生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「引きこもり」はなぜ這い上がれないのか?

 

 「引きこもり」を事例に、社会的に低い立場に置かれたり周縁化された人(=サバルタン)がなぜ社会の中で這い上がれなくなるのかを文章化したい。「引きこもり」の問題だけでなく、マイノリティ全般のエンパワーの課題についても多くカバーできると考える。マイノリティは力をもっていないから弱い立場にいるのではなくて、マイノリティを弱い立場に追いやる構造によってマイノリティのもつ力が上手くエンパワーされないのだ。能力主義による人の序列づけが正当化され、金を稼げない引きこもりなどは差別されても仕方がないと意識が高めのリベラル層にも思われている。このような能力主義による抑圧が正当化される社会では、抑圧される側も抑圧されるのは仕方ないと受け入れてしまい抑圧的な関係性や社会構造を問えない。これは「象徴的暴力」(ブルドュー)と呼ばれる(詳しくは文末のネット引用記事)。このような抑圧を生む構造が「引きこもり」を社会に浮上させにくくさせている。

 

【目次】

 

 

1. 能力評価のシステムがマジョリティ優位にできている

 

 マイノリティは社会的に劣った人たちと見られやすく信用も低くなりがちだ。そのため、スタートでマイナス地点に置かれやすい。マイノリティがプラスの評価を得るためにはそのスティグマ(=マイナス評価)を挽回する必要に迫られる。±0地点からゲームを開始するマジョリティにはない労力(=コスト)がマイノリティにはかかる。マイナス評価を振り払いプラスの評価を得るためにはマジョリティが求められる能力以上の能力が求められる。このように、マイノリティは厳しい能力評価におかれるために、マイノリティの中でも能力主義の考えが強くなりやすい。このため、マイノリティの中でも能力を基準にした分断がおこりやすい問題がある。

 

 また、この社会(=主流秩序)において評価されやすい「能力」は恣意的である。同じ「能力」をもつ人でも立場や状況によって評価されたりされなかったりする。また、コミュニケーション能力が過度に求められる社会なので、その最低条件をクリアーしない人は社会の表舞台では生きていけないようになっている。引きこもりなどの人にはパソコンに詳しい人、語学ができる人、音楽や芸術の才能がある人など何らかの得意分野をもっている人が多いと聞く。しかし、対人関係において困難をもつなどで、それらの能力を上手く社会で活用できない状況が生まれる。この例からは、当事者本人に能力がないわけはなくて、対人関係能力に偏重した社会が当事者を無力化していると言える。能力評価システムは全員に平等であるわけではなく、マジョリティがもちやすい「能力」を基準にシステムがつくられ、その「能力」をもちにくいマイノリティを低い位置にとどめ置く。また、引きこもりの人や働くことが困難な人は、労働ができないハンディを巻き返すくらいの能力がないと他者から認められにくい。その能力も人並みでは評価されず、平均を大きく上回ることでやっと評価される。ただでさえ不利な立場にあり能力を身につけにくいから引きこもった人が多いのに、「人」として扱われるためには能力で多数をしのがなければいけない不利な状況におかれる。

  

 引きこもりの人などは、どの人間関係ネットワークにも属せないことが大きなデメリットとなる。この社会の経済は純粋な市場主義ではなくて人間関係ネットワークに依存してチャンスや資源配分が偏っている。個人が自分の能力をいくら鍛え上げたところで人間関係に恵まれないと社会的な評価はされにくい。また、むきだしの市場原理から個人を守ってくれるのもネットワークである。だから、ネットワークに属していない人は不利な立場におかれる。では、そのような孤立している人が新たに人間関係を築くのが容易かといえば、かなり難しい。もともと人と接することやコミュニケーションが苦しかったりする人は主流社会の容赦ない人間関係には耐えられない。また、主流秩序に嫌気がさしてどの集団にも関わりたくないという人もいるだろう。そういう人は現実に存在しているので、生存権の観点から誰にも依存しなくてよいように生活保障が求められる。

 

 

2.自分が何者かを示せないため他者とつながれない

 

