生きるための自由研究

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資本主義の「家族」に対する責任

資本主義における「市場」はモノやサービスを作り出す領域である。モノやサービスを作り出すためには原料となる資源と、資源を加工して商品をつくったりサービスを提供する労働力が必要となる。資源を供給するのが「自然」であり、労働力を供給するのが「家族」である。

 

 

「市場」は、「自然」「家族」という二つの「環境」からヒトとモノを無償でインプット・アウトプットしてきた。

 

「市場」には「自然」と「家族」という〈外部〉があり「市場」はこの〈外部〉に依存してはじめて成り立っている

 

上野千鶴子『家父長制と資本制』p.10

 

 

 

 

しかし、「自然」については資源やエネルギーが地球に無限に存在するわけでないことが分かり、産業廃棄物による環境破壊が問題となった。このため、「市場」のプレイヤーである企業が資源を無尽蔵に収奪することは環境倫理として許されなくなり、産業廃棄物の「自然」へのアウトプットについても規制がかけられたり、環境税によってコストを負担することが義務付けられた。

 

 

「家族」と「市場」の関係は、「自然」と「市場」の関係と類似性をもつ。

 

「家族」という領域から「市場」は、ヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使いものにならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとって労働力資源としか見なされないところでは、「市場」にとって意味あるヒトとは、健康で一人前の成人男性のことだけとなる。

 

上野千鶴子『家父長制と資本制』p.9

 

 

 

労働力となる者は「市場」で包摂されるが、病人や障害者、老人など労働力として使えない者は「市場」の外、「家族」という領域に押し付けられる。

 

「廃棄物」となったヒトの受け皿が「家族」となっている。病人や障害者、老人の介護を担うのはもっぱら女性である。

 

「家族」の領域には、労働者予備軍である子どもも押し込められており、子どもを未来の労働力として育て上げるコストは家事・育児としてもっぱら女性に押し付けられる。

 

「市場」はその存続のために、女性による無償の家事・育児・介護にタダ乗りしているとも言えるのである。

 

「市場」は「家族」によって育てられたヒトを労働力として吸い取り、さらには、労働力として使い倒したヒトを捨てるゴミ箱としての機能を「家族」に押し付けている。それを無償でできると思うのは「市場」の傲慢だろう。ムシが良すぎる。

 

「市場」は「家族」を必要とするならば、少なくとも「家族」に対して、労働力の供給と使い倒した者のケアにかかるコストを負う責任がある。

 

これが、企業への課税を強化し社会保障の拡充を正当化する論理となる。

 

 

 

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

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