生きるための思想

大学院博士課程を中退してフラフラ生きてる31歳の男です。社会学などの知見をもとに市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます(低所得、精神障害、非モテなどの弱者問題)。もともとは韓国で農村移住者を研究してた。金のかからない歩き野宿旅をしている(有料記事ノート https://note.mu/guide)。ツイッターで思う所をつぶやいてる。

女性性市場批判

0.女性性市場とは

 

売買春、ポルノなどの性行為や性表現、アイドルや女優に至るまでの女性の観賞的消費といった「女性性市場」について、永田えり子(1997)『道徳派フェミニスト宣言』(勁草書房)をもとに批判していきたい。

 

 

道徳派フェミニスト宣言

道徳派フェミニスト宣言

 

 

※女性性市場

生身の女性や表現された女性が、金銭を対価として、他者(男性)の、性的に魅惑されたい、性欲を喚起されたい、性欲を充足させたいという欲求を充足するサービスを提供しているとき、そのサービスを女性性商品(女性性の商品化)と呼び、この市場を女性性市場とする(p.116-117)。

 

 

1.性の商品化は女性への侮辱の公然化

 

例えば、ポルノは自由主義者に肯定される一方で、「あからさまに見せてはいけない」とも考えられている。なぜだろうか。それは、私たちは性に関して「非公然性の原則」という性道徳を保有しているからである(p.179)。

 

健全な空間において、もしわれわれが裸体、性器、性交や排泄を人に目撃されたら、通常どう思うであろうか。たとえそれが事故であっても、まさしく「恥ずかしい」と思うはずである。人間としての尊厳が失われた、と感じるはずである。そして、もしも裸体、性器、性交や排泄を見せるようにと他人に要求されたらどう思うであろう。すなわち、われわれは互いを猥褻化しないことによって、互いの尊厳を確保しあっているのである。

(p.196)

 

ポルノなどの性表現は女性の猥褻化である。公共空間において女性を猥褻化すれば、それは女性に対する敵対行為であり差別行為である。つまり、女性に対する侮辱でありセクハラである。

 

フェミニストのマッキノン、ドゥオーキンらは、「ポルノを女性全体への侮辱であり、脅迫であり、支配であり、すなわち女性差別行為そのものである」と述べている(p.196-197)。

 

ポルノなど性商品に対して、「空想だからよいではないか」という説があるが、女性を陵辱する言説や行為が空想にとどまり個人の内面において完結するだけでなく、それらが市場化され公然となることが問題である。

 

私は以前ブログで、性に関する言動のルールについて書いた際、女性を性的に侮辱し貶める言動はセクハラになると述べた。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

性の商品化はセクハラになる言動を市場化することで公然となることが問題である。

 

「性は解放されており、猥褻を公然化してはいけないという性道徳など無くなっている」と、「非公然性の原則」の性道徳を「頭の固いPTAのおばさんの言うこと」とあしらわれるが、ポルノなどの性商品が猥褻たり得るのは性行為や性表現が猥褻であるという性道徳があるからである。つまり、性商品の猥褻性は現行の性道徳によって成り立っており、「性の商品化」肯定論者は私たちのもつ性道徳を否定することはできないのである。

 

よって、性の商品化(市場になり公然化されること)は私たちの性道徳に反するからダメであるという明快な結論が出る。

 

ある社会において、ある行為が不当であるというためには、そうした行為に対する社会全体からの反作用がなくてはいけない。泥棒が少々いたところで、所有権制度は崩壊しない。だが、もしもわれわれが泥棒を不当なものとして処罰する意志を失ったとき、それは崩壊する(p.201)

 

棲み分けをすればよいと言われるが、それは不可能である。

 

「ポルノの広告がポルノ」である限りは、構造的にそれは不可能であろう。ポルノも、他の商品と同様に流通しなくてはならず、流通するためには「いかに猥褻であるか」を公然と語らざるをえない。そして、それを公然と語ること自体が負の外部効果を与えてしまう。すなわち、ポルノ市場が成立すれば、必然的にポルノは市場の外部に流出する。そして流出すると不快と感じる人がいる。これがポルノ市場の問題点である(p.139)。

 

2.市場化の対象はどこまで許されるか

 

売買春含め全ての労働は奴隷的扱いとも言えるが、どこまでを市場経済による自由取引で認め、どこからを規制すべきかは、最終的には私たちの道徳により決めなければいけない。

