生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

コロナと街

過度の外出制限は街の人から居場所を奪うこと。コロナ自警団に見られる群生心理のこわさ。安心・安全を過剰に求める社会は逆に安全・安心を損ねること。

など、書きました。

 

 

【目次】

 

 

1.路上を居場所にしている人たち

 

(5/5)

 所要で京都駅に出かけた。京都駅前で座って休めるところを探していた。日陰で座るところを見つけてスマホなどをいじりつつ休憩。数メートル横におばあちゃんが座っていてお弁当を食べていた。たまに目が合ったので思いきって話しかけてみた。「外は気持ちいですね」と話しかけるとおばあちゃんも親しく話してくれた。そのおばあちゃんは着ている服や雰囲気からも貧しい人だというのは分かった。街で強盗にやられて困ったという話をしていた。そこに一人のおっちゃんが通り掛かる。サングラスをして短パン・半袖とラフな格好をしていた。おばあちゃんの横にきて「コロナで企業がたくさん潰れとるわ。休業補償もないからな」と言っていた。話題が気になったので「やっぱり潰れてる企業多いんですね〜」と話しかけてみる。そうしたら、おっちゃんから色々話を聞くことに。このおっちゃんは政権批判的で、給付金は10万円では足りない、給付が遅すぎると話が一致した。京都市の給付金の申請受付が遅くなっているのは、門川市長が道路公団ばかりにお金使って医療などコロナ対策に消極的だからという。その道路公団はヤクザとつながっているという話も。今は京大病院などに研究費与えなあかんのやと言っていた。その他、ヤクザ関連の話を興味本位で聞いた。昔のヤクザは祭りや縁日などのテキ屋で市民を喜ばせて金稼ぎをしていたが、今は闇金融や恐喝(通行人に因縁をつけて金を巻き上げる)など市民を脅かしてばかりいるからけしからんと怒っていた。

 

 そうして話しているうちに別の人がやってきた。若い丸がりの青年だった。足が悪く話すのも得意でない感じだった。そばに来てお菓子を食べていたり一言二言話していた。知り合いなのだろう。さらにチューハイを手に持った別のおばちゃんやおっちゃんもいつの間にかそこに集う。肌の色や着ている服から判断する限り暮らし向きは良くない人たちだろう。その人たちは街を歩いていて知り合いを見つけたらダベっているのだという。路上を居場所にしている感じであった。

 

 

2.西成にて

 (5/8)

 神戸方面に用事があって外出。三宮〜元町の商店街では多くの店先にマスクが売られていた。西成の様子を見に行きたくて阪神電車に乗って難波方面へ。南海電車新今宮のあいりん地区へ。街は閉まっている店も多かったが営業しているスナックからはおっちゃんの歌う声が聞こえてきた。スナックには客が多く昼から酒盛りなどで賑わっていた。商店街も人がたくさんいた。歩く人、自転車で突っ込んでくる人、怒鳴りながら壁をける人などでいつも通り賑わう。公園にはいい天気だったからベンチで話しているおっちゃんたちがいた。昼ごはんを食べる人、ダベる人、大声を出す人、バトミントンをする子ども、いつもとそんなに変わらない光景だった。路上で座って談笑しているおっちゃんが多くいた。知人と一緒に居酒屋に。店員のお兄ちゃんは休業補償がちゃんと無いから休むに休めないと語っていた。この地区は独居の高齢者が多い。家で一人でいるのも寂しいから外に出る。外でブラブラしていると顔なじみに出会うからそこで世間話や雑談が始まる。公園、路上、スナックと街のあらゆるところが居場所となっている。

 

