生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

コミュ力について

 

【目次】

 

1.コミュ力主義は差別になる

 

 この社会はコミュ力を求めすぎだ。しかし、一般的に言われるコミュ力というものは、内容そのものよりも話し方の上手さであったり、当たり障りない事をうまく言える能力であるようだ。コミュニケーションの仕方は、本人の情報処理能力、応答能力、思考パターン、人間対応パターンなどで変わってくる。これらは、階級や所属によるハビトゥス(慣習行動)や、知的能力あるいは障害の有無などが変数となりうる。社会的によいとされるコミュニケーションのあり方が、空気や分脈をしっかり読み、ちゃんと会話の受け答えをして、今風の話題で気の利いた事を言ったりウケをねらうように定型化されていっている。コミュニケーションが洗練され、凸凹がなくなり多様性がなくなっていく。コミュニケーションにおけるジェントリフィケーションと言える。この定型化の圧力こそ会話における息苦しさを生む。コミュ力」は主流のコミュニケーションができない人の社会参加を阻む障壁となっている。主流のコミュニケーションのあり方はその正当性を維持するために、それにそぐわない人を「コミュ障」とか「発達」とマイナスにしるしづけ下に置こうとする。これにより、コミュニケーションにおける定形/非定形の序列が生まれる。このコミュ力秩序によって、コミュニケーション弱者や発達障害の人などが社会の隅に追いやられたりバカにされたりしている。主流秩序のコミュ力主義は差別をもたらしていると言える。

 

 コミュニケーションの仕方によって社会でのエンパワーのされ方が変わり、社会的地位の達成しやすさも変わる。コミュニケーション能力は主流秩序のランク付けにおいて重要な要素となっている。そして、コミュニケーション能力は訓練次第ではみんなが獲得しやすい平等なものと見られる。しかし、主流のコミュニケーション能力は階級や属性、パーソナリティ、障害などで身につけやすさが違う。ハビトゥス(慣習行動)の問題はコミュニケーションの仕方にかなり影響するだろう。人が構築的に身につけるハビトゥス(慣習行動)が社会での位置を規定しやすい。主流秩序のハビトゥスを規律化できた者がエンパワーされやすくディスタンクシオン(卓越性)を得る。さらに、主流秩序の上位の人たちが自分たちが獲得しやすいハビトゥスを「主流」として、下位にいる者のそれを「非主流」として見下す。このように、マジョリティは自分たちに有利に記号を操作できる立場にある。マジョリティ/マイノリティの構造的な位置関係において、ハビトゥスディスタンクシオンの視点は欠かせない。社会で優位なポジションを得やすいハビトゥスはマジョリティが規範化しやすく、マイノリティが規範化しにくいものとなっている。このため、コミュニケーション能力が格差を生む問題は、本人の能力や努力だけには還元できない。マジョリティ/マイノリティにおいて獲得しやすいハビトゥスが異なりコミュニケーションの仕方も異なる。つまり、ジョリティの獲得しやすいハビトゥスやコミュニケーション能力を優位にする主流秩序こそ格差を生んでいる。また、人が身につける振る舞いや話し方といったハビトゥス(慣習行動)は階級間移動を妨げる。荒っぽい振る舞いや話し方が身についた人は、洗練された振る舞いや話し方をしにくい。また、ハビトゥスは個人のアイデンティティとなっているので、自分のハビトゥスを改めるように迫られることは自分の根拠を揺るがされアイデンティティの喪失となる。異なるハビトゥスを身につけるのは自己の消去となりやすく容易ではない。だから、階級は固定しやすい。このように、主流秩序は高い階級のハビトゥスを身につけにくい人を下の位置に押しとどめるよう作用する。洗練されたマナーや過度なコミュ力が求められることでそうなっている。

 

2.人は語る能力がないのではなく、構造により語れなくさせられている

 

