生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

オス負け犬の「愛」

1.「愛」は性的交流を必ずしも伴わない

 

性愛とは「自分が他者の身体を必要とする(欲する)」という現象橋爪大三郎、2017、『性愛論』河出出版、p.18)と言われる。性的志向の対象となる相手と話したい、手を握りたい、触れ合いたい、そして心でも繋がりたい、そのような欲求が性愛である(異性愛者にとっては性愛の対象は異性となる)。心は見えない。だから心が宿る身体を欲するようになるのだという。

 

私は、「愛」について性愛と異なる定義をしておきたい。「愛」は友人、家族など性的志向の対象とならない者へも抱く感情。親密性とも呼べる。心の通じ合い、引き合うものであろう。自分の正直な心でつながっていたいという感情に基づく。

 

しかし、私たちの社会は、人間関係の中でも「性愛」でむすびつく関係を一番深く価値のあるものと位置づけ、結婚という制度的な優遇も与えている。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

 

「性愛」関係にあることは「愛」があるからだという前提が想定されている。

 

しかしながら、「性」が満たされても「愛」が満たされないという状況は往々に生じる。

 

結婚をしていて性的なパートナーがいても、「私のことを理解してくれる人はいない」、「誰からも必要とされない」という感情をいだくのは誰にも愛されていない、もしくは、愛が感じられていないと思うゆえだろう。

 

 

2.「愛」と「性」が一体となった近代

 

婚姻率が90%台後半であった「全員結婚社会」(落合恵美子)では、ほぼ全ての男女がペアになれた。1950〜60年台の男性の生涯未婚率(50歳までに一度も結婚したことがない人の割合)は1%台であった(2015年は男性23.37%、女性14.06%、データは国立社会保障・人口問題研究所)。

 

貞操観念の強い時代では、結婚して男女はセックスをするようになる(婚前交渉・結婚初夜などの言葉が存在した)。そこでは「愛」があったのかは疑わしい。

 

「全員結婚社会」とは、男にとってはだれにもひとりは女が配当される社会、女にとっては結婚しなくては生きていけない社会上野千鶴子(2013)『女たちのサバイバル作戦』文藝春愁)。

 

男女の経済格差が今以上に大きく女性は男性に経済的に依存せざるをえない状況にあった。高度経済成長時代も女性にとって結婚は「永久就職」であり、生存がかかっていた。

 

すべての男に女があてがわれる社会では、女性は男に従属する存在として犠牲になった社会であった。女性は夫からの人権侵害や暴力に耐え忍んできた。男の独りよがりで暴力的な性行為にも耐えてきてきただろう。

 

1960年代には恋愛結婚が見合い結婚を上回るようになる。近代は「愛」と「性」と「結婚」が一体となったロマンティック・ラブ・イデオロギーに支配されたが、間もなく、婚前交渉が当たり前となった1970年代から「性」と「結婚」の結びつきは切れた。しかし、結婚が恋愛によってなされるものへと変わり、恋愛の価値はますます高くなり、ロマンティック・ラブ・イデオロギーは猖獗(しょうけつ)をきわめた。「愛」と「性」の結びつきは強固になった。それが近代を支配する性愛観である。

 

恋愛の価値が高まる時期は、都市化が進んだ時期であった。向都離村の人口移動によりムラの共同体生活から都市の個人生活へと移った。個人個人はバラバラとなり、人の絆は所与のものではなく選び取るものになった。自立し孤独になった個人は「愛」への渇きを深め、ますます惹きあう。

 

恋愛病は、個人になった近代人の宿痾(しゅくあ)のようなものである。ひとりになった。だからひとりではいられない。ひとりになったことない人が、恋愛を求める理由はない。

 

上野千鶴子(1998)『発情装置』筑摩書房、p.84)

 

 

 

 

私たちは孤独を選んだと同時に、誰かから「愛されたい」とも願っている。そして今では、身分や肩書ではなく「ありのままの自分」、つまり「個人」としての自分を愛されたいと願ってしまった。

 

