ネット上で47歳の童貞の人が「もう結婚できない」と嘆いていて、話題になっていた。
童貞の苦しみはあると思う。男性は「女性とたくさんセックスしないといけない」、「結婚できないと恥ずかしい」とった男性性の価値意識を内在化してしまい、こじらせることで苦しみに至る人がいる。
「男たるもの女の一つでもモノにしなければいけない」という言葉がよく男たちの間で交わされる。
女をモノにすることで、男同士は性的主体としてお互いを認めあい連帯を深めようとする。童貞や非モテは「男になりそこねた者」という扱いを受けて、男の階級の中で劣位に置かれてしまう。男は男同士の中でよいポジションを得るために、男として認められるよう童貞を捨てよう、恋人をつくろうと必死になるのである。
男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。
そういう男性性の価値意識は、女を性的客体としてモノ化するだけでなく、男は女を支配の対象としてまなざすことになる。それでは、相手を人として尊重する意識がないがしろにされやすい。
「童貞は恥ずかしい」という言葉には、「男は女をモノにして当たり前だ」という価値観が前提としてあり、女性の人格や性的主体性は軽んじられ、性的な客体としてのみ女性を対象化している問題がある。童貞いじりは究極のミソジニーであるといえよう。
この社会は「恋愛」を持ち上げ過ぎである。古典、小説、ドラマでのテーマは「恋愛」ばかりであり、文化によって「恋愛は素晴らしい」という価値観が常に生産されている。「恋愛はよい」という価値観はあってもいいのだが、それが強調されることで、恋愛しない人・恋愛できない人が圧迫される。
恋愛はみんなができるものではない。性愛にはコードが存在し、人間関係形成のトレーニングあるいはテクニックが求められる。「恋愛工学」という言葉が示すとおり、恋愛は自然発生的に起こるものではなく、作為をもって成されるものである。性愛のコードは論理のコードではない。恋愛至上主義は理知で動く人をますます息苦しくするだろう。
恋愛が重視される社会では、性愛の関係があらゆる関係において優位とされる。「異性との親密な関係」に高い価値が置かれる。 あらゆる人間関係の中で「異性との親密な関係」のみが特権化されるが、そこには論理的な根拠はない。 私たちは、この無根拠な価値観によって異性と親密になり恋愛関係にならなければいけないと煽られている。
「恋愛やセックス経験の多さなどどうでもいい」と言うことで、社会を支配する異性愛秩序が相対化されるべきだ。
人から愛されることがみんな素晴らしいというが、誰からも愛されなくても人はそれ自身で尊い。
「愛されても愛されなくても私は肯定される!」と言おう。