 人は他者からの承認によってアイデンティティを構築する。他者からの承認は主流秩序で価値があることを実践することで得やすい。仕事や家族形成ができることで初めて社会の一員として認められる。引きこもりの人たちは仕事や家族形成といったオーソドックスなライフコースを歩めない。引きこもりの人たちも生きている中で何らかの経験を培っている。じっとしているだけかもしれないし、ゲームやネットをしたり、読書や勉強をしたり、ブラブラしているのかもしれない。しかし、それらをしていても仕事をしていなければ「ただ遊んでいるだけ」と有意な経験とみなされない。このように、引きこもりの人たちの経験は他者からは承認されにくく、他者に自分を語る言葉が見つけられない。人は自分のアイデンティティを元にコミュニケーションをする。自分が何者であるかをちゃんと言葉で示せない限り、他者は自分に応答できず深いコミュニケーションがしにくくなる。アイデンティティの立ち上げが困難であるために他者とつながれないのである。これは、「その人そのもの(存在)」が承認の基準となっておらず、承認のパターンが「生産性の論理」に偏っている社会秩序の問題でもある。

 

 

3.存在が尊重されにくく声が聞かれない

 メディアなどで引きこもり問題はたびたび取り上げられる。しかし、引きこもりに対するひどい見方は根強い。「引きこもり」の存在が社会に知られるようになっても、あわれな存在として見世物的に消費されやすい。存在がただ認知されるだけでは、好奇心や見下しの意識を生むだけで当事者のエンパワーにはつながりにくい。引きこもりの当事者が声をあげても、その声はかき消されやすい。それは、多くの人が引きこもりなどを劣った存在と見ているため話を聞くに及ばないと判断しているためだ。マイノリティの声を聞くか聞かないはマジョリティが恣意的に選択できる。これは、マジョリティの特権だと言われる。

 

 この関係の非対称性の問題については、西洋先進国の人々が東洋を物珍しさや見下しの対象として眼差すオリエンタリズムの発想を参考にできそうだ。オリエンタリズムという概念はサイードによって提示され、西洋が東洋を経済的にも政治的にも劣っているとみなし、不平等な権力関係を強いるのを正当化してきた構造だといえる。西洋の東洋に対する想像力(=イメージ)も歪曲されたものとなり不均衡な関係が再生産されている。

 

 

ひとつは、東洋人を西洋人より劣った存在であるという想定だ。よって東洋は西洋による支配の対象とされ、東洋の人種や性格、文化、歴史、伝統、社会などが西洋的知識によって解明されるべきであるとされる。もうひとつは、オリエントと概括して呼びうる地域は、インドであろうとエジプトであろうと、アフリカであろうと中国であろうと、だいたいどこも同じなのだという決めつけである。この二つの発想、つまり他者の主体性を無視し、他者同士の違いに目を向けようとしない姿勢がオリエンタリズムの根本にあるのだ。

 

(本橋哲也『ポストコロニアリズム』p.115-116)

 

 

 オリエンタリズム的発想とは、マイノリティを一人一人の違う個人ではなく画一化された表象とする。このような表象は「言説」としてマジョリティの知識体系(=主流秩序)に支えられ、利害関係の中でマジョリティを利するように機能する。つまり、「引きこもり」の表象は現実の引きこもりの人たちの姿が描かれたものではなく、劣った存在と位置づけるような表現がなされる。「引きこもり」とは自らがそうあってはならない負のイメージの束なのだ。「引きこもり」を劣った存在と位置づけることにより、社会の多くの人たちは自己を正当な存在だと定義できる。このように、マジョリティが自分を映し出す鏡としてマイノリティは表象される。「引きこもり」に能力不足、不合理、無知、無気力などの好ましくない性質をはりつけることで、その反対側として「マトモな我々」というアイデンティティをマジョリティは確保する。「引きこもり」を定義し代弁する言葉も主流秩序の価値基準(合理性、理知性など)により否定的なものとなり、引きこもりの人が尊重されるための言説資源が不足し不利な構造に置かれる。「生産性の論理」による言語体系が、引きこもりの人から自らを肯定的に語る言葉を奪っていて、否定的な表象として他者の言葉によって代弁されている不均衡な構造を問題としたい。

 

 

4.ラベリング効果

 

