2020年の9/9〜9/13にかけて丹後半島を歩いてきた。60km徒歩で移動した。野宿は4泊した。海で昼寝したり泳いだり、野草とったり野宿してました。こういう旅にはハプニングもつきものですね。
旅の記録とともに、最後の部分では金をかけずに旅をすることにはどのような意味があるのかを書いてみたい。
◉ 旅の行程
【電車移動】
9/9
京都から西舞鶴駅に18時到着。スーパーで惣菜を買った後に舞鶴港の公園の屋根付きのベンチで野宿。近くで酒を飲んでいたおっちゃんに「このへん、警察よく来ますか?」と聞いてみたら、「なんでそんな事聞くんや?」と返されたので、「ここで寝ようと思ってるんです」と言ったら笑われてしまった。「まぁ、寝てええんちゃう?」と言われて、ベンチでごろ寝。おっちゃんたちの酒盛りがうるさくて寝れなかった。
【徒歩移動】(約60km)
9/11 →新井崎(B)→ 泊(C)→ 浜(D)→ 経ヶ岬(E):23km
9/12 →袖志 →犬ヶ岬 →屏風岩→ 間人(たいざ):15km
◆ 9/10
西舞鶴駅から丹後鉄道に乗り天橋立駅で降りる。天橋立の中を歩く。散歩していたおっちゃんに「このへん、見どころありますか?」と聞くと、天橋立の途中で真水の湧き水(磯清水:名水100選)があったり、天橋立の向かい側には舟屋街があるという話を聞く。地元のトリビアを知るには地元の人に話を聞くのが手っ取り早い。
養老という集落でスーパーで買い物。この先の半島には食料を買える店がないらしい。約50kmほど何も店がない(養老〜間人)。この最後のスーパーは天橋立のおっちゃんに聞いた。田舎では店が少ないから地元に人にスーパーなどの情報をこまめに聞くのがいい。
天橋立から15kmほど北上すると、舟屋で有名な伊根湾の集落が見える。このような景色を見ながら歩く。
◆ 9/11
伊根の舟屋群から北上して経ヶ岬に向かった。途中で、海で遊んだ。
さて、このへんはきれいな海でビーチもある。しかし、人がほとんどいない。一人で砂浜で座ったり海で泳いだり遊んでました。でも、後で気づいたのだがビーチの入り口を見たらコロナでビーチ閉鎖中という標識があった。入ってはいけないのに入って海遊びしていたようだ。地元のおっちゃんたちに聞くと「ビーチ閉鎖されてるけど、泳いでるやつはたまにおる」と言ってたので、ちょっとくらい泳いでも大丈夫だろう。人もいないから非・三密だ。別のビーチに行ったら誰もいない海でカップルが仲良く浮き輪で遊んでいたのも見たし。
海沿いの集落のおっちゃんに、山の中の国道178号がいいか海沿いの道がいいか尋ねてみた。海沿いの道が景色はいいけど通行止めだとのこと。でも、歩行者は通れるやろうと言ってたので、海沿いの道を北上することに。通行止め区間に入り歩いていくと、向こう側から車がやってきて話しかけられた。工事関係者だろう。「すんません、向かいの集落に行きたいので通らせてもらいました。引き返すのもしんどいので」と言うと、「そうか。じゃあ、気をつけていきや」と許可された。工事してる横を通らせてもらって迷惑をかけて申し訳なかったですね。
さて、海側から山側に抜けようとしたら、猿の大群が道や畑にいた。30匹はいた。猿に絡まれたら嫌なので一度引き返して休憩していた。1時間くらいたって同じ所に行ってみるとまだ猿がいた。ヒッチハイクして切り抜けようと思ったが車もなかなか止まってくれない。そこで、猿の群れがいる中を歩く。口笛を吹きながら威嚇しながら歩いた。道にいた猿はわたしが近づくと逃げていった。よかった。襲われないか怖かったんです。でも、猿の群れに勝ちました!
この日は、経ヶ岬の駐車場にある東屋に泊まりました。豪雨が降って雷がなって大変でした。夜に突然車がやってきて大きな音を出してドリフト練習しだして、わたしに絡まずに早く帰ってくれと念じながらその時間をしのぐ。岬はヤンキーの遊び場みたいになっているのだな。無事、寝れて朝になってホッとしました。
◆ 9/12
岬からスタート。夜にヤン車の爆音やら雷雨やらでしんどかったけどなんとか朝を迎えられてよかった。晴れです。
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今回の旅は、このような感じで終わった。50km歩いたあとのスーパーはすごくありがたかった。道の駅で野宿した翌日には高速バスで帰りました。睡眠薬が切れたので帰らざるをえなかったですね。よい旅でした。
【金をかけずに旅をすること】
歩いて移動するのは遅い。体力もつかう。金を出せば速く快適に移動ができる。金は時間がかかったり面倒なことを省く役割を果たしている。時間に追い立てられる生活がお金への依存を高めているといえる。計画というのは時間という観念を必要とする。すべてを時間どおりにこなさなければならない、速く効率的にしなければならないという強迫が人々を資本の論理に従属させている。だから資本主義は常に人々を急かすことによって成り立っている。遅く、無計画で、テキトーなことをよしとしない。自分で勝手に移動されたり、どこかで野宿されたり、野に生えてる草を食べてお金を使われないのは困るわけである。自分で何かができるのに、何もできないように錯覚させることで、商品やサービスを消費するだけの存在に人を追いやっている。イリイチのいう「富める国の囚人」だろう。このように、人々からケイパビリティを奪い無能力化することで資本主義は駆動されている。野宿者などが嫌がられるのは、家をもたず、飲水や洗濯などを公衆トイレで済ますなど資本主義の枠組みから外れてしまっているからだ。消費しないことは資本主義にとって脅威だといえる。だから、野宿者を追い出し消費の場として街づくりをおこなうジェントリフィケーションが進む。もちろん、野宿者の境遇は大変なものがある。ただ、お金による消費を強いられ労働に駆り立てているシステムのあり方も考え直さなければいけない。減消費のもつ意味にも思いを馳せたい。