 は何かを語る時、自分の内心から語るのではなくて「立場」をもとに語る。組織や家族など自分が属する集団における「立場」を考慮することなしに人は語れない。自分の内心を正直に言うと自分の「立場」があやうくなるからだ。自由になるにはしがらみから解放され、内心を話せる場に自分を置くことだ。そういう場がアジールとなる。組織やコミュニティ、家族の中での立場や力関係で人の発話は決定づけられる。弱い立場の人なら発言に大きな制限がかかる。家族であれば、経済的立場の弱い女性や子どもが自由に発言しにくい。マジョリティ/マイノリティの関係においても発言の自由度は異なる。女性は常にミソジニーから嫌がらせを受ける。ジェンダー/セクシャル・マイノリティの人たちは自分のアイデンティティや置かれた状況すら公言できない不自由を強いられている。在日コリアンの人たちも何かしら政治批判をおこなうと右翼や保守から「在日」というだけですぐ攻撃の標的にされ、発言するのもかなりの負担がかかる。引きこもりや生活保護の人の話は聞く耳さえ持たれないし、弱音や不満、批判を口にしようものならバッシングをされてしまう。発言に伴うコストが違うのだ。つまり、人は語ることができないのではなくて、社会構造が人を語れなくさせている。社会の差別がマイノリティや社会的弱者の口をふさいでいると言える。主流の価値体系ではマイノリティや社会的弱者を肯定的に意味づける言葉が不足している。このような言語資源の少なさと構造的劣位性が、マイノリティや弱い立場の人を語れなくさせている。

 

 人は自分の発言が論評されず否定もされない空間であれば自由に話せる。その発想が自助グループの言いっ放し聞きっぱなし方式にはあるのだろう。人には語る能力がないわけではない。語ることができる場を設けられれば人はおのずから語ることができる。例えば、わたしはyoutubeツイキャスでひとり語りみたいなことをするのだが(視聴者がほぼ来ない・・)、話す内容を特に決めなくても言いたいことを殴り書きのように話すことはできる。世間や相手の顔色を伺うことがないから、比較的のびのびと話すことができるようになる。会話は他者がいないとできないが、他者が会話の制約にもなる。また、プレゼンみたいにやれとかキッチリ起承転結つけてオチもつけて話すことを要求されると困って話せなくなる。そういう論理力とか整理能力はない。コミュ力主義が自由な話し方をできなくしている。コミュ力主義が定形のコミュ力を獲得しにくいコミュニケーション弱者(=非定形)を発言できなくしている。

 

 

3.コミュ力の重圧から解放されるために

 

 主流秩序のコミュニケーション能力は生産性の論理に貫かれている。相手の発した言葉をちゃんとキャッチして、状況などを踏まえ瞬時に返す言葉を頭の中でひねりだし、的確に表現して相手に投げ返すことである。フツーの会話は実はかなり高度な作業である。まともにやっていたらすぐに疲れる(というかできない)。このようなキャッチボール型のコミュニケーションがうまくできない人は主流のレールに乗れない。相手の発した言葉や意図からズレた受け答えをするドッジボール型の会話は相手を困らせたり疲れさせたりすることになるので嫌われる。キャッチボール型の会話が苦手で知らず知らずのうちにドッジボール型の会話をしてしまう人もいる。それは、クセであったり障害などが原因かもしれない。円滑な人間関係のためにキャッチボール型の会話を意識することは必要かもしれないが、自分に身に染み付いたコミュニケーションのやり方は中々変えられるものではない。

 

 キャッチボール型の会話をするのが苦手だとかしんどいと思う人は、ドッヂボールできるところを見つけられたらいいのだと思う。自分が一方的に話せる空間だったり、キャッチボールしようと気にしなくてもいい相手を探すなどである。コミュニケーション能力と言われるが、みんな会話に潔癖さを求めすぎなのだろう。結局、コミュニケーションを介して他人といい感じで関わるには、キャッチボール型であるかドッヂボール型であるかよりも相手との相性の方が重要な気がする。気が合う人の話は一方的に聞いていても疲れないというのは実感としてあると思う(てか、そもそも相手の話をあんまり聞いてない、笑)。コミュニケーション下手な人を上手くさせようとするよりも、人と適度な距離を置くようにする方が有効な解決になると思う。コミュニケーションの方法なんて中々変えられないだろうから。

