生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

自給の理論(2)

 私たちが、商品にならないモノ、つまり市場経済で評価されないカネにならないモノをつくると、それは趣味や遊びとして、低い地位に位置づけられるか、無価値なモノとして扱われる。

 

 私たちがつくるモノは、市場で交換されうるモノ=有用性をもつモノでないと、無価値なモノとして扱われるのである。カネを稼げるモノをつくれてこそ一人前であり、意味のあるコトとして評価される。

 

 バタイユによると、人間の活動は、有用性や市場経済の領域に影響をもたらすコトによってのみ正当化されるようになり、非生産的で有用性に還元されないコトは、「呪われた部分」とされてしまった(*1)

 

  カネが稼げる有用な労働をしていないことで、人から非難され、人としてマトモではないという扱いを受けてしまう。 労働市場において労働力として評価され、カネを稼ぎ、稼いだカネで生活に必要なモノやサービスを得ることがマトモな生き方であるとされる。つまり、市場経済の中で順応できる労働者であり消費者であることが、現代消費社会では一人前の人間とみなされる。

 

 労働をせずマトモに稼いでいなければ、後ろ指をさされ、肩身の狭い思いをしなければいけない。

 

 カネを稼がなくとも、自分で必要なモノやサービスを作り出し暮らせていければ非難される理由はない。なぜ、労働をしてカネを稼ぐことのみが人間の評価の軸になるのか意味がわからない。

 

 市場経済でのみ有用とされるコトのみが特権的地位にあることがおかしい。

 

 カネを稼いでいなくても、つまり労働市場において労働力とならず、市場経済に乗っからなくても、自給したり、人にヒモになりながら生きていくコトも、生きる知恵や技として評価されてもいいはずである。

 

(*1)G.バタイユ(1973)『呪われた部分(バタイユ著作集)』二見書房