生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

回復ー毎日を祭りのように生きろー

 

 9/11で断酒3年となった。2014年4月にアルコール依存症と診断され断酒していたが、3年半後の2017年9月にスリップ(再飲酒)してしまった。うさばらしで酎ハイを一本飲んでしまい、ズルズルと焼酎をラッパ飲みするようになる。酒を飲み続けたままお遍路に旅立つ。お遍路中も酒を片手に街道を歩き、飲んで吐いての繰り返し。酔って転んで怪我をしたり、うずくまっていたら警察にパトカーで運ばれたりした。やばかった。これは引き返すべきだと思い、神戸の住まいに戻りアルコール病院に駆け込む。それから3年たった。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

さて、断酒を続けているのだが、今回の断酒(17年9月〜)は前回の断酒(14年4月〜17年9月)とは質が違う。というのも、前回の断酒はいかに日常を安定的に静かに暮らしていくかという感じだったが、今回の断酒は安定ではなくむしろカオスに任せて場当たり的に生きることによって持続させている感じがある。これは、真人間になり大人しく暮らし安定を目指すような精神医療の方向とはズレるやりかただ。これについて思うところを書いてみたい。

 

 

【目次】

 

 

 

1.人には「祭り」が必要だ

 

 アルコールや薬物への過度な依存は、その他に依存できる資源が乏しいためになされると言われる。アルコールなどの刺激物質はてっとり速く非日常を味わえる。日常がつまらなすぎるからアルコールなどの過剰摂取にいたるのである。だから、依存症者に対してただ酒やドラッグをやめろと言うだけではダメで、退屈な日常にどう対処するかが技術として重要になってくる。酒で埋めていた時間をどう対処するかという「空白の時間」の問題だ。依存症の人の多くが退屈な日常に耐えられず、酒を飲んで非日常を味わいたくなる。断酒をしても酒の替わりとなる非日常(=超絶)を創り出さないと耐えられない。のんびりと過ごすことで安定する人もいるが、のんびりと過ごすのが難しく刺激を受けることで生きるエネルギーとなる人もいる。非日常に居続けることで安定するのだ。そのような人にとっては、毎日を祭りのように生きることが「回復」に近づく。

 

自助グループは非日常の祭りの空間として機能している】

 

 学校で勉強ができず「おちこぼれ」として普段はないがしろにされている生徒も、スポーツができるならば体育祭では輝くことができる。文化祭なども普段は端に追いやられていた生徒がダンスや創作を披露できる場となる。このように日常における価値が反転する場が非日常の祝祭である。依存症者は世間ではだらしなくてどうしようもない人たちと相手にされないが、自助会などでは自分のダメさを堂々と披露できダメさが反転的な価値をもつ。自助会などは祝祭的な空間となっている。断酒会やAAでは、普通の社会ではドン引きされるようなエグい経験ややらかした事を堂々と話すことができる。それが、共感やされたり笑いのネタとなり非日常的なガス抜きの場となっている。ヤバイことが言える空間が必要なのだ。

 

【断酒会での話あれこれ】

 

「エア出勤して、電車の中でずっと酒飲んでましたわ〜」

「酒飲んで街の植え込みに吐いての繰り返し。人間マーライオンやったわ〜」

「酔って街で暴れて警察に取り押さえられたけど、その警察みんなぶっ倒してしまったわ〜」

「酒だけでなく、マリファナ吸ってたわ〜」

 

 

2.非日常を絶やさずに生きる

 

 國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』によると、人類が定住生活を始めたのはわずか一万年前で、それまでは遊動生活をおくっていた。遊動生活では移動を繰り返し新しい環境に常に置かれるので刺激が絶えずあるが、定住以降は毎日が同じことの繰り返しで暇と退屈に人類は襲われた。このような退屈に耐えられる人が定住社会(=主流秩序)での適合者となり、そうでない人が不適合者となる。わたしは人には定住型と遊動型の2つのタイプに分かれるのだと思う。定住型は主流秩序の日常に順応し安定して生きられるタイプ。一方、遊動型は日常にはすぐ飽き飽きして新しいことに刺激を求め非日常を求めるタイプ。遊動型を定住生活の論理(=主流秩序=象徴界)に押し込めるような精神医療などのやり方は限界に達しているのではないか。

 

 言葉やルールが支配する象徴界に入れず社会との折り合いがつかない人が「精神病者」と言われる。しかし、今の精神療法などは人を象徴界(=主流秩序)に無理やり押し込んで一般社会に適合させようとするばかりだ。だから、適合できない人がしんどくなる。象徴界からズレて生きていくのはどうか。カオスの世界で生きるのだ。

 