 

 会話において気をつけるべきなのは、コミュニケーションのやり方よりも力関係だろう。今のコミュニケーション能力というのは弱者を押さえ込み、強者を増長させる働きをしている。就活生など弱い立場の人は謙虚さや慎重な言葉使いを求められるけど、ホリエモンなんかはひどい事を言いたい放題だ。このように、コミュニケーション能力は立場の弱い人ほど求められ、立場の強い人には求められにくいという非対称的な作用をしている。ある能力を求められる対象が偏ることで弱い立場の人を低い地位にとどめ置き差別構造が維持・強化される。弱い立場の人を抑圧せずに自由に発言させ、強い立場の人を牽制するためのコミュ力とならなければ倫理的でない。コミュニケーションに必要な対話や傾聴は立場の強い者こそより意識するべきだ。立場の強い人が言いたい放題言ったり、あけすけにズケズケ言うことは弱い立場の人が一方的にダメージを食らうから問題なのだ。コミュ力は弱い立場の人を追い詰めるためでなく、強い立場の人が傲慢にならないために求められる。

 

 

4.言いたいことを言ってしまえ式の会話

 

 西成の街を歩いていたらおっちゃんがいきなり話しかけてくる。それも、自分とはなんの関係があるか分からない話をぶつけてくる。街を歩いていたら「おい、兄ちゃん、このコロナはタタリなんやぞ。わしは東京オリンピックが中止になることを予見しとった」とおっちゃんに突然話しかけられてよく分からないまま話を聞かされた。立ち飲み屋では「トンキン湾事件はな、でっち上げなんやぞ」と横にいたおっちゃんがいきなり話かけてきた。夜に歩いていたら「今から警察署行くわ。一緒に来るか?」と声をかけられ、西成警察署に一緒に付き添った。街でケンカしてお騒がせしたから警察に謝りにきたらしい(すぐ追い返された)。公園ではいきなりチューハイおごってとおっちゃんに言われて、ベンチで1時間ぐらいだべった(朝の6時から酒盛り)。夜の公園ではおっちゃんがいきなり飲み物を渡してきて話がはじまった。でも、何を話したか覚えてない。睡眠薬を飲んでフラフラして三角公園にいたのでちゃんとした会話ができてなかった気がする。多分、おっちゃんたちも文脈を読んで話をしようとしてない。一般的に知らない人同士は、あいさつから始まり相手の情報を小出しに聞き出して、自分と相手の接点をさぐり共有できる話題を話すのが会話のプロセスだろう。普通の会話は文脈やキャッチボールを重視する生産性の論理に基づくが、街で突然話しかけてくる西成のおっちゃんとはそういった生産性の論理が支配しない変わった会話をすることになる。当たり障りない会話をしなくていい。主流のコミュニケーションからズレているし、ズレていても問題にならない。一般社会でこういう会話をしたら「コミュ障」だと言われ煙たがられたり、バカにされる。しかし、「コミュ障」が多数派になると、ちゃんとしたコミュニケーションができなくても問題化しない。言葉のキャッチボールができない人や気にしない人同士なら、コミュニケーションを上手くしなくてもさほど問題にならない。そういうところでは、生産性の論理に基づく窮屈な会話スタイルから解放される。「障害」は個人に内在するのではなく、社会によって個人が「障害」化させられるという障害学の考えが当てはまる。

 

  

5.相手との連続性を意識しない

 

