生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

非日常へのスピンアウト

 

【目次】

 

 

1.非日常へのスピンアウト

 

 日常は退屈になりやすい。日常世界では人は合理的な存在としてしか生きられない。生きづらい退屈な日常に置かれ、「変化」が感じられない時に人は窮屈さを感じる。日常からスピンアウトするような行動をすることで思わぬ非日常が現れるかもしれない。人間は同じような生活をしていると生活の「型」ができてしまい惰性化しやすい。毎日、同じ所を往復し同じ人と会うというのを繰り返す。その「型」どおりに生きていては同じような日常の繰り返しだろう。計画通りに事を進めると計画通りの事しか起こらない。決められた事だけをすると予定調和な結果しか生まれない。だから、意識的にズレることで「型」を破ってみる。意識的に日常的慣習から脱線してみる。無駄と見える寄り道や道草に思わぬ出来事が起こる可能性がある。このようなスピンアウトの実践・反復が「生まれ変わり」をもたらすかもしれない。ズレる事によって起こる出来事に戸惑うかもしれないが予想外の体験を楽しんでみる。非日常をキャッチするには誰でも何でもどんと来いという「構え」(=姿勢)が求められる。

 

2.大きな非日常から小さな非日常へ

 

 日常における退屈さというのは一万年前からの定住社会により始まる。所有の観念が生まれ、法(言語プログラム)が支配し人々の生活が硬直してしまう。このため、共同体は意識的に法から外れた非日常を用意する。祝祭がそうである。若衆宿により夜這いや無礼講など性愛の非日常も用意された。今も祭りはある。しかし、社会が用意したオリンピックやワールドカップなどの祝祭は資本まみれで主流秩序的だ。みんなで一丸となるのも抑圧的だ。ついていけない。だから、そういった大きな非日常に依存しすぎず、自分のこじんまりした小さな非日常をつくる。社会全体でつくる共同幻想ではなく、個人の文脈でつくる自分の物語としての非日常だ。

 

 

3.非日常は複数性を担保する

 

 日常は交換原理(=理性)で構成され、非日常は贈与原理(=過剰)で構成される。日常は「法内」の領域でシラフな状態であり、「法外」の非日常には享楽がある。人は「過剰」な存在であるから、「法内」(=規範、理性)には収まりきることができない。非日常(=法外)へとあふれ出そうとする。その「過剰」(=欲望)が抑圧されたり、はみ出すことができる場がないと息苦しさが生まれる。

 

 人は複数性をもつ。日常(=主流秩序)では常識やルールに従う「マトモ」な人格として生きなければならない。「マトモ」を装わなければ自分の立場が危うくなったり、時に処罰されてしまう。しかし、人は「マトモ」であるだけでは楽しく生きられず息苦しくなる。人の中には常識では認められにくい性向もあるし、アカン事をしたい願望もある。人には「マトモ」で「シラフ」のオモテの人格だけでなく、ウラの人格を含んだ多面性がある。人の複数性とは「日常の仮の姿」と「非日常の真の姿」により構成される。人の現実は実部と虚部により構成される複素数である。複数の自己(=キャラ)がそれらにふさわしい場で承認されることで、複数の自己が統合され一つのアイデンティティができる。人は複数の世界(=レイヤー)を生きることでバランスを保てる。主流秩序(=日常)では「標準」に擬態しているが、ウラの世界(=非日常)では「標準外」の人格を生きる。市民社会のオモテの部分(光の領域)だけでは人は生きられず、ウラの部分(闇の領域)を必要とする。「日常/非日常」というのは「大っぴらにできる事/してはいけない事」のゾーイングなのである。

 

4.非日常はなぜ楽しいのか

 自分を揺るがすからである。言葉を越えた非理性の領域。予期せぬハプニングに刺激を感じる。非日常には身の危険をともなう。毒や菌がある。登山家があえて危険な雪山を登る。わざわざ物騒な繁華街に出向く。危険のある出会い系サイトをつかって人と会いたがる。みんな、危険と隣合わせで何かをすることに‘快’を覚える。「夜の街」もそのような非日常のパワーに満ちている。バーやスナック、クラブなどに行く人は、お酒が飲みたいというよりも、予期せぬ出会いや出来事を体験したいという動機が大きいのではないか。だから、「夜の街」がなくなると偶発性の楽しみが喪失し、居場所を失う人も出てくる。

 

 

5.非日常に誘う人の存在

 

 自分を揺るがし動機づける他者に出会うと、その人の言葉や行動、姿勢からミメーシス(=感染)を受け自分も「変化」するのを感じる。このような、自分が参照する対象とできるメンター的存在を「準拠他者」という。他者の考えややり方を自分に取り入れることで新しい自分を作ることができる。それまでしなかった事やできなかった事を、他者から触発されてするようになり自分の可能性が拡張される。自己とは他者のコピーである。自己は複数の他者の言葉により構成される。自己の確立とは他者の言葉の「引用」と「実践」によりなされる。日常では接しない他者と非日常で偶然に出会うことで(=エンカウンター)、自分が揺るがされ自己破壊と「生まれ変わり」をもたらす。日常から非日常(=カオス)を経験したあと、日常に戻ったように見えて、実は違う自分へと移行しているのだ。

