生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

社会にイイコトをすることで陥る自己犠牲という罠

 農村などで田舎暮らしをして、高齢化で低迷する農村を活性化させたいと何らかの活動に従事したいという若者が多い。

 

 しかし、地域活性化など社会にとってイイコトをすることは、やりがいを目的としていて、対価を求めず長時間労働も厭わないという自己犠牲のロジックに陥りやすく、活動内容がブラック化しやすい。  

 

 私は2012年の夏に、韓国で1ヶ月ほど、帰農した若者どうしで有機農産物を生産する農場で農作業を手伝っていた。そこでは、有機野菜(サンチュなど)を生産し、有機農産物を扱う農協に卸していた。自然に負荷を与えない環境親和的な農業で、消費者には健康によい農産物を供給することができる。また、高齢化した農村で若者が住めるような雇用の場をつくり、若者が力を合わせて地域経済に貢献する姿は一見美しく映る。  

 

 ところが、私が農作業を手伝っていた農場では、朝7時から農作業が始まって、作業が終わるのは夕方や夜の20時くらいになるなど、労働基準法なんか無視した長時間労働をしていた。社会にとってもイイコトをするために長時間の肉体労働も厭わないという空気があった。  

 

 ある日、1人の若者が急性腸炎になり朝の作業開始時に来れなくなったことがあった。腸炎になって体の調子が悪いので休んでも仕方がないであろう。しかし、その若者は農場のリーダー格の人から休んだことについて、怒鳴られながら叱責されていた。 この農場は、「キツイ仕事を一生懸命できる人はいてもいいが、仕事ができない人は捨てられる」という厳しい環境であった。  

 

 有機農産物などをつくり消費者に安全で健康にいい野菜を食べてもらおうという活動は、エコやロハスが持ち上げられる風潮が後押しして、社会にとってイイコトのように映る。肉体を犠牲にして休みなく長時間働き、社会に貢献することが美しいとされている。もっと言うと、社会にとっての奴隷となることが要求されるのだ。  

 

 社会にとってイイコトに自身を捧げて、やりがいという美辞麗句で労働や協働がブラック化してしまうのは、結局社会を変えるどころか、ますます社会を息苦しくしてしまう罠に陥ることになる。