「六甲山で野草をつんで食べる会」を主催します。
集合は、13時頃に東灘区の阪急の駅です。
連絡いただけたら詳細の場所を教えます。
haruka.omae@gmail.com
山で野草をとってその場で天ぷらにして食べようと考えてます。
20〜30分くらい歩くと思います。
動きやすい服装でお越しください。
野草については過去記事にて
「六甲山で野草をつんで食べる会」を主催します。
集合は、13時頃に東灘区の阪急の駅です。
連絡いただけたら詳細の場所を教えます。
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山で野草をとってその場で天ぷらにして食べようと考えてます。
20〜30分くらい歩くと思います。
動きやすい服装でお越しください。
野草については過去記事にて
たびたび西成に行っている。
今、日雇労働者の街である西成は再開発問題で揺れている。
3/31に閉鎖予定だったあいりんセンターは、活動家や労働者の抵抗により一階部分は開放されている。ここで寝泊まりしている野宿生活者の方がたくさんいる(90名ほどという報告も)。
センター開放闘争についてに記事。
https://antigentrification.info/2019/04/11/20190411agic/
貧困層が集住する地域が再開発され、街が小綺麗になったり地価が上昇することでそれまで住んでいた生活困窮者(生活保護受給者、低所得者、路上生活者など)が地域から追い出される現象は、ジェントリフィケーションと呼ばれる。
都市研究者である原口剛さんは、ジェントリフィケーションについて以下のように述べている。
「それまで貧しい労働者階級が住んでいた場所に、富裕層、ミドルクラスの人たち、それまで見られなかった人たちが次々と流入し、住み始めてくる。そして老朽化したぼろぼろの建物が次第に高価なものになっていき、家賃がどんどん上がっていく。 そうすることによって、それまでそこになんとか住まいを見つけていた労働者たちが住めなくなり、だんだんとそこから追い払われていく」
2月頃、早朝のあいりんセンターに行ったことがある。
センターの一階の吹きさらしの広場や、二階の建物内部で野宿していた人がたくさんいた。
あいりんセンターは野宿生活者にとっての最後の砦である。 そこに野宿してる人たちへの生活保障をしないまま、一方的にセンターを閉鎖しようとするなんて、「人でなし」という言葉以外出てこない。
センターに来る野宿生活者の方たちに無料でいらない衣服をもらってもらおうと4/17(水)の午後に0円マーケットを主催した。
私が見てない間に衣服がいくつか貰われていったよう。よかった。
西成は安くて楽しい。最近はユーチューブで紹介され西成に行く若者が増えたそうだ。私もたびたび、ホルモン屋で食べたり、ドヤで泊まったりしている。
また、先程の講演の記事で、原口剛さんは、寄せ場と開発の歴史について以下のように指摘する。
「釜ヶ崎とオリンピックの話っていうのは本当に重要なポイントだと思うんですね。特にこれは西成特区とも絡むんですけど、特区構想がはらむ様々な問題のひとつは釜ヶ崎の労働者の文化、日雇い労働者の記憶、あるいは釜ヶ崎の街としての記憶が単なる “問題地域” という一言で、あるいはイメージが悪いという一言で片付けられ、あまりにも軽く考えられてしまっていることです。つまり記憶の重層性、本来その街が持っているはずの重層性が見落とされているというのが、とてもまずいことだと思います。 釜ヶ崎の街は今単身の男性の労働者がほとんどで、そして労働者が高齢化していて、長期的には街の人口が激減していくだろうということが当たり前の初期設定としてイメージされています。 しかしそこからさらに問いを深めていくならば、なぜ釜ヶ崎が単身労働者の街になったのかということです。昔はそこには、例えば「じゃりんこチエ」や「あしたのジョー」の漫画を見たらそうですけれども、子どもがたくさんいるという姿が当たり前にあったはずなのです。しかしそれが単身労働者の街として塗り替えられていったんですよね。 何のために塗り替えられていったのでしょうか。1970年代に大阪の地で万博が開催されました。当時まだ若かった単身男性の日雇い労働力を大量に確保しておかないと会場の建設が間に合わない。そのために釜ヶ崎は単身男性労働者の空間へと、日雇い労働者の供給点へと変えられていった歴史があるんですよね。 そういう歴史があって今現在の議論が行われているということを考えると、これを当たり前の環境として措定するわけには決していかないでしょう。そうじゃないと資本主義が刻み込んできた戦後史の様々な物事に対する反省的な視点というのを僕らはごっそりと見落としてしまうからです。 目の前に東京オリンピックがあるという時に、こういった歴史の抹消によって本来活かされるべき反省的視点が未来に繋がっていかないこと、そこが一番まずいところなんです」
