生きるための思想

大学院博士課程を中退してフラフラ生きてる31歳の男です。社会学などの知見をもとに市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます(低所得、精神障害、非モテなどの弱者問題)。もともとは韓国で農村移住者を研究してた。金のかからない歩き野宿旅をしている(有料記事ノート https://note.mu/guide)。ツイッターで思う所をつぶやいてる。

希望「弱者」社会

1.「弱者」の誕生

「弱者」という言葉が最近飛びかうようになった。

 

さて、気づくことは、「私は弱者です」と言う人はたくさんいても、「私は強者です」と言う人はいない。

 

「弱者」になれば、さまざまな義務が免責され、支援が受けられる対象となる。しかし、「強者」になれば、社会的責任を果たさなければいけないし、弱者を助けたり配慮したりしなければいけない。従って、「強者」はいろいろ面倒くさい役割を果たさなければいけないので、「座りたくない席=貧乏くじ」と映るのだろう。

 

もちろん、障害者など明らかに生活や就労にハンディがある人は必要な支援が受けられるべきだ。しかし、日本の社会保障が貧弱なために支援を受けられない「弱者」も多く存在する。

 

社会の構成員である私たちは、その能力に応じて社会的な役割を果たし、ハンディがある場合はそれが補完される措置がとられるという市民社会の原則は重要である。

 

しかし、自分こそが最も「弱者」であり人から手心を加えてもらい助けてもらうべき存在だと主張する人がたくさん出てきて、「弱者」の地位の争奪戦が繰り広げられている雰囲気がある。

 

この社会において、生きづらさを抱えている人が多くなり、「孤独な群衆」(リースマン)となった個人の「誰かから助けてもらいたい」「自分の生きづらさを知ってもらいたい」という欲求の反映なのだろう。

 

2.みんなが「弱者」になりたがっている

問題は社会の構成員全員が「弱者」と認定されたがっている現状である。

 

エリートサラリーマンや大学教員でさえ、自分を「弱者」と位置づけたがる人はいる。

 

私の大学の知り合いで総合商社(年収1,000万クラス)で働いている男性は、

 

「俺まったく仕事できないわ。まさに社会不適合者だわ」と言っていたが、大学教授の両親のもとで育ち、高い年収と肩書を得て、友達も多いし恋人も途絶えたことがないほどなので、やはりフェアに評価するとエリートのサラブレッドだろう。

 

 

ある大学の准教授は、

 

「私の言うことは教授会で通らないし、著書をたくさん書いているにも関わらず教授になれない。私なんて末端だよ」とボヤいていた。

 

社会的地位が高いにも関わらず、「弱者」ヅラする人は多いのである。

 

3.社会的責任から放免されたい「強者」

やはり、この社会で社会的階層の高低を決定づける最大のパラメータは経済力である。例外もあるが、やはり経済力がある人は強者と位置づけてよいと考える。マルクスの言う通りではあるが、経済力は権力を付随させる。

 

「ノンブレス・オブリージェ」という言葉がある。

 

経済力や権力を持つ者は、社会的責任を果たさなければいけないという意味だ。

 

「強者」は放っておけば自己の利益追求のために、その権力を利用して「弱者」を食い荒らしかねない。そのため、「強者」には高い倫理観が求められるのである。

 

社会的義務を果たさなければならない「強者」に誰もなりたがらない。みんな「弱者」の椅子に腰掛けて、社会的責任を免除され、好き勝手やりたいと思っている。

 

パワハラやセクハラは、権力を持つ者による倫理観の欠如した人権侵害である。こうした行為をおこなう権力者たちも、自分たちのことを「強者」とは言わない。自身を「弱者」と位置づけているからこそ、好き放題やるのである。

 

社会的責任を果たすことは、「徳」から生まれる行為であろう。

 

「徳」については以前ブログで書いた内容を見てもらいたい。

 

徳のある人間とは、「他人の痛みを理解し、他人に共感する有徳=内発的な振る舞いができる人間」である。

 

徳のある人間が少ないのが、今の日本社会の問題点であろう。

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.「オトナ」不在の日本

太平洋戦争の戦争責任についてはどうだろうか?

