生きるための思想

市場経済至上主義を批判して、生きづらさをテーマに記事を書きます。金のかからない歩き野宿旅をしたり。ツイッターで思う所をつぶやいてる。メッセージなど→→ haruka.omae@gmai.com

「自由」に生きられるか?

苫野一徳さんの『「自由」はいかに可能か』(NHK出版)では、「自由」とは何かをヘーゲルなどをもとに述べ、どうすれば「自由」に生きることができるかが書かれている。

 

アーレントの「現れの空間」をつくることや、見田宗介のいう「交響圏」を目指すことにはその通りと思ったのだが、それらを「職業」に見出す方向しか示さなかったのは問題だと最後に少し述べた。今回も勉強ノートみたいな感じになる。

 

 

 

「自由」の本質とは、いろいろな制約がありつつも、「我欲する」(欲望)と「我なしうる」(能力)との一致の実感、あるいはその“可能性”の実感(「諸規定性における選択・決定可能性」の“感度”、p.81)であり、各人に「自由」が保障されるためには、他者とお互いに「自由」を認め合い尊重することが必要である(「自由の相互承認」)。

 

私たちは日本という民主主義社会に生きていて、職業選択や移動の自由も認められている。「自由」に生きることができるのに、「自由」に生きていないと感じているのはなぜなのか?

 

 

「自由」への欲求は「承認欲求」という形をとるという。

 

しかし、他者から「承認」されるために相手に力づくで「承認」させようとするのは、命の奪い合いや支配−被支配関係を生む(p.113)。

 

自分たちだけの「自由」―利得や信条―を主張し合うことがあったとしたら、それは「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)をもたらすことになる(p.113)。そして、それを回避する方法として「自由の相互承認」の原理(ヘーゲル)が示される。

 

また、あらゆる欲望を完全に満たし、「やりたい放題」ができる「恣意としての自由」(ヘーゲル)など、原理的にはあり得ないという。

 

美味しいものを食べたい、しかし太りたくない。人から愛されたい、しかし自分を曲げたくない、etc...

 

 

 

ルソーの『エミール』における言葉が引用される。

 

わたしたちの欲望と能力とのあいだの不均衡のうちにこそ、わたしたちの不幸がある(ルソー『エミール』)

 

欲望を満たし「自由」だと感じるためには、欲望と能力を均衡を完全に一致させることにあるとする(ルソー)。欲望と能力を一致させるには、「欲望を下げる」か「能力を上げる」か、あるいは「欲望を変える」ことによってできる(p.168)

 

そもそも自らの「欲望」が何なのかわからないこともある「自由であることの苦しみ」、p.169)

 

「欲望・関心相関性」の原理から、わたしたちは世界の“意味”を、絶えずわたしたちの欲望において見出している(p.177)。

 

喉の渇きを癒やしたいという欲求があるから、わたしたちは目の前の水を飲み水と認識する。虚栄や承認の欲望があるから、小さな装飾品が特別な意味を持つ。恋する人から送られたものだから、ただの便箋一枚が価値を持つ。

 

(p.177)

 

 

 

フランクルの『夜と霧』に見られるように、人は絶望のうちにおいても喜びを見出すことがあるのだという。

 

もしもわたしが、“欲望の中心点”を見出だせないことによる不自由を抱えているのだとすれば、日常の小さな喜びや意味を見出し、これにフックをかけ、“欲望の中心点”を少しずつ結んでいく必要がある(p.186)。

 

“欲望の中心点”がある程度結ばれていること、そしてその上で、その「欲望」と「能力」との均衡がとれていること、これが「自由」の実在的条件の本質である。ただし、どれほど「自由」の実在条件が解明されたところで、それを可能にする社会的条件が整わない限り、わたしたちが十分に「自由」を得ることはできない(p.188)

 

 

そして、「自由」のための社会的な根本条件は、「自由の相互承認」の原理に基づいた社会を構想することにある。

 

「自由の相互承認」のために必要なものとして、「法」、「教育」、「福祉」が挙げられる。

 

「法」は、わたしたちは相互に「自由」な存在であることを理念的に保障するものだ。そして、法だけでなくわたしたち自身に「自由」になれるための“力”が現実になければ、基本的自由権など有名無実にすぎないからだ(p.192)

 

そして、法はある一部の人の「自由」だけを承認するものであってはならず、成員全員の「自由」を承認し保障するものでなければならないことだ。法の根拠は「自由の相互承認」であり、またこれを保障するものこそが法なのだ(p.194)

 

 

これは、見田宗介が『社会学入門』で述べた「ルール圏」の原則

 

ここで、「福祉」が挙げられるのは、貧困や障害などの理由から、「教育」だけでは十分に「自由」を実質化しえないからである。「福祉」は「自由」を支える。

 

社会の根本原理は「自由の相互承認」であるとして、近代以降においては、「税」の根拠もまた、この「自由の相互承認」の実質化のほかにない(p.212)

 

そして、過度な「自由競争社会」についても「自由の相互承認」の観点からメスを入れる。

 

わたしたちは、どれだけ「自由」だといわれても、結局は社会が決めた競争ゲームの中を生きているだけであり、そして「自由」(自己責任)の名のもとに序列化されている(p..213)

 

もしも、過度な自由競争社会のゆえに経済格差が広がり、そしてそのことによって、「自由」を著しく侵害される人びとが出現したとするなら、その社会は「自由の相互承認」の原理を根拠に是正される必要がある(p.213)。 

 

 