恋愛病は近代人の病いだ。娘も妻も「恋愛したい」と渇くように思い始めたとき、彼らはやっと「個人」になったのだ。男も「愛されたい」とグラグラした思いを持ち始めた時、やっと男という役割を脱ぎ捨ててタダの「個人」になったのだ。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.85)

 

 

3.「性の解放」は愛への渇きの救いにはならない

 

近代はロマンティック・ラブ・イデオロギーが「愛」と「性」を一体のものとしてきた。「愛」があるからセックスをする。しかし今では、セックスは「愛」からも分離してしまった。今日では、セックスはできても「愛」が得られない状況が生まれる。

 

セックスがこんなにお手軽に手に入るようになったいま、わたしたちが飢えているのはカネでも肉体でも贖えない「恋愛」だけだからだ。

 

上野千鶴子『発情装置』、p.83)

 

 

女性が性的自由を獲得することで「性の解放」は進んだ。「女性は愛がないとセックスをしない」という神話は崩れ去った。女性側の「性の解放」が進むと同時に、男性側も多くの女性とのセックスを経験できることになる。セックスは純粋な快楽行為となりつつある。セックスによって愛(≒人格的なつながり)が深まるという考えに囚われた人は、セックスによって裏切られる思いをするのかもしれない。人との人格的なつながりは「性」により作り上げられると信じる者は、セックスを重ねても愛への渇きだけを深めるという逆説が生じる。

 

「性」と「愛」の結びつきを特権化した近代のエートスは未だに支配的だが、「性の解放」が進み、「性」へのアクセスが容易になったことで、「性」は獲得できても「愛」は得られないという落差が生じている。

 

非モテ」という言葉は、単にセックスができないことを指すのではない。「愛」が得られない状況を指すようになっている。

 

 

実際に、恋人がいなくても、別に悩まず、幸せに、ごく普通に日々を過ごせる人もいる。逆に、恋人や配偶者がいても、つねに非モテ意識に悩まされている人もいる。多くの女性とやりまくっても本命から愛されず虚しい、という人もいる。

 

杉田俊介、2016、『非モテの品格』集英社新書、p.92)

 

 

  

「100人の女を抱いても、1人の女から愛されなければ、それは非モテである」というような小谷野敦のような言葉も論壇で席巻している。

 

ナンパ師やヤリチンは、「愛」の無いセックスをたくさんおこなうが、最終的には「愛」のある関係を求めるようになる。フリーセックスという非近代の性行為に走りつつも、「性=人格の結びつき」を求めるという近代への回帰をおこすのである。しかし、純粋な「愛」の関係を築き維持するのかがいかに難しいかを気づかざるを得ない。

 

「性」には「愛」が必要だというコードはやはり支配的である。

 

さまざまな性行動に対する是非を定める基準として登場してくるのが、愛やコミュニケーションにもとづいた関係性、すなわち親密性を有しているかどうかが決定的に重要だとする「親密性パラダイム

 

 (赤川学、1999、『セクシュアリティの歴史社会学勁草書房 、p.375)

 

  

親密性パラダイムは、性=人格論が性欲=本能論を凌駕するために編み出した最強の言説であり、多くの人にとって、愛や親密な関係性は理想郷とされているからだ。それはたしかに耳当たりがよい言葉だ。しかし親密性ばかりが強調されると息苦しくもある。親密でない性、愛のない性を否定するという点に関しては、親密性パラダイムはファッショ的ですらあるからだ。誰もが愛や親密性を求めて生きなければならない社会。それを窮屈に感じるのは、私だけであろうか。

 

赤川学、前掲書、p.390)

 

 

「性に関する苦しみの原因は、性に愛がないからではなく、性には愛がなければならないとあおっていること自体にあるのではないか」

赤川学、前掲書、p.390-391)

 

 

セックスをいくらしても心が満たされない。「愛」=親密性が感じられないから心から充溢できない。そして嗜癖として性行為に溺れてしまうという悪循環にも陥ることになるのだろう。

 

 

4.性愛を相対化する

 

