親子兄弟」(正確には先程の民法の項目参照)

 

 

 

 

よしりんさんは、障害学や社会学などをもとに「生きづらさ」についてはてなブログに記事を書いておられて、卓抜した知見を提示されている方です。

 

以下の記事は、「すべての人が生を否定されず、尊重されなければいけない」ことを丹念に論じられている内容で、「生存権」(社会保障)と「個人の尊重」といった私たちの生の根幹となる部分をどのような考え方で支えられるかが述べられています。 

 

tunenao.hatenablog.com

 

 

 

 

●「自立」の意味と、家族と同居する経済困窮者に求められる施策

 

僕は就労困難で経済的自立ができない者を、現代の社会システムに適合できない者として制度上は「障害者」と扱い、社会保障がなされるべきだと考える。

 

その上で、障害者の「自立」がどのようなものか、自由の保障という観点から定義づけて良い。

 

自分がどのような生き方をしたいか自己決定の自由が尊重され、それが保障されるという考えにのっとって、「自立」の意味は以下でよいと考える。家族の扶養義務は「自立」への障壁として機能していると言える。

 

障害者の「自立」という言葉は、近年、経済的な自活という意味ではなく、自らの生活を自らの意志で決定するという意味に用いられるようになった。

 

立岩真也『生の技法』(第二版)p.91-92

 

 

● 家族の扶養義務が生み出す問題

 

生活面、経済面に困っている人に対して家族が優先的に面倒を見るべきだという家族主義はイデオロギーであり、家族の扶養義務には論理的根拠はない。

 

障害学の分野では、立岩真也さんが家族の扶養義務には正当性がないと主張する。

 

 

 ここで問われているのは家族の義務である。家族に義務が課される根拠はあるか。

   法律的な根拠という意味なら義務はある。民法は義務を課している。生活保護法、その他福祉関係の法律もこれを受けている。しかしそれに正当性はあるか。家族が家族の面倒を見るのはよいこと、うるわしいことかもしれない。しかし、ある人達が家族を形成すること、家族という関係の中にあること、その家族のメンバーに対して相互に「義務」を課すことをつなぐことができるか。夫婦であることと、一方が他方の面倒を見ることとは別のことでありうる。無論、面倒を見ようと思う人がいてもよい。しかし、そのことと面倒を見る義務を他人が課すこと、国家が課すこととは全く別のことだ。夫婦の間に義務を課すことを正当化する根拠は見つからない。親が自らの選択で子を持つ以上、子に対する親の義務の全面的な解除はできないという考え方はありうる。しかし、少なくとも成人後、家族のもとで家族に面倒を見てもらって暮らさなければならない理由はない。子の障害によって必要になることを親がしなければならない理由はない。

 

立岩真也『生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(第二版)p.361-362

 

 

▼ 家族の扶養義務があることでむしろ、家族をつくり維持することの障壁となる

 

例えば障害のある人とない人が結婚した場合、介護加算を含む生活保護費が支給されなくなるので、生計も介助も一方の側が支えなければならないことになって、生活の維持が難しくなるという。扶養義務が結婚(同居)や出産を抑制させてしまう。

 

(立岩、前掲書、p.362参照)

 

▼ 扶養義務があることで子の自立が妨げられる

 親との関係では、障害がなければ、成長するにつれ、身のまわりのことで依存することがなくなり、そして経済的にも独立し、その上で親との関係がつくられていくのに、その関係が成り立たない。それはまたその人自身が家族をつくっていくことを困難にしていく。家族によるべきでないのは、家族の負担が大きすぎるからという理由だけからではない。負担可能であっても義務を課す理由はなく、家族とのよい関係を保っていくためにも、義務を課すべきではない。

 

 (立岩、前掲書、p.362より引用)

 

生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学

生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学

 

 

▼ 介護疲れ、引きこもり家族の疲れ、など

 親の面倒を子は見なければならないという家族主義を内面化した意識が強いがために、認知症や高齢の老衰した親につきっきりで介護をして、介護疲れで親を殺したり心中する事件が相次いでいる。

 引きこもり家族が関係をこじらせ、家族と離れたほうがいいのに離れられず、暴言や暴力、さらには殺人にまで至ることもある。

 

