生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「自立」について

 

【目次】

 

1.マナー(=規律)はキモい

 

 わたしは、2017年にパソコン関係の職業訓練を受けていた。通所していると給付金がもらえるためである。また、当時は友だちの家に住ませてもらい世話になっていた。働かずにブラブラするのは友だちからいい顔をされず家を追い出されそうだったので、仕事をする意志を見せておくために職業訓練に行っていた。つまり、仕事をしないことを職業訓練でカモフラージュしていた。当然やる気は沸かなかったし講習にもついていけなかった。というか、パソコンの練習をしても全く上達しない。講習のスピードも速すぎてついていけない。三ヶ月ほど過ぎた後、マナー講習なるものがあった。講師のおばちゃんが来て、話し方やお辞儀の仕方などを受講生にやらせた。お辞儀の角度などもいろいろ言われた。安くこき使われるのに、そんなに礼儀正しくすることがバカバカしく感じて気持ち悪くなった。そのマナー講習で、職業訓練そのものに嫌気が指した。すべての給付金を受け取れることが確実になると職業訓練をやめた。働く気もなくて、なんだか旅に出たくなった。職務能力はまったく身につかず、給付金だけもらってお遍路に出かけた。

 

 さて、仕事などでマナーを求められて嫌な思いをした人は多いはずだ。わたしの知り合いが昔、職業訓練に行っていたときに受講生に元ヤクザの人がいて、マナー研修の時間に「そんなかったるい事やってられるか」と怒鳴って帰ったそうだ。いわゆる「社会人」になるためには、型にはまったマナーとか訳の分からないものが求められるから、働く意欲があっても働きたくなくなる人が増えるのだ。

 

 

2.「自立」のために進んで権力に「従属」する

 

 こういった社会人に必要なマナーというのは、学校時代から身につけさせられる。歩き方に始まり、起立・礼・着席、集団行動の法則、授業の受け方、食べ物の食べ方、人との会話の仕方まで、すべてに定型があるかのように訓練させられる。しょうもないやつでも型だけのマナーができていればあまり咎められない。フーコーのいう規律訓練だ。規律訓練はあからさまな暴力という形ではなされず、規律に従うのは何となく正しいことだとみんなに思い込ませ、知らず知らずのうちに規律に従う身体をつくりあげ、権力へ従属させることで達成される。自分の周りの人たちからの影響だけでなく、メディアや主流の言説などを通して、無自覚に規律的な行動をおこなう従順な身体を権力はシレーっとつくりあげる。むしろ、自発的に規律を身に着けようとする人たちもいる。自発的隷属いいじゃないか、主流秩序バンザイである。

 

 このように、社会不適合者を社会に適合させようとするために規律訓練がなされる。引きこもりやニートの就労支援や作業所などの現場でも多くなされていることだろう。人を社会復帰させる時には、職務能力だけでなくマナーといった規律も身につけさせようとする。こうやって主流秩序を脅かさない従順な「主体」を作りあげる。社会のいうところの「自立」とは、権力への「従属」である。キツく言うと奴隷の育成である。こういったマナーなどを過度に求める社会のあり方が、マナー講師などどうでもいい無駄な仕事(=ブルシット・ジョブ)を生んでいる。

 

 資本主義社会では、金を稼ぐことが人として認められるための前提となっている。人はちゃんと仕事をして他者から一人前と認められて、やっと「自立」しているとみなされる。「自立」なるものが、他者の承認に「依存」している。だから、人は一人前に「自立」するために、積極的に資本の論理に「従属」する。ん?なんだか矛盾してないか??

 

 

3.弱者を追い詰めるために使われる「自立」という言葉

 

 自分が生活するための金を稼げる事が「自立」とされ、みんなが達成すべき状態として高い地位に置かれている。このため、このような見かけ上の経済的「自立」を達成していれば、他の面については問われにくい。金さえあれば他のことを問われない立場というのが特権なのだ。

 

 資本家は労働者の生み出した剰余価値をかすめ取って利潤とするし、株主も自分が何も手を動かさず労働者の生み出した富から利益を得ている。高い報酬や給与というのは、誰かの犠牲の上で成り立っている。それは、国内のワーキングプアーや、途上国のサバルタンの人たちの低賃金労働によってかもしれない。資本家や株主、高給取りの人たちが、見かけ上は経済的に「自立」していても、それは労働者の生んだ利益(価値)を土台としている。金さえ手に入れば「自立」しているんだという自立観念が、資本家や株主が労働者の生んだ富に「寄生」している歪んだ構造をぼやかしている。