釜ヶ崎などの寄せ場が戦後の開発における労働力の供給源となり街の人口構成をも変えてしまった。寄せ場から送り込まれる先は、建設現場、原発など国の開発の最前線であっただろう。日本の資本主義はその発展のために低賃金労働力を必要とした。労働者は路上生活をおくったり、ドヤ、安い住居に住み、その日暮らしの生活をおくれるだけの賃金しかもらえず貧困から脱出できない。資本主義の発展の過程で、資本は貧困層を貧困状態に置くことで、貧困層を労働へと駆り立て安価な労働力として延々と使い続けた。それが寄せ場の貧困の歴史であろう。そのような歴史の省察もないまま、「問題地域」として眼指され開発の標的にされている。釜ヶ崎を通して資本主義の歴史を振り返り、都市における貧困地域のあり方などを考えていかなければならないはずだ。
ツイッターでは、生活保護受給者をクズと呼び、「働いてないのに社会に物申すな」と言うなど、他人を否定し権利を剥奪する差別的な言説が目につく。
差別とは、人を属性や条件を理由に否定・冷遇することである。
ヘイトスピーチのように他者をその属性や条件(エスニシティ、社会的地位etc…)でもって、否定し、攻撃・貶めをおこなうことは正当化されない。
「このような言説も表現の自由として認めてもいいじゃないか」という人もいるが、差別的な言動はいかなる理由をもってしても正当化されない。
属性や条件によっては他人を否定したり貶めていいことが認められれば、公理として自分も属性や条件によって否定され貶められる。
自分と他者とを二分して、一方は優れており、他方は劣っているという決めつけをおこない、他者の権利を剥奪し、支配しようというのは、他者の自由の侵害であり、戦争を生み出す。
差別をしないということは、相互を尊重するということであり、お互いの尊厳と自由を守るためにも必要となってくる。
重要なのは「多様性の尊重」である。どのような属性の者であっても否定されず、権利が尊重され、自由でいられることである。それは、秩序の下位に置かれているマイノリティの権利が認められる方向でなければならない。
また、自分の正義を他人に押し付けることもあってはならない。私たちは自分の「自由」な言動をおこなうために他人からの「承認」を求めるが、相手を力づくで「承認」させようとするのは、命の奪い合いや支配−被支配関係を生む。
自分たちだけの「自由」―利得や信条―を主張し合うことがあったとしたら、それは「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)をもたらすことになる。そして、それを回避する方法が「自由の相互承認」である。
多様性が尊重されるための他者との関係のあり方について、見田宗介『社会学入門』(岩波新書、2006)における「交響圏」と「ルール圏」という概念が重要になると考える。
社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。一方は、歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。
(見田宗介、前掲書、p.172)
この二つの課題は、人間にとっての他者の、原的な両義性に対応している。
他者の両義性(p.173)。
・他者は第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。
・第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である。
他者は、互いに共感し、歓びを共有できる存在でもあれば、対立し、傷つけ合うこともあり、一方が他方を支配する抑圧をも生み出す。また、ある人たちの歓びが、他の人たちの歓びであるとは限らない。自分たちの歓びを望まない人たちにも強いることは〈善意による抑圧〉を招きうる。
見田は、共鳴する他者とは歓びを分かち合い、そうでない他者との間での不幸や困難を最小化するために、他者との関係のあり方に対して二つのモードを提示する(p.178)。
歓びや感動を共有する他者とは〈交歓〉という関係のモードで繋がり、これを「交響圏」とする。この圏域の外部の他者との関係とは、相互にその生き方の自由を尊重し侵害しないための協定agreementを結び、このような自由を保証するための、最小限度に必要な相互の制約のルールのシステムを明確にする。これは〈尊重〉という関係のモードであり、「ルール圏」とする。
