生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

消費について

 有名なレストランに行ったことをFBに載せる人は多いだろう(私も)。

 その人は、料理の味などを楽しむことよりも、その有名なレストランに行ったという行為を周囲に示したがっているのかもしれない。

 

 J.ボードリヤールは、現代消費社会において、人びとは有用性をもとにモノやサービスを消費するよりも、そのモノやサービスにまとわりつく記号や観念を消費していると述べた(*1)。あるモノやサービスを消費することで、自身のステータスを対外的に示すことを私たちはおこなっている。

 

 有名な美容室やヨガ教室に通ったり、文化水準の高さを示す雑誌などを購読することで、自身のステータスやアイデンティティを自分にも周囲にも示している。

 

 「人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。――理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。」(p.68)

 

 私たちは、消費するモノやサービスのもつイメージを他者に示すことで、「自分を他者よりも際立たせたい」という欲求(p.119)を満たし、「見せびらかしの差異効果」(p.118)を得ようとしている。

 

 ミシュランガイドに載った店にわざわざ行って他者への見せびらかしにより満足感を得るような消費なんてせず、他者からの評価に関係なく自分が真に満足できることに喜びを見出さればいい。

 

 市場経済において、カネを出して得られる商品は、それを生産するのに環境破壊を伴っていることも意識する点だ。また、経済成長がストップした日本では働いても給料は増えないので、カネを使って楽しみを享受しようとする方向にも限界が出てくるだろう(貧乏人なら尚更)。

 

 カネを出してモノやサービスを享受することで得られる効用のみに満足を見出す方向ではなく、カネを出さなくても得られる楽しみの見出し方をトレーニングしなければいけない。

 

 見田宗介も引用したが、バタイユは有用性に還元されない体験として、「奇跡のように街の光景を一変させる、朝の太陽の燦然(さんぜん)たる輝き」(*3)といった感性を働かせることで楽しみを見出すことを示した。

 

 カネを出さないで得られる楽しみは、美しい光景だけではなく、人との交流による交歓もあるだろう。

 

 何気ない日常の出来事にも楽しさは見いだされる。 こういった、楽しみや交歓を楽しむ能力には、感受性や好奇心、異なる他者への配慮と関心などが求められるだろう。

 

(*1)J.ボードリヤール(1970=1995)『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書房

(*2)http://digital.asahi.com/articles/DA3S11760782.html?_requesturl=articles%2FDA3S11760782.html&rm=499

(*3)G.バタイユ(1976=1990)『至高性』人文書院