生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

話しかける

 

 たびたび街で知らない人に話かけて会話をする。こちらから一言話しかけたら、それに応じて向こうが近況や身の上話をたくさん話すこともある。街の人と話していると、【高齢+貧困+独居】の人(特に男性)の社会的孤独がかなり目につく。暇そうな人と話してみたらたいてい長話になる。長話になるのは普段思い思いに自分のことを話せる相手が不足していることの裏返しだとも思う。わたしのようにロクに働けない半引きこもりのくせしてヘンクツな人間は、人とも親しくなりにくい。京都には話し相手がいなかったが、2月に路上一揆して出会ったおっちゃんとは社会福祉関係の話で意見が合うので、家に遊びに行ったり花見したりした。引きこもりにとって近くに話し相手が一人できたのは非常に大きいのだ。このように、路上での生存権アピールで、生きづらさについて視点が合う人と出会えることもある。ただ、そういうレアなことはそうそうないので、街でブラブラして素性がよく分からない人にも話しかけてみて、しょぼく孤独解消をやっていくのも大事であると思う。

 

 

【目次】

 

 

※いろいろ前置きの文章が長くなってしまったが、わたしの経験した街の人との会話エピソードは【3】からです。

 

 

1.孤独による生きづらさ

 

 4月のはじめに京都の三条京阪の路上で生存権カフェ(しょぼい一揆)をしていると、通りがかった70代前半のおっちゃんと話しになった。おっちゃんも働いているけど、2万円代の炊事場共同の安アパートで貧乏生活している。生きづらさや孤独問題のことで話を聞いた。高齢者の働く場がないことが問題だという。仕事がないと社会に居場所がなくなってしまうという。高齢者が年をとっても働こうとするのは、お金のためだけでなく、仕事をしなければ居場所ごと失ってしまうためでもある。家に一人でいてもしんどくなりマイナスの感情に襲われるという。孤独でいるとよからぬ事を考えてしまう。それで衝動的に自殺する人も多いのではないかと話していた。そのため、おっちゃんは気晴らしのため外でブラブラするようにしているという。これは、路上で出会うおっちゃんからよく聞くことだが、生活保護を利用している人には自殺者が多い。これは、データでも示されている。生活保護利用者の自殺率は全国平均の2倍だ。さらに、教育社会学者の舞田俊彦さんの記事によると、生活保護利用者の自殺率は30代が一番高く全体の5.5倍だという(10年前の統計に基づくものだが)。働き盛りの人が働けないことによる世間からのプレッシャーが大きいためではないかと語る。人を死に追いやるのは金銭的欠乏によるだけではなく労働規範による圧力も大きいのだと察するところだ。

 

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2.孤独な人が多いのにマッチングしにくい問題

 

 生活保護利用者の方から聞くのは、支給額が削減されて社交に使える金がほとんど無いという問題だ。カフェ、飲食店、居酒屋などに入れず、社交の機会がもちにくい。交通費も負担であり移動に制限がかかり人とも会えなくなる。わたしが路上で出会った生活保護を利用しているおっちゃんは、「生活保護費の削減は、利用者から自由を奪い、精神的に追い詰めることで自殺に誘導している」と語った。人と交流するためのお金がないだけでなく、生活保護利用者という弱い立場ゆえ差別的な扱いを受けやすく、その懸念から人を避けるようにもなる。人との出会いや行動が制限されると希望や楽しみも得にくくなっていく。世間からの目も厳しい。働いてない人がブラブラしていると咎められる。咎められなくても後ろめたい気持ちにさせられる。障害者や困窮者を気軽に街でブラブラさせてくれない。世間の目という見えない権力が張り巡らされ「監獄」と化している(フーコーのいうパノプティコン)。近代社会は街から浮浪者をつまみ出して監獄に入れて街を見かけ上キレイにした。同じように、障害者や困窮者を街にブラブラさせないように家に居させたり作業所に誘導する形で、街からそういった人たちの存在を不可視化させているとも言える。

  

 