 ●社会保障は家族単位からシングル単位にすべき

 日本の社会システムは家族単位でできている。

 

家族が社会での単位であることは、単位の中の構成要素(夫、妻、子、障害者、高齢者など)は部分でしかなく、各人(家族の個々のメンバー)は一人前(主体)ではないとみなされる。また標準家族をもてない者は「半端者」と見られる。「半端者」見られるとは差別されることである。家族単位の社会は差別を生み出している。

伊田広行、前掲書、p.40-41)

 

経済力格差は自己決定・自由・権力の基礎である。「養ってもらっている」というのは自分への負い目となるだけでなく、権力関係から相手に支配されうるし、支配されても従わざるをえない時が多くなる。

 

扶養されるということはこういう問題をはらむ。そして、扶養を法によって義務とすることで支配ー被支配の関係がつくられ、いびつな人間関係や人権侵害が生まれる温床になる。

 

愛の名のもとで、干渉や強制や依存、暴力が悪気なくおこなわれる。家族はブラックボックス化しやすく、市民社会ではあり得ないことが起こっても明るみにならず、外部の者が介入しにくい。治外法権になりやすい。

 

このように、扶養義務が強ければ経済困窮者は家族に経済的に依存せざるをえず、弱者に転じうる。個人単位で社会保障生活保護など)がなされれば、家族への経済的な依存を減らし、「自立」もできるようになる。

 

シングル単位化は、高齢者や子ども、障害者、疾病者を「家族による保護の客体=弱者」とみず、「権利行使の主体」とみることを意味する。

伊田広行、前掲書、p.138)

 

当事者が、依存的弱者になるのではなく、「自立」=自己決定の保障がなされるように制度改革が必要である。

 

私は家族主義を否定しているのではない。家族の扶養義務によって当事者が「自立」できなくなる、つまり選択の自由がないことを問題としている。

 

社会保障は家族単位でなされるべきでなく、シングル単位でなされるべきである。

 

 

居場所イベントします(大津)

1月に大津にて社会で孤立しがちな人たちの居場所をつくる集まりをします。今後月1回のペースでやりたいと思います(アメブロに告知をしています)。

https://ameblo.jp/haruchan19860929/

 

【初回日時】2019年1月14日(月・祝) 14:00〜17:00

【名称】居場所カフェ

【場所】大津市市民活動センター1F 交流スペース(パーティションで区切られた円卓)

http://movementotsu.com/access.html

 

【やること】集まって話したり、ぼんやりしたり(自分の作業をしてもいい)

【対象】どなたでも

   生きづらさを抱える方、孤独を抱える方、「普通」に生きるのがしんどい方

 

【本イベント主催の経緯】

 私は大学院を中退して仕事をしたものの、障害などの理由もあり、どの仕事も中々続かず、経済的自立ができない者です。しっかりできない、頑張れない者です。私自身も社会で居場所がなく、孤独を感じている者です。

 

 社会で「普通」とされる生き方にしんどさを感じ生きづらさを抱えている人たちがいるようです。仕事ができない、あるいは人に認められる何らかの能力をもっていないと他者と繋がることができず、社会で孤立してしまい居場所がなくなってしまう状況です。このように、社会に適応できずに孤立しがちな人の中でも、一人孤独に過ごすのではなく、人との交流を欲している人もいるでしょう。そういう人たちが、がぼちぼち集まってのんびりと交流できる場を設けたいと考えています。

 

・話してもいいし、話さなくてもいい。

・自分のやりたい作業(読書・パソコン・スマホetc)をしていいです。

・言い合ったりはしない。助け合いの精神で。

 

(会場は食べ物禁止です。飲み物は可。100円でオーガニックコーヒーが飲めます)

 

 

質問等ございましたら、ツイッターのDM、もしくはブログトップのメールアドレスに連絡ください。

個性を求められることのしんどさ

以前、恥を覚悟で私の苦しさをブログに書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

この苦しみは、私が自己アイデンティティを確立できていないゆえから生じているのだろう。

 

活動や表現活動がうまくできない、センスがなく他人から反応が薄く自己アイデンティティがグラグラしてる。私には高尚な部分もあるし下劣で未熟な部分もある。どっちつかずであることなど。

 

 

 

私たちは「自分が何者なのか?」を問われ続け、他者とは違う自己を示すことを強迫される。

 

