生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

男性の「生きづらさ」は女性差別に由来する

 

 11/19は国際男性デーということで、思うところをTwitterでツイートしてみた。そうしたら、ツイート内容が気に食わない人がたくさんいたようで引用RTで、「男性の「生きづらさ」は女性による男性差別があるからだ」、「女性の加害性を指摘しろ」、という反応がちょこちょこあった。これがいわゆるミソジニーである。これを材料に男性の「生きづらさ」は女性差別に由来していて、男性の解放は女性差別の解消によってしか実現しないことを書いてみたい。

 

 

 

【目次】

 

 

1.「男らしさ」と「女らしさ」はフラットに扱えない

 

 男女が非対称のジェンダー体制における「男」と「女」というカテゴリーは、単なる《二つの差異》であるだけでなく、それらが階層的に序列づけられて《一つの差別》となっている。「男」とされるカテゴリーが優位性をもつためには、「女」とされるカテゴリーを有徴化し劣位に置くことによって可能となる。

 

「男」は「男」ではない存在を作りだすことによってのみ――つまり「女」というもうひとつのカテゴリーを作りだすことによってのみ――みずからのカテゴリーを保持することができる

 

竹村和子、2000、『フェミニズム岩波書店、pp.19-20)

 

 

 ジェンダー化とは、「女」のカテゴリーに特殊性や他者性をもたせることで劣位におくことであり、それによって「男」が「普遍的な人間主体」として君臨できる。つまり、ジェンダー体制とは「女」を性によってしるしづける記号支配のシステムのことである。このため、ジェンダー差別において「男らしさ」と「女らしさ」をフラットに扱うことはできない。この二者には階層的な非対称性がある。そのため、否定的に意味づけられた「女らしさ」の地位を回復し、「男らしさ」のもつ抑圧性を無くすことによって、「〜らしさ」に由来する息苦しさを解消できる。「女らしさ」から否定的意味付けがなくなれば、男性も「男らしさ」から外れることに恐々とせずにいられるので、男性の解放にもつながる。

 

 2.男性が経済力を求められるのは家父長制による

 

  男性が経済力をもたなければいけないという社会的圧力は家父長制(=ジェンダー差別)に由来する。男性の「生きづらさ」として、経済力を求められたり過重労働になりやすい問題がある。これは、男性が一人で家族を養うことを前提に設計されている日本型雇用システムがもたらす「生きづらさ」だ。男性は経済力を得て家長として女性や子どもの上に立つことができるが、そのコストが男性に過重労働として跳ね返る。つまり、男性はたくさん働き、たくさん稼ぐべきだとするプレッシャーは日本型雇用システムが生み出し、それを支えるのが家父長制である。日本における家父長制は、女性に多い非正規労働者の賃金が低いために、男性の正規労働者がたくさん稼がなければいけないというジェンダー構造をつくっている。非正規労働者は誰かに養われることが前提になっているから低賃金が正当化され、逆に正規労働者は家族を養うことを前提としているから高い給与を得るために過剰労働となる。このように、家族の扶養関係に基づいて設計された家族単位の労働システムが労働において男性への重圧となっている。誰かに扶養されなくても生活できるように個人単位の賃金水準となれば、男性が家族を扶養するための負担も減っていく。非正規や女性の賃金が上がれば男性にかかる経済的負担は解消されるので、一人ひとりが経済的自立できるように最低賃金を大幅に引き上げなければいけない(時給1,500円以上)。女性差別に基づく日本型雇用システムを改め、ジェンダー・フリーな労働体系にすれば男女ともにジェンダー・ロールの重圧から解放されることになる。

 

 

労働システムの個人単位化については以下を見てください。

 

nagne929.hatenablog.com

  

 

3.生殖イデオロギー脱構築

 

 「男に女をあてがえ」という主張が、「少子化解消のため」という大義を都合よく動員してなされるので、それへの対抗言説を書いておく。

 

① 生殖行為は本能によるものではない

 生殖行為は本能によるものではない。性行為は性欲(=生理的欲求)からなされるというよりも支配欲(=所有欲)からなされるという事はよく指摘されている。性行為は生理的欲求を満たすというよりも、性行為に付随するイメージを実現しようとする行為だ。ああやってこうやったらいいなという幻想を満たしたいから性行為をする。性欲を発散させるには自慰行為で十分なはずなのに、他者の身体や生殖器を通して発散させようとするのは、セックスにまつわる思い込み(=性幻想)があるためである。性行為に他者を介したいと思うのは、自分の性欲望に他者を従属させようとする支配欲求に基づく。「性行為は性欲や本能からなされる」という言説は、性行為における他者への支配欲求をカモフラージュするための物語なのである。つまり、性行為を正当化するために用いられる「愛」や「生殖」や「本能」という言葉は、性行為における支配/従属関係から生まれる暴力性を透明化するために動員される物語にすぎない。「生殖は本能によるものだ」という言説こそ性行為を正当化するための幻想なのである。