 人と人とは共通点があれば会話がしやすく関係性もつくりやすいと言われる。しかし、知っている間柄であると逆に話すことに制限がかかりやすい。組織やコミュニティにいるとそこでの成員や立場を気にして言いたいことが言えなくなってくる。また、職場では仕事に関係あることや職場の人間関係の話題がメインになり、職場に関係ない話をしにくい。知り合い同士だと、共通する部分に沿った話が展開されやすい。知らない人同士であれば、相手と会話する時に自分との接点(=連続性)を探ろうとする。当たり障りない話をして慎重に相手との関係をつくろうとして、共通点があればそれに話が収斂しやすい。共通点があるほど会話がたくさんできるように思えるが、共通点があるほど会話における話題の幅は狭くなっていくパラドックスがある。むしろ、相手の情報をあまり知らなかったり、相手との連続性がない方が脈絡のない自由な会話ができる可能性がある。街で突然出会った人との会話が楽しいのは、お互い相手の情報を何も知らないから、テキトーに言いたいこと言ってワイワイ楽しむことができるからだろう。相手の情報を知ってると、その情報に会話が方向づけられてしまい意外性が摘まれてしまう。相手のことをちゃんと知ろうとしたら、相手のことをちゃんと知るまで何も話せなくなる。相手のことをちゃんと知らなくてもいいと思えば何でも話しやすくなる。知らない人との方がしがらみがなく自由な会話ができる。いのちの電話の需要があるのはそのためだ。また、出会い系とかチャットもそういったエネルギーで成り立っている。みんな周りに言えないことを誰かと話したいからネットで知らない人とチャットとかをする。わたしは寂しいから街でブラブラしてるおっちゃんと話をする。原理は同じなのだ。自分と共通した人とばかり接しようとするのではなく、異質で未知な人と話すことで、立場や連続性の縛りから離れた自由な会話ができるのかもしれない。

 

 ツイッターでは知らない他人は見えるけど、知らない他人に声をかけにくい。相手に近づくにも相手との連続性みたいなものを示し、相手の文脈に沿った生産性ある会話が求められる。ツイッターほど主流のコミュニケーションを求められるようだ。SNSは交流する人が自分と共通する人ばかりとなり、交流の幅が狭まってしまう。なので、SNSではスピンアウト的な出会いや偶然の発生が難しいだろう。非日常やアジールがつくりにくい。

 

 

6.しょうもないことが言える場が必要

 

 先日、不登校新聞の面白い記事を発見した。小学生からずっと不登校でコミュニケーションや人見知りで苦しんでいた女性が、キャバクラで働き始めたら回復したという話だ。キャバクラに来るお客さんを観察すると、肩書もある立派なオトナが心の鎧を外して、下らないことを言ったり酒を飲んでバカ騒ぎして心のモヤモヤを発散させているのだという。オモテの社会で立派に振る舞うには、立派でいなくてもいい場所が必要なんだと。そういったしょうもないことが言える「はけ口」が生きるために必要なのだ。

 

futoko.publishers.fm

 

 

 日常では中々しょうもないことが言えない。しょうもないことを言ったらひんしゅくを買って自分の立場が危うくなる。知っている間柄ではしょうもないことやトンデモナイことが言いにくい。だが、共同体から離れた遠くの他者や知らない人ならしょうもないことが言いやすい。街で出会って話をするおっちゃん達はアカン事をした経験を話したがる。それが、ガス抜きになっている。逸脱経験を話せて笑いあえる相手を欲している。逸脱を共有することで連帯が深まる。だから、最近はおっちゃんと会話すると「おっちゃん、悪いことしてたやろ?」と話をふる。西成のおっちゃんにとってはわたしはスナックのママなんだろう。ぶらぶら歩いてるママだ。おっちゃんは変な女装したわたしと交流して非日常を感じるし、わたしもおっちゃんからトンデモナイ話や変な話を聞いて非日常を覚える。非日常の交換である。0円非日常、0円カオスである。人の関係はこういう目に見えない交換原理で結びつけられている。西成のおっちゃんは、野宿してたこと、廃棄弁当を転売してたこと、万引きしたこと、スリをしたことなども初対面のわたしに明け透けに話してくれる。しかも、自分のやらかしやアカン事をしたことを楽しそうに話してくれる。アカン事をしたことも含めておっちゃんの歴史であり存在証明(=アイデンティティ)なのだ。そういったアカン事や武勇伝を話せて笑いあえる場がアジールなのだ。