アイデンティティとは他者との関係性のなかで立ち現れる。

 

 

他者から自分はどう名指しされているのか、そして、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れるというポジショナリティ(位置性)によって自己は形成される

 

千田有紀、2005、「アイデンティティとポジショナリティ」上野千鶴子編『脱アイデンティティ勁草書房、p.269

 

 

 

 

自己アイデンティティがグラグラしていると、自分のポジショニングができないので心が安定しない。 つまり、自己アイデンティティが確立されていないというのは、他者や社会との関係の仕方が確立できていない状態である。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

 

しかし、この自己アイデンティティというものを示していく作業はしんどいものだ。

 

自己が何者であるかを表現するのは難しい。自己の内面を表現する言語能力やアートの能力が必要とされるからである。

 

ゆえに、表現能力にハンディをもつ人にとって自己表現は難しく、他者からもその人がどんな人なのかうまく認知されず承認を得ることも難しくなる。このようなコミュニケーション弱者(コミュ障などと呼ばれる)は自己表現がうまくできず、他者との関係の中で自分が何者であり、何を考えているのかを示すことができず、結果、他者から受け入れらない、あるいは、自分が示したい自己とは違うイメージが他者から認知され、居心地の悪さや生きづらさを感じるのである。

 

 

他者から自分を認知してもらうには、絶えず自己アイデンティティ(自分は何者なのか)を示していかなければいけない。自己アイデンティティとは他者との差異=記号である。

 

現代消費社会においては自己アイデンティティも記号として他者から消費されるのである。

私たちは、社会のなかで誰かから反応され受容されるためにも、自己アイデンティティ(=個性=自分らしさ)という記号を他者に示していかなければならない

 

そして、自分は何者であるか自己のオリジナリティが示せないと不全感に陥ることになる。

 

 

現代消費社会においては、絶えず新しい何かを生み出さないといけないと駆られ、私たちは常に他者との差異を示し自己のアイデンティティを際立たせることを迫られているからだ。

 

現代消費社会においては、モノにまとわりつく記号や観念が消費されるというのは社会学ボードリヤールが示している。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

差異の提示、これは、競争(他者と比べて自分はどのように違うか、どのように優位なのか?)、あるいは、成長・改革(過去の自分と比べて今の自分の違いを示す、あるいは、「今の自分のままではダメだ」と思ってしまうこと)といった言葉で語られるのである。

 

 

この社会では他者から承認されるには、金を稼げるか、人の役に立つか、面白いことができるか、など生産性や有用性といった条件を求められる。 ゆえに、それらの魅力資源がない弱者は他者に示せる自己アイデンティティすら持つことができず存在そのものがまなざされることもなく、承認もされない。 それによって、疎外感を覚えしんどさを感じるのである。

 

 

ブログを読んでもらえればわかる通り、私は自己表現が極めて下手くそである。そして、表現能力が乏しいゆえに、何か新しいことを示したり、他者との違いを示すような言語能力をもてない状況にいる(能力をつけるにはトレーニングしかないが、それもキツい人はどうするのか→私は本を読んだり文章を書くのがしんどくなってきている)。

 

絶えずオリジナリティ(=他者との違い)を提示することを迫られるのがしんどいのである。

 

だいたい、自分のオリジナリティを他者との違いによって示せる人がどれだけいるのか。みんな、「普通」や「大きな物語」に合わせて自分を語っているだけで、自分はオリジナルだと錯覚しているのではないか。

 

この記事では、個性(=他者との差異に基づき自己アイデンティティを示すこと)を求める社会は息苦しさを生むという問題を提示した。

 

「自分らしさ(=個性)を示すなんて、こりごりだ」と開き直ってしまうのがよいのかもしれない。

 

有用なことを示さずとも、キャスなどもだらだら気の向くまま適当に語るのがいいのかもしれない。

 

うまい打開策が見つからない。コミュ障の当事者研究などやるのがよいのかも。テキトーになれれば楽になれそうなのだがねー。

恋愛してもしなくてもよい

ネット上で47歳の童貞の人が「もう結婚できない」と嘆いていて、話題になっていた。

 

anond.hatelabo.jp

 

 

