生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

多様性の尊重

ツイッターでは、生活保護受給者をクズと呼び、「働いてないのに社会に物申すな」と言うなど、他人を否定し権利を剥奪する差別的な言説が目につく。

 

差別とは、人を属性や条件を理由に否定・冷遇することである。

 

ヘイトスピーチのように他者をその属性や条件(エスニシティ、社会的地位etc…)でもって、否定し、攻撃・貶めをおこなうことは正当化されない。

 

「このような言説も表現の自由として認めてもいいじゃないか」という人もいるが、差別的な言動はいかなる理由をもってしても正当化されない。

 

属性や条件によっては他人を否定したり貶めていいことが認められれば、公理として自分も属性や条件によって否定され貶められる。

 

自分と他者とを二分して、一方は優れており、他方は劣っているという決めつけをおこない、他者の権利を剥奪し、支配しようというのは、他者の自由の侵害であり、戦争を生み出す。

 

差別をしないということは、相互を尊重するということであり、お互いの尊厳と自由を守るためにも必要となってくる。

 

重要なのは「多様性の尊重」である。どのような属性の者であっても否定されず、権利が尊重され、自由でいられることである。それは、秩序の下位に置かれているマイノリティの権利が認められる方向でなければならない。

 

また、自分の正義を他人に押し付けることもあってはならない。私たちは自分の「自由」な言動をおこなうために他人からの「承認」を求めるが、相手を力づくで「承認」させようとするのは、命の奪い合いや支配−被支配関係を生む。

 

自分たちだけの「自由」―利得や信条―を主張し合うことがあったとしたら、それは「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)をもたらすことになる。そして、それを回避する方法が「自由の相互承認」である。

 

 

 

・「交響圏」と「ルール圏」

 

多様性が尊重されるための他者との関係のあり方について、見田宗介社会学入門』(岩波新書、2006)における「交響圏」と「ルール圏」という概念が重要になると考える。

 

社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。一方は、歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することをめざすものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。

見田宗介、前掲書、p.172)

 

 

この二つの課題は、人間にとっての他者の、原的な両義性に対応している。

 

他者の両義性(p.173)。

 

・他者は第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。

・第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である。

 

 

他者は、互いに共感し、歓びを共有できる存在でもあれば、対立し、傷つけ合うこともあり、一方が他方を支配する抑圧をも生み出す。また、ある人たちの歓びが、他の人たちの歓びであるとは限らない。自分たちの歓びを望まない人たちにも強いることは〈善意による抑圧〉を招きうる。

 

見田は、共鳴する他者とは歓びを分かち合い、そうでない他者との間での不幸や困難を最小化するために、他者との関係のあり方に対して二つのモードを提示する(p.178)。

 

歓びや感動を共有する他者とは〈交歓〉という関係のモードで繋がり、これを「交響圏」とする。この圏域の外部の他者との関係とは、相互にその生き方の自由を尊重し侵害しないための協定agreementを結び、このような自由を保証するための、最小限度に必要な相互の制約のルールのシステムを明確にする。これは〈尊重〉という関係のモードであり、「ルール圏」とする。

 

 

つまり、すべての他者たちは相互に、

 

〈交歓する他者〉and/or〈尊重する他者〉

 

として関わる。

 

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「交響圏」(〈交歓〉のモード)と「ルール圏」(〈尊重〉のモード)

 

 

この「交響圏」とは、家族(ジェンダー家族だけでない)、友人、仲間、アソシエーション、宗教、コミューンなどとなろう。

 

もちろん、この「交響圏」の中の人間関係においても相互の自由は保障されなければならない。また、「交響圏」は自由に出入りできるものになる必要もある。

 

価値体系を共有する関係であっても、ともすれば、抑圧的な関係に転じやすい。支配-被支配の関係は生まれやすいし、外部から見えにくい集団や家族はブラックボックス化しやすい。宗教であれば教義によって「自由」が抑圧されることもある。

 

そのため、「連帯」や「友愛」よりも、個々人の「自由」が優先されるべきである。

 

 

・自分とは異なるゆえに他者

 

愛し合うカップルはお互い一つになり溶け合いたいと願う。組織や集団も皆が一枚岩にならなければいけないという志向性をもっている。しかし、それは原理的に無理である。すべての人が自分と同じ規範をもっていると、他者は存在しないことになるからである。自分と全く同じ価値体系をもつ人間は自分の分身以外に存在しない。

 

ある人にとってもっともな理由は他の人にとっては納得のいかない理由である。納得のいかない理由によってなされた行為は不可解な行為であり、しばしばそのような行為をおこなう人物は不可解な(分けのわからない)人物である。要するに、ここで問題となっているのは人間の従う規範なのであって、異なる規範に従う者が、すなわち他者なのである。したがって、すべての人間があらゆる点で同一の規範に従うとすれば、この意味で他者は存在しないことになる。

 

永井均(1990)「他者」『現代哲学の冒険④ エロス』岩波書店、p.211

 

親密な間柄であろうと他者との関係のとり方は、他者が自分とは異質な存在である事を認め、お互いを尊重する所からスタートしなければならない。 相互の異質性が尊重され、権利が認められることで「自由」が保障される。

 

「自由」は相互の尊重がなければ実現されない。。

逆説的だが、「自由」とはルールがあって成り立つのである。

 

 

 

 【参考文献】

 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 

 

エロス (現代哲学の冒険 4)

エロス (現代哲学の冒険 4)