「童貞が恥」だという意識も、自由恋愛が社会に定着し、セックスができない男性が増えたから生まれたものであろう。渋谷知美によると、80年代以降に童貞に対して好奇のまなざしが向けられ、童貞が恥じらいをおぼえるようになったのは、恋愛とセックスが強固に結びついている社会であるゆえだという(渋谷知美、2003、『日本の童貞』、文春新書、p.221)

 

 

 

必要なのは、性を私的領域におしこめることではなく、何か特定の言説が力を持たないように、より多くの性にまつわる言説を公の場であみだしていくこと―つまり、オルタナティブな性への干渉を提示していくことである。

 

渋谷知美、2003、『日本の童貞』文春新書、p.224)

 

  

童貞がこんなにイシューになるのも、セックスに対して過剰な意味付与がなされているためである。セックス=愛の最上級表現という近代のロマンティック・ラブ・イデオロギーが支配している中で、非モテが苦しみを感じるは「愛=セックス」という性愛幻想を意識してしまうからであろう。

 

 

性の自由市場が成立し、オナニーする男・童貞が「もてない男」、処女が捨てるべき厄介物とされるような社会にあっては、この苦しみは増えることがあっても減ることはないように思われる。

 

赤川学、1999、『セクシュアリティの歴史社会学』p.391)

 

 

 

以下のブログで学んだことであるが、「他者とつながる手段として、セックスが特権化される理由はない」。オナニーとセックスは序列を競うものではない。オナニーを相手がいない「恥ずべき」性行動として貶める必要はない。

 

 

minadt.hateblo.jp

 

 

 

世の中は「恋愛は素晴らしいこと」であると喧伝し、「恋愛ができない人は人格欠落者である」と多くの人は考える。異性にモテない自分に対して否定的になり鬱勃した感情に苛(さいな)まれることになる。私たちは、恋愛へと駆り立てる社会の装置に支配されているといえよう。

 

一番にいいのは、恋愛・セックス・結婚などの性愛に対する価値が相対化されるべきなのだ。人との話において「恋バナ」は一番盛り上がり、みんなが楽しむであろう共通の話題とされる。「恋バナ」ができないと人としての経験値が低いとしてバカにされてしまう。恋愛至上主義が支配する社会は、恋愛弱者にとって息苦しい社会である。

 

5.「愛」について

 

オス負け犬がとる戦略は否認、逃避、嗜癖の3つだという(上野、2013、前掲書p.198)。非モテに関して言うと、「みんな自分の本当のよさを知らない」(否認)、「僕なんて、どうせ人から必要とされない」(逃避)、と言ったり、「酒やギャンブル、ゲームなど即効的なものに依存する」(嗜癖)などであろう。いずれも「男らしさ」を守るための防衛的反応である。

 

しかし、愛されたいという気持ちを押しやったり誤魔化したりせず、「弱さを抱えながらも生きる」という選択もありではないか?

 

たとえ愛や承認を得られず、誰かから抱きしめられず、ルサンチマンや自己嫌悪をずっと解消できなくても、それらを抱えたまま、しかしそれを他人や自分への過度な暴力にしてしまうことなく、こじらせることなく生きていく、そこそこ幸福で楽しんで生きていく、そうした生き方もまたありうるのではないか。

 

杉田俊介、前掲書、p.128)

 

 

しかし、人間には承認欲求が存在する。私は承認欲求が恥ずべきものだとは考えない。生きる上で、自分を認めてくれる他者は必要だからだ。

 

何かしらアクションをおこしていれば、人との関わりはできるのではないか。SNSでは自分と価値観なりが合う人も最低1人は見つかるだろうし、その場から去れば惜しまれる存在くらいにはなれそうだ。

 

自分を気遣ってくれる人は見つかるはずだ。苦しい時に、そーっと声を掛けてくれる人も見つかるはずだ。

 

過剰な「愛」を求めすぎると、自分も相手もしんどくなる。どんな「愛」のあるカップルでも溶け合うことはできない。付かず離れずのゆるい「愛」という形態でも満足できる関係をつくっていければと願う。

 

 

 

 

【取り上げた文献】

 

性愛論 (河出文庫)

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発情装置―エロスのシナリオ

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セクシュアリティの歴史社会学

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日本の童貞 (文春新書)

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