 街で人と話してみて思うのは、話し相手がいなくて誰かと話したがっている人は多いのに、そういう人同士がうまくマッチングできていないという状況がある。誰かに話をしたい寂しめのおっちゃんと、孤立した引きこもりの人が上手いことマッチングできたらええのになと思ったりする。おっちゃんはある程度の人生経験があるから話も退屈しないだろう。街で落ち着いて居られるところが失くなりつつある構造的な問題もあるのだが、見ず知らずの人に話しかけにくいという見えない抑圧もある。他人にスキを見せにくい社会だし、女性なら知らない男性から声をかけられるとナンパやキャッチではないかと警戒してしまう。この問題はもちろん頭に置いた上で、半引きこもりのわたしのようなしょぼい人ができることをやってみたいなと思う。タイミングなどが合えば相手に負担をかけない形で話かけてみる。「知らない人に話しかけてみる」の実践である。

 

 

 生活保護の利用者が誰かと良好な関係をつくるのは簡単でない。引きこもりの人なども同様の問題を抱える。特に、引きこもりの人の抱える弱点はタフな人間関係がしんどくなるということだ。いろいろ弱みを突かれる立場であるため余計に困る。他者からのジャッジ(承認/否定)に気を張るため、相手とうまく話ができない。これらは、引きこもりの人が過去のキビシイ経験などから身につけた思考やコミュニケーションのパターンであり、本人だけの責にはできない。どうしようもない。どうしようもないが、まだもがきたい。フツーの関わりが難しいなら、フツーとはズレたイレギュラーなやり方で人と関わっていくことも考えたい。ある組織やコミュニティーで立派な構成員になるなどキレイな社会復帰だけを是とするのではなく、宙ぶらりんでギコチナイ形での社会との接し方を模索することにも目が向けられるべきだと思う。それは、網野善彦の言うところの「無縁」のようなものじゃないだろうか。主流社会の中には組み込まれてないが、時折オモテに現れて人と接する芸能民タイプの人である。タフな人間関係やめんどうな付き合いが苦手なら無理をする必要はない。自分の対人能力や精神的状況が優先されるべきだろう。固定する人や組織との密で継続的な関係は急がない。できたらいいなくらいのオマケと考える。主流の人間関係が難しいのであれば、断片的な関係でしょぼい物語をつくっていくことでまず進んでいきたい。

 

 

3.街で知らない人に話しかけてみた 

 

① 会話のフラグが立つと話しやすい

 会話がしやすそうな雰囲気を漂わせていたり、会話してくださいというサインを出してくる人を見つけたら話しかけてみる。 

 

・公園でワンカップもったおっちゃんがVサインしてくる

 

 これは、わたしに絡めというサインだから、絡みに行くしかない(笑)。西成は向こうから話しかけてきたりサインを出す人が多くて、会話のフラグがすごく立ちやすい。

 

・手持ち無沙汰でぼんやりしてるおっちゃん

 

 街でミカンの木を切ってるおっちゃんに話しかけたらミカンをもらった。町内会でミカンを収穫していたそうだ。たくさんミカンをもらったので、街の誰かにあげようとした。河原で水筒をぶら下げて何分も立ってるおっちゃんに思い切って 「ミカンいりませんか?」と話しかけてみたら、会話になった。定年退職して大学院の聴講生をやってるがコロナで休校になり暇で外をブラブラすることが多くなったらしい。コロナ初期には会社クビになって公園で暇つぶししている人も多かったとか。女性や非正規が多かったとか。ブラブラして色んな人と話してるそうだ。ブラブラの達人だ。

 

・ブラブラしてるおっちゃん

 