 

敗戦を迎え、戦争を推進した軍部トップや政治家たちは自ら責任をとるようなことはなかった。「雰囲気に流されて」戦局を拡大してしまい、引くに引けない泥沼に陥った。「自分のせいじゃない、みんなのせいだ」と。

 

これも、責任をとろうとしない「弱者」的態度である。どうやら、日本にはこのような体質が染み込んでいて、民主主義国家となった現在でも、誰も社会的責任をとりたがらない。

 

東日本大震災の時の福島の原発事故の時に、誰が責任をとったのか?

 

東電の幹部は逃げたり責任転嫁に躍起になり、原発を推進してきた自民党の誰も責任をとらなかった。

 

自分に被害が及ばないように誰も責任をとりたがらない。

 

学校では、イジメがあっても大人である教師たちは見て見ぬふり。面倒くさいことに関わろうとしない。

 

会社では、「俺がすべて責任とるから、お前は好きなことをやれ」という上司はいなくなった。失敗を部下に押し付け自分は関係ないよという態度のトップが増えてくる。

 

仏哲学者の内田樹は、誰も責任をとらない今の日本を、「オトナ」がいない社会と言っていた。

 

5.「弱者」を巡る闘争

みんなが「弱者」認定を望む社会になれば、誰が真の「弱者」であるかを巡って不毛な競争が生じ、「強者」と「弱者」に、あるいは「弱者」同士も(恣意的に)分断され、下手をすれば敵対することになる。

 

「弱者」同士がいがみ合うことで社会システムや政治の問題への批判がそらされるので、それを狙っている権力者もいるだろう。

 

また、「弱者」認定されることで自由を奪われる危険性もある。「弱者」として認定してやるから「弱者」らしく振る舞えという問題だ。「弱者」は支援を受ける代わりに、社会に対して文句を言うなという封じ込めがおこなわれる。こういうのは、生活保護者バッシングに代表されるだろう。

 

歴史社会学者の小熊英二によると、人々は今の不公正な秩序を変えることができない無力感や苛立ちを、秩序に合わない存在とされる「少数派」や「弱者」に向けているという(朝日新聞、2017年12月21日付『論壇時評』)。

 

「弱者」には、「在日」「生活保護」「沖縄」「LGBT」「障害者」「ベビーカー」などが含まれているとする。

 

www.asahi.com

 

 

6.各々ができる範囲で社会的役割を果たす

 

「個人的なことは政治的なこと」であるので、各々の抱える生きづらさや問題はこの社会のあり方と背中合わせにある。

 

地味ではあるが、自分の「弱さ」を自分の言葉で語ることが、社会変革に結びつくのだろう。

 

「弱さ」を正直に語ることができれば、自己肯定にも繋がりうる。私はこじらせていた時に以下の本で少し楽になった。

 

 

 

 

気をつけなければいけないのは、ミソジニーミサンドリーなどの性差別や、特定集団に対するヘイト言動に陥らないことである。

 

さきほどの、「モテる人間になりたい」というブログにも書いたが、社会学者の宮台真司「人から理解され、肯定され、承認されるという感情的な安全は、自分にとって、そして相手にとって「生命の安全」さえ保障する」という。

 

生きづらい人は自分のことで精一杯なのかもしれないが、自分も語り、そして他者の語りにも耳を傾け「弱さ」を認めあうことで、繋がりあうことだ。

 

他人に共感できない人にはこのような関係を築くのは難しい。成熟した市民になれるかどうかだ。

 

そして、自分の能力の範囲内で社会的役割を果たすという姿勢が生まれれば、誰もが「弱者」を競うようないびつな社会を脱皮できる。