生きるための自由研究

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結婚制度を問う(2)

結婚制度は差別を生み出すことや、家族主義についての批判はこれまで書いてきた。今回は、カップル主義の相対化が必要であることを述べ、制度的保護の対象は「性愛関係」(性の絆)から「ケアされる者とケアする者」(ケアの絆)へと 変わるべきだという家族社会学の知見を紹介します。

 

以前書いた結婚制度批判の記事

nagne929.hatenablog.com

 

 

【目次】

 

 

1.カップル主義を相対化する

 

 近代家族への批判とは、「一対一の性ダイアドからなる関係を家族と呼ぶという強制異性愛秩序compulsory heterosexismへの批判であった」(上野千鶴子、2009、p.8)。

 

 性愛で結びつく関係に対して婚姻という法的保護は必要なのか、そして、それが二者関係であること(モノガミー)、異性愛に限定されることが問われてきた。

 

 ゲイやレズビアンカップルにも異性愛の婚姻関係と同じ法的保護を与えるという形で同性婚が一部の国や地域で実現されている。しかし、同性婚ではモノガミーやカップル主義の問題がなお残る。また、ゲイやレズビアンが、異性愛の単婚家族を「モデル」として模倣することによる限界があるという(上野、2009、p.8)。

 

 同性婚を支持するということは、カップルを制度的に特権化して差別を生み出す結婚制度を温存することであり、カップル主義を強化する作用もある。婚姻関係が人間関係のあるべき規範として特別視されてよいのか、それが多様な人間関係をつくることへの障壁として機能するのではないかというクィアスタディーズにおける指摘もある。

 

「婚姻」がさまざまな関係における範型になってしまうおそれがないとはいえないということである。「婚姻」制度の要求のみに「新たな関係性」形成の問題が還元されてしまうことによって、婚姻以外の可能性を含む関係性が排除されてしまうことに対する警戒は怠ってはならないように思われる。

(河口和也、2003、『クィアスタディーズ』岩波書店p.74)

 

 

 婚姻制度を正当化するのはカップル主義である。この社会はカップル単位(家族単位)の発想から制度がつくられているだけでなく、愛し合う二者関係(カップル)をつくることが素晴らしいという観念にも支配されている。結果、シングル、および3者以上の恋愛関係(ポリアモリー)を排除している。

 カップル主義は恋愛主義から成り立っている。恋愛が好きな人は是非すればよいのだが、恋愛主義はみんなが恋愛すべきだという強迫感を植え付けるものである。恋愛主義が強いと、恋愛しない者や恋愛できない者は疎外されてしまい、居心地の悪さを抱えて生きることになる。恋人がいない者は「ワケあり」と世間から眼差されてしまうことも恋愛主義が幅を利かせているからである。

 結婚によってカップルを優遇することは、恋愛に対して制度が中立的でなく、制度が差別を生んでいる。

 

 カップル主義の問題についてクィアスタディー研究者の森山至貴さんの言葉を引用しておきたい。

 

 

 カップルの解消という論点は、そもそも特定の相手と長く関係を続けることがそんなに偉いことなのか、言い換えればなぜカップルが法的保護の対象となるべきなのか、という問いに帰結します。二〇一七年において、夫婦の間には配偶者控除などさまざまな権益が与えられています。しかし、誰もが等しく(性的)魅力を持つのではなく、パートナーシップを結ぶことが双方の自由意志に任せられている(どちらかの意志を無視する形で、パートナーを「あてがう」ようなおぞましい制度は当然存在せず、存在すべきでもないでしょう)のであれば、パートナーと生きているわけではない人は必ず一定数存在します。何もかもをパートナーシップの権利保障の枠内で解決しようとすれば、「独り身」の人の権利が侵害されることになりかねません。

 そもそも、性的指向性自認を固定的で永続的なものと前提してしまうことを、クィアスタディーズは批判してきました。端的に言って、人は変わるし、変わってよいのです。

 そのクィアスタディーズの視座を貫徹するなら、特定のパートナーの永続的で固定的な関係を前提とする人間観も、また誤りです。もちろん、性的指向にかかわらず多くの人が特定のパートナーとの永続的な関係を望んでいることは確かでしょう。でも、婚姻を含む社会の制度がそれを前提にせず、もっと開かれた人間観に基づく平等なものになりうるのならば、それを拒む必要はありません。性的欲望や関係性の可変性を制限するものとして同性婚制度が成立するのだとしたら、それに歯止めをかける必要も生じるでしょう。

 実際、同性婚を求める主張の中にあるモノガミー(単婚、一対一の婚姻)主義やカップル主義は批判の対象となっています。パートナーシップに関する制度でどこまでを解決するかは議論のあるところですが(個人単位の社会保障を充実させて、現行の婚姻よりも権利保障を弱めたパートナーシップ制度と組み合わる方法もありえます)、同性婚・同性パートナーシップに関する議論が、「カップルだと得をする社会が望ましい社会なのか」という議論を開いたことは、軽視してはならないでしょう。