 日常に耐えられず非日常ばかり追い求める人というのは、ヤクザが社会復帰が難しいのと似ている。シャバの世界が退屈すぎて適応できないのだ。そういう人はシャバに押し込めようとしても不適応によりキツくなる。シャバからズレて刺激を受けながら生きていくしかない。のんべんだらりとした日常に耐えられない人は常に非日常を追い求めるしかない。常に非日常という燃料で灯火してよりよく生きる炎を絶やしてはいけない。燃え続けることで生きる実感を味わえる。

 

・非日常にスピンアウトすることの意味を書いた記事

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

3.「回復」の意味をズラす

 

 発達障害などで多動性や衝動性はよくないこととされる。これは、仕事などで集中できなかったり、業務を効率的にこなせない特性だからよくないとされる。一方で、多動や衝動性がいろんなアイディアを生み出したり行動力となりクリエイター的な人にはプラスになる場合もある。このように、ある特性も、それが生産性に寄与するものは「個性」とされ持ち上げられるが、生産性に寄与しなければ「障害」とされ矯正の対象となる。ある特性が生かされるかどうかも環境や文脈次第となり場当たり的である。多動性や衝動性などをもつ人から行動のクセやコミュニケーションのとり方を改めさせるのは、主流社会への適合訓練だ。これは、フーコーの言うところの規律訓練、つまり権力に従順な身体をつくりだす過程であると見ることができる。直接、手を加える暴力で権力に従わせるやり方でなく、規律などによりやんわりと秩序に従う人間をつくるやり方だ。

 

 このように、精神医療における「回復」というのは生産性や合理性に適合する社会復帰の文脈で使われることが多い。乱れたりフラフラしていると「回復未満」としてキッチリ生活するように矯正の対象となる。そういう「回復」の観念が、人々を主流秩序に従属するように駆り立てているのではないか。資本が人々に商品を買わせて資本に従属させるように、医療も人々の「回復」を医療に従属させ医療の文脈(=治療をして生産性ある人にする)での「回復」しか良しとしない。人々が自給したら資本は困るように、人々が勝手に「回復」されたら医療は困る。だから、主流秩序に合わない「回復」のプロセスを良しとしない。資本(=生産性)の論理が、人々から多様な「回復」のあり方を奪っているといえる。「回復」を生産性の文脈でしか語れなくなっている。

 

 衝動性や多動性のある人としてわたしは「ブラブラすること」をしている。気の向くままに歩いたり、街中や道端にあるものに反応したり、知らない人と話したりするのは大脳への刺激となる。多動性や衝動性を「悪」とばかり捉えるのではなく、それを使って楽しむやり方もいいのではないか。生産性の発想に適合する「回復」のパターンだけでなく、自分で楽しみを得て、生きる“快”を感じ、「生の拡張」をしていくことでもエンパワーされたい。

 

4.象徴界からズレる

 

 不合理な人間を合理的に生きさせようとするのが「回復」のプロセスとなっている。しかし、合理性を求める社会に適応しようとしても挫折したり、しんどい思いをしてしまう人がたくさんいる。それは「回復」を合理的な人間にすることにおいた医療的アプローチの敗北でもある。不合理な人間が不合理のまま生きることの肯定こそ必要だ。わたしが当てもなくブラブラするのは世間からみたら“不合理”に見える。しかし、わたしには精神的な安定となったり刺激を得るためにブラブラするという“合理的”な目的がある。何が合理的で不合理であるかも主流秩序におけるマジョリティ的感覚(=生産性の論理)により決まるのだろう。どのような行動や考えが不合理なもの、異常なものと意味づけられるのかも知の言説や権力装置によるとフーコーは言っている。

 

 合理性というのも近代西洋中心の発想である。西洋先進国の人々から見たら未開人とされる部族における習わしは不合理に映るが、レヴィ=ストロースなどはそのような部族においても数理学的な論理に基づく慣習があり、西洋的な合理性が極めて偏ったものだと批判した。世間からはデタラメに見える行動も、当人にとってはある論理に基づく行動でありうる。つまり、言語体系の違いの問題なのだ。また、既存の言語体系で説明可能な“合理性”がオモテの領域において優位となり、説明ができず“不合理”なものが無意識の領域に追いやられている。しかし、わたしたちは合理性だけを基準に動いているのではなく、体系として言語化できない無意識にも知らぬ間に突き動かされている。それを抑えると症状として表面化する。合理性の光の下で闇に追いやられた不合理性=象徴界以前の無意識の領域に抑圧された欲動を解放させるのがよい。合理性の論理では表現できないような“よろこび”を求める。それが、窮屈な象徴界(=言語とルールの領域)からズレるためにわたしたちの取れるやり方だ。

 

 社会と折り合いがつけられない人は、折り合いをつけられないまま生きたらよい。乱れて生きよう。