生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「義務」を捉えなおす

 

「義務を果たしてら権利を主張しろ」と言いがかりをつけてくる人が多いので、それへのしょぼい対抗言説として文を書いておく。カント、スピノザアーレントなどの考えをもとに、真の意味で「義務」を果たすとはどういうことかを考えたい(とはいっても入門書をハシゴして書いたショボいものです)。

 

【目次】

 

 

 

1.能力に応じて社会的責任を果たすことが「義務」

① 「勤労の義務」は必ずしも「善」に資さない

 

 働いてなかったり、生活保護などで暮らす人が権利を主張すると、「義務を果たしてから権利を主張しろ」と言って主張を無力化しようとする人がたくさんいる。ここで言われる義務は、きまって「勤労・納税の義務」である。そこでいう労働は、「金を稼ぐ活動」に限られる。つまり、「社会的な義務を果たせ」と言われる時に指す「義務」が極めて狭い意味なのである。この「勤労・納税の義務」というものは資本主義を成り立たせるために必要とされていることだ。それは、市民社会を成り立たせるためのものでは必ずしもない。資本の論理と市民的正義は相容れない場合が多い。辺野古に土砂を運ぶトラックの運転手は「勤労の義務」を果たしているが、それが民主主義や住民・環境・動物にとっての「善」に資すると言えるだろうか(もちろん、トラックの運転手は生活のために仕方なくいやっている側面があり、一方的に「悪」とは言えない。辺野古の埋め立てを決意した政治家や利権が根源的な「悪」である)。原発などがそうだが、社会には無いほうがよい仕事(=ブルシット・ジョブ)が多くあり、労働することが必ずしも社会によい結果をもたらすわけではない。しかし、社会にとって望ましくない労働に従事しても、「勤労の義務」を果たしているからと評価されたり正当化されてしまう。サラ金や高額なヘンテコ商材の販売などは人を追い詰めていることの方が多い。他人を不幸にして儲けている人よりも、働いてない引きこもりのほうが倫理的である場合もある。「勤労の義務」が人を何が何でも労働させて、倫理に反する行いすら正当化させている現実がある。

 

② 「義務」の一元化により人が社会的義務を果たせなくなるパラドックス

 

 資本主義は人から生産手段を奪い、労働者として資本のもとに従属させる。人は資本に寄与する活動でしか価値を示せなくなっている。社会への貢献度が稼ぐ力でのみ計られ、「勤労の義務」として人々の義務観念を支配している。しかし、金を稼いで納税することだけを義務と見てしまうと、金に結びつかない活動などが度外視されて、人々がもつ多様な能力を活かすことができない社会になる。人がはぐくむ能力は多様で、それぞれの能力を上手く活かすことで社会的課題に応えることができる。しかし、一般的に義務とされている行為は経済活動に限られている。そのような義務観念の狭さが、人がもつ能力を活かす機会を摘んで社会にとってもマイナスになっている。果たすべき責任や義務のかたちを一元化すると、必然的にその要請に応えられない人をつくる。金銭的貢献しか認めない狭い義務観念により、個人が自分の能力をつかって社会に関わることができず、社会的責任を果たせなくさせている。これは、個人にとっても社会にとっても不幸なことだ。個人は金になる能力ばかりを伸ばすようになり、社会から多様な可能性が失われる。個人は代替可能な部品としてしか社会に存在できず、自分のもつ能力で社会にうまく応答できないことで、自尊心が傷つけられ疎外される。技術力が高まりAIが富を生み出せるようになれば、人を労働に駆り立てるばかりでなく、人のもつ能力をうまく社会で活かすという発想をしていくべきだ。自分が他者や出来事、あるいは社会からつきつけられた課題に、自分なりのやり方で応答する可能性をハンナ・アーレントは、「複数性」と呼んだ(國分・熊谷、2020、p.4)。「複数性」が可能となるとは、個人が尊重されることを意味する。自由な活動ができるようになってこそ人は社会的課題に向き合えるようになる。

 

③ 「義務」は特権に対するコストである

 