つまり、すべての他者たちは相互に、
〈交歓する他者〉and/or〈尊重する他者〉
として関わる。
この「交響圏」とは、家族(ジェンダー家族だけでない)、友人、仲間、アソシエーション、宗教、コミューンなどとなろう。
もちろん、この「交響圏」の中の人間関係においても相互の自由は保障されなければならない。また、「交響圏」は自由に出入りできるものになる必要もある。
価値体系を共有する関係であっても、ともすれば、抑圧的な関係に転じやすい。支配-被支配の関係は生まれやすいし、外部から見えにくい集団や家族はブラックボックス化しやすい。宗教であれば教義によって「自由」が抑圧されることもある。
そのため、「連帯」や「友愛」よりも、個々人の「自由」が優先されるべきである。
愛し合うカップルはお互い一つになり溶け合いたいと願う。組織や集団も皆が一枚岩にならなければいけないという志向性をもっている。しかし、それは原理的に無理である。すべての人が自分と同じ規範をもっていると、他者は存在しないことになるからである。自分と全く同じ価値体系をもつ人間は自分の分身以外に存在しない。
ある人にとってもっともな理由は他の人にとっては納得のいかない理由である。納得のいかない理由によってなされた行為は不可解な行為であり、しばしばそのような行為をおこなう人物は不可解な(分けのわからない)人物である。要するに、ここで問題となっているのは人間の従う規範なのであって、異なる規範に従う者が、すなわち他者なのである。したがって、すべての人間があらゆる点で同一の規範に従うとすれば、この意味で他者は存在しないことになる。
親密な間柄であろうと他者との関係のとり方は、他者が自分とは異質な存在である事を認め、お互いを尊重する所からスタートしなければならない。 相互の異質性が尊重され、権利が認められることで「自由」が保障される。
「自由」は相互の尊重がなければ実現されない。。
逆説的だが、「自由」とはルールがあって成り立つのである。
【参考文献】
4/1、4/2に厚生労働省前で「引きこもりに福祉を! 社会保障を家族単位から個人単位へ」という訴えをおこなった。
厚生省職員が出所する時間帯で、職員たちに訴えるかたちとなった。
カンパなどで金が貯まったら、また東京の厚生省前で訴えをおこないたい。
この活動は継続していきたい。
【カンパ】もお願いします。交通費と宿泊費に使わせてもらいます。
●ゆうちょ銀行(普通)
金融機関コード:9900
店番:448
口座番号:1207633
◎ 厚生省職員たちに訴える
私は、「引きこもりに福祉を! 社会保障を家族単位から個人単位へ」という訴えをしています。
引きこもり問題とは貧困問題です。
具体的には以下の施策を要求します。
①生活保護を個人単位とする
②住宅政策(賃貸・家賃補助+賃料の抑制)
これこらのアクションを通して、福祉の家族主義(無業者の面倒を家族に押し付け国がノータッチであること)を批判します。 これは、経済的自立できない障害者、主婦、介護者なども対象になる。
民法の扶養義務は、経済困窮者に対する支援を家族がおこなうように定めている。このような、福祉の家族主義によって、国は家族に福祉の機能を丸投げしており、経済困窮者に対する福祉を回避している。
福祉の家族主義(扶養義務)によって、家族のうち誰かが障害をもつなどで働けなくなると、家族が経済的に支えることになり、家族の共倒れをも招く。
これは、社会保障が家族単位であることの弊害である。
働けない者が家族に頼らなくてもよい生活保障を求めるのは、このためである。
家族から離れたくても、生活保護や住宅支援が受けられないため、家族から離れて「自立」した生活ができない。このように、当事者は家族に頼らざるをえず依存的弱者になってしまう。当事者がどのように生活したいかという自己決定ができない状況を生んでおり、「自立」を妨げられている。
「養ってもらっている」というのは自分への負い目となるだけではなく、相手に対して弱い立場となる。
また、社会からは「半人前」と見られる。「半人前」と見られることは、差別され尊厳を傷つけられることである。
このように、家族主義(扶養義務)は差別を生んでいる。
家族主義は性差別をも生み出している。
現在の、「男女とその間の子」を標準家族として、「男性:稼ぎ手/女性:家事・パート」をモデルとするシステムでは、経済的自立できない女性と引きこもりなどは家族の中の男性稼ぎ手に経済的に依存することになり依存的弱者になる。
