生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

不倫から考える家族主義の問題

 

【目次】

 

 

1. カップル単位思考の問題点 

 

 みんな誰かの不倫を叩くのが好きだ。しかし、ひかれ合う二者による恋愛が「正しい恋愛」だとするカップル単位(=排他的な二者関係)の恋愛観があるから、それを脅かすものとして不倫という概念も存在していることが分かる。誰かの不倫がバッシングされるのを見ていると、一夫一妻のモノガミー秩序はもともと存在するのではなく、婚姻外の性愛を排除することにより成り立つ幻想にすぎないのだと分かる。婚姻主義はそれ自体では存立できず、常に「不倫は悪い」と叩くことでしか存続できない。不倫や浮気が結婚制度(=カップル主義)を後ろで支えるダシにされているのだ。

 

 今回は家族主義を支えるカップル単位思考(=排他的二者関係)の問題について考えてみたい。恋愛は二者関係で閉じたカップル単位でするものだという発想がそもそも根拠のないものである。幻想に囚われることや幻想に従うことが悪いのではなく、二者関係に閉じた恋愛を絶対視して持ち上げすぎたり、いたずらに否定する態度が幻想に囚われすぎであるといえる。

 

 カップル単位の恋愛が現実の幸福につながるわけではない。カップル単位思考は恋愛とはかくあるべきという願望であり幻想である。幻想は裏切る可能性があり、裏切るものだから幻想であり続けられるのだ。恋愛とは幻想の体系だから本来的に不安定なものである。しかし、二者関係を家族として安定化・永続化させて社会統合の単位としたい社会の要請が「家族神話」を生み出している。「人間はパートナーを持ち家族を作りずっと一緒にいるものだ」というカップル単位の家族観が本質化され自然なものとみなされる。

 

 家族を「愛の交換とセックスがおこなわれる領域」に限定する発想はロマンティック・ラブ・イデオロギー(=愛・性・婚姻が連動する発想)に基づく家族幻想(=対幻想)である。セックスと愛を不可分のものとし「排他的二者関係」を絶対視する発想である。しかし、この思考では恋愛関係のパートナーにいろいろな役割を求めすぎになる(=恋愛、積みすぎた方舟)。情緒安定、癒やし、刺激、楽しみ、セックスなどをすべて恋愛相手に求めるのが当たり前のように思われているが、これらは恋愛関係の中でしか得られないものではない。むしろ、相手に多くの役割を求めすぎるほど双方負担になる。自分が恋愛やセックスに抱いている幻想を相手に押し付けることで関係をこじらせたり暴力にもなってしまう。精神的に充足したり生きづらさが緩和されるためには依存先を増やすのがよいと言われる。これは、特定の人にいろいろな役割を求めすぎると相手への過度な負担となり共依存にもなりやすいため、複数の人間に役割を分散させると適度な距離で負荷のない間係をたもてるためであろう。上野千鶴子さんも複数恋愛について、人はただ一人のパートナーによって①情緒的満足、②知的満足、③性的満足の全てを満たすことはできないから、自分の欲望を満たし幸福を高めるためには色んな人と関係できる可能性を失いたくないという旨のことを言っていた。

 

 また、カップル単位思考は人間関係の幅を狭めうる。セックスを含む相手の人間関係の自由(=プライバシー)が尊重できなくなり嫉妬や干渉が正当化されてしまう。パートナー以外の人(性愛対象の性)と気軽に会いづらくなる。話したい人と話し、会いたい人と会うことがしにくくなる。自由な人間関係をつくることができず世界の広がりやさまざまな可能性を失いがちになる。

 

 

2.悪い不倫/悪くない不倫

 

 人の感情は場当たり的である。誰かを愛しつつも別の人を好きになったり愛するようになることもあるだろう。複数の人を「誠実に」愛することもできる。また、恋愛関係をことさら特別視しすぎでもある。いろいろな人間関係の一つである。

 

