1.発情するのは本能か?
「発情のしくみは生理的なもの以上に文化的・社会的なもの」
ミニスカに興奮する者は、ミニスカを履いてるのが女性であっても男性であっても(それを男性だと知りながら)反応するのだと言われている(森岡正博(2005)『感じない男』筑摩書房)。つまり、ミニスカという「女性性の記号」に欲情して反応しているのだ。
これは、性欲が本能ではなく、文化的につくられるということがよく分かる事例である。
「性豪」と呼ばれる男性を思い起こせばよい。かれらは「モノにした」女の数を誇るが、逆に言えば女と言えばだれにでも発情するほど、あるいは女体や女性器に、あるいは女性性の記号やパーツに自動反応するほど、条件づけされた「パブロフの犬」であることを告白しているのも同然だろう。かれらが反応しているのは、女ではなく、実のところ、女性性の記号なのだ。でなければどんな女でも「女というカテゴリー」のなかに溶かしこんでしまえるわけがない。
私たち男は、発情装置の溢れるこの社会に生きる中で「女性性の記号」に脊髄反射的に反応してしまうよう仕向けられてきたのではないか?
「男ならオンナに欲情するものだ」という文化的な圧力に不断にさらされ、それを本能だと勘違いしているのかもしれない(男なら子どもの時から、エロに関心をもつことが男らしいと、仲間から刷り込まれてきた)。
2.性犯罪は性欲が原因ではない
性欲があるから性交するわけでない。
人は、さまざまな理由から性交する。他人を支配したり、陵辱したり、愛撫したり、所有したり…‥するために性交する。強姦者が性欲から強姦するわけでないことは、よく知られている。
(上野千鶴子『発情装置』、p.115-116)
以下の記事の中で、男性学研究者の伊藤公雄は、「性暴力の背景にあるのは性欲ではなく支配欲である」と言う。斉藤章佳氏の『男が痴漢になる理由』では、「痴漢の半数が勃起していない」という調査結果を踏まえ、「性犯罪の動機を性欲だと決めつけることは、暴力の本質を見誤る」と指摘されているという。
近年の研究では、レイプとは社会的弱者の立場にある男性が、自分の攻撃性をさらに弱い相手に向けて発動する行為だということがわかっている
(上野千鶴子『発情装置』、p.71)
なお、強者男性の強姦は「犯罪化」されにくい。
はあちゅう事件であったように、性暴力をおこなう者は職務上の優位な力関係を利用して女性へ性行為を強要する(地位利用型の性暴力)。
女性は上司などの男性からの性的誘いを断れば、その上司との関係が悪くなり、自分のキャリアへの支障が出る、あるいは職場に居づらくなると考えてしまい「ノー」と言えない状況に追い込まれる。労働権を人質にとられていると言ってよい。また、性交後も女性は自身が被る不利益を考え、誰にも打ち明けられずに黙ってやりすごしてしまう。何もなかったこととして「犯罪化」されない。
集団強姦はどうか?2003年の早大のスーフリ事件を受けて、当時自民党の太田誠一議員は「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」と述べて強い非難をあびた。
スーフリ事件の集団強姦には、早稲田大学の学生はじめ、東京大学、慶応大学などエリート学生がケダモノ君になった。2005年には京大アメフト部の部員が女性を酒に酔わせ集団強姦した事件もあった。
エリート君でもケダモノになる性欲とは本能であろうか?