童貞の苦しみはあると思う。男性は「女性とたくさんセックスしないといけない」、「結婚できないと恥ずかしい」とった男性性の価値意識を内在化してしまい、こじらせることで苦しみに至る人がいる。

 

「男たるもの女の一つでもモノにしなければいけない」という言葉がよく男たちの間で交わされる。

 

女をモノにすることで、男同士は性的主体としてお互いを認めあい連帯を深めようとする。童貞や非モテは「男になりそこねた者」という扱いを受けて、男の階級の中で劣位に置かれてしまう。男は男同士の中でよいポジションを得るために、男として認められるよう童貞を捨てよう、恋人をつくろうと必死になるのである。

 

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。

 

上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』、p.29)

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

そういう男性性の価値意識は、女を性的客体としてモノ化するだけでなく、男は女を支配の対象としてまなざすことになる。それでは、相手を人として尊重する意識がないがしろにされやすい。

 

「童貞は恥ずかしい」という言葉には、「男は女をモノにして当たり前だ」という価値観が前提としてあり、女性の人格や性的主体性は軽んじられ、性的な客体としてのみ女性を対象化している問題がある。童貞いじりは究極のミソジニーであるといえよう。

 

 

 

この社会は「恋愛」を持ち上げ過ぎである。古典、小説、ドラマでのテーマは「恋愛」ばかりであり、文化によって「恋愛は素晴らしい」という価値観が常に生産されている。「恋愛はよい」という価値観はあってもいいのだが、それが強調されることで、恋愛しない人・恋愛できない人が圧迫される。

 

恋愛はみんなができるものではない。性愛にはコードが存在し、人間関係形成のトレーニングあるいはテクニックが求められる。「恋愛工学」という言葉が示すとおり、恋愛は自然発生的に起こるものではなく、作為をもって成されるものである。性愛のコードは論理のコードではない。恋愛至上主義は理知で動く人をますます息苦しくするだろう。

 

恋愛が重視される社会では、性愛の関係があらゆる関係において優位とされる。「異性との親密な関係」に高い価値が置かれる。 あらゆる人間関係の中で「異性との親密な関係」のみが特権化されるが、そこには論理的な根拠はない。 私たちは、この無根拠な価値観によって異性と親密になり恋愛関係にならなければいけないと煽られている。

 

「恋愛やセックス経験の多さなどどうでもいい」と言うことで、社会を支配する異性愛秩序が相対化されるべきだ。

 

 

人から愛されることがみんな素晴らしいというが、誰からも愛されなくても人はそれ自身で尊い

 

「愛されても愛されなくても私は肯定される!」と言おう。

近況(半ニートの苦しみ・・)

弱音をはきたい。

 

大学院博士課程を辞めて2年半が経過したが、状況は良くない。

 

実家ぐらしの半ニートである。

 

私は、徹底的に無能である。仕事はできない起業もできない。ブログもアフィリエイトの審査で落とされた。とはいっても一日100PVもいかない弱小ブログであるが。

 

学生時代や大学院時代の人は離れていった。何もしていない(=生産的で有用なものを生み出せない)私のような人間は、誰からも相手にされない。

 

誰かに会っても「大学院辞めて、何をしているのか?」、「何か面白いこと、有意義なことができなければいけない。金を稼げるような能力がないといけない」という有音・無音のプレッシャーを受ける。

 

人の言葉あるいはネットなどの情報から、「生産的な人間であらなければいけない」、「有用な価値を生み出せる人間ではなくてはいけない」というプレッシャーを受けるたびに、息苦しくて頭が締め付けられるように痛くなる。

 

私は何もできない。生産的で有用なことをしなければ社会的承認が得られないという地獄をこれでもかというほど味わった。

 

私は、以前ブログで「何もしなくてもいい。何かをしなければいけないというプレッシャーから自由になりたい」と書いた。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

しかし、一方で何かしら成さなければならないというプレッシャーは隠すことはできない。やはり、人間は承認の生き物であるからだ。

 

今は、ツイッターやブログで知り合ったわずかな人との交流で生かされている感じだ。感謝している。しかし、京都には誰も会ってくれる人はいないので寂しさを感じている。

 

 

 

私は、7月に神戸から京都の実家に帰った。前にルームシェアしてた元同居人から家から出ていくように言われたからだ。元同居人は寂しがりやだったのに私があまり構わなくなったのが原因だろう。しかし、ルームシェア(事実上の居候だったが)していたら、毎日会うから話すことも無くなっていかないだろうか?

