生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

自給の理論(1)

 自給を考えるにあたって、イヴァン・イリイチの著書『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973=2015,渡辺京二訳,ちくま学芸文庫)を参照にして書いてみる。

 

 私たちは、生活に必要なモノやサービスを貨幣によって手に入れる生活に慣れきってしまっている。  

 機械や高度な技術によって作られた便利なモノは、一個人ではもはや作り出せない。現代文明の中では、パソコンや携帯電話といった高度な技術により作られたモノ無しでは私たちの生活は成り立たなくなっている。そのため、私たちの手では作り出せないモノを消費する生活を余儀なくされている。

 

 「機械の力が増大するにつれて、人間の役割はますます単なる消費者の役割におしさげられていく。」(p.38)  

 

 大量消費社会が成り立つ以前には、私たちは生活に必要なモノを作ってきた。現代ではモノの作り方を教わることができるが、それは、市場で商品となるモノの作り方である。私たちは、生活に必要なモノを自分で作り出すことをせず、他人が作った既成品をうまく消費して生活を成り立たせるにとどまっている。

 

 そして、大量消費社会で生きる人々は、「多くの品物やサービスを利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたないし、その品物をどうするかということも決められない。」(p.39)

 

 イリイチは、単なる消費者の地位に降格させられた我々のことを「富める国々の囚人」(p.39)と呼んだ。

 

 市場において商品にならない拙いモノでも、自分が愛情を込めて作り出し、自分の生活に彩りを与えているモノであれば、事足りるはずである。また、ケアなどのサービスも、自分や他人の面倒を見ることができれば何も専門家の助けは必要ない(自分で勉強しながらケアについて学べばいい)。

 

 「現代の医学は病弱な人々から、医師によって与えられる以外の看護を受ける機会を奪っている。」(p.122)  

 

 医療において漢方医などは、無資格でも病に苦しむ多くの人を救ってきた。今では、医療行為をおこなうには医師免許という資格が必要であり、医療の領域が有資格者により独占されている。  

 

 会社を体調不良で休むにも、医者に診てもらって診断書を書いてもらう必要がある。体調が悪いのは自分自身が感じて休むかどうかを判断すればいいのに、わざわざ有資格者である医者のジャッジを受けなければいけないのだ。  

 

 商品にせよ、医療にせよ、私たちは規格化されたモノやサービスを消費させられる。市場経済で商品にならないモノやサービスは、価値の低いものとして位置づけられる(自分で育てた野菜や、山で取ってきた野草は、汚く安全性が信頼できないとか言われる)。市場経済で商品として規格化されたモノやサービスが特権的な地位にあるためである。

 

 「人々は物を手に入れる必要があるだけでない。彼らはなによりも、暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったり世話したりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。」(p.39)

 

 市場経済での商品の購入は一つの選択肢であるという見方を得ると、商品に振り回される貨幣依存の生活から少し脱出できる。

 

 イリイチのいうコンヴィヴィアリティとは、「人々の能力と管理と自発性の範囲を拡大する」(p.17)生き方であり、生き生きとした「節度ある楽しみ」(p.19)を指している。

 

 生活に必要なモノやサービス、楽しみを自分で作り出すことで、商品や貨幣に全的に支配されない、自分の生活に対する統制権をもつ生き方を紡ぎだすことができる。

 

 

 

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)