 この前、公園のベンチでぼんやりしてたら自転車でやってきたおっちゃんと目があって、「どうも〜」って挨拶して会話になった。80代でコロナで居酒屋とか喫茶店に行けなくなったので、外でブラブラすることが多くなったそうだ。長距離散歩することも多くなりよかったとも言っていた。今の住宅地の昔の様子について聞いたり、戦後の食糧難の時代に親が日本海若狭から自転車で闇米を運んでいた話を聞いた。親は立派やったと語っていた。野菜ドロボウもしていたそうで、「それ、まさに火垂の墓ですやん」と思わず返してしまった。「おっちゃん、他にも悪いことしてたでしょ?」と聞いたら、「浮気をちょっとな」という話をされたり。おっちゃんから、悪いことは早いうちにしとけよと言われた。「人生は後悔と失敗だらけや」と言うおっちゃんはたいてい楽しそうなので、後悔や失敗は怖くないなと思ったりした。こうやって街の中で闇米や野菜ドロボウの話をするおっちゃんも10年後にはいなくなるのではないだろうか。

 

 おじいちゃんおばあちゃんも、家族の中では言えないようなケシカラン話ができる人が欲しいのだろう。ガス抜きだ。ただ、公民館で茶話会のような場が与えられれば十分だという訳でもないのだろう。

  

・動物を見ている人

 

 野良猫にエサをやってたり見ている人には、猫の話題で話しかけやすい。野良猫の説明を聞いたりできる。猫はかすがいと言えそうだ。

 

 河原でヌートリアが水浴びしているのを発見した。横でおばちゃんも見ていた。おばちゃんに話しかけてみるとヌートリアの調査をやったことがあるらしい。下流まで車で移動しながらヌートリアを数えるそうだ。ヌートリアは野菜とかも食べてしまうらしく、河川敷の畑で育ったおいしい京野菜を食べているそうだ。

 

・変わった格好をしている

 

 奇抜な格好や変わったファッションをしている人は話しやすい。帽子に人形をつけていたり、頭の上に荷物を載せている変わったスタイルの人に話しかけたりした。わたしも女装していると話しかけられやすいし、こちらが話しかけたら話のネタをつくりやすい。

 

 

② 話しかけてみたら路上生活者を支援に近づけたことも

 

 西成の夜道のイスに座って競馬新聞を見ているおっちゃんがいた。「おっちゃん、競馬負けたんじゃないですか?」と話しかけてみたら、お金がないから缶コーヒーを買って欲しいという話になった。滋賀県の会社に勤めていたが、病気で職場復帰が難しくなり寮を出ていくことになった。それからの経緯について、住居があるのか生活保護を申請したのか話が錯綜したが、日雇いをして簡易宿泊所に泊まろうと考えて数日前に西成に来たらしい。わたしが、「生活保護とらないんですか?」と聞いたら、自力で頑張りたいと言っていたので支援者の名前だけ教えてその場を去った。後に、路上生活者の見回りをしている知人に連絡して事情を話したら駆けつけてくれて、おっちゃんにまた会う。すると、おっちゃんは支援があるなら利用したいと前向きになり、とりあえず無料シェルターを案内した。おっちゃんも自分の事情をうまく説明しにくそうなので、後の手続きは支援者に任せるしかない。このように、路上でたまたまおっちゃんに声をかけたことで支援に近づけることもできた。西成で困ってる人がいたら「ふるさとの家」に行ってもらうのがいいそうだ。

 

 路上で、目的もなく人に声をかけることで思わぬことをもたらすこともある。社会で分断されつつある人と人との信頼関係を編み直すのはそういうミクロなところからではないか。根拠はないがわたしは前向きな自信をもっている。北九州で困窮者支援活動をするNPO法人抱僕の奥田知志さんと歴史学者の藤原辰史さんとの対談に示唆された。藤原辰史さんの『縁食論』では、子ども食堂においては「貧困支援」と強く打ち出さず、とりあえずみんなでご飯を食べましょうという弱目的性のゆるさを出すことによって、結果的に困窮者が気軽に来やすくなるという。また奥田さんは、路上生活者と会話になっているのかよくわからないような言葉のやり取りを重ねるうちに、相手が心を開いて思わぬ進展になることがあるという。弱目的性の会話によって予測不可能な「誤配」も起こる。対話になってないように見えるが心のどこかには何かが響いている。そのような、「メタ対話」と呼べるようなものにも可能性はあるのだろう。

 

 

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