生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

しょぼい権力論

 

 

「少しは権力欲しいよね・・」

 

 前に、孤立気味にある友人と話をしていて、「権力が全く無いのもキツイよね。権力100はよくないけど、権力30くらいは欲しいよね」という話をしていた。この話から考えたことを書いてみたい。

 

【目次】

 

 

1.人は権力の行使を通して社会と関係できる

 

 権力という言葉は、力をもつ覇権的な人が振りかざすものだというネガティブなイメージが強いので使いにくいが、人は生きる中で常にすでに誰かに権力を行使していて、逆に権力を行使されている。そして、人は権力を行使することでしか社会と関わることができない。権力そのものだけが問題なのではなく、権力が誰かに偏りすぎて別の誰かの権力を奪いすぎることが問題なのだと見ている。これを前提とすると、他者に対する一方的な支配や暴力とならないかたちで、やんわりと権力を行使して他者に影響を及ぼせる状態にあることが「生きづらさ」の緩和になるのだと考える。自分の言葉や行為に対して何らかの反応があったり、誰かの心に何らかの影響を与えられた感触を得られることで自分の存在を感じることができる。自己効力感である。

 

 言葉を発すことは他者に対する働きかけだという(オースティンの言語行為論など)。発話は自己や他者を変えるためになされる。発話だけでなく何らかのパフォーマンスも相手にメッセージを投げかけて変化を求める。相手に対する要求から、自分を理解してほしい、評価してもらいたい、共感してほしい、相手を笑わせたいなどの思惑があり、自分が相手を変化させることを求める。こういった、他者を変化させようとする行為は権力の行使といえる。直接的な暴力や暴言による他者への命令ではなく、やんわりと言葉や行為によって「他者の行為に対する働きかけ」(フーコー)をおこなうことも権力の行使となる。

 

 

2.権力を行使できてこそ他者に応答できる

 

 人はうまく言葉を発することができないと不全感をもちやすい。これは、國分・熊谷(2020)による責任(レスポンシビリティ)と応答(レスポンス)に関する話から得た視点です。

 

応答において大切なのは、その人が、自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事に、自分なりの仕方で応ずることである。自分なりの仕方でというところが大切であって、決まり切った自動的な返事しかできないのならば、その返事は応答ではなく反応になってしまう。哲学者アーレントはそれぞれの人間が自分なりの仕方で応答する可能性を人間の「複数性」と呼び、それを人間の条件の一つに数えた。

 

國分功一郎・熊谷晋一郎、2020、『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究新曜社、p.4-5)

 

 

 自分に向けられた行為や自分が向かい合った出来事にうまく対応できないとき、人は苦しさを感じる。他者が自分の言葉に対して通りいっぺんの当たりさわりのない言葉や、常識に基づいたことしか返してこないのであれば、自分に向き合ってないのだなと疎外された気持ちになることがある。逆に、他者の言葉に対して自分が返す言葉をもたない時は歯がゆい気持ちになる。うまく応答ができないことがもどかしさになる。応答できないというのは他者に働きかけができない状態であり、権力がうまく行使できないというモヤモヤした状況になる。社会や他者に対して自分なりのやり方で応答できないことで、社会でポジショニングできなくなる。応答を通して、自分なりのやり方で権力を行使できることで人は社会に自分の存在を示すことができる。

 

  

3.「依存先を増やす」とは「権力の行使先を分散させること」

 

 人が社会的な存在であると実感を得られるのは、他者との関わりにおいて影響を受けたり、影響を与えたりすることにあるだろう。つまり、贈答関係をもてると人はエンパワーされる。精神医療の領域では、よく患者を「かよわい当事者」として社会や他者に従属するだけの構造的弱者の立場に追いやろうとする。パターナリズムによる包摂的対応なのだろう。しかし、本人の主体性が尊重され他人と関わることでエンパワーになり回復していく場合が多い。人から権力を消し去る無力化や無害化をするのではなく、他者からほどほどに権力を行使され、自分は複数の他者に権力を分散して行使できるような形で、精神的に健全になるのだと思う。

 

 しんどさを抱えた人がいるとしよう。そういう人は、甘えたことを言ったりしょうもない事をしてしまうのかもしれない。しかし、その人は甘えられる関係やしょうもない事ができる場が不足しているのだと思う。世間ではしっかりしたように見える人も、実は見えない所で誰かに甘えたりしょうもない事をしている。その人に甘えの心があることが問題なのではなく、甘えられる場が不足していることが問題である。甘えられる人や場が少ないと、他の何かで埋め合わせることになる。特定の誰かに甘えが集中すると支配や共依存になり、自傷行為、アルコールやギャンブルなどの依存症にもつながる機序が生まれる。広くゆるく甘えられる状況でこそ人は健全になる。これも、誰かに甘える=誰かからケアや笑いを引き出すという権力の行使と見れる。ただ、このケアは女性や立場の弱い人にかかりやすいという問題がある。立場の強い人が一方的に誰かに権力を行使して疲れさせやすいことには自覚的になるべきだ。広く浅く誰かに依存できるのが理想であるというのはケアにおける課題なのでしょう。

