生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

能力主義(近代合理主義)を問う

1.能力主義による序列づけの正当化

 

 出自やジェンダーなど属性によって人の間に序列をつけることは差別として非難される。しかし、能力については、それが劣ると本人の落ち度として責を問われてしまう。能力というものは本人の努力によって変えられると思われており、それが変えられないのは本人が努力を怠っているからだと非難が正当化されてしまう。才能があり努力をして能力をつけた者が上に立ち、能力のない者は下に甘んじる。人を価値づける最大の基準が能力であり能力による序列づけは正当化される。

 

 我々が一般的に評価する能力とは、今の資本主義システムや差別的秩序の中でうまく立ち回ることができる能力である。勉強ができる/スポーツができる/文化的素養がある/仕事ができる/コミュニケーション能力、などである。それらもパターン=型が限られる。多様性がないのだ。さらに、世の中でうまく立ち回ることができる能力というものは時代や地域の文化によっても変わる。求められる能力とは今の社会の価値体系を表すものである。今で言ったらホリエモン的な自己責任論的な価値体系に基づく能力が求められのだ。それはマジョリティにとって有利な価値体系なのである。そのような能力を信奉することで主流の価値体系を強めてしまいマジョリティをますます有利に、マイノリティをますます生きづらくする。

 

 自己責任論は能力主義にもとづく。能力のない者は努力のできない落伍者としてスティグマを貼られ、生存も脅かされ人としての尊重もされにくい。事実、生活保護の給付水準は低く人が人らしく生きることを保障していない。福祉の給付水準は最底辺の労働者の生活水準よりも低く抑えるべきという「劣等処遇の原則」が未だにまかり通っている。福祉を受けるにあたって剥奪される権利も多く、プライバシーは侵害され世間からの非難がなされる。

 

 能力主義は近代において強まった。前近代では出自や身分により本人の生き方は決まっていた。職業選択の自由もなかった。農民の子は農民として生き、商人の子は商人として生きることが決まっていた。生まれた村の共同体に属し、村の成員としての立場を生き、村の中で生涯を終えた。そのような前近代の時代には、いかに能力をつけても階層や共同体の越境ができない(インドなどカースト制が残る国もまだある)。しかし、近代に入ると個人のライフコースは出自や身分で決まるのではなく個人の能力により作り出すものとされる。能力主義封建社会を脱却するための革新的な考えとなった。能力がある者は階層を上昇させ、逆に能力が無い者は階層の下位に甘んじなければいけないという発想から格差が肯定されるのである。

 

2.「意志の力」の信奉

 

 能力主義は「意志の力」の信奉に基づく。近代社会が想定している個人とは、選択の自由がある中で自ら意志をもち自己決定する主体というものである。近代主義のもと意志をもち努力をして有用な成果をあげるという考えが支配する。自分の運命は自分の意志で切り開くという観念が強まり、立身出世の考えが支配した。その裏返しとして不運で不本意な人生をおくるのは努力が足りない=意志の力が弱いからだという非難が正当化される。意志によって自己決定をして自らの生き方をよいものにできるという観念は、よい生き方ができないのはしっかりとした意志をもたないからだと生きづらさを個人の内面の問題に還元させる。

 

 しかし、確固たる意志というものは万人に期待できるのだろうか?意志の力はもろい。意志の力で何事もできるのならば、みなダイエットに成功しているはずである。依存症においては意志の力というのは否定されている。薬物依存になり厳しい刑罰を受けても薬物を手放せない人もいる。アルコール依存症と診断を受けても断酒を続けられる者はわずかである。酒をやめなければならないと思っていても、ついつい酒に手が伸びてしまう。

 

 近代における自立した個人を特徴づける「意志の力」は疑問にさらされているという。自らの意志でやるor誰かにやらされるという能動/受動ともきれいに判別しがたい行為を私たちは日々おこなっており、『中動態』という概念が哲学者の國分功一郎さんにより提示されている。

 

「哲学研究の世界ではここ100年ほど、自発性、主体性、言い換えれば“意志”の存在が疑われています。僕は実際に“近代的意志”の存在を前提とした“常識”が人間に明確な害を及ぼしている現場に遭遇した。依存症の方々は、意志が弱い、と周囲から思われ、自分を責め続けています」(引用記事)

 

https://bunshun.jp/articles/-/2461?utm_source=twitter.com&utm_medium=social&utm_campaign=socialLink

 

 

3.中道態のススメ

 

 自らの意志で主体的に何らかの行為をしている【能動】の状態ではなく、さりとて、他者から何かをやらされている【受動】という状態でもない、何かに取りさらわれる感覚で無意識的に行為をおこなっているという【中動=能動とも受動とも判別つけがたい】の状態において、人が人らしく快をもって生きられるという考えもある。

 

 依存症治療においてもこのようなアプローチが採用されている。アルコール依存症者の断酒も、酒をやめようと前のめりのなるのでもなく、人から強く酒をやめるように言われて断酒をするのでもなく、何となく気がついたら断酒が継続したという状況が多いのではないろうか。

 

 人は何かを為さなければと躍起になったり、人から命令されたり、何かをせざるを得ない状況に追い込まれたら抑圧を感じる。能動や受動により人は自由から疎外されているともいえる。自分が無意識のうちに何かに夢中になる(=とりさらわれる)空間や状況に自分が置かれることで、人は時を忘れるように何かに集中したり気づいたら何かをやっていることがある。それは、勉強でも趣味でも芸術鑑賞でも、いろんな場面で生じる。意志の力に裏切られた者の居場所は中動態的な世界にあるのではないだろうか。

 

 人は思い通りに動けない。図らずして不遇になってしまうこともある。意志の力を前提とする近代合理主義に基づく社会システムも見直されるべきである。

 

 

◆ 能力主義について続編も書きました。

 

nagne929.hatenablog.com