 

② 「女をあてがえ」と言いたいために少子化解消が大義として都合よく動員されている

 

 自分の欲望を満たすために他者を動員する性行為はデフォルトで暴力であると書いた。そして、他者を妊娠・出産させることもデフォルトで暴力であることを指摘しておきたい。生殖を正当化する出生主義(=子どもを生むべしという支配的な考え)は産む側に一方的に負担をかける。そして、産む側が不利益を被りやすい社会において、その社会の構造を度外視したまま産む側に結婚や出産を迫ることは差別となる。このように、生殖行為はデフォルトで暴力であるから、当事者間の合意や産む側の負担を軽減する社会システムが求められるわけである。つまり、ジェンダー・フリーを進めることに気を払わず、ただ自己の欲望を満たしたいだけのために、「少子化解消のために女性は男性と結婚しろ」とか、「女性をあてがえ」と言うことは差別への加担となる。結婚して子どもが欲しいと言うのであれば、せめて今のジェンダー構造をつくる主体(=マジョリティ)となっているシスヘテロ男性が、女性が結婚・出産しやすい体制をつくることに積極的に動くべきであろう。

 

③ 子どもの生存保障がなされるべきである

 

 「少子化解消のために女性は男性と結婚すべきだ」と言う男性には、少子化解消を大義名分にして女性を自分の支配下におきたいという欲望が透けて見える。人口が減ると経済の活力もなくなってよくないと思われがちだが、地球規模では環境破壊や資源収奪が進んでいて人口増加は好ましくない。資本主義における経済成長は労働力と資源を収奪することでしか成り立たない。ゆえに、貧困や環境破壊を根本的に解決するには脱・成長の方向しかないと指摘されている(*)。つまり、経済成長よりも富の再分配によって社会問題は解決されるしかない。現在の経済や社会保障の仕組みは右肩上りの人口増加・経済成長を前提としたもので制度疲労をおこしている。人口が増加しないと年金などの制度が維持できないと言うならば、低成長を前提とした制度へとシフトするべきである。その上で、少子化解消を言いたいならば、婚姻外の親子への差別をなくし、子どもの生存保障を整えることが近道である。むしろ、子育て支援が十分にないことで男性が多く稼がなければいけない構造になっている。男性の経済的負担を減らすには、女性や子どもの生存権が保障されるシステムにするしかない。女性の賃金が上がり生存権も保障されれば、男性に多くの経済力を求めることもなくなっていく。男性の解放は女性が「自立」しやすい社会になることで可能となる。

 

(*)斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(2020、集英社新書)より。

 

 

詳しくは以下の記事でお願いします。

 

nagne929.hatenablog.com

 

4.男性は「大きな問題」を話したがる

 

 内田樹さんの「引きこもりは里山に行けばいい」という提言がひどく不評だった。山村問題へのアプローチの仕方が間違っているという指摘もあるが、山村問題という大きな社会問題について何か言いたいがために、引きこもりの人をダシにしたことも批判された。引きこもりの当事者がおかれた事情を度外視して、引きこもりの人たちを「100万人の引きこもり」という束で見て、社会問題解決のために自分が動員できる資源(=モノ)として雑に扱ったことで不評を買った。このようにリベラルや左翼的だと見える人でも、安保や原発といったデッカイ社会問題には積極的に飛びつくが、生きづらい人やマイノリティには無関心であり雑に扱うことが少なくない。知識人、特に男性は政治や経済などデッカイ問題ばかり論じがちだけど、それはマッチョイズムの姿勢ではないか。大きな社会問題を論じるほど威信を示すことができる。そのような「大きさ」が「男らしさ」の標識となり、高いポジションを得やすい。逆に、社会的弱者やマイノリティに関する細やかな話題は、目立たなくて地味だから関心を寄せない。

 

