生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

アジール(=避難所)とは

 

【目次】

 

 

1.「生きづらさ」の緩和に必要な3つのこと

 

 貧困や生きづらさを緩和するために必要なこととして、【①生存権保障【②尊重原理(=差別されない空間)】はよく言われることである。この二つは欠かせない原則である。そして、わたしはさらに一部の人には【③超絶経験】が必要であると思っている。これが、以下でいうアジール(=避難所)になりうる。

 

 

生存権保障について

 

 家族単位から個人単位へと社会保障システムをつくりかえる。すべての人に保障が行き渡るようにする。これは前に書いた記事でお願いします。

 

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

・尊重原理に基づく居場所

 

 居場所はそこに参加する人全員が安心して居られる空間にならないといけない。居場所では尊重原理に基づき否定や差別がなされないことが重要となる。属性や立場で人をからかったりネタにしてはいけない。自分が言いたくないことは言わなくてよいことが尊重されるべきで、他者のプライバシーを聞きすぎるのも慎重にならないといけない。男性がよくやりがちな性的ネタを言ってウケをねらうようなロッカールーム・トークにならないように気をつけなければいけない。なので、当たり障りのない会話が中心となる。コミュニケーションも対話が重視され、他者への応答や言葉選びに慎重にならないといけない。居場所は誰もが羽を休めることができる場として位置づけるべきだろう。

 

 

2.アジールとはアカン事が言える空間

 

 しかし、居場所だけでは物足りない人もいる。安全に気をつかいすぎると、トンデモナイ事が言えないので不全感を抱える人もいるだろう。人が安全でいられる潔癖な空間だけでなく、カオスで少しヤバそうな空間で超絶経験をしてエンパワーされる人もいる。自由になるためには、失敗ややらかしができる事が必要だ。さらに重要なのは、失敗ややらかし経験を堂々と言える場である。そういう場がアジールになりうる。アジールとは「アカン事を堂々と言える場」だ。アカン事を言えてアカン者同士で連帯をつくれる場である。

 

自助グループなど

 

 アルコール依存症自助グループは、酒でやらかした事やトンデモナイ経験を言える場である。一般社会で言うとドン引きされて疎んじられるような事が言いやすい場である。つまり、主流社会の価値に逆らうようなことも否定されない場だ。むしろ、やらかした経験が共感や笑いを呼び、エンパワーされると「回復」の助けになる。ある種の非日常である。

 

・西成マジック

 

 わたしは西成によく遊びに行くのだが、西成では一般社会では言えないようなトンデモナイことを言う人がいたりする。アカンことをしてくる人もいる。ガチでヤバイことをされたらキツイのだが多少のことは笑えて楽しい。おっちゃんと話していると、こんなトンデモナイ経験している人がいるのかと驚いて超絶経験となった。

 

 ある日、西成の三角公園でベンチに座っていると一人のおっちゃんがトボトボ歩いてきたので声をかけてみた。おっちゃんはいきなり「110円がなくて酒が買えへん」とわたしに言ってきた。生活保護で暮らしているが保護費を使い果たして酒が買えないと嘆いていた(飯はあったらしい)。わたしの横に座って、「110円がなくて酒が飲めない。こんな情けないことは人生で初めてや」とボソボソ話しはじめた。酒が買えないと言っていたが、朝まで酒を飲んでいたそうで酒臭かった。酔いが覚めてまた飲みたくなったそうだ。おっちゃんは酒をおごってほしかったのか、ワンカップをおごったらすごく嬉しそうになった。西成以外では知らない人に「保護費を使ってもうて酒が買えん」とはさすがに言いにくいだろう。必ずひんしゅくを買うし、ケシカラン奴だと言われ怒られる。西成だから安心して言えるのだろう。

 

 早朝の西成の公園で出会ったおっちゃんは、自己紹介で「あっちで野宿してるわ。わしは万引きでは捕まったことがないけど、人を殴って3回捕まってもうたわ」といきなり言われた。いろいろ違法なことをしてた事もユーモアたっぷりに聞かせてもらった。また、朝の闇市(ドロボウ市)では、路上で古本を売っていたおっちゃんから、昔のワンルーム貧乏生活の話を聞きながら神田川かぐや姫を一緒に歌った。周りは廃棄弁当眠剤を売ってる空間でそれが超絶的なテンション(=変性意識状態)をもたらしたのかもしれない。主流社会ではアカンとされている事が西成では大目に見られる。やはり人情だろう。西成マジックとでも言うべきだ。一般社会ではアカンとされることがむしろ笑いのタネとなる。そういった「反転の弁証法」が作用する空間でこそ、オルタナティブな非日常の超絶を感じられる。

  

・型にはまったコミュニケーションをしなくてもいい空間

 

 西成を歩いていたら、いきなりおっちゃんが話しかけてくることがよくある。タカリの人もいたが、脈絡ない話をいきなり吹っかけてくる人が多い。「兄ちゃん、このコロナはたたりなんやぞ!」と話しかけてきたり、「今から警察行くけど一緒に来るか?」と言われたりする。普通は、知らない相手と話すには相手との接点を探るべく当たり障りない話から始める。会話も相手とのキャッチボールを成り立たせようとする。でも、西成のおっちゃんは文脈を意識せずに話したいことをぶつけて相手との会話状態をつくる。言いたいことを言ったれという感じだ。こういうのは、生産性の論理からズレたコミュニケーションのあり方なんだなと思える。そういう、型にはまらない会話こそ他者とのコミュニケーションのハードルを低くする。

 

・一緒にアジールをつくれるのが友だち

 

 友だちとは、一般社会では言えない事を言えたりアカン事をできる仲のことだ。一緒にアジールをつくれる間柄だ。主流秩序から外れたことを一緒にできる人が仲間だ。ただ、傍観者としてじっと鑑賞してるだけだったり、困った時やヤバイ時に知らんふりするような人は仲間とは言えない。この人の人生になら巻き込まれてもいいと思えるような人が仲間である。

 

アジールとは「無縁」でいられる場所

 

 アジールというのは、何らかのキッチリした組織とか連合の中ではできないのではないか。公式化されると「健全さ」が重視され、ヤバイ部分が刈り取られ当たり障りない空間になってしまう。社会的な枠組みから外れたモヤモヤした隙間の中にこそアジールはできるのだと思う。公式化された象徴界の中では存在できない。場所や人が固定されない遊動的なものだ。河原でブラブラしている人、商店街の隅にいる人、場末のスナックなどの日常空間の中にある「隙間」に偶発的にアジールはできるのかもしれない。匿名の他者として「無縁」の存在で人と関係できる場がアジールとなるのだろう。

 

・ヤバイ人になる

 

 弱者やマイノリティほど主流秩序を乱さない無害な存在として「ええ子ちゃん」でいる事を求められる。規律に従わされ、社会からのお情けで生かされる弱者として無力化させられる。秩序に「従属」させられ「自立」ができない。この規律化へのカウンターは秩序を乱すようなヤバイ当事者になることである。素行の悪い暴れる存在になって世間を怒らせる。世間が抑え込もうとすることに反発したり、時にかわしたりすることでエンパワーされることができる。このように、支配の圧力からの「自立」を試みて、精神的なアジールをつくることによっても「生きづらさ」は緩和されるのかもしれない。