 

 わたしも、ネットなどを通して偶然出会った人から聞いた経験が楽しそうで自分も実践したくなった。学問の話を聞いて学んだりした。いろんな経験も聞いた。ヒッチハイク旅行している人の話を聞いてヒッチハイクをやってみたし、街で知らない人に声をかけて談笑する人を見て自分も実践している。路上ミュージシャンをしていた人の話を聞いて楽しそうで自分も路上で歌を歌ったこともある。とにかく、刺激のある他者の話は自分の可能性を広げてくれる。ささいな事でも今までできなかった事ができるようになったことに自信をもつ。それが自己の拡張だろう。

 

 非日常の出会いでは、普段の人間関係では話せないような個人的な話やここだけの話が聞けたりする。ヤバイ事を教えてくれたりもする。オモテの社会で人は「立場」によって生きていて、同僚、家族、友人など周囲の人には自分の「立場」を踏まえて上っ面の事を話す事が多くなかなか本音が言えない。だから、非日常で出会う人に対してぶっちゃけ話をしたがるのだ。人は非日常の出会いを求めてバーやスナックに行くし、知らない相手とぶっちゃけ話ができるSNSやチャット、匿名掲示板が無くならないわけである。

 

6.非日常いろいろ

◉ 知らない街に行く

 思わぬ風景を目にしたり、街の様子を見れて面白い。知らない街は歩くだけで新しい情報が飛び込んできて大脳に刺激がある。何も予定を立てずブラブラして行き当たりばったりがいい。思わぬ出会いもある。

 

◉ 街で知らないおっちゃんに話しかける 

 街でゆるそうなおっちゃんに話しかけてみる。河原でブラブラしてる人や橋の下で寝ている人など。なにかしらスキのある人は話しやすいし応じてくれやすい。リアル・ドラクエだ。前話しかけたおっちゃんは、「あなたみたいに話かけてくれる人はいない。こうやって知らない人と話すのもええな。これも何かの縁やな」と大変よろこんでくれた。みんな寂しさを抱えている。日本では外で気楽に見知らぬ人同士が話しにくい。突然話しかけられるなんてナンパか勧誘か変な人と思われる。相互不信がある。人に話しかけたら変な人と思われてしまう。だから、みんな話しかけられない。もっと街でみんな気楽に声かけれたら孤独感も軽減し生きづらさや自殺なども減るのではないか。

 

【西成】

 

三角公園のステージに段ボールを敷いて寝てたおっちゃんに話しかけてみたら、西成事情を話してもらった。西成に滞在するのは金がかからないのだと。シェルター、飯付き寮で泊まり、メシは公園や教会の炊き出し、西成警察署に行ったら服ももらえるのだとか。福祉住宅の話も聞けた。3畳の部屋で窮屈だという。

 

・夜に路上でワンカップを飲んでいたおっちゃんに話しかけた。野宿しているのだそう。「どこで寝るの?」と声かけたら「そのへんや」と返される。昔は無銭旅行して寺に行ってタダで泊めさせてもらったとか。「旅の者やけどメシ食わせてもらえへんやろか」とお願いしていたそうだ。

 

 

【京都の河原】

・河原でおっちゃんに話しかけた。この辺は自転車放置してたら撤去されやすいかを聞いたら、駐輪取り締まり厳しいなという話から路上で色んな事しにくいなという話に。話を聞いたらおっちゃんは昔ホームレスしてて路上で物乞いをしていたそう。景気のいいときは一日5万円もらったこともあったという。キャバクラの姉ちゃんが一万円くれたとかいう話も。でも、お金が尽きると万引きして暮らしたそう。万引きで3回捕まり刑務所に入った。京都の河原の橋の下は昔はホームレスの人が住んでたけど今は橋の下に柵が張られ寝られなくなった。ホームレスの人は追い出されたが生活保護になったのではと話してた。

 

 

街で会ったおっちゃんとの話はyoutubeに載っけてます。

 

 


街でおっちゃんと話す(2)

 

 

◉ 旅先のゲストハウス

 非日常空間として人と打ち解けやすい。人生の話など突っ込んだ話が聞ける。

  

◉ ヒッチハイク

 これも、一期一会の出会い。以前、noteにヒッチハイクの体験を書いた。

https://note.com/haruka0929/n/n9a906a4aed29

 

 

7.まとめ

 

 人は日常を生きているだけでは「変化」がなく退屈だ。計画や予定どおりに生きていては予定調和な結果しか生み出さず日常は変わらない。しかし、意識的に日常からズレることで予想外の偶然性を楽しむことができる。日常の行動パターンから思い切ってスピンアウトして自分を外へ投げ出してみる(=投企)。思いがけない体験や普段知りえない人と出会い触発される。その出会いにより他者の言葉が自分の中に「引用」され、自分の可能性が拡張されることで、より豊かな生き方ができるようになるのではないか。スピンアウトの「反復」により予定調和でない「生」の可能性が開ける。

 

 

【参考図書】

宮台真司二村ヒトシ『どうすれば愛しあえるの』 KKベストセラーズ