生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

ケアの論理

 

【目次】

 

 

1.「女をあてがえ論」ふたたび

 

 もてない独り身の男性をケアするために「お節介なおばちゃん」が必要だというツイートが話題になった。街のおばちゃんは、孤独に苦しんでいる男性にも暖かく声をかけ、関心を寄せ、いろいろお膳立てしてくれる存在なのだという。「非モテ男性に女をあてがえ」と言っている男性は多いが、これは女性を自分の地位達成・情緒的ケアのために都合よく動員する発想なので性差別であると非難されてきた。今回のツイートでは、若い女性にケアを求める発言をするとあからさまな女性のモノ化だと非難を受けそうだから、「女性」の規格から外れた「おばちゃん」を持ち出してきたのだと思う。男性同士でケアをする発言が出てこないのは、やはり女性にケア役割を求めているためだろう。また、おばちゃんなら自分たちに積極的にお節介を焼いてくれるから、自分から動かなくても自動的にケアを受けられるという発想があるのかもしれない。女性はすすんで男性をケアすべきだという無償のケア要因として女性を位置づける社会のホモ・ソーシャルは根強い。

 

 

2.「ケア」は稀少財となっている

 

 ジェンダーロールとして女性はケアの与え手になるべきという規範がある。男性は企業で働くなど前線で戦い、女性は男性を後方支援すべしというジェンダーロールは根強い。表舞台で活躍する男性を、女性は影で目立たないようにさりげなくケアするのが美徳だとされる。ケアは「愛」からなされるのが美しいとされ無償ですることが正当化される。ケアは労働者を支える再生産労働というシャドウ・ワークとなり貨幣評価から度外視される。ケアは人を支え、よりよく生きるための資源を与えているにも関わらず、効果が目に見えにくく些細なことだと見られタダ働きとなりやすい。例えば、キャバクラやクラブなどは非日常空間で女性と会話を楽しむ場であり、ケアはサービスに入ってない。しかし、金を払っているんだからと男性客がホステスさんにケア役割を求めがちになる。このように、スキがあれば女性からケアを引き出そうとする。競争がはげしく肯定感を得にくい社会では人はケアを求めたくなる。しかし、男性は女性にケアを押し付けがちとなる。これは、男性がケア関係をつくりにくいことにも原因があるだろう。

 

 女性は男性をケアすべきだというジェンダー規範は、まず、特定の人にばかりケアを押し付けるから不平等だと言える。ケアというものは時間や傾聴力、対話力、相手への関心をもつ努力など、いろいろな資源を使う作業だ。しかし、精神的な癒やしは目に見えにくいからケアは大したことがないと思われてしまいがちである。だが、これだけの資源を相手から奪うのであるから対価があってしかるべきなのだ。ゆえに、自分がケアをしてもらいたければ、①対価を払うか、②自分もケアの与え手になり相互扶助的にやることでフェアとなる。

 

 自分だけが一方的にケアをされたいといのは、相手の資源を一方的に収奪することになる。だから、セラピーには対価が発生する。自分が思っていることを話して誰かに話を聞いてもらうというのは、対価を払う以外には親密な関係性をつくることで可能だろう。しかし、そのような親密な関係性は現実では作りにくいからケアは難しいものとなる。言いっぱなし聞きっぱなし方式でお互いの話を聞きあう依存症の自助グループなどは「ケアの相互扶助」という原理で成り立っているのだろう。親密性は贈答原理によるので、相手から与えられるには、自分も与えなければならない。つまり、「過剰」な人になる。祝祭的な存在にならないといけない。

 

 

3.承認欲求オバケはなんで疎んじられるのか?

 

 承認欲求をこじらせている人が疎んじられるのは、自分が一方的に与えられる側(=奪う側)にいるからである。人はなぜ他者に話したがるのか?自分の言葉が他者に受け入れられ他者を変化させる感覚を得ることで“快び”を感じるからだろう。つまり、他者と関わることで自己効力感が得られるからだ。相互に言葉を投げあいお互いに影響を与え変化を感じることに学びやケアはあるのだろう。だから、言いっぱなし聞きっぱなし方式ではなく対話方式の方にセラピー効果があるのだと察する(オープンダイアローグなど)。しかし、自分が承認されることだけを考えている人は、自分が相手の言葉を真摯に受け止めたり、相手に何かを与える余裕がない。だから、与える側は手応えを感じることができない。相手との対話を無視して自分の話ばかりしていると、相手に対して自分を受け入れるよう求めるだけで相手の資源を一方的に消尽することになる。相手の言葉を聞いていたとしても、相手から学ぼうという姿勢がないなら、相手の言葉を受け止めることができない。だから、話す側は砂漠に水をまいてもすぐ乾いてしまうような徒労感をもってしまう。のれんに腕押し的な空回り状態となる。自分だけが一方的に与えられることで満足しようと考えている人は、相手からの資源を奪うだけで、相手にとっては学びがないので相互的な関係が築きにくい。

 

 

4.男性は「資本の論理」で関係をつくりがち

 