 結婚にはイエの存続のために家長である男性に女性をあてがうという発想がある。近親相姦の禁止というルールにより、親族や共同体の外のイエに女性を供給し婚姻関係をつくることで、女性をつかったイエのネットワークや影響圏の拡大をおこなっている。結婚はイエの間での女性の交換であり、日本の戸籍制度は女性がどのイエに帰属しているかを示し女性を管理する発想をもつ。また、一夫一妻制(=モノガミー規範)は、一人の男性が多くの女性を独占するのではなく、多くの男性に女性を分配するためにある。昔から権力のある一部の男性が多くの女性を正妻や妾として囲い、階層が低い非モテの男性の多くは女性をめとれなかった。一夫一妻制は効率よく労働力を再生産する近代の資本主義にマッチするものである。多くの男女がマッチングされて子どもを産んでもらいたい。男女のカップルを生殖の単位とする発想であり生殖主義に基づくものだ。結婚には女性を男性に従属させ生殖とケアを担わせる女性差別の発想が根本にある。

 

 そして、現在の結婚制度はそれ自体が差別を生み出している。結婚制度において「カップル単位の性愛関係」に優遇的地位を与えることは、シングルへの差別となっている。婚姻における制度的優遇はカップルを対象になされている。これは、子どもを守る発想ではなく「家」という型(=標準家族)を守るための発想であり、労働力の再生産のために制度が設計されている。つまり、婚姻主義は生産性の論理のもとに婚姻外の人を劣位に置くことで成り立っている。このような結婚のもつ問題に対しては疑問や批判意識は持っていてしかるべきだ。そういう結婚やカップル主義に反発するためのオルタナティブ性をもった不倫もしくは複数恋愛は悪くないかもしれない。

 

 不倫はパートナーや子どもをないがしろにして裏切るようなものが非難されうる。不倫においては男性が有利であり男女では非対称性があることも認識されるべきだ。男性は複数の女性と関係をもつことが「男らしさ」として男性間のホモ・ソーシャルの中で優位になりやすい。一方、女性は貞淑さを要求されやすくパートナー以外の男性と関係をもつと「ふしだら」と一方的に非難される。また、ジェンダー秩序において女性に家事や子育てなど家庭内の負担がかかりやすい中で、家族をないがしろにした身勝手な不倫は男性がしやすい状況にある。パートナーや子どもを一方的に犠牲にするような不倫は非難されるべきである。結婚のウマミ(=特権)を固守しつつカップル単位思考を再生産しているだけの不倫は、むしろ結婚神話(=主流秩序)を強化してしまっている。このような男性の不倫は、特権のいいとこ取りだからズルいのだ。

 

 結婚がもたらすジェンダー役割のしんどさや家庭内の問題からガス抜き的に不倫をして精神的な安定を得ている場合もあるだろう。ひどいパートナーに対するカウンターとしての不倫もある。結婚生活の日常に退屈を覚え、非日常の刺激を求めパートナー以外とも割り切った関係や性愛関係を楽しむこともあるのかもしれない。それによって心の潤いができて退屈な家庭生活をなんとかやりきっているのかもしれない(家族を裏切っているわけはない)。生存戦略としての不倫もあるだろう。結婚して家族もいる人だけど魅力的だから親密になりたいという願望なども、関係が許せば問題ないことだ。当事者間の関係性による。

 

 

3.家族主義が人間関係の幅を狭める問題

 

 家族主義により人間関係が家族内に閉じやすく、強すぎる家族主義やカップル単位思考が人間関係の広がりや可能性を阻害していることは大きい。人間関係がカップルの二人に閉じないイメージでいろいろな人と会える自由があればよい。会う人については特に知らせる必要もないし、いちいちチェックをしない。お互い距離感を保ちつつ自由を尊重するという発想だ。親密な間柄でも秘密があることは関係をうまく維持するために大切である。自分にとって不都合だったりしんどい情報は無理に知ろうとする必要はない。また、相手に知られたくない部分は相手に開示しなくてもいい。相手のすべてを知ろうとしたら、それこそ相手が自分に何か隠しているんじゃないかと疑うことが前提になり安定した関係が維持しにくくなる。秘密は人間関係の潤滑油である。隠すべきところは隠し、相手の秘密も詮索しないことでプライバシーが守られる。自他境界の区分がつき依存・干渉などやんわりした暴力も少なくなる。

 