 

私は、一人暮らしできるほど労働ができない。前のバイトは9:00-18:00勤務の週3やってたが、体調不良をおこして休んだり早退をよくしていた。稼ぎは月10万もいかない。

 

なので、実家に戻るしかなかった。

 

7月はまるまる野宿旅行をしていた。京都ー和歌山100km歩いたり、埼玉から仙台まで420km歩いたり。琵琶湖に泳ぎに行ったり。

 

旅をしている間は爽快だ。悩みや不安なんて歩いているうちに吹っ飛ぶ。歩き終わったら食事の準備やトイレで体を洗ったり洗濯をしたりして時間はあっという間に過ぎていく。

 

野宿旅は金ができたらまたやってみたい。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

10月からはバイトをようやく見つけた。生活については実家の世話になるが、活動費や通院費は自分で稼ぎたい。

 

私は、もう仕事は全然できないし、本を読んでも頭に入ってこない。ブログでも何か独特な知見を生み出せるわけでもない。諦念を覚えつつある。もがけばもがくほど、何も有為なことを成すことができない虚しさからの苦しみを感じる。

 

しかし、何もせずにじっとしていられないので何かをしてしまう。しかし、人から評価されることは全くできないので、またもや自己肯定感を失い、苦しさが襲う時もある。

 

 

図書館で鶴見済完全自殺マニュアル』を読んで、自殺した漫画家の山田花子さんの言葉に目が止まった。

 

「何の取り柄もなく人に好かれないなら死んじまえ」

 

 

私は言いたい。

 

「何の取り柄もなく人に好かれなくても、ぼちぼち気楽に生きられないものだろうか」

生活保護制度の隠れた問題点

ざっと書く。

 

 

・単身居住を求められる

 

私は、以前役所に生活保護の相談に行ったことがある。その時は、知人の男性の家に同居させてもらっていた。生活保護を受給するためには独身者の場合、単身にならなければいけないと言われた。生活保護制度は本人の「自立」を目指すものであり、誰かと同居していることは「自立」とは認められないためだという。シェアハウスなどで暮らしている人の生活保護受給も認められないだろう。

 

知人や友人と暮らしていた者が、生活保護を受けるために単身世帯となって一人暮らしをするようになれば、ますます社会から孤立していくようになる。生活保護制度はなぜ人との繋がりを断ち切るような仕組みにするのだろうか。一部は仲間に支えてもらい、不足する分は生活保護で助けるという仕組みになればよい。

 

 

 

・モノがもらえない

 

私は、生活保護受給者の知り合いで、受給保護を受けていてもなお生活が困窮してしまう人を見てきた。フードバンクの利用も生活保護受給者は受けられないという話も聞いた。私は、その方への食料などの物資の支援をツイッターで呼びかけたのだが、「生活保護受給者は寄付などを受けるのはルール違反だから、送ってはダメだ」とツイッター上で注意を受けた。生活保護受給者でも最低限度の生活に困っているのに、それは自業自得だからと見殺しにするのか?

 

 

人が生活するにあたって活用するのは「自助」「共助」「公助」の3つである。

 

「自助」は、自身の経済活動や自給などで自分を支えること。

「共助」は誰かに助けてもらうこと。

「公助」は、「自助」と「共助」だけでは足りない部分を公による再分配として支援されることである。

 

人間は生きる上でこの3つを組み合わせて生きれば良い。自力で生きようが人から助けられて生きようが自由である。

ところが、生活保護制度(「公助」)は、受給者に対して「自助」による生活再建しか許さない。他人から助けられて生きることを許さないのである。こういう仕組みも、人との繋がりを断ち切るものとして作用している

 

 

生活保護制度は、憲法における生存権健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)を保障する仕組みであるので、就労意思を問うことや一人暮らしを強制するといった条件をつけることは本来的にはおかしいはずである。

 

そして、生活保護制度のいう「自立」や「自助」を受給者に求めれば求めるほど、受給者が人との繋がりを創造することを妨げたり、繋がりを断ち切る作用があることを指摘しておきたい。