社会のシステムが家族単位であることで、家父長的(女性抑圧的)な構造が作られ、男性に対して弱者(女性や障害者、引きこもりなど)を従属させるようになっている。
このように、家族単位のシステムは、性差別をもうみだしている。
社会保障を個人単位として、「自立」した生活が可能になるよう制度改革を求める
・国は福祉の機能を家族に丸投げしない=家族の扶養義務を緩める。
・誰と住むか、あるいは一人で住むか自己決定の自由が権利として認められ、必要な生活保障(生活保護+住宅政策)がなされる。
日本における引きこもり問題は、家父長制に基づく家族主義的な社会保障制度によって生じていることを指摘しておきたい。
「引きこもり」が問題とされるのは、以下の2つにおいてである。
①金の供給源がないこと
②居場所がないこと
※今回は①を取り上げる、②についてはアイデンティティの確立との関連で述べられるべきことであり、おいおい整理したい。
働けない者に対する経済的支援は国に先立ち家族がおこなわなければならないとされており(民法における扶養義務)、家族に扶養能力が認められると生活保護は支給されない。障害年金が受け取れなければ、社会保障の網の目から漏れて金の供給源がなくなってしまう。
厚生労働省による生活保護制度の説明にも以下のように記されている。
生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します。
日本では福祉の機能を家族に過度に依存しすぎである。障害者、高齢者、ニートや引きこもりなど、その福祉(世話)を家族にばかり押し付けてきた。家族主義を都合のよいイデオロギーとして、国家は生産性のない者に対する福祉を回避してきたのだ。
引きこもりでも「家族に養ってもらっているから問題ないでしょう」と言われるが、私が問題としてるのは今の家族単位に基づく社会保障のあり方です。引きこもりなど経済困窮者の支援(福祉)を家族に押し付け、国が支援にノータッチであることを批判している。
引きこもり問題で何が批判のターゲットにされるべきかというと家父長制である。
日本の税制や社会保障は家族単位でなされている。単位となっている家族とは、「男女のペアとその間の子」である。
「男女のペアとその間の子」を標準家族として制度的特権を与えている家族主義的な現行制度は、家父長的(女性抑圧的)である。
年金の第3号被保険者制度や「103万円の壁」と呼ばれる税制も、稼ぐ夫とその経済力に依存する妻という構造を前提としたものである。
戦後のサラリーマン(年功制)という働き方は、長時間働く男性とそれを支える主婦というジェンダー秩序を生み出し、主婦パートの低賃金や103万円の壁によって、女性の経済的自立は阻害され、女性は男性に経済的に従属する立場に置かれる。
伊田広行『シングル単位の恋愛・家族論』では、以下のように指摘される。
結局、職場における年功システム(年功序列賃金、終身雇用、家族賃金)は、家族単位で考えている制度で、男性を会社人間にする一方、女性を中核ルートから排除し、女性を二流の労働者(パート、補助職、一般職)とする制度である(p.13)。
男女のどちらが稼ぎ手になるかは制度では決められてないが、男女の賃金格差は大きく【注1】、男性が稼ぎ手となる方が世帯収入が有利となる。男性優位の経済構造が男性が稼ぎ手となるようプッシュしているのである。
扶養義務により、女性だけでなく、経済的自立ができない者も家族の中で経済力がある者(=稼ぎ手男性)に依存することになり、従属的な立場に置かれてしまう(養われていることは、それだけで負い目を感じさせる)。
このように、経済的弱者が家族の中の男性稼ぎ手に養われ依存することで、ますます稼ぎ手男性の立場は強いものになる。現在の家族主義的な社会保障のあり方は男性稼ぎ手の権力を増長する仕組みになっていることから家父長的であると言えるのである。
【注1】
男女の賃金格差(男性を100とした場合)は73.4となっている(賃金構造基本統計調査、2017)。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2017/dl/01.pdf
社会の最小単位が家族となり男女の二人がペアである事が標準とされることにより、ペアにならず一人のままでは不完全な状態であるという意識が生まれる。
男女で一つの単位とする家族主義的な発想こそ、差別を生み出しているといえる。家族主義が強いと、未婚者やシングルの人が「半端者」と見られる。
家族主義は、経済的自立ができず家族をつくれない者をも差別する。
経済的自立ができない障害者、引きこもり、無業者などは「半人前」と言われて劣った者とされる。