 誰かにケアされたいなら、自分が与えまくる存在にならければいけないだろう。損得を考えず与える。ポトラッチだ。「過剰」を振り回し祭りのように生きてると、知らず知らずのうちに誰かにいろんなものを与えている。だから、他人からもいろいろ与えてもらいやすくなる。「男らしさ」というジェンダーには、理性的で落ち着いて、感情的になってはいけないという規範がある。つまり、シラフでいることが求められる。これは、会社人間的な存在でいろという資本の要請かもしれない。「男らしさの鎧」という表現があるが、男性は肩書きや地位といった「鎧」でコミュニケーションをしがちである。男性は資本主義社会で通用する学歴、地位、所有物を「鎧」として身にまとって競い合いをしたり、同格の「鎧」をもつ人とは連帯感をつくる。だから、「鎧」を外せない。「鎧」を外せなければ自分の内面を見せられないので、ケアからはどんどん遠のいてしまう。このように、男性のコミュニケーションは資本の論理によりなされがちだ。

 

 

5.ケアの論理は「かけがえのなさ」で成り立つ

 

 資本の論理が貫く日常の領域では、どれだけ「役に立つか」という有用性に基づいて関係がつくられる。つまり、《交換原理》が支配する。仕事の同僚などである。一方、親密な関係は損得では測れない《贈答原理》に基づく。無条件に与え合う関係だ。友人や仲間などであろう。しかし、「男らしさの鎧」を身に着けた男性は資本の論理に基づくコミュニケーションを友だちや恋愛でもしがちなのではないか。男性が女性を自分のものにするために金品を与えて歓心を引こうとする。また、気の利いたリッピサービスも頻繁におこなう。それで相手の心はつかめるか。金品そのものや耳ざわりのいい言葉だけでは難しいのではないか。モノや金、誰でも言えるセリフは、その人でなく他の人でも与えられるので代替可能なものだ。つまり、《交換原理》によるもの。しかし、代替可能なプレゼントや言葉でも、自分と相手との深い関係によって意味付けされると代替不可能な特別なものに変わる。これが、「かけがえのなさ」なのだろう。このように、相手との感情の交流となるケアの関係も代替不可能な《贈答原理》に基づくだろう。だから、《贈答原理》が求められる相互的なケア関係で、金や肩書きを示して《交換原理》を持ち出すとチグハグになる。くさい言葉だが「かけがえのなさ」はお金だけでは買えない。尊重の原理に基づく内発的な情動に基づく。時間と深い関わり合いを必要とする。子どものとき友だちだった人に経済力や役に立つことを求めていたか。それを考えてみればいいのではないか。《業績ベース》の人間関係ではなく、《存在ベース》の人間関係の中にこそケアの論理はあるのだろう。

 

 

6.「変わった人」になる

 

 「男らしさ」というのはしっかりした態度や、頼りがいがある様子などを指す。社会で生きる男性の行動原理は資本の論理に基づくのでガチガチのロボットみたいになる。街中で誰かに話かけようとしてもスーツ姿のサラリーマンには話しかけにくい。忙しそうで急いでそうだから。スーツ=戦闘服なので、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。人から構われたり話しかけてもらいやすくするには、スキをつくるのがいいと思う。「男らしさの鎧」を脱いでいくと人がつけ込むスキが生まれるのではないか。多くの人はスキができるのが怖いのかもしれない。しかし、スキをみせてヘラヘラしていると人が寄ってくる。「男らしさの鎧」をまとっていると表面的な部分でしか他人と関われず、人の奥にダイヴできない。人は、シラフではシンクロしにくい。シラフでない「祭り」の要素が必要になる。だから、非日常の「過剰」な存在にならないといけない。

 

 わたしは、このような「男らしさ」の堅苦しさからズレようと女装っぽいことをしている(のかもしれない)。一言でいうと、訳のわからない格好をして「変わった人」を実践している。これで、街を歩いていると物好きな「変わった人」から声をかけられることがある。訳のわからない格好をしてるとツッコミどころがあり、人から関心をもたれやすくなり、構われやすくなる。スケベ目的が多いが、街の人たちと談笑しやすくなるのはよい傾向だと思う。女装をしなくても、知らないおっちゃんに声をかけて話が始まったりもする。自分が話しかけてもらうのを待つだけでなく、自分から声をかけていくのもいいのではないか。街にいるおっちゃんも寂しさを抱えて手持ち無沙汰でブラブラしてる人も多い。そういうおっちゃんに話しかけて、孤独感や疎外感をお互い埋め合わせれば世の中から孤独が薄れていきよいのではないか。話しかけたら気さくに応じてくれるおっちゃんも多い。街の人はたいてい一期一会の関係だ。その場限りの会話なので、後に引きずることがなくちょっと突っ込んだ無礼講的な楽しみを得られる。職場で緊張して当たり障りのない会話をするよりははるかに気が楽ではないか。男性は体面を気にせず「変わった人」になっていくべきなのかもしれない。世間ではトンデモナイと思われることをして「変わった人」になることで、スキができて人との関係の契機が生まれる。

 

 また、女装?には意外な効果がある。男性の多くは女性に癒しを求めるが、わたしは女装?により自分を女性化して自分自身で癒しを自給できているのかもしれない。女装?はセルフ・ケアや、セルフ・エンパワーメントになっているのかもしれない。

 

 もし、あなたが孤独をかかえていて街で知らないおばちゃんに声かけて欲しかったら、わたしが声かけてあげます。だから、京都か西成に来なさい。笑

 

 

写真①:西成の公園にいる猫たち。猫のように街中で気楽に交流できれば孤独も減るかもしれない。

 

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写真②:女装っぽい格好。これで、自分の殻(=男らしさの鎧)をすこし破ることができたかも。

 

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