10月24日に京都の三条大橋で0円マーケットをやりました。
供出した物品は、アウトドアグッズ、バイク用品、マフラーなど小物、本(旅行系、小説など)でした。
今回、0円マーケットをやったのは、鶴見済さんの0円ショップや0円生活の考えに共感したからである。以前からやってみようかなとは思っていた。
0円マーケットを2時間ほどやってもらわれた物品は以下
コッヘル、ライター、扇子、マイバック、ライダーグローブ、地球の歩き方(韓国)、バイク旅行の本
やってみて単純に良かったのは、要らないものをあげただけなのに「ありがとう」と言われて気持ちよさを感じたことである。
一緒にやってくれる人も募集しています。
また、部屋のものが溢れたらやってみたい。
【贈与について】
生活に必要なものをなんでも金を払って手に入れる市場経済というシステムでは、貧乏人ほど購買力が低く生活に困ってしまう。市場以外で財をやり取りできることが広がれば、貧乏人も生きやすくなる。
これは、『贈与論』でM.モースが示唆したことでもあるようだ。
およそ100年前の1925年にM.モースは『贈与論』を書き、未開社会での財の贈与返礼について記した。市場経済によらない財の流通システムに着目して、行き過ぎた市場原理に対して早くもオルタナティブを示そうとしたとも言われる。
これについては、カール.ポランニー研究者の若森みどりさんの論文(「贈与 私たちはなぜ贈りあうのか」橋本努編著『現代の経済思想』勁草書房、2014、p.87-112)を参照した。
市場経済による材・サービスの交換が強まることの弊害を述べる。
カール・ポランニーは社会統合の形態を「互酬」「再分配」「交換(市場経済)」の3つに分類した(ポランニー『大転換』など)。この3つが上手くバランスをとることで社会の構成員が幸せになればいいのである。
しかし、現代の日本は「交換(市場経済)」が支配的で、「再分配」は弱く、「互酬」はオマケみたいな位置づけである。市場を絶対化する資本の側は、「交換(市場経済)」が全てを解決する万能薬であると言い、他の2つの領域は「交換(市場経済)」を歪める邪魔者として扱かわれる。
「交換(市場経済)」によってのみ富を得ることが正しいこととされ、「再分配」「互酬」によって富が分配されることは好ましくないとされる。 だから、生活保護(再分配)には負のスティグマが貼られ、人から物をもらう事(互酬)はズルいとされる。
市場経済の問題として、例えば、人々は低価格な商品を選ぼうとするが、商品価格が安くなればなるほどその商品の生産をおこなう労働者の賃金も安く抑えられていくことになる。市場経済において経済的利得で動くようになれば私たちは社会に対して責任を負わなくなってしまうのである(以上は、の若森みどり(2015)『カール・ポランニーの経済学入門』から)。
「交換(市場経済)」の地位が高くなると、市場経済で評価される商品や貨幣が絶対であるという見方になる。 そのような社会では私たちは商品や貨幣の奴隷となり、人を傷つけたり時に不正義な行動をとることになる。環境破壊なども生じる。商品や貨幣が独り歩きする物象化が進み社会が壊れてしまうのだ。
「交換(市場経済)」の優位のもとでは、生きていけない人が生まれるし、社会問題も生み出してしまう。「再分配」や「互酬」の地位が低いことの問題だ。そのため、「互酬」である与え、受け取り、与え返すという贈与が広がればと考える。
アナキスト人類学者と自らを名乗るグレーバーは、贈与は社会関係をつくりだすという。
グレーバーは、新しい社会関係や新たな絆を創出することを「社会的創造性」と定義するが、社会的創造性には「媒介物(medium)」の役割が大きい(若森みどり、2014、前掲論文、p.93)。
また、モースによると贈与によって個人や集団間での争いごとを未然に防ぐという役割もあるらしい。贈り合いは平和維持のための行為なのである。
物をもらった人は「お返しをしなければならない」という思いに駆られる。 しかし、私たちはすぐに返礼をしてはいけないと考えており(反対給付の原則)、その場では返礼はなされず、時間をおいて別の誰かに贈与がなされることがある。
贈りもののやりとりは瞬時におこなわれるのではなく、財と人と生命の循環が一定の期間を経ることで社会関係がつくられる。
(若森みどり、2014、前掲論文、p.110)
このように、物の循環は社会全体に広がり様々な関係をつくる。贈与は人を結びつけ社会を形成すると言える。
要らないものをみんなが贈り合い、善の輪が広がればと願う。
- 作者: カール・ポラニー,野口建彦,栖原学
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2009/06/19
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