 

 

※ケアにおいて気をつけるべき点は、以前に記事で書いたことがある。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

4.お金と権力

 

 お金があれば権力が得られる。逆にお金がなければ権力は得られない。困窮者はお金がないから他者から一方的に権力を行使される立場になり「自立」ができなくなる。お金がない引きこもりなどは親のお金に頼らざるをえなので、気まずい立場となる(脅して金をもらうのは問題だが)。他者の援助により得たお金は使うのに後ろめたさがある。だから、好きなものを自由に買えない。自由が制限されると、自分の欲望すらも曖昧になり活力がなくなる。自由に使えるお金があると自分の欲望を作りだすことにもなる。自分が何が欲しくて何を買いたいのか欲望をもち、持っているお金と照らし合わせ自分で選択して購買ができて「自立した消費者」となれる。資本主義ではまず消費行動ができることが前提となる。子どもに小遣いを渡すことは、消費者になるためのトレーニングとなる。引きこもりの人でも障害年金が入ったことで消費活動の幅が広がりエンパワーされた人がいる。生活保護を現物給付にしろという声も聞くが、それは生活保護の利用者を追い詰める。消費活動ができなくなるので、社会適応能力を奪うことになる。それによって、社会復帰も難しくなるだろう。また、孤立した人が手っ取り早く人と交流するには金をつかうことである。社会に居場所をつくるには、少しくらいの権力は必要となる。そのためにも最低限のお金は必要となる。

 

5.聞く姿勢の重要性

 

 相手に聞く姿勢があれば、人は自ずと自分の言葉で話し出す。拙い言葉かもしれないが、自分の話がちゃんと聞かれると分かれば躊躇なく話すこともできる。相手の言葉に対して、こちらも応答すれば、相手もさらに語り出しコミュニケーションが生まれる。発話やコミュニケーションは話者の問題ではなくて、聞く姿勢の問題であるといえる。この人は自分の話を聞く気がなさそうだし、話を聞いてもあら探しや説教をかましてくるだろうと思ったら、話す気にはならない。抑圧的な姿勢(=取り締まりの態度)をもつ人に対しては、何かしら足払いや言いくるめをされるのではないかと警戒してしまうから、自由な言葉を発しにくい。また、同じ言葉でも立場次第ではちゃんと聞かれたり聞かれなかったりする。立場の弱い人やマイノリティの声は聞かれにくい。言葉が聞かれないのは聞く側の姿勢の問題が大きいが、話す側の立場が弱い場合は、話者の言語化能力や説明能力の問題にすり替えられやすい。立場の弱い人ほど言葉の能力を一方的に求められる問題がある。言葉の武装を求めれるとしんどいのだ。繰り返すのだが、コミュニケーションが成り立つかは、個人の言葉の能力が問題ではなく、聞く姿勢の有無が問題となる。聞く姿勢とは学ぶ姿勢であろう。相手から影響を受ける余地を示すことである。そして相手の言葉を取り入れ変化する準備があることだ。はなから変化するつもりがない人に対して、話をしても手応えがなくノレンに腕押しとなる。権力が行使できないからだ。対話は相手から権力を行使されることで始まる。自分と共鳴する言葉をもつ人や、自分の言葉が聞かれそうな関係を見つけたい。人から聞き、別の人に話す。インプットとアウトプットのサイクルができる。知識や学びは貯め込むのではなく流すことで社会に循環して、それがゆっくりと社会の変化に結びつくのかもしれない。

 

「人には語る能力がないわけではない。語ることができる場を設けられれば人はおのずと語ることができる」という発想から対話の場はできるのだろう。人が語れないのではなく、構造が人を語れなくしているという指摘を前にブログで書いたので、また読んでいただきたいのです。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

6.対話のために開かれた人になる

 

 話してもこちらの言うことが響かないなと思える人には話す気になりにくい。応答をちゃんとすると互酬の原理が生じる。誰かが何かを発言する。それに対して相手が理解や関心を示して応答する。応答された方は自分の言葉が響いたと感じ嬉しく思う。さらにその反応を見た側も、自分がちゃんと応答できたことに満足感を得られる。応答による相互作用が人のエンパワーになる。対面した相手への関心が軸になる。心が通じる感覚とはこういうことなのだろう。

 

 自分が他者に影響を与えるためには、自分も他者から影響を受ける態度をもたなければいけない。そのためには、自分がどのような言葉をもっていて、どのような人であるかを開示しておき、他者に対して開かれていること。いい意味でスキがあることも大事。余裕がないと相手に対してもちゃんと応答ができないだろうから。

 

 

※わたしのツイッターやブログも、誰かに対する権力の行使だろう。「生きづらさ」の問題や生存権オルタナティブについて誰かに響かないかと願い、日々わちゃわちゃと書いている。たまに、ヒットして、いい人ともめぐり会える。誰かに権力を行使できるためにも投企(言葉の撒き散らし)をおこなう。奇跡をおこすためには、しょぼくて小さな「呼びかけ」が大切だと思う次第。