 現代人の孤立は近代の家族主義(=カップル単位思考)から生じている部分が大きい。家族を助け合いの単位とすることで家族以外への無関心を生んでいる。家族さえ何とかなればいいと考え、社会的な責任を負わないことを正当化し、市民的感覚の欠如したジコチュー人間が量産される。日本人は世間を気にすると言われるが、その世間とは家族あるいは自分の属する組織の人間など「身内」のことであり広い意味の社会ではない。個人の行動原理は社会での「正しさ」を基準にするものではなく、「身内」の中で優位なポジションを得ることや、「身内」の利益となるものである。視野の狭い家族主義や共同体主義は民主的な「正しさ」を阻害する。また、家族主義は家族のことは家族で何とかすべきという規範をもち、家族が困窮しても家族以外には助けを求めにくい。家族が孤立し関係を拗らせやすくなる。また、家族規範により家族内での依存と干渉が正当化されやすく、家族だから多少ひどいことをしてもいい、甘えてもいいという気持ちが生じる。一般社会では許されない過干渉や暴力なども愛の名のもとで家族間では許されてしまったり、問題が小さく見られてしまう。子どもを自分の所有物のように扱ったり、コントロールしようとする毒親などは相手が家族だという理由で自他境界をなくすことを正当化させる。毒親問題は、家族主義(=家父長制)が生む問題なのである。

 

 

4.子育てを家族単位から個人単位へ

 

 自由恋愛が必ずしも子どもを蔑ろにするとことには結びつかない。男女二人から子どもは生まれるから二者だけを性愛関係として拘束すべきだという発想が根強い。愛を家族内に囲み家族以外での愛は禁じている。しかし、親は二人だけに限られる必要はあるか。近所の人が子育てに参加してもいいし、親の自由恋愛によってさらに親的な人が増えて子育てが容易になったり、子どもが接する人間関係に多様性が生まれたりする。子どもは親だけが愛し世話をするものだという家族単位発想から、徐々に子どもは社会全体で育てられるものであるという個人単位発想にシフトしていくべきだ。親が何らかの理由で育てられないなら社会で育てていかざるをえない。子どもの生存保障が親だけに依存している家族単位のシステムがおかしいのだ。これは、社会の無責任である。

  

 昔の村落社会では、ムラで生まれた子どもは「ムラの子」として共同体で育てられた。核家族(サラリーマン+主婦モデル)がスタンダートとなる近代以前は3世代拡大家族が主流であり、子育ては親と祖父母によってなされた。両親が農作業に出ている間は祖母が赤子の面倒をみる。子育ての手法は家庭内でも伝承された。現在は「夫婦とその間の子」という核家族が家族のスタンダートとして定着し、子育ては両親二人によりおこなわれるものだという家族規範意識が強くなった。しかし、親は労働に追いやられてしまい、子育てを保育士に「外注」している状態でもある。また、ワンオペ育児も物理的にしんどいことが常々言われている。子どもの面倒をみるのがしんどくて子どもを憎んだり、思わず手を上げてしまう人もいる。日本では子どもの面倒は家族でみろという発想が強く、子どもの面倒をちゃんと見られないのは愛が足りないからだと精神論(=自己責任論)によって非難されてしまう。子育てにおける家族単位発想が家族をさらに追い詰めるように作用している。海外ではシッターなどを利用することは当たり前におこなわれているが、日本では育児に他人の手を借りることが好ましくないことと見られている。

 

 子どもの生存保障を産みの親だけに委ねる家族主義の発想では、国家や社会の責任を曖昧にしてしまい、社会改革につながらない。「子どもは親に育てられるべき」という家族規範を守るだけで、子どもを守ることを本気で考えてない。

 

 親子関係はあらゆる人間関係の一部にしかすぎない。親子関係が閉じるために毒親問題が深刻化したり、親子関係を引きずることで成人後の生きづらさももたらされる。子どもの人間関係の比重が親に偏重するのではなくて、子どもがさまざまな人や文化に開かれていることも極めて重要である。

 

 

 4.おわり

 

 カップル単位思考の家族主義は、男女二元論のジェンダー規範のもたらす差別や抑圧の大本である。この規範が取り払われると人間関係にも多様性と可能性ができる。