生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

市場経済に乗っかれない人

 私たちの生きている(先進国の)社会は市場経済で成り立っている。市場経済はカネを介した商品のやり取りで成り立っている。私たちの社会を取り巻く市場経済の中では、モノやサービス、労働は商品となる必要があり、商品にならないモノは無価値なモノとして扱われる。  

 

 消費者である私たちは、商品であるモノやサービスに使用価値や有用性を認め、それらを享受するためにモノやサービスの価格に相当するカネを支払っている。 消費者として生きるためにはカネが必要であり、カネを得るためには労働をして稼がなくてはならない。市場経済の中では、カネを稼ぐために私たちは労働市場で商品になり雇用主に労働力という商品を提供しなければいけない。社会は、私たちに労働力という商品になってカネを稼ぐよう要請する。労働市場で評価されず労働力=商品とならない/なれない者は、この社会ではゴミ同然の無価値な人間と扱われ居場所がなくなり肩身が狭い。  

 

 働こうという意志をもって就職活動をするが、面接で自分のヤル気を示すために過剰な自己アピールをすることについて行けない人もいる。労働をするには、嫌なことをしていても、いつも明るい表情で元気なふりをしておかなければいけない。ネクラはメンタリティ的に労働戦線に乗っかれないのだ。  

 

 労働戦線に乗っかれて正社員になっても、長時間労働が続き薄給であると働く意欲が萎えてくる。また、うつ病躁うつ病統合失調症などの精神障害を患って、がんばって働く路線について行けない人たちがいる。しかし、依然、社会が私たちに命令するのは「定職に就いてがむしゃらに働け」である。

 

 定職に就いていない、つまり労働力という商品になっていないと、落ちこぼれという烙印を押され負い目を感じなければ生きていけない社会で私たちは生きている。 カネを稼げない者は思うように商品を買えず消費ができなくなる。現代の市場経済の中では、消費が思うようにできない者は、生活が破綻しているとみなされ、人間失格の烙印を押される。Z.バウマンは、消費ができない貧困状態にある人たちを「破棄された生」と呼んだ。    

 

 このように、市場経済が支配する社会では、労働市場で労働者という商品になれない者、あるいは自分の手で商品を生み出せない者は低所得の貧乏人として扱われ、カネがないので人並みの消費ができない生活破綻者として社会から見られてしまう。  

 

 私は、すべてが商品のやりとりで成り立つ市場経済の中で生きることに乗っかれなかったり、疲れたりした人たちが、どうやって幸せに生きていけるかを示すためにブログを書く。市場経済の文脈では評価されない生のあり方、つまり市場経済の外側にある非市場の部分を見つめることで、私たちの生き方や働き方について新しい方途を提示する