生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

農産物の自給を主張する理由(1) 

 前回のブログで取り上げた、有機農業をおこなう若者グループと一緒に、有機農産物を扱う農協で野菜の袋詰のアルバイトをしていた話である。

 

 その農協でジャガイモや玉ねぎの袋詰めの仕事をしている時、ある作業者が野菜の袋への詰め方が汚かったため横にいた職員が怒って、「こんな詰め方じゃいかん。商品が消費者にどう見えるか考えろ」と怒鳴っていた。農産物をカネになる商品にするためには見た目をよくしなければいけない。  

 

 しかし、誰が食べるかもわからない農産物のために愛情を込めて育てることができるだろうか?結局、有機農産物など健康にいい食べ物を作っても、誰が食べるのかもわからないので、ぞんざいに扱ってしまうのが普通なのである。  

 

 自分で作った野菜を、自分たちだけで食べるならば、見た目を気にしなくていいのに、商品とするとなると見た目を重視せざるを得なくなる。商品となる野菜は、カネを生むモノとして、傷ついたり汚れたりしないように過保護に扱われるようになる。野菜の物神化である。  

 

 自分たちが食べる野菜を育てるなら、愛情が湧き野菜を我が子のように毎日丁寧に世話をする。しかし、自分が食べるわけでもない、誰ともわからない匿名の他者が食べる野菜をつくるというのは、野菜たちが自分のもとから離れてしまう感覚を覚えてしまう。そんな誰ともわからない他者が食べる野菜を、丁寧に扱い、包装をするのには、よそよそしさばかりを感じてしまう。

 

 有機農業などで自然環境に負荷を与えず健康にいい食べ物をつくり、地域の活性化にもなる社会貢献的な経済活動においても、野菜が他者の消費する商品になる限り、誰ともわからない消費者のために働き、よそよそしい労働になる限りでは、マルクスのいう「疎外された労働」がつきまとうことになる(*1)。

 

(*1)疎外とは「労働の生産物が、作り出した労働者とは別の人間の所有物となり、当の労働者にとってよそよそしいものになること」(マルクス『経済学・哲学草稿』、光分社古典新訳文庫、解説、p.272)。