引きこもりやニートなどの社会不適合者に対して社会の目は依然厳しいが、引きこもりやニートがあまりにも多くなったため、社会もそのような人に対する見方を変えつつある。
斎藤環などの「引きこもり」の専門家は、安心して引きこもり生活ができればよいと論を述べていて、以前ブログでも紹介した。
しかし、今でも「引きこもりやニートになってしまうことは仕方ないが、いずれ引きこもりやニートの人たちは社会に出なければいけない」という考え方は社会に根強い。
例えば、表に出てくる引きこもりやニートなどの経験談も、引きこもりやニートを脱出して社会に適応できた人たちが過去の日々を振り返るような形態が多い。
引きこもりやニートを脱出できた「成功者」が、過去の引きこもりやニート経験を「挫折経験」として語る仕方が一般的である。そして、しばしばそれらは美談となる。
引きこもりニートであったけれどもそこから脱出した人ばかりが称賛される社会は息苦しくないか?
引きこもりやニートは脱出「すべき」生き方という見方が強すぎるのだ。
引きこもりやニートは必ずしも脱出すべき状況ではない。状況的に脱出した方がよくて、脱出可能ならば、脱出すればよいのである。だが同時に、引きこもりニートのままで生きても問題ないと肯定される必要がある。「何もしない」ことも生き方としてアリである。
以前の記事で、生存に条件は必要ないということを書いた。
引きこもりやニートでも楽しく穏やかに問題なく過ごせるなら、それも肯定されるべきだろう。 仕事をしたり何らかの活動をして社会参画する事のみが生き方の解ではない。
つまり、「してもいいし、しなくてもいい。してもしなくても何の報奨も受けず、懲罰(サンクション)も受けない」という選択の自由の問題である。
親などに経済的に依存して、「他人の金で生きていくこと」が良くない事と言われるが、それは倫理であって、論理ではない。
生き方なんてさまざまである。
自分の金で食っていきたければそうすればよいし、人の金で食っていかざるをえなければ、それもまた肯定されるべき。
「自分の金で生きること」と「他人の金で生きること」の間に優劣はない。どちらも価値等価である。
生き方に優劣は存在しないのだ。
引きこもりやニートを叩く言葉で多いのは、「引きこもりやニートは親元でぬくぬくして経済的自立できていないからダメだ」というのものだが、論理的な話ではなく価値観の問題である。
「経済的自立できる人が偉い」と言いたいだけで、「偉い/偉くない」は論理ではなく価値観の問題だからである。
論理なき言説は信仰である。
また、「自分は一生懸命働いているのに引きこもりやニートは怠けてけしからん」という感情があるかもしれないが、働きたくなければ働かない選択はある。働く働かないは「好き好きである」と言える。
そういう叩き方をしている人は、他人を叩いて自己の生き方を肯定しようとする方法をとっている場合がある。
他人の評価を下げて相対的に自己の優位性を示したいのである。
それに対しては、「自己を肯定するために他人を否定しなくてもいい」と言えばいい。
他人の生き方を否定することに心血を注ぐよりも、自己を肯定できるのがいい。
「みんな違って、どうでもいい」という姿勢が大切である。