しんどい時、モヤモヤしている時、乱れたように体を動かしたり叫んだりしたらよいのではないか。「変な人」になればいいと思う。世の中では「変な人」は異常だとされ精神病院に隔離されるなどされるが、「変な人」は「変な人」として社会に包摂されればいいのである。
知人から踊り手の飯田茂美さんの話を聞いた。
白目をむいたり、体をぐにゃぐにゃさせたり、「ふにゃ」など声を出したり、普段はしない体の動きをしたり叫んだりすることが日本の村に伝承されていた健康法だという話を聞いた。
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私は、以前、踊り念仏をやっていた一遍上人について本を読んで素晴らしいと思った。踊りながら念仏をとなえ、みんなで狂乱して踊りまくる。圧倒的に無駄であることがよい。
この著者のアナーキズム研究者の栗原康は盆踊りについて述べる中で、踊りのラディカルさについてこう答えている。
「鎌倉時代の一遍が広めた「踊り念仏」は、頭をガクガク、体をグニャグニャにゆりうごかし、まちがった身体のつかいかたに徹していくことで、自由奔放に生きる身体感覚をつかむもの」だったという。
Q.踊りのアナキズム、ラディカルさとはどういうことなんでしょうか?
栗原
圧倒的にまちがえるってことです。まちがった身体のつかいかたに徹していく。ふだん僕ら、自分の身体を有用につかうことばかり考えさせられています。一人前の大人になるとか、カネをかせぐとか、出世するとか、他人によくみられたいとか。できなきゃ、おまえ無用だよということですが、それってどうなんだよと。できないやつが虐げられるし、ずっとオレ役にたつ人間なんだといいつづけるのって精神的にもきびしいですからね。一遍は、そういう身体感覚をぶっ壊そうとします。
踊るってことは、ひとが子どもにもどることなんだ、獣にもどることなんだと。子どもみたいに、獣みたいに、足をバタバタさせて、ピョンピョン跳びはね、頭はガクガク、体をグニャグニャにゆりうごかす。成長とか有用性ってことからすると、逆をむいているというかムダなんですけど、でもそれがおもしろくてたまんないわけですよね。ムダも無用もドンとこい。なんにもとらわれずに、自由奔放に生きてやるぞと。その感覚を身体でつかみとる。
有用性とかそんなものを超越した変性意識状態(トランス)の世界。酒などを使わなくても、思い思いに歌ったり、狂ったように踊ったりすればよいと思う。
変な人でいいじゃないか!
私はここのところ頭痛などでしんどく、今日は公園で「うぉー」と叫んできた。
野外カラオケならタダでもできるしね