1.経済活動ができない人間はつまはじきにされる
コミュニティという言葉をよく聞くようになった。
今使われるコミュニティという言葉には、人々が孤立しがちな現代において新しい価値観によって人と人とが繋がろうという甘美な意味が匂う。
伝統的な村落や町内会などの地縁集団、企業社会といった機能集団などに溶け込めない人たちの集まりや居場所としてコミュニティという言葉が使われる傾向がある。
人と人との繋がりの生み出すのがコミュニティだと言われるが、非経済活動で純粋な関係性を作るのは難しい。
金がらみの関係は強く、金が介在しない関係はもろくて弱いという公理は重要である。 人との関係を維持するには、与え与えられる利害関係がないといけない。
だいたい優良なコミュニティと言われるものは、金稼ぐ能力がある人たちが集まるので、真の弱者は仲間に入れてもらえない。
人と人とが繋がりを手っ取り早く作るには、誰かと生産活動をしたり、消費をしたりするといった経済活動をすることである。労働などの経済活動をすれば協働などで必然的に人と連帯することが求められる。また、金でモノを買うにも最低限店員とのやりとりは必要になる。
資本主義は実は人との繋がりを必然的に作ってしまうシステムでもある。 だから、生産活動や消費活動が十分にできない資本主義のシステムに適応できない経済的弱者は孤立してしまうのである。
2.魅力資源が乏しく人との繋がりが作りにくい社会的弱者ほど救済されなければならない
人を引きつける魅力資源は、金、地位、オモシロさなどであり、これらは社会的弱者には乏しい資源であるといえる(女性の場合は「性的魅力」で他者を惹きつけることもある)。
社会的強者はそれらの魅力資源を持っているがゆえに人が寄ってきて人との繋がりが作りやすいが、社会的弱者はそれらの魅力資源が乏しいのでますます人が寄って来なくなり、孤立を深めていくという救いようのないアリ地獄のような状況が生まれてしまう。
つまり、人との繋がりを生み出せるのは、 「金を生み出せる人」もしくは、「オモシロイ人」である。そうでない人(=「金が無くてオモシロクない人」)が他人との繋がりを生めない真の弱者となっていく。 弱者問題の救いの手は、誰とも人との繋がりが作れない「金が無くてオモシロクない人」に差し伸べられなければならない。
「金稼げなくてツマラナイ人」が悪いのではなくて、「金稼げなくてツマラナイ人が生きられない社会」が悪いのである。
我々が目指すべき社会とは、金稼げなくてツマラナイ人でも不自由なく生きていける社会である。 人間の生存に条件をつけてはいけない。
金や権力の関係ではなく、支配依存によらない「純粋な関係性」(A.ギデンズ、1995、『親密性の変容』而立書房 )こそがあらゆる人間関係で目指されるべき民主的な関係であり、そういう関係を作るトレーニングを私たちはしていかなければならない。 条件無しで人と人とが認め合うことは民主主義の成熟における命題でもある。
3.何かをして何者かになることが強迫される社会において、「何もしない」ことはラディカルなオルタナティブである
私たちは条件付きで人を受け入れるようである。
勉強や仕事などをしろと、私たちは常に「何かをしなければならない」と社会から強迫されている。 そして、何かを成して何者かになることを要請される。「何もしない」という生き方が認められない窮屈な社会だ。
何かしなければ、何者かでなければ誰にも認められずに孤立してしまう。 何もしないと人として生存が肯定されることが難しい。
良い子でいなくてはならない、勉強がちゃんとできなくてはいけない、金を稼がなくてはいけない、人を楽しませなくてはいけない、そういった何かをしなければ認められないという強迫が存在する。
しかし、人が認められるのになぜ条件が必要なのか?
何もしなくてもいいじゃないか!!!
「何もしない」「何者でもない」ことが肯定されることが必要である。
「何もしない」というのは、何かをしなければならないと強迫する社会に対する究極のオルタナティブである。 「何もしない」はラディカルなのだ!
「私は何もしない」と堂々と言えるのが究極の自由である。 「何かをしなければならない」と強迫されてる今の社会には、「何もしない」という自由が存在しないのである。
- 作者: アンソニー・ギデンズ,松尾精文、松川昭子
- 出版社/メーカー: 而立書房
- 発売日: 1995/07/05
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