 「勤労・納税の義務」などの一般的に「義務」とされるものが、勝ち組に優位に設定されていることにも注意したい。勝ち組が自分たちが優位なように「義務」を設定することで、負け組の権利主張を封じ込め続ける戦術にすることもできる。現実的に「義務を果たしてから権利を主張しろ」という勝ち組によるトーンポリシングの口実として「勤労の義務」はよく使われる。しかし、「働かざるもの食うべからず」という義務観念は、そもそも社会主義的な文脈で出てきたもので、不労所得で暮らす資産家などを牽制するためのものだった。本来、富裕層を戒めるための格言が、貧困層を押さえつけるような意味合いにすり替えられてしまった。このように、勝ち組によって「義務」の意味付けが都合よく設定される(勝ち組は自分たちに有利なルールを作れる)。そして、この「勤労・納税の義務」させ果たしさえすれば何をしてもいいんだという思い上がりを正当化することにもなる。コロナ下でエッセンシャルワーカーが感染症の最前線で働いているにも関わらず、給与は最低賃金レベルの人が多く生活すら保障されない。一方で、コロナで株が高騰して富裕層の資産は増えたという。労働者の生み出す経済的価値よりも低い価値で人を働かすことで資本は利益を生み出す。株式の利益も労働者の生み出した富の一部である。金融投資自体は何も生産していないので、結局は社会から富を収奪しているだけだという。ただ、株を保有しているだけで莫大な富を得る富裕層は社会に対して何も責任を負わなくてよいのだろうか。「義務」は特権に対するコストである。勝ち組が社会の中で得た特権性に思い上がらずに相応の責任を果たすために意識されるもので、負け組を抑え込むための道具ではないだろう。勝ち組が自発的に相応の責任を果たしていれば、社会からも非難されにくい。つまり、「義務」は責任を果たすべき人に責任を果たさせるためにある。勝ち組が社会的な課題にしっかり応じることで、勝ち組が自信の社会的名声を上げることにもなり、結果的に勝ち組の地位が保てるのだろう。

 

※米国の富裕層がコロナ下でボロ儲けしていることを伝える記事

https://www.cnn.co.jp/business/35165645.html

 

※金融投資による利益は社会の負担から生まれるという話(マルクス経済学者の佐々木隆治さん)

www.asahi.com

 

 

④ 「義務」はトーンポリシングのための道具ではない

 

 権利と義務というのはセットで語られやすいが、取引関係にはない。生存権などの権利は基本的人権としてあらゆる人に保障されているものだ(でないと、障害者や子どもは生かされなくなる)。そして、「義務」は立場の強い者の権力を牽制するために課せられるものだ(現に、累進課税方式などは正当化されている)。2020年の一律給付金の際にも、生活保護利用者には給付金を渡すべきでないという声がたくさんあがった。橋本徹とかは、露骨に「権利と義務」を持ち出して煽っていた。政府はコロナでの生活支援として一律全員に支給すると決定したにも関わらず、わざわざ「この人はOKで、あの人はNGだ」と言って自分が条件を設定できる立場にあるとなぜ思えるのだろう。この事例からも、自分が義務を果たしている側として、「権利と義務」を持ち出すのは、自分が他人の権利主張を押さえ込める超越的立場にいると思い上がっているからである。

 

 

2.カント哲学から考える義務

① 動機付け型の義務がもたらす弊害

 

 義務は、「〜すべき」という道徳観である。しかし、「権利と義務」という動機付け型の義務は、純粋な意味での義務ではなくなる。「義務を果たすことで権利が得られる」という義務観念を採用すると、権利を奪われたくない、あるいは他人からバカにされたくないという強迫的動機により人は義務を果たそうとする。つまり、保身のための義務遂行となる。これは、カント哲学において仮言命法と呼ばれ、見返りを求める意識(底意)が動機付けとなる。義務というのは一般的に美徳とされているものが多い。勤勉、勤労、自助などである。動機付け型の義務は、「成功したければ、努力すべし」という仮言命法の型をとる。そして、努力して成功すると他者に勝ったという“快感”を報酬として得られる。努力のよさよりもむしろ、実績を収めることの満足感が動機付けとなる。このように、動機づけ型の道徳は打算的な人間を生み、エゴイズムを導きやすい。これは、必ずしも社会正義にとってよい結果にならない。動機づけの倫理にひそむパラドックスといえる。

 

② 真に道徳的な義務とは

 

 人は働かないと世間から見捨てられたり、白い目で見られることを恐れて「勤労の義務」を果たそうとする。つまり、義務を果たさないと大きな代償を払うことになる。逆に言うと、大きな代償を支払うことがなければ、人は労働しなくなる。これを考えると、強迫的動機に基づく労働とは真の意味での道徳的行為と言えるだろうか。以上で述べた条件付き動機に基づく仮言命法とは異なり、カントは無条件の命法である定言命法を提示した。「〜だから、〜せよ」という条件を伴わない、単に「〜せよ」という純粋な道徳性からの命法である。このように、何らかの条件に規定されず、完全に自発的な意志による行為をおこなうことこそ「自由」であるとされる。つまり、見返りを求めない道徳的行為こそ純粋な意味での義務である。

 

③ 理性的存在であろうとすることが「自由」となる

 

人というのは、他者を出し抜こうとしたり、抑圧しようとしたり、俗情に流されたりする。「べし」という命法は、理性が感性に働きかけるものとする。人は理性的存在となり欲望(感性)を超越することで、「自由」になることができるという。この道徳意識は、個人の根本指針(カントは「格律」と呼ぶ)を導く。カントはこのような道徳的行為をもたらす意識を「道徳法則への敬意の念」と呼んだ。

 

  多くの人は良心的存在でありたいと願う。誰かを犠牲にしたり、蹴落としてしまったこと。いじめてしまったこと。不遇な誰かを見て見ぬふりしてしまったこと。助けの声を無視したこと。このような後ろめたさを抱えていると、心は完全に安寧にならない。完全には幸福になれない。こういう振り払いがたい意識を喚起するのが「道徳法則への尊敬の念」という。つまり、良心である。