 このような街を居場所にしている人に対して過度の外出自粛を求めるのは野暮であるし、居場所を奪うことにもならないか。みんな感染症のリスクは知っている。知ったうえで外出している。外出する何らかの理由がある。自粛しろと頭ごなしに言われるほどバカではない。みんなからは「不要不急の外出」だと言われるかもしれないが、本人にとっては生きるために必要な営為であるかもしれない。リスクを無くすには家にいるのが合理的だが、合理性だけでは生きられないのが人間である。なにが「不要不急の外出」でありそうでないかも生産性の論理により分けられているのではないか。感染症にかかった人も、仕事や通勤中に感染した人は「名誉市民」と持ち上げられるが、ブラブラしていて感染したら「不届き者」と言われ後ろ指をさされたり、治療なんて受けなくていいという切り捨ての発想にならないか。

 

3.自警団化する自粛ジャンキー

 

 わずかな人がブラブラ外を歩こうが店を開けようが誤差の範囲内だ。「みんなが外出したらどうするんだ」というのは現実的にありえないから言っても仕方ない。外出自粛をしている人が大半であるし、少しの外出でささやかな楽しみを得るくらいは目をつぶってもいいのではないか。リスクは0にはできない。それよりも感染者へのスティグマが強くなり、症状の疑わしい人が安心して申告できず適切な医療が受けられないことが問題である。誰もが感染するリスクはあり、誰が感染しても蔑視しないことが感染症抑止につながる。

 

 感染者へのバッシングや暴力、プライバシーのアウティングがひどい。営業している店に対しても嫌がらせをしたり自治体にチクったりする人が後を絶たない。いわゆるコロナ自警団だ。このような行為をする人は世間や権威のおすみつきを得ている感覚があるからタチが悪い。攻撃する対象は権力者ではなくて攻撃しやすそうな市民に向いている。攻撃しても咎められない対象を「悪」とみなし、みんなで攻撃して「悪」と戦っているような高揚感(=共同幻想)を得ている。パチンコ店、ナイトワークなどスティグマをもつ職業がもっとも攻撃にさらされている。群生心理の暴走といえる。これは、冷静さを欠いたパニックや「正義」の暴走ではなくて、攻撃できそうな人を冷静に選んでおこなわれているので明確な差別である。「正義」の暴走はなく、いつもあるのは「不正義」の暴走だ。学校のいじめやホームレスへの暴行でも同じ論理が見られる。この人たちは普段は穏当に暮らす善良な市民なのかもしれない。しかし、ある場面では世間や組織の「空気」や権威に従い非道な行為もおこなうようになる。「凡庸な悪」である。

 

 コンビニがトイレを閉鎖したのも、感染症抑止を名目に嫌がらせや攻撃をおこなう自警団を恐れて先手を打った感じである。店を営業してもわずかなスキが攻撃の対象となり安心できない。「外出をしない」「マスクをする」「2メートル空ける」などは、コロナ対策やマナーとして打ち出されたものだが、これらを守らない人たちを吊し上げたり攻撃の対象とする人も見られる。マナーを守るのは自分や他者の安全のためというよりも、自分が他者から攻撃されないためという恐怖の論理による倒錯がおこっている。ルールやマナーが人々が相互監視するためのものとなり疑心暗鬼がうまれ皮肉にも安心と安全が損なわれている。今やウィルスだけではなく人からの攻撃にも怯えなければいけない。

 

4.社会には隙間や余剰が必要だ

 

 リスクを完全に0にすることはできない。0に近づけようと思ったら、あらゆるリスクの隙間を埋めるためにかかる費用が天文学的なものとなる。また、リスクがあることに過剰反応して「リスク潰し」を名目に他者への過度の干渉や暴力がなされてしまう。自分も攻撃対象となるおそれから怯えながら生活することになる。安全や安心を過剰にもとめると、逆に安全や安心が損なわれる。何も行動ができなくなり、生活もままならなくなる。社会も回らなくなる。社会は多少のリスクを内包することで成り立っている。ある程度のリスクがある事で社会は張り合い(エロス)を持つことも無視できない。

 

 社会は隙間や余剰によって成り立っている。そこに人々の営みがある。外出が制限されている今、あえて外出をしている人を見るとどんな人が街を必要としているのかが分かるかもしれない。そこに、社会を底で支える「溜め」が見えるのかもしれない。