彦坂諦は『男性神話』(1991)のなかで、戦時強姦の目的は男同士の連帯を深めるため、と答えている。こんな状況でも男は勃起できるものだろうか、と素朴な問いを立てる必要はない。こういう状況で勃起できることが、「よぉーし、おまえを男と認めてやる」ことの条件なのだ。こうして女を共通の犠牲者とすることが、男同士の連帯のための儀式となる。
集団強姦は、「女をモノにする」ことで得られる男同士の性的主体(と認めあった)としての連帯感を生み出すためになされる。自分も強姦に加担することで、男同士から「度胸がある」と〈男らしさ〉が認められ連帯感を得る。
男同士の下ネタ(猥談)も男同士の連帯感を深めるためで、下ネタを話せない男は「ウブ」「女女っちい」など言われ男集団の中で劣位におかれる。男が男に対して「オンナ」、「ホモ」と言うことがいかに侮蔑的意味をもつか私たちは経験している。
男という性的主体への同一化は女を性的客体とすることで成り立ち(上野、2010、p.30)、男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった(上野、2010、p.28)。
男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。
3.性欲によって肯定される売買春
「男の性欲は女よりも強いから売買春は必要悪だ。売買春を無くしたら、性欲をもてあました男がどんな不届きな行為に及ぶかもしれない。強姦などの性犯罪が増える」などと言われる。
「射精は男にとっての生理」だの「性欲は本能だから仕方ない」だのの理由で売買春が肯定されるが、そんなものは小倉千加子が『セックス神話解体新書』(1988)で論破しているとのこと。
『解体新書』を説明した牟田和恵(2001)によると、
人は本能によってセックスするのではないし、いわんや性欲が満たされないからといって、強姦に走るわけでもない。排出されなかった精子は体内に吸収され、「溜まった」のに発散できないからといって爆発したりはしない。そこで「暴発」的な行為に走るとすれば、それはその行動のレパートリーをしっかりと学習した結果に他ならない。
だいたい、売買春の実態を見れば、既婚者が大半で(既婚者しか買わないとすれば売買春はじめセックス産業はなりたたないだろう)、セックスパートナーがないから買春するわけではない。売買春は、交接しそのことによって生理的欲求を満たすためだけに買春するのではなく、売春女性とのセックスに付随するイメージを買うのだ。現実に取り引きされるのは性サービスであるかもしれないが、観念の上では、買春とは「セックスを買う」のではなく、品のよろしくない表現でいうように、まさに「女を買う」行為なのだ。
金は権力であり支配の手段である。「女を買う」とは「女を支配する」ということである。男は、性欲という名のもとに女を支配しようとしているに過ぎないのだ。
男が「女を買う」のは、経済的取引であるだけではなく、力関係を象徴する。手に入れることの難しいはずの、禁止されているはずのものを金銭という権力を介して入手し相手の性を支配する―その充足、達成の快楽が性の欲望を形作っている。
(牟田和恵『実践するフェミニズム』、p.188)
4.性欲はコントロール可能か?
食欲と違って性欲は、満たされなかったとしても死ぬわけではない。男はたまったら出すというが、なにも女性器に出す必要はない。使わなければポテンツが低下する「非作業性萎縮」もある。
一ヶ月はおろか一年以上、さらに数十年にわたって「セックスがない」人々が、十分に健康であるばかりか精神的にも充実した生活をおくっている調査もあるという(マイケル、ガニオンなど(1994=1996)『セックス・イン・アメリカ』日本放送出版協会)。
性欲とは男の場合、生理的欲求ではなく、「女性性という記号」に反応するもので、その記号は文化的・社会的につくられたものだ。むらむらするのは大脳であって、性器ではない。
フーコーによれば、性は「自然」に属する本能的なものではなく、性は社会や文化の影響を受けて変化し、わたしたちが思っている以上にその変化のスピードが速いという(上野千鶴子(2016)『<おんな>の思想』集英社文庫)。
例えば、テレビでも見たことがある光景だが、社会によっては、服を着ない所もあり、そういう所では女性は裸で乳房を出して外を出歩いている。それが当たり前の光景なら男はいちいち乳房を見て欲情しない。江戸時代には人前で授乳したり混浴なども一般的で、乳房に対する関心は低いものであったという。胸を隠すという習俗は日本では比較的新しいものだという(ブラジャーの普及が乳房の性的価値を高めたとも)。
何がエロいのかは歴史的に変わり、発情の対象である記号は文化的につくられるものだ。性欲は文化的につくられ学習されて身についたものであるから、性欲は学習によって飼いならすことが可能ということになる。
自分が何に欲情するのか、それはどのような文化から学習されたのか、つまり、発情の機序を暴くことができれば、エロいとされることに欲情しなくなるのだろうか。
【文献】
- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
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