生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

社会保障の強化のために

現代社会では金は生存に直結する

 

障害はインペアメントとディスアビリティに分けられて考えられる。

 

社会モデルは、社会が負担を負えば解決する障害のことをディスアビリティと呼ぶ。そして社会が負担を負っても解決しない障害はインペアメントとする。

 

(「まえがき」石川准・倉本智明編『障害学の主張』、p.3)

 

 

 

現代資本主義社会では、金が無いと生きられない。金は命に直結する。

 

野菜の自給をしようにも、自然の別名であった土地は市場経済の中に組み込まれてしまい、金と社会的信用がなければ土地にはアクセスができない。

 

障害など何らかの事情で働けずに稼得能力がない者は、金を得られず死んでしまう。金があれば生存はできる。経済困窮者への再分配は、ディスアビリティの問題だと言えないこともない。

 

すべての生の生存が保障されるためにも、「金がなくて生きられない」というディスアビリティが解消されなければいけない。そのために社会保障がなされるべきである。

 

「命は最上位におかれ、人はその業績や属性に関わらず無条件に尊重されなければならない」というのは生の道徳であり、これ以上はさかのぼれない最終的な公理と位置づける。

 

私たちは、殺人や差別を禁止している。これは、人権が根拠となっている。

 

他者の人権を尊重するのは、自分の生命や尊厳、自由が守られるためでもある。

 

他者を否定したりおとしめることが許されると、公準として自分も否定されたりおとしめられる。

 

これは、戦争になる。

 

自分の存在が肯定され尊重されるためにも、他者に対する否定やおとしめがなされてはいけない。自由の相互承認が求められるのだ。

 

自由の相互承認が守られなければこの世の不幸は無くならない。

 

 

 

 ●財の配分のあり方を見直す

 

 社会保障が拡充されるためには、所有を正当化する論理を組み替えることにある。

 

 所有とはなんだろうか。所有は持っていることと同じではない。たとえば、あなたが隣に座っている人から黙ってペンを取り上げたとしても、あなたがこのペンを所有していることにはならない。

 なぜだろうか。それは、持っていることを他人から承認されていないからだ。持っていることを他人から認められて、はじめてそれは所有となるのである。つまり、所有とは承認された占有にほかならない。

 

佐々木隆治『カール・マルクス』p.160

 

 

 

 

現代における資本主義社会では、市場を通して得た財や貨幣の所有こそが正当なものとみなされる。市場を媒介とした所有が正当であるという観念が強すぎるから、生活保護など市場を媒介しない所有が非難されたりする。

 

しかし、所有を成り立たせる承認のあり方は、もともと市場によったのではない。

前近代において、所有は人格的関係に基づいていた。封建領主の土地の所有権は封建領主としての身分に基づいていたし、古代ローマ市民は、彼がローマ市民であるがゆえにローマの土地の私的所有権が認められた。

 

 

原始社会では集団の中で互酬や再分配が働き、集団の飢えはあっても個人の飢えはなかったとされる。ポランニーは、利得を目的とした商品の交換をおこなう市場経済が浸透してから個人の飢えは生じたと述べている。ポランニーが引用したが、人類学者マリノフスキーによる原始社会とされるカフィール族の社会では「窮貧生活はありえず、援助が必要なら誰でも問題なくそれを受けられる」と飢えの脅威がなかったと報告された。

(カール・ポランニー『経済の文明史』) 

 

 

資本主義社会においては、商品や貨幣という物象の力が所有を成り立たせるようになる。

佐々木隆治、前掲書、p.161)

 

 

財の分配のなされ方が市場経済に強く依存している社会、つまり市場の論理が強い社会では社会保障(市場を介さない財の分配)は貧弱になる。そして、その社会に適合できずに生存を脅かされたり、生きづらさを抱える者が出てくる。

 

既存の財の配分のあり方では《ある人》が生存できなくなることが問題なのである。その《ある人》が「生きさせろ」と声をあげて、既存の財の配分のあり方に対して批判することはもっともだ。そういった主張をもとに障害者運動があった。

  

しかし、今、市場の論理を全面否定するのは現実的ではない。まだ可能性のある方向として、市場の論理を弱めるか(相対化)、それとは違う論理を付け加えることが挙げられる(価値の増殖)。

 

生の肯定、つまりすべての人の生存が保障されるように再分配が強化されるためにも、能力主義に基づく私的所有の原理が弱まる必要がある。

 

まず、本人の能力で得た富は本人が独占してよいとは言えない。その人の能力はただ一人の努力によってのみ形成されたのではない。その人の能力も親、学校、環境など社会によって培われたと言えるからだ。ならば、能力で得たものはある程度は社会に還元すべきである。

 

自分の能力で得たものは自分だけが所有してよい、そのような能力主義に基づく私的所有の原理が強すぎては、金を生み出す能力がない障害者などは何も取り分が無くなる。

 

立岩真也さんの話(「ないにこしたことはない、か・1」『障害学の主張』)

から私も思った事は以下である。

 

本人ができるようになる事で、本人の快や便利さが増すならできた方がよいが、その必要以上には、できても、できなくてもよい。できなくても、他の誰かが負担して社会の総量でできるようになったらそれでよいのではないか。

 

みんなが能力をもつようにしよう、落ちこぼれを出さないようにしよう、という考えが強すぎる社会は、できない人を抑圧する。 みんなが有能でなくてはいけないという能力主義への信奉が強い社会では、真の落ちこぼれはより疎外される。 目指すべきは、落ちこぼれても安心して生きていける社会である。

 

財の所有の正当化の論理は歴史によって変わった。ならば、財の分配のあり方を組み替えることはこれからも可能である。

すべての人が生存を保障される社会になるためにも、財の分配のあり方が見直されるべきだろう。

 

 

 

 

※財の配分のパターンについては以下を参照ください。

 

nagne929.hatenablog.com