 

 しょうもない事をやったり言ったりして恥をかくことが重要である。引きこもりの人などが置かれてる状況として、失敗が許されない、つまり恥をかくことが許されないというのがある。これが行動の自由度を下げている。恥をかくことは自分に「弱み」や「スキ」をつくだすことになり他者と繋がる契機となる。「恥じ」が関係をつくり、「心地よさ」へ反転する。シッカリした風をよそおうよりも恥をかいてみんなで笑いあえる事が大切なのだ。恥ずかしい事を避けていたら恥ずかしい人になる。恥ずかしい事をしたほうがカッコいい人になる。イタイ人になることで行動の幅が広がる。

 

 

7.一緒にいすぎてはいけない

 

 とは言っても、キャッチボール型のコミュニケーションがしにくい人とずっと一緒にいるのは疲れるだろう。自分の言いたいことを一方的に言うだけでは相手を一方的なケア役割にしてしまうので、関係がもたない。しかし、一般的なコミュニケーションが下手な人を上手くさせようとするよりも、人と適度な距離を置くようにする方が有効な解決になるのではと思う。人の特性やクセで身についたコミュニケーションの方法は中々変えられないから、人との距離の置き方を工夫するようにする方が現実的だ。どんな相手でも人は基本的に一緒にいすぎるべきでない。キャッチボール型の会話が苦手で脈絡のない会話をついついやってしまう人は他人にストレスを与えやすい。衝動的でワ―っと話したがる人もいる。わたしのように会話のキャッチボールができない人と一緒にいたら疲れると思う。だから、ずっといない方がよい。たまに、会ったり電話して、訳わからん話をしてキャッキャッしといたらいい。

 

 

8.思い出だけ残ればいい

 

 引きこもりの人などは他人と会話するのが難しい人が多い。そして、仕事をしていることや生産性を求められる社会では、働いてない人はますます人との接点をもちにくい。そういう人にとっては、相手と共通する部分を慎重に探って話を広げていくよりも、脈絡のないこと言って無理やり相手と会話に持ち込むやり方の方が手っ取り早くなる。先日もドヤのおっちゃんに「おい、もうこんな時間やぞ。唐揚げ食うわ」と突然話かけられた。そうやって突然知らない人と脈絡のない会話をして自分が存在している実感が得られたらよいのではないか。むしろ、そういう主流でないアクロバティックなやり方でしか人と接するチャンスができないのでないか。人の関係はなんとなくつながっていることが多い。価値観や主義が共通していてもいけすかないと思える人もいる。逆に、価値観や主義が共有していないのに何となく関係が維持されている時もある。なぜだろう?それは、フィーリングの問題が大きいからだ。人と人とは非言語の部分で好意を抱く。象徴界ではなく現実界が支配する。オモテに現れる意識の部分ではなく無意識の部分が無視できない。つまり、人と人とがつながる最終的な根拠はない。しかし、みんな人と人とがつながった理由をちゃんと言語化しようとする。近代合理主義的な発想だろう。このように、人の関係に相応な物語を求めたがるのは関係性神話と言える。結婚式のスピーチなども馴れ初めの理由をちゃんとした言葉で説明しようとして会場を沸かせようとする。しかし、人と人との間に連続性(=文脈)を求める発想が新しい人との出会いを阻害しているとも言える。自分の文脈に沿わない他者との出会いが排除されてしまうからだ。しかし、友人であれ恋人であれ関係ができたのは何となくであり、関係が続くのも何となくの部分が大きい。だから、相手との連続性や関係性をあまり気にせず知らない人と脈絡のない会話ができればいい。相手に見返りを求めない。全てを理解しようとしないし、自分への深い理解も求めない。理解するのに徹するのではなく相手の存在や熱量を感じたい。魂を感じればいい。人生とは生温かい思い出を残していくことなのだろうから。

 

 

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◉ 社会的弱者やマイノリティが語れなくなる構造について

 

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◉ アジールを見つけることについて

 

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