 「公的なこと」が男の領域で、「私的なこと」が女の領域というジェンダー的な構造があり、男性は「公的なこと」に取り組むことで権威づけられる。逆に男性が「私的なこと」に取り組んでも、社会的に評価されにくく、いいポジションを得られない。だから、男性は大きな話題ばかりに飛びついて、ミクロな問題を見たがらない。男性は「公的な存在」になることによってしか男性としての価値を認められにくい。男性は「公的なこと」を話すべきで、「私的なこと」を話したらみっともないと思われる。だから、男性は個人的な悩みを言いにくく、それが生きづらさとなっている。細やかさが取るに足りないことだと軽んじられやすいのは、生産性の論理が支配したマッチョイズムのためだろう。男性が安心して細やかさに敏感でいられる社会になるべきである。そのため、男性がもちやすい大艦巨砲主義的な発想は改めていくべきである。

 

 

5.弱者男性問題は男性差別ではなく主流秩序による差別である

 

 いわゆる弱者男性問題というのは、男性というジェンダーだけに由来する「生きづらさ」ではなく、経済力、能力、ルックス、コミュ力など他のパラメーターによって不遇な状態になってしまう問題である。男性差別」という言葉があるが、ジェンダー構造において男性は女性よりも有利であり、男性の「生きづらさ」は他の要素に由来するところが大きい。あえて男性の「生きづらさ」をジェンダーの問題に還元したがるのは、他の要素を捨象して男性を一方的な被害者としたい発想があるためである。この発想は、「男性も生きづらいんだ」と言うことでどっちもどっち論に持ち込み、ジェンダー構造において下に置かれやすい女性の「生きづらさ」や、女性差別の問題を矮小化する方向に向かいやすい。だから、弱者男性の「生きづらさ」を語る際には、「男性差別だ」と言って女性を糾弾するのは筋違いで、主流秩序によって人のもつあらゆる要素がランク付けされる社会の偏差値主義を問うべきである。

 

 

6.非モテの問題

 

 非モテの一人として、非モテというのはしんどい人にはしんどい。非モテに対して、モテなくてもいいじゃないか、恋愛しなくてもいいじゃないかという意見はそのとおりなのだが、性愛幻想をもってしまった者は欲望を無意識の中に押し込むとこじらせやすいという問題がある。

 

 非モテというのは、異性との関係がないだけでなく、同性との関係も希薄である人が多いように見える(ここでは、シスヘテロに限る話をします)。だから、恋愛関係をつくろうと急ぐのではなくて、同性や異性に関わらず人との友好な関係をつくることをまず目指すべきなのであろう。男性は「強さ」を示すことで承認を得ようとしがちだが、「強さ」を示して人つながろうとすると競争原理に駆り立てられてしまう。競争原理では人との親密な関係には発展しにくい。男性的な「強さ」で競い合い、「強さ」で連帯をつくるやり方ではホモ・ソーシャルにも転じやすい。これでは、自分が優位になろうとするあまり他者に対して抑圧的になる。弱者男性にも、抑圧された状況から脱したいと思うだけでなく、抑圧構造の上に登り自分が支配する側に立ちたいという覇権主義的な発想をもつ人はいる。非モテの男性が「男らしさ」を獲得してホモ・ソーシャルの中で地位を高め、女性をモノにして支配したいと志向することは、ジェンダー差別への加担となってしまう。被抑圧者が抑圧者の側に立とうという発想は、自分が上に立つかわりに別の被抑圧者を生む。だから、他者を抑圧しない形の関係つくりを目指していくしかないだろう。

 

 

7.「ケアの関係」の構築

 

 男性の関係は《競争原理》に偏りがちだと述べた。これは、戦いの論理だ。だから、《尊重原理》に基づく平和的な関係をつくりにくくなる。自分が一方的に評価されて承認を得ようとばかり考えるのではなく、与え与えられる相互扶助的な「ケアの関係」を構築する必要がある。肩書き、スペック、能力といった「男らしさの鎧」でコミュニケーションをするのではなく、「鎧」の中にある自分自身を出して対話をしていくべきだ。「強さ」を見せて近づきがたい雰囲気を出すのではなく、スキをつくることで人が接しやすくする。かといって、「弱さ」ばかり見せて相手から温情を買うことをしたり、従属したいわけでもない。「強さ」も「弱さ」も積極的に志向せず、「変わった人」として規範からズレることで、誰かに対して抑圧的にならず自由度を上げるやり方をわたしはやっていきたい。

 

モテるかモテないかはよく分からないが、これらは人間関係つくりにおいて基本ではないかと思う。

 

これは、以前ブログで書いたので見て頂きたいです。

 

 

nagne929.hatenablog.com