アーレントは私的領域、社会的領域、公的領域の三領域に分類した(p.219)。そして、アーレントは、社会領域、すなわち経済(市場)社会をとりわけ問題とした。

 

経済社会において、わたしたちの多くは、ただ生命を維持するためにのみ労働をしている。あるいはそのような労働を余儀なくされている。それはまさに、わたしたちが資本主義というシステムの歯車と化し、そのシステムの存続のために生きている(=労働している)という実感を与えるような社会である(p.219)。

 

そのような現代の経済社会において、わたしたちは、“who”――「自由」な人間としてどのような個人でありうるか――ではなく、“what”――労働システムのどのような歯車であるか――として生きている(p.219)。

 

アレントは言う

 

「〈労働する動物〉の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になるのである」

 

アーレント『人間の条件』p.195) 

 

 

わたしたちはどれほどの「余暇」を得てもなお、結局は労働―消費の歯車であり続けざるを得ないだろう……。P.221

 

ではこの問題をわたしたちはどのように克服することができるのか?

 

アーレントは、「言論」と「活動」の空間を創出することによってである、と言う(p.221)。

 

 

《「言論」と「活動」について》→過去ブログ参照

 

わたしたちが他者と対話するとき、人々の集会で発言するとき、それは生命の維持を目的とした労働でも、作品を製作する仕事でもない。それは他者に働きかけて、わたしたちが生きる世界をよりよいものとするための行為なのである中山元アーレント入門』p.80)。

 

私たちは、言論と活動をもって他者に働きかけることで、自己と他者が立ち現われ、自己アイデンティティを獲得していく。それを通して世界をよりよいものにしてい

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

わたしは、そしてあなたは「だれ」(who)であるか。そのことを、「人間関係の『網の目』」(アーレント、前掲書、297)の中において、お互いの言論と活動を通して見出し合える空間を作り出すこと(p.222)。この空間が「現われの空間」である。

 

わたしたちが押し込められた経済競争社会の中から一歩抜け出し、自らが「だれ」であるかを表明し合える空間を作り出す。それは、経済的な安定を直接もたらすものではないとしても、わたしたちに一定の「自由」の実感を与えてくれるはずである(p.222)

 

デューイの「グレイト・コミュニティ」の創出も取り上げる(剥き出しの市場社会を、文字通り自由な思考と自由なコミュニケーションが可能になるような圏域へと、作り変えていく必要がある、p.223)。

 

一人ひとりの存在や意見が十分に承認されうる機会を充実させ、民主主義――「自由の相互承認」――をより実質化していく必要がある(p.223)

  

 

次に見田宗介交響体(symphonicity)の概念を取り上げている。

 

交響圏は、「個々人がその自由な意思において、人格的personalに呼応し合うという仕方で存立する社会」(見田、p.20)

 

苫野によると、

 

「交響体」は、過度の連帯や同質性を要請するようなものではなかく、わたしの言葉でいえば、あくまでも「自由の相互承認」を基礎とした社会圏域でなければならないということだ(p.226

 

そして、見田は「ユートピアたちを選択し、脱退し、移行し、創出することの自由」(社会学入門、p.182)という「遊動性」を重視する。

 

「交響体」は、ともすれば個々人の「自由」を抑圧する、閉鎖的「共同体」へと変貌してしまうことがある。それゆえ「交響体」は、「自由の相互承認」の原理に基づく限り、出入りや創出の自由にいつでも開かれる必要がある(p.230)

 

圏域の数は複数あり、そらに新たに作られ、その圏域間で自由に行き来できるのが交響圏における重要性。「遊動性」が求められるということだ。

 

 

 

【残念だったポイントと、私の願い】

 

苫野は、「現れの空間」が可能な領域は「職業」に求めなければいけないと言っている。「現実的にいって、わたしたちが“who”(だれ)として現れ出ることのできる可能性の最も高い場合、あるいはできるだけそうあるべきだといえる場面は、やはり市民社会(市場)における「職業」の世界といえるのではないか?わたしはそう考えている」(p.242)。

 

ただ、「市民社会(市場)とは比較的独立したところに、「現れの空間」を作ることも重要である」とは述べつつも、やはり「職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現れの空間」になる必要がある」(p.242)と述べる。

 

苫野が何のためにアーレントを引用したのかが分からない。

 

「職業」の場で自分の欲望と能力が一致し、「自由」を実感できるのならばよいが、それを可能にする「自由な労働」(マルクス)ができる人は能力やリソースに恵まれた人に限られるのではないか。自分のやりたくない不本意な労働に従事して低賃金に甘んじざるをえない人々がおり、私も含め労働市場においては全く使い物にならない人間もいる。

 

ある人にとっては、労働は生に充実をもたらすものかもしれない。それだからといって、苫野のように「職業」に優位な価値をおくことを強調してしまうと、「職業」(市場経済)の世界に生きづらさを感じる人々を圧迫することになる。

 

障害をもっていたり、あるいは、体力がなかったり、どうしても対人関係が円滑にいかずに「職業」の場にとどまることができない人もいるだろう。

 

市場経済の中では息苦しさを持つ者が、市場への〈包摂〉以外でも生の充実を目指すオルタナティブを作り出していく必要もある。

 

市場での評価とは別の尺度で、人と人とが人格的につながり〈包摂〉される社会の可能性も捨てきってはいけない。

 

自分の能力の範囲で社会に働きかけることによって(それは市場に限らない)、つまりアーレントのいう「活動」や「言論」によってお互いの存在を見出す「現れの空間」をつくり、「自由」を達成したいとも願う。

 

 

 

 

 

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)