1.「人権侵害となるワイセツ」が問題
性愛の世界に住まうのは、身体として生きる人間の宿命である。この世界に入るには、その切符=性別を受けとらなければならない。この世界に生きるには、その文法=猥褻をわきまえなければならない。
性愛にかかわる身体部位や表現行為は両価性をもつ(橋爪大三郎(1995=2017)『性愛論』、河出出版)
両価性をもつというのは、普段は猥褻(わいせつ)な事象として有害であるとされマイナス・イメージをもたれているにも関わらず、ある場面では適当で、積極的な事象とされているからである。
そうしたものの帯びる両価性は、対象(身体部位や行為)の内在する実体によってではなく、それがおかれるある(社会的)文脈に照らして理解すべきなのである。
(橋爪大三郎(1995=2017)『性愛論』、河出出版、p.43)。
橋爪大三郎の『性愛論』に書いてあるとおり、私は、ワイセツに関しては人権侵害となるものは公が取り締まり、それ以外については習俗の秩序で抑制すればよいのではと考えている。
以上のようにワイセツのあり方を位置づけると、「人権侵害となるワイセツ」とは何なのかが問題となる。
2.性の話は男によって猥談にされる
何がワイセツでありそうでないかは社会的文脈で決まる。
公衆によりワイセツと見なされることは、公の場で話すのはタブーとされる。このタブーを破り、人前で話すことで動揺が生まれる。
それは、「猥談」(下ネタ)と呼ばれる。
「性の解放」は進んだが、女性が性の話を発することは、まだまだ稀である。社会的にも女性は性の話をするべきでないという強い規範は根強い。女性同士であっても性の話はしずらいと多くの女性から聞いている。
性に関する多くの言説を生産しているのは男である。そして、男がする性の話は多くの場合は猥談となってしまう。逆に、男は猥談にしなければ性について話せない。いや、猥談として話すことを強制されている。
男はほんとうに性について語ってきたのか?あんなに猥談好きに見える男が、ほんとうは猥談という定型のなかでしか自分のセクシュアリティについて語ってこず、定型化されない経験については、言語化を抑制してきたのではないだろうか。
男同士の猥談は、女性を辱(はずかし)める内容を帯びる。女性を共通の犠牲者とするのは男同士の性的主体としての連帯感を深めるためで、下ネタを話せない男は「ウブ」「女女っちい」などと言われ男同士から「男」と認められない。男という性的主体への同一化は女を性的客体とすることで成り立つ(上野、前掲書、p.30)。
男同士の猥談を例にとってみよう。女を性的客体とし、それを貶(おとし)め、言語的な陵辱の対象として共有する儀礼トークが猥談だ。下半身ネタを語ればすなわち猥談になるわけではない。猥談には作法があり、ルールがある。それは自分がいかに男として「性的主体」であるかを相互に確認する儀式である。
男は性の話を猥談として生産し消費する。性の言葉は男性市場で流通するものである。猥談は、女性の主体性を無視して、女性を男性の性欲の客体として位置づけることで成り立っている。
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3.猥談はセクハラとなる
対象を性的に侮辱し尊厳を貶める言動はセクハラとして非難される。そのような猥談は「人権侵害となるワイセツ」となるからだ。なにが侮辱であるかはその言動がなされた文脈で決まる。
永田えり子(1997)『道徳派フェミニスト宣言』(勁草書房)では、セクハラを「尊厳への侮蔑」としている。
永田(1997)によると、セクハラは「性に関わる公認されていない被害」であると定義でき、見られる、見せられる、言われる、聞かされるなど公認されていない権利侵害であるという(p.72)。
【セクハラの例】(永田えり子(1997、p.60-62)より一部参照した)
◯触られる
→性的関係の合意がないのに、性的な目的で身体に触ることは性暴力である。
◯見られる
・上から下まで品定めをするようにじろじろ見られる
◯見せられる
・テレビなどで水着姿の女性が写ったり、胸やお尻にズームすること。
・職場にヌードや媚びたポーズのポスターが貼られている。
・ワイセツとされる言葉・画像・動画をみんなが見えるようにする。
◯言われる
・「男出入りが激しい」「ふしだら」
・「いくら?」「どうせ遊んでるんだろう」
・「女の幸福は結婚だ」
・強姦事件で。警察官がニヤニヤしながら「それで?それから?どんなふうに?」と被害者に聞く。「16歳ならたいがい経験している」「女の子がイヤというのはいいということだ」など言われる。
◯聞かされる
・買春体験など、性的な体験の自慢話を聞かされる。
・宴会や集まりなどでワイセツな話をする。
・周りに聞こえるようにワイセツな話をする。
セクハラをするということは相手を人間と扱わない行為なのだ。
すなわちこの手のセリフや失礼な視線などには「私はあなたに対して最低限のマナーすら守る価値もないと考えている」という宣言がメッセージとして含まれていることになる。そなわちこれら(セクハラ)は「尊厳に対する侮辱」なのである。
(永田えり子、前掲書、p.74)
4.性的侮辱に陥らない性の語りを
女性が性について語ったり表現すると、「淫乱女」「ビッチ」などという言葉が男から投げつけられる。女性による性の語りは性消費の対象とされるか、汚れたものとして貶(さげす)められ、侮辱される対象となる。
AV女優・作家の紗倉まなが「週刊プレイボーイ」(集英社)2018年2月12日号に掲載された落合陽一との対談のなかで、こんな驚きの証言をしたのだ。
「一番イラッとすることは、何を言っても『肉便器』って言われることですね」
「以前言われたのは、『おまえいろいろ物事を多く語って、まるで文化人気取りだな』みたいな。『肉便器は黙って脱いでろ』って言われたことがあって」
(貼り付け記事より引用)
性表現をする女性に対して女性器名などの言葉を投げつける男性がいる。このような男性は、女性を自分の性欲に従属する客体としてしか捉えてない。性的選択を自分の意思でおこなう性的主体としての女性を認めない。
「尻軽女」扱いは、女性に性的自己決定権を認めていない、すなわち選択主体から排除することの宣言である。
(永田えり子、前掲書、p.74)
女性に対する「オトコと遊んでいるでしょ」「お盛ん」などのセリフについても、女性を性的選択の主体として位置づけてないから発せられるのである。
他の男と「やっている」ことが実証できれば、公理によって自分も「やれる」はずなのである。すなわちこのセリフは、性交しているかどうかを女性の側が選択しているということを捨象して(あえて無視して)はじめて出て来るセリフである。
(永田えり子、前掲書、p.74-75)
セクハラや強姦を告発した女性が、性的な侮蔑の言葉にさらされる光景もよく見る。
性の話は、男によって猥談に貶められて消費されてしまう。特に女性は「異議申し立て」も含め、性の言葉を発しにくい。
何がワイセツであるかは社会的文脈により決まると冒頭に書いたが、猥談とそれによる被害であるセクハラも文脈に依存する。猥談は、対象の性的主体性を否定し、対象を侮辱する文脈で発せられる「人権侵害となるワイセツ」だから悪いのである。
「性の解放」は女性も性について話すことを推し進めた。それまで性の客体としてしか語ることができず、行為することができなかった女が、性の主体として乗り出してきている。しかし依然、女性の性の語りについては男性側からの抑圧の対象となり、侮辱され性消費の対象とされてしまう。
男による性の語りも猥談へと疎外されている。
私たちは、侮辱を受忍するのを拒否し、侮辱とならない性の語りをしていくべきだ。