 

ある材やサービスについて市場化を認めるかそうでないかは、それらが流通することで社会秩序や自然環境に与える影響が考えられなければならない。ある工場を稼働させることが公害を発生させる場合は負の外部効果を生むため、その工場の稼働は認められないとされる。結局、何を市場化の対象として許すかは、私たちがどういう社会で生きたいかという問題に行き着く。

 

私たちは、性に関する「非公然性の原則」という性道徳を持っており、あからさまな性行為や正表現を嫌う。よって、性の商品化はこの原則を侵すので「公害」となる。

 

職場のヌードポスターはセクハラであるという。すなわちこの性商品は、これを楽しむ人々が別の人々に対して不快を強いるという点で、職場における公害である。そして職場に限らず一般社会においても、公然と性表現や性的な行為が流通しているならば、それは人々に広く不快を感受させているかもしれない(p.183)。

 

 

 

このように、性の商品化は、一部の人々の自由な取引のために社会全体の厚生水準の悪化をもたらす。

 

また、「非公然性の原則」は、何が人間の尊厳であるか、何が侮辱であり恥であるかというわれわれの感覚もまた、作り出している(p.180)。

 

繰り返すが、性道徳の話に行き着くのである。

 

道徳はそれ以上さかのぼることができない最終根拠=公理である。道徳には根拠がないと言われるが、どんな命題でも最終的な根拠はない。道徳は無根拠で可変なものである。無根拠ゆえに、常に「何が正しいか」が言い争われる。

 

今のところ、売買春やポルノなどは「非公然性の原則」に照らし合わせると、道徳的に「悪」となる。大っぴらに取引がなされていないことが不道徳なものと考えられている証左である。これが、現代において私たちが採用している道徳であり、この道徳を守るためにも性の商品化を公然と認めることはできないという結論が導かれる。

 

 

3.女性性市場の成立の帰結 

 

女性性市場が公然化すると、すべての女性は「性的魅力」という財をもつことになる。本人が売る気がなくても、勝手に価格がついてしまう。

 

私たちは所有する財を取引する自由をもっている。しかし、その財を売る意思がなくても、その財の市場が成立したとたんに、その財は無条件に「価格付け」がなされ値踏みされることになる。

  

女性性市場が成立したとたん、すべての女性は「女性性」という財の所有者となる。つまり市場が成立した瞬間に、すべての女性は「自分の性的サービス」の所有者となり、それを処分する権利と管理する義務を負うことになる(p.145)。事実として取引されなかったとしても、それらには潜在的に価格がついているのである。そういう意味でならば、この市場が成立している限り、すべての女性は潜在的に売春婦である(p.145)。

 

女性性市場には、売春行為など風俗がになう「下級財」から、ミスコンなど観賞用としての「上級財」まである。

 

直接、性を売るのではないミスコンやアイドルや女優などの「上級財」女性性市場も批判されるべきだと私は考える。これらは、「性的魅力」のメルクマールとなり、女性性市場を補強する。

 

ミスコンは、どのような付加価値が加われば、彼女の性的魅力が最大限に評価されるのかに関する情報を公示する。ちょうど銀座の一等地の価格が、つねに土地の値段のメルクマールになっていたのと同様である。すなわち、何が、いま、もっとも高価な性的魅力であると公に評価されるかを人々に周知すること。そうすることによってミスコンは、共通の相場情報を人々に与えることになる。すんわちミスコンは情報面で女性性市場を下支えする能力をもつ(p.128)。

 

一般的な労働において、女性の美醜や性的魅力を採用基準として公然と掲げている企業はないだろう。それは、女性性が売り物でないことが建前とされているからである。つまり、女性性市場は公然化されていない。それが、現代において私たちが採用している性道徳である。

 

しかし、女性性市場が成立している場合、企業が女性の美醜や性的魅力を採用基準に堂々と掲げることになる。その場合、自らの女性性を売り物にしたくない女性にも無理やり女性性を売ることを強いることになる。

 

このように、女性性市場が公然化されると、不都合を被る人々があらわれる。全ての女性がその女性性を値踏みされることが公然化され、女性性を取引の財としたくない女性も女性性を売ることを強制される。これは、私たちが採用している性道徳に反する。性道徳に反する取引がおこなわれる市場は公然化されるべきでないとう結論がえられる。