 

森山至貴、2017、『LGBTを読みとく』ちくま新書、p.169-170

 

 

 

2.「性愛に基づく二者関係」を保護するのに正当性はない

 

 家族社会学では、もはや「家族」は定義ができないとされる。居住の共同、血縁の共同、性の共同など定義付けをおこなおうとすると、そこからこぼれ落ちる形態の「家族」がでてくる。家族というのは、当人にとって誰を家族と見なすのかという問いからでしかアイデンティファイできない(上野千鶴子、1994; 2009を参照)。家族も言語やパフォーマンスによって構築されるものである。

 

人びとが「家族とは何か」を語る言説の多様性を前にして、構築主義の立場からすれば、問いは次のように逆転することができる。「何が家族であるか?」を決定することが不可能であるとしても、「人びとが何を家族と呼ぶか?」という問いの探求をつうじて、「家族」という概念に当事者が託した価値や規範意識を逆説的にあきらかにすることができる。

上野、2009、p.6

 

 

  家族は観念により成り立つ「幻想」であり無限のパターンが存在する。恋愛関係にない友人やペットを家族だと感じる人はいる。死者を家族と見なす例もある。見たこともないネグロスの子どもの「里親」になり、その子どもに家族意識をもったりする例もある(上野、1994)。このように多様な家族の形態があるなかで「性愛に基づく二者関係」のみを法的制度的な「家族」と定め特権を与える根拠はない。生殖に基づく関係として制度的保護があっても、結婚して子を産まない場合もある。そして、性愛カップルを作れない者は冷遇される。

 

3.制度的保護の対象は「性愛関係」から「親子関係」へ

 

 子どもや高齢者などは誰かに依存しなければ生きていけない。子どもや認知症をわずらった高齢者は自己決定能力をもたないので、彼らの意志決定を代理したりケアを与える存在が必要になる。依存的弱者と、そのような依存的な他者を抱え込んで「二次的依存」の状態にいる者に対する保護はなされるべきである。しかし、婚姻関係(性の絆)に対して特権を付与するカップル単位の制度では、子どもを抱えていてもシングルマザー世帯などは制度の外におかれる。このような問題から、「性愛でつながる二者関係」(性の絆)ではなく「ケアを受ける者と与える者の関係」(ケアの絆)を「家族」として保護の対象とすればよいという論が家族社会学ではなされている。M.ファインマン氏が著書『家族 積みすぎた方舟』で提起した考えである(上野、2009参照)。

 

 子どもや高齢者といった依存的な他者を抱えることによって「二次的依存」の状態になるのは女性が多い。これは、無償のケアは家事労働の延長であると見なされ女性の役割になるというジェンダー秩序が存在するためである。これは、男女の賃金格差などジェンダー不平等のもとに生まれる性別役割である。このため、「二次的依存」の状態になった女性は誰かの経済力に依存せざるを得なくなる。離婚してシングル世帯になると貧困状態になることからDVやパートナーとの不和が生じても離婚ができない。実際、離別したシングルマザー世帯は貧困に陥っている。働いても非熟練労働では生活保護費と同等、それ以下の給与しかもらえないので貧困から抜け出せない。

 

 「二次的依存」の状態にある者が第三者に私的に依存せずともすむ程度の現金給付がなされる必要がある。

 

 私は子どもには「子どもベーシックインカム」なるものが支給され、子どもが意思決定できるようになれば誰の世話になりたいのかを自由に選べるようにできるのがよいと考える(血縁上の親、里親、親ではないが面倒みてくれる他人、もしくは施設で暮らすのか等々が選べる権利)。高齢者には介護費の公的補助が要介護者に渡され誰にケアをしてもらいたいかを当事者が自由に選択できるようになり「自分の望むケアを受けられる権利」が保障されるのがよいと考える(親、子、親戚、あるいは血縁関係にない他人、ヘルパー、施設などを自由に選べる)。そしてケアの与え手には血縁関係の者であってもそのケアが労働として要介護者から支払われるべきだ(原資は公的補助)。

 

※介護の公的補助が要介護者本人に渡されるのがいいという話は伊田広行さんのシングル単位論から学んだことです。

 

 

 

【引用・参照文献】

伊田広行、1998、『シングル単位の社会論』世界思想社

上野千鶴子、1994、『近代家族の成立と終焉』、岩波書店

上野千鶴子、2009、「家族の臨界ーケアの分配公正をめぐってー」(牟田和恵編『家族を超える社会学新曜社、所収論文)

・河口和也、2003、『クィアスタディーズ』岩波書店

・森山至貴、2017、『LGBTを読みとくークィアスタディーズ入門』ちくま新書