 引きこもりや生活保護利用者は経済的な問題だけでなく、生きているだけで負のレッテル貼りをされプラスの評価がされにくい。失点ばかりが他人の目につきやすく、下へ下へと追いやられる構造的な問題にさらされる。何かやらかさないか常に監視されているようなパノプティコン状態に置かれて安心して行動ができなくなる。また、少しでも失敗すると咎められたり懲罰的な扱いを受けるため失敗が許されなくなり行動も抑制的になってしまう。これは多くのマイノリティが被る問題である。例えば、サラリーマンの人が犯罪を犯してもサラリーマン全員が犯罪者視されることはないが、引きこもりの人が犯罪を犯すと引きこもり全員が犯罪者予備軍であるかのようなスティグマが貼られる。あるマイナス評価をもつ属性の誰か一人の失点はその属性全員に対する失点となる。このようにマイノリティが常に不利に置かれるのは差別構造であり、マイノリティを押さえ込み弱い位置にとどめおくように機能している。差別構造があると、レッテル張りを受けた人は何をするにも逆流状態となり前に進みにくく、エネルギーだけを消耗するアリ地獄のような状況に陥る。

 

 

5.能力の替わりに内面を差し出すことになりやすい

 

 この社会では自分の経済的価値を示すことで承認を得られる。経済力が劣る者は、その代替となる承認資源を示さなければならない。引きこもりの人などは肩書きや立場といった自分を守る鎧すらないので自分の内面がむき出しにされる。能力の代替として性格や態度のよさを求められる。マイノリティはマジョリティの秩序を脅かさない存在だと示すために品行方正さを強く求められる。特に、引きこもりの人は社会のお情けによって生かされていると思われている。従順さ、惨めさ、大人しさ、純朴さなど温情を買うような態度をとり、強者のパターナリズムをくすぐる弱者像が求められる。この像に背いた態度や行動をとると、ひどく非難されるかないがしろにされる。行儀よく振る舞っていても付け入られることもしばしばであるが、そのような行動が生き延びのために迫られることもある。毒親や暴力支援員などに支配されて暮らすのはこのような状況だろう。つねに、生殺与奪の権を握られる側にあり善良な態度を示すことでなんとか生かされる存在である。

 

 引きこもりの人たちに対して、「かわいそうな人」や「劣った人」という一方的な弱者視は、当事者から自尊心を奪うことにもなっている。「そのままではダメだから働いてしっかりしろ」というメッセージを投げかけると身動きの取れない引きこもりの人には抑圧になる。支援者などが引きこもりの人を画一的に見て、個人の意思が尊重されないパターナリスティックな支援となると、引きこもりの人の主体性(=個人の自己決定権の尊重)が奪われることにもなる。一方的な弱者視は、当事者の不幸な側面だけが予定調和的にフォーカスされ、幸も不幸も両面ある当事者の姿が見えにくくなってしまう。もちろん、引きこもりの人たちは自分に負い目を感じ、しんどい思いで生き延びている人が多い。しかし、そんな中でも趣味を楽しんだり、友人と交流したり恋愛をして楽しんでいるかもしれない。引きこもりの人は社会や家族に負い目を感じやすい立場にあるので、楽しんでる様子をオモテに出しにくく、下を向いて生きなければならない存在だと当事者も思い込みやすい。このように、引きこもりの人が自尊心を低められやすい状況で当事者に対する過度な弱者視(=ステレオタイプ化)は、より当事者を弱い立場にとどめおくことになってしまわないか。生活保護利用者バッシングでは、利用者は社会に申し訳なさそうに生きるべきで少しでも利用者が楽しそうにしていると気に食わないという思いが見られる。誰もが前を向いて生きられるようになるべきだ。人の生きる命題は、いかに不幸を減らし安心して生きられるかである。だから、できるだけ多くの引きこもりの人がそこそこ楽しく暮らせる社会こそめざされるべきだ。楽しむ権利は誰にも奪えない。そのためにも、個人の生活を経済的に支える生存保障は必要になる。

 

 

6.モラル・キャリアの問題

 

 モラル・キャリアとは社会学者ゴフマンが提唱した概念で、ある特定のスティグマをもつ人は、その窮状をめぐって類似の学習経験をもち、考え方にも類似した変遷をもつ傾向があるという。

 引きこもりなど人生の半ばで主流社会について行けず「落伍者」となった者は、特殊なモラル・キャリアをたどる。人生半ばでスティグマをもった人は、生まれつきのスティグマをもつ人とは異なり、自分のアイデンティティの再構築を迫られることや、それ以前のような社会関係の作り方が難しくなるという問題をもつ。例えば、横山麻衣(2013)は、性暴力被害をモラル・キャリアの視点から論じている。他者と親密な関係を築くためには自分のアイデンティティの核となる部分を開示することが迫られる(カミングアウト)。しかし、性暴力被害などは中々他者に開示しにくく、開示してもその後相手との関係がそれ以前と同じように維持できるかが分からないなど不安がある。また、平然さをよそおい自分が何も問題を抱えていないふりをするパッシング(=素性を隠しての越境)も心理的負担となる。このようにネガティブな属性をもつにいたった人は、これまでと同じような安定した社会関係が築きにくくなり回復も難しくなるという。性暴力被害と同列の語りはできないが、このモラル・キャリアという概念は引きこもり経験においても適用できる。