 

 そもそも、人は他人・制度・資源などに依存していて生きていて、誰一人「自立」していない。しかし、経済力がある事が「自立」だとする狭い自立観念により、自分が経済的に強い立場になると「自立」していると思いやすくなる。自分が多くのものに依存して生きているのにも関わらずそれに無自覚でいると、自分の状況を差し置いて、弱い立場の人にだけ「自立しろ」と迫る傲慢な人間になる。自分が社会の多くの資源に依存していることに気づかず無自覚でいられることがマジョリティの特権性なのだろう。このように、「自立」という言葉は経済的に強い立場の人に都合よく使われる。お金だけあればいいんだという自立観念が、自分が社会に依存している存在であることを無視するエゴイストを生んでいる。労働さえすれば社会的責任を果たしていると思い込むことで、労働さえすれば他の事や社会の事はどうでもいいのだという社会的無責任も生んでいる。

  

 生活保護を利用したりする人を税金泥棒と言う人たちがいる。少額の万引きに対しても過度な刑罰が課せられバッシングの声も大きい。こういった発想を支えるのは「私的所有の原理」だ。土地や資源などは本来誰のものでもないのに、法によって誰かの帰属物として正当化される。しかし、この「私的所有の原理」は、弱い立場の人を追い詰めるために用いられる場合が多い。ホームレスのおっちゃんが数百円の万引きをしただけで世間はギャーギャー騒ぐけれど、桜の会や森友、オリンピックや万博、GOTOの利権、中曽根の葬儀などで税金を食いあさる権力者のかっぱらい行為は堂々と見逃されている。「私的所有の原理」はその適用のされ方において不公平なのだ。生きるためにわずかな金を社会に依存していることは咎められるのに、庶民から吸い上げた税金を自分たちの友だちで回して食い物にする権力者が牽制されないのは不正義なのだ。このように、一見中立でもっともらしいルールも立場の強い人たちによって都合のいいように歪んで運用されてしまう。

 

 

4.家族単位のシステムが「自立」を妨げている

 

 日本はシステム上、個人を自立させないような仕組みとなっている。それは、家族単位のシステムに問題がある。最低賃金が安いため一人暮らしをするのに十分な稼ぎを得られない。そのようなワーキングプアーは家族に依存せざるを得ない。女性の賃金も安いため稼ぎのある男性と結婚することが生存戦略となってしまっている。経済的なことは家族に依存すればいいという発想をもとに低賃金が正当化され、労働システムが家族主義に貫かれている。社会は個人に経済的自立せよと迫るが、自立がしにくい構造なのだ。また、福祉を利用することは「自立してない」と差別され社会的制裁を受けるために、低賃金でも働き続け、家族の下にとどまろうとする。このように、家族単位の社会では人間関係は家族に依存することが前提となる。家父長制のもと家族内では稼げる男性と依存する女性という二者関係となり、「依存/支配」がベースになる。家庭内では、男性が女性を支配するジェンダー差別と、親が子どもを支配するエディプス構造という二重の抑圧が生まれる。この家族の外延に学校・会社などの組織がある。社会全体が家父長制の擬似的家族となる。これに対し、個人単位の社会では「自立/連帯」がベースになっていく。個人単位で生存保障がなされることで、誰からも支配されない自立した個人が、選択的に色んな人と適度な距離感で関係しながら生きていける。人との関係が尊重ベースになる。

 

   わたしなりに「自立」を定義すると、「他者への抑圧をできるだけ減らしながら自由になること」となる。多くの富を得ることはそれだけ誰かを蹴落とすことになる。偉くなってふんぞり返って自分の特権性を顧みず威張り散らすのもみっともない。みんなが偏差値70にはならない。どこかにしわ寄せがくる。主流秩序の上へ上へと目指すことは差別への加担になる。だから、上にいる者はその特権性に付随して社会的な責任も生まれてくる。その責任にちゃんと応えようとする倫理的態度が求められる。ただ金稼げばいいのだという日本的金満は社会の格差と差別を助長するだけだ。主流秩序における自分のポジションを自覚した上で、できるだけ、ほどほどに生きるのがいいのだろう。