 

④ 内発的な道徳的行為により社会的義務を果たす可能性 

 

 「勤労の義務」など義務の一元化を命令しなくても、自分が社会の中で何をすべきか、何ができるのか、内なる動機に基づき行動できることで人は道徳的存在となり、社会的義務を果たすことも可能である。そこにおいては、人は単なる賃金労働ではなくて、社会的意義を感じられる労働(活動)に進んで従事しようとする。内発性に基づき道徳的行為をおこない社会的責務を果たせることは、すなわち「自由」となることでもある。自らの意志で、自らの力を表現できる行為をおこなえることが「自由」であるとスピノザも言ったそうだ(國分、2020)。

 

 カントは、道徳性が幸せを約束するわけではないが、幸せになるに値する人間になるように道徳性を磨くことはできると言った。日頃から陰徳を積んでおけば、幸せが訪れた時に、堂々と幸せを享受することができる。自らの従うところの真に道徳的な行為をおこない、あとは幸せになれるよう祈るしかできない(「投企」をする)。

 

 

3.市民としての「義務」のあり方

 

 ハンナ・アーレントは抑圧や貧困からの解放だけが「自由」ではないと述べた。孤立した人間が「自由」なのではなく、公的領域での「活動」をおこなうことで「自由な人格」として他の市民から認められるようになる。経済活動やプライベートな事しかおこなわないのは、「自由」ではなく単なる自己チューなのだ。

 

 公的領域で「自由な人格」になるとはどういうことか。それは、政治的共同体の中で「共通善」を求める主体になることだという。民主的なおこないを「偽善」だとバカにして、「悪」を平然とおこなう人がたくさんいる。「悪」であることや冷笑的であることがカッコいいとされ、倫理的であることが軽んじられる。つまり、「偽善」という仮面を取り払うと人は自らの欲望のままにふるまう自己チューになる。心の闇、差別意識、おごりは誰しももってしまうもので、仮面の中の素顔は有害なものである。アーレントのいう【人間の条件】とは、人格という仮面をかぶり、「善き市民」を公衆の面前で演じることにある。だから、その人の正体が“善人”であるかは問題ではない。市民社会の公的利益を求める時、人は「見せかけ=現れ」の存在にならないといけない。個人の複数性が尊重される自由な社会は、自ずとはつくられず、主体的に(意識的に/人為的に)つくり上げるものだからだ。人は自発性に基づき市民として自らの「役割」を演じられる時、つまり、「人間の条件」(=義務)を果たせる時に「自由」になれるのだろう。それが、「現れの空間」(=アジール)にもつながる

 

 

4.義務をしょぼく果たす

 

 以上、哲学者の言葉を参考にしながら、「義務を捉えなおす」をテーマに書いてみた。とはいっても、アーレントの言うような市民的役割は能力主義が強い。公的なことに関心は持ちながらも、内なるしんどさを抱えてあまり目を向けられなかったり、社会の流れや情報の量について行けない、あるいは考えるのがしんどくなってしまう人もいる。また、社会参画はマイノリティや社会的弱者ほど負担が大きいという問題がある。社会活動の場も、マッチョイズムや能力主義が強く、弱い人やできない人はついていけなかったり追いやられるのも現状としてある。市民として十分な責任を果たせない人は、「しょぼい活動」をして、わずかでも倫理的な人として振る舞いたい。社会的責任の基本は、強い立場の者を牽制するためにあり、あまり力のない人を追い立てるような使われ方はされるべきでないと考える。

 

【社会的な課題に対して】

・社会問題系の学習会、シンポジウムに行って参加者と話したり、内容をSNSで発信する。

・しょぼい社会活動→ デモや集会に参加、一人アピール

・ボランティアの参加

SNSで愚痴や非難ばかりせず、人をエンパワーする言説実践をする。

・他者から学んだことを自分の中に取り入れて自己を更新する。この反復が社会変革にもつながる。

 

【消費行動において】

・ひどい企業の商品を買わない。

・動物搾取への加担を減らす。エシカルな商品を買う。

・大量消費社会への反発として自分で何かつくったり、野草やキノコを採る。

・できるだけ消費しない。

 

【つながり】

・困ってそうな人に声をかけてみる

・街で知らない人に声をかけてみる

・居場所をつくる、居場所に参加する、自助グループ、対話できる場をもうける

 

【差別に対して】

・いじめに加わらない、いじめを見て見ぬふりをしない

・差別に対してできる範囲で反対する

・社会的弱者やマイノリティのことに関心をもち調べたり勉強する

 

 

 

【参考文献】

石川文康、1995、『カント入門』ちくま新書

國分功一郎、2020、『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書

國分功一郎・熊谷晋一郎、2020、『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究新曜社

仲正昌樹、2009、『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書

 

 

【過去に書いた関連記事】

 

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