ある属性に属する人を劣ったものと見なし、冷遇することは差別である。「半端者」「半人前」という言葉には差別が含意されている。
日本では民法における家族の扶養義務のため、経済困窮者(経済的自立できない者)は家族に支えてもらうことになる。他人に養ってもらってる者は「半人前」と見られてしまう。他人の経済に依存することによって、「自立」ができず、従属的な地位に置かれてしまう。
このように、家父長的な家族主義的制度が、引きもりなど「半人前」と呼ばれる依存的弱者を生み出し、差別を作っていると言える。
家父長制に基づく家族主義的な社会保障システムにより、経済的自立ができない者への金銭支援がなく、福祉の空白が生まれている。引きこもりの人の「自立」のためには福祉が必要である。
家族主義は男女を一つの単位する発想であり、男女の二分法を前提として成り立っている。経済構造と制度が相まって性別役割が生み出され、女性(経済的弱者)を男性に従属させることで、性差別が維持・強化されていることも指摘した。
差別を生み出す男女のジェンダー二分法を乗り越えるためにも、家族主義を見直さなければならない。
※引きこもり問題が家族主義・家父長制に基づくことについては、伊田広行氏の『シングル単位の社会論』を読んだことで得た知見から導き出した結論です。今後の引きこもり問題への議論の切り口となってほしいところです。
シングル単位の社会論―ジェンダー・フリーな社会へ (SEKAISHISO SEMINAR)
※過去関連ブログ記事
韓国の家庭では冬にキムチを漬けます。
キムチ作りを何度かしているので作り方を載せます。材料の目分量は適当です。適当でも美味しくできます。動物性のものを使ってません。
【材料】
白菜1/4玉
玉ねぎ 1/2
人参 1/2
大根 1/4
にんにく 3かけ
しょうが 5切れ
りんご 1/2個
ニラ 5本
唐辛子の粉 50g
水 200ml
塩 大量
※ にんにく、しょうがなどは面倒ならチューブでもいけます。
白菜の葉っぱ一枚一枚に塩をまぶしていきます。塩を塗る感じです。芯のところにも塩を練り込む感じで塩を惜しみなく使う。
ボウルなどに白菜を入れて袋などに包んで、半日〜一日常温で放置します。時間が経つと白菜から水分がたくさん出て、しんなりします。
ヤンニョムにするものをボウルに入れていく。
・玉ねぎ、にんにく、しょうが、りんごは摩り下ろす。
・大根、人参は短冊切り
・ニラは5cmに切る
以上に水と唐辛子を入れて混ぜる。ヤンニョムの出来上がり
白菜の水分を切ってヤンニョムを練り込む。
白菜の葉っぱ一枚一枚にヤンニョムを塗っていく。
芯の方にヤンニョムを押し込むように塗る。
常温あるいは冷蔵庫に2〜3日ほどおけばキムチの完成です。白菜を包丁やハサミで切って食べやすい大きさに。
キムチは保存がきくので便利。そのまま食べてもよいし、焼き飯、チゲ、スンドゥブ、炒めものと色々調理できます。冬はラップをかけて常温でも大丈夫。
味噌を自分で作ってみよう。
年明け頃が味噌の漬けどきです。
市販の味噌は、化学的に培養された菌を使い、味噌のタンクを温めて無理矢理に発酵させ3ヶ月くらいで作るそうだ。自分で作る味噌は化学薬品を使わず、自然発酵の過程でアミノ酸もたっぷり出る。カメひとつ分でかなりの量の味噌ができます。
【材料】(できあがり4.5kg)
大豆1kg、塩500g、米こうじ1kg
【用意するもの】
・鍋(圧力鍋が便利)
・バランなど味噌をカバーするもの。
→私は山の中で笹の葉を取ってきてカメの口に合うように切った。
・小石(重石用、その辺で拾う)
・ボウル
・ゴンベラ
・マッシャー
(0)前日に大豆を水につける
※圧力鍋の場合は水につける必要はない
(1)カメや小石等を洗う
・カメはお湯をかけて消毒。
・小石は沸騰させたお湯に入れ、取り出したら塩水に浸す→石の表面に白い食塩がうっすら付きカビ防止になる。
・バランは塩水に浸す。
(2)大豆を煮る
圧力鍋なら10~15分くらい。普通の鍋なら5時間。
(3)大豆をつぶす
煮上がった大豆をザルにあげる。煮汁は使うので保管しておく。
大豆をマッシャーなどで潰す。ビール瓶の底でもいける!
(4)つぶした大豆に塩と米こうじを混ぜる
とっておいた煮汁を少しずつ入れながら混ぜていく。
(5)30分ほど放置
(6)かめに仕込む
①カメの側面に味噌が付かないように丁寧に入れていく(内側が汚れたら食塩水で濡らした布などでふく)。
②ゴンベラで表面を整える。
③バランで隙間なく敷き詰める。
④小石をのせる。
⑤カメにラップをする(発酵液の蒸発を防ぐ。ハエなどの侵入を防ぐ)。
⑥カメに蓋をする。
(7)日の当たらない常温下で保存。一年おけば出来上がり