 

 ある段階まで主流社会に適応できていた人が「引きこもり」となると、それまで仲のよかった人や同輩との経験の共有ができず、それまでの人間関係は維持しにくくなる。また、自分のネガティブな立場性ゆえ他人とも顔を合わせにくくなる。実家の世話になって働いてないない、家にこもりがちなど、広く「引きこもり」と名付けられやすい状態は他人に開示しにくいものだ。自分の事情を知らない人と会い話すときには「職業」が聞かれやすい。人は相手のことを知るために相手の社会的な立場を判断基準とするが、相手の立場を手っ取り早く知れるのが「職業」となる。「職業」を問われると、自分が「引きこもり」であることを明らかにしにくいため誤魔化したり嘘をついてその場をしのぐことになりがちだ。自分のアイデンティティの核は「引きこもり」であっても、その部分を触れられたくないため自己の開示ができず、相手との深い関係をつくりにくい。自分の立場を理解してくれそうな人以外には自分の立場が否定されることを恐れて自己開示ができない。そのため、不本意な嘘をついたり、嘘や経験の帳尻合わせをして自分の素性をごまかすのに心理的な負担がかかる。人間関係そのものがストレスとなり余計に引きこもり状態になりやすい。

 

 

7.聞く側に倫理が求められる

 

 引きこもり問題が正確に社会に知られるためには、引きこもり自身やアライの人が声をあげたり自己のおかれた状況の説明のために言語能力をつけるだけでなく、語られること(=呼びかけ)に誠実に応答するかという聞く側の倫理も問われる。引きこもりやマイノリティが這い上がれない滑り台的な社会構造を知る必要がある。

 

 

他者から学ぶとは、社会体制のなかで搾取され抑圧され自己決定権を持たない他者(=サバルタン)になり代わって語ろうとすることではない。むしろ彼女たちが自ら語ろうとしても、その声を聞かないでいられる特権的な状況に置かれた私たちのほうにこそ問題があると知るべきなのだ。

 

(本橋哲也、前掲書、p.158)

 

 

「倫理的である」とは道徳的に正しいというよりむしろ、そのような他者との関係を作ろうとする営みを怠らないということである。他者の声が、黙殺でも代弁でもなく、都合のよい一方的解釈でもない形で聞かれた時、はじめて倫理的な関係が生まれる。

 

(本橋哲也、前掲書、p.158-159)

 

 

 相手の呼びかけに誠実に応じ、相手の等身大の姿に対しようと努めることは相手を対等な「他者」として尊重する態度である。人は声を発して、それが誰かに聞かれ誠実な応答がある時に、自分が一人の人間として尊重されたと感じ、社会の中にいる手応えを覚えエンパワーされていく。存在が尊重され自立した個人とみなされることで、人は「市民」(=権利行使の主体)として立ち現れる。存在が尊重されないことは権利が剥奪され差別された状態であるといえる。社会には倫理(=他者と対等に関係しようとする姿勢)が求めらる。当事者もマジョリティに対して倫理を求める呼びかけが必要となる。やはり、しぶとく引きこもりの尊重や生存権保障を求める言説実践を続けていき、この問題について聞く耳をもつ誰かに声がキャッチされていくのがよい。いろんな方向に自分を投げ出すように声を出す。どんな結果になるか分からないがとりあえずやってみる(=企投)。思いがけないチャンスがおこる可能性を広げたい。人生を変えるのは予定調和を破るような偶然性である。予測できない偶然の展開こそ引きこもりの人生には必要なのだろう。

 

 

◉ 参考文献

・本橋哲也『ポストコロニアリズム岩波新書

・横山麻衣「性暴力が人格を侵襲する」とはどういうことか―「性=人格」議論とゴフマンの社会学」『ソシオロジ』第57巻3号、pp.21-37

 

◉ インターネット記事

・構造的暴力とは?:医療人類学による社会構造の批判

https://anthrojp.com/2019/11/01/structural-violence/