生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

努力主義の脱構築

 

【目次】

 

 

1.「努力」という言葉がトーンポリシングのために使われる

 

 よく、引きこもりや生活保護利用者などに対して「努力してるのか?」と聞いてくる人いるじゃないですか。何もしてなかったりブラブラしていると白い目で見られる。マジメに努力してる態度を求められ、常に緊張を強いられる。働いてない人に厳しく当たり、みんなへの「みせしめ」にしている。まるで監獄の囚人だ。でも、逆だよ。外に出て活動的になったり人と交流したりすることが社会復帰を促すからね。困窮者などが「あなた努力してるの?」と問いつめられると、相手から非難されるのをかわしたいから努力していることを証明させられるじゃないですか。あれがすごくバカバカしい。努力とかそんなの関係なく困窮したらみんな社会保障で生活をカバーされなきゃいけない。だから、福祉利用はその人の経緯ではなく今置かれている状況(保護水準)から判断されなくてはいけない。生存権保障に努力義務が課されると、当人が努力しているかが立場の強い者により恣意的に判断されるスキを与え、生存権における無条件原則に反してしまう。生存権の話で努力がなんだと持ち出してくるのは、単に困窮者に対する追い打ちであり「懲らしめ」の意味しかない。働けない人ってお情けで生かされていると思われてるじゃないですか。だから、お情けを買うために健気に努力してる姿が求められる。実績や能力を示せない人は、その替わりに誠実さや努力する姿勢といった内面を差し出すことを強いられ無力化される。これこそ、魂まで奴隷にされるというやつです。人を従属させるために「努力」という言葉が都合よく使われる。

 

 

2.努力主義を脱構築する

 

 教育社会学では、能力主義のもと平等をうたうメリトクラシーのシステムがむしろ階級の再生産をおこなっているとされる。タテマエでは教育はみなに開かれていて能力に応じて適当な職に就けるとされるが、現実には学力のつけやすさは親の収入や環境に依存するので機会は平等でない。よく、貧困家庭に生まれたり幼少期にグレたりしたが、その後に成功した事例が感動物語として持ち上げられる。そして、そのような著名人の発言力が高まると、逆境にあっても上手くいくかどうかは本人の努力次第だという言説が強まる。しかし、教育社会学では努力できるか自体も階級や環境に左右されることが定説になっている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)。努力が価値あるものだと思うには、努力は報われるものだという意識がもてなければいけない。親が努力して成功したのであれば努力は価値あるものと信じやすいし、勉強熱心な人が多い進学校などの環境では努力することが高く評価される。逆に、努力するのはクダラナイという人に囲まれると、努力は評価されにくいし、時に疎んじられるため、努力そのものがしにくくなる。このように、環境により努力に対する価値づけが違うことを考えると、努力できる機会も不平等だといえる。ここから、「努力できるかは条件次第」という言説が生まれる。

 

 

 しかし、わたしは「努力できるかは条件次第」という言説のその先に行きたい。わたしたちは有用な成果を生み出すことをすると努力したとみなしがちだ。有用な成果とは大抵はお金を生み出すことだ。また、お金にならなくても人に対して分かりやすい効用や成果をもたらした時にも努力したとみなされやすい(もちろん金を生み出す行為の方が評価は上)。それに対して、社会的評価がされにくい行為をすると努力してないと言われるが、その行為にはエネルギーが使われていないのだろうか。鬱でしんどい人はメールを読むのも風呂に入るのも苦労する。発達障害を抱える人には部屋を掃除したり、遅刻しないで学校や会社に行くのも大変だという人もいる。コミュニケーションが苦手な人は誰かと少し会話するのもエネルギーがいる。このように、何らかのハンディがある人は生活を成り立たせること自体にかなりのエネルギーを消耗し努力している。しかし残念ながら、エネルギーは使っているが社会的に評価されにくいから努力とは判定されにくい。このように、努力の基準は有用性に偏っている。努力評価の基準に偏りがあるため、社会的評価がされにくい行為で苦労したりエネルギーを消耗している人が低く評価され、いつまでもエンパワーされにくくなる。秩序に適合しにくい人たちの地位を回復するには、生産性で努力量を測ろうとする資本の論理を脱構築することが求められる。

 

 

3.社会で上手くいくかは努力ではなく適合できるかの問題

 

 人はそれぞれ違うがゆえに、それぞれができることや持続できることも異なる。ある人が自分のもつ特性や能力で努力できる事が、主流秩序に適合するどうかは分からない。主流秩序に適合した特性や能力をもっていたり身につけやすい人が、マジョリティとなりやすく優位なポジションを得る。努力の判定もマジョリティ基準であり、努力評価はフェアではない。努力主義の強調により、特定の特性や能力を有利にする社会構造の問題が、努力という意思の問題にすり替えられ、構造により格差が生まれている本質的な問題がぼやかされる。

 

 

 高度に発展した資本主義では、人が生きていくには高度な能力を求められる。金が稼げる資格を取得したり技能を蓄積するには年単位を要する。資本主義の中で評価される能力をもてるのは、コツコツ努力できる持続性のある人だ。これが、勤勉・勤労を美徳とする近代のエートスとなっている。これは、前資本主義における狩猟採取民がその日暮らしで拠点を点々とする遊動型であったのに対して、定住・定職を基本とした計画的な生き方を求める定住型と言える。資本主義では、この定住型パラダイムに沿った人が制度的に有利になり、コツコツできない遊動型は不利になる。システムがその日暮らしのヤケッパチ人生をよしとしない。資本主義で生きにくくなる特性の例として、発達障害でよく見られる衝動性や多動性がある(診断はないが、わたしもこれらが強い)。場当たり的に行動することや持続性がないことは組織生活や技能蓄積に不利であり安定した職に就きにくい。また、主流のコミュニケーションができるかも秩序への適合具合を決定づける。主流のコミュニケーションがしにくい人は「コミュ障」とバカにされたり、疎外されやすい。以上のような特性は、チームや組織で行動したり、有用な成果を出すのに不利である。このように、定住・定職・持続性・計画性を求める資本主義社会の標準モデルがそれに適合できない特性をもつ人を不利にしていると言える。逆に西成などに行くと、みんないきなり文脈関係なく言いたいことを言ってくるので、コミュニケーションのあり方を気にしなくなる。

 

 上で書いたように、社会で上手くやっていけるかは努力できるかよりも適合しているかの問題である。そして、社会に適合しにくい人ほど適合するための努力を強いられる。適合しにくい人はシステムでワリを食っていると言える。金、教育、ジェンダーフリーなど機会の平等はなされるべきだが、機会の平等さえ整えば著しい格差は許容されるのかといえば、そうではないと言いたい。システムでエンパワーされやすい特性や能力をもつ人は階層の上位にいけるが、そこではシステムでワリを食って下位になる人の存在が必ずいる。ある人の優位性が際立つのは、別の人を劣位に置くシーソーゲームによる。上位の人には自らのエンパワーのための資源になった下位の人に対する相応のコストは課される。人は自分の実力だけでは優位に立てず社会的な関係性を必要とする。自分を勝ち上がらせるのを可能にした社会(=他者)に対するコストと捉えたい。

 

 

 

【過去記事】

 

◉コミュニケーションは個人の能力よりも適合の問題であること

 コミュニケーションの可否は自分の発話能力の問題だけでなく、相手や環境にも依存する。「コミュ障」なのは自分のせいなのかと悩む人に読んでもらいたい。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉自分の社会的成功は自分の力だけでは成されない

nagne929.hatenablog.com