生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

ドゥルーズ/引きこもり/ノマド/個人単位

 

【目次】

 

 

1.引きこもりは幽閉されたノマドである

 

 人類は長らく森の中で遊動生活をおくっていた。人は、その日に必要な食料を森の中で採取し、貯め込まずその日暮らしをしていた。食料は十分あり、余暇も多く、「豊かな生活」をしていた。住んでいる地域で食料がなくなると森の中を移動し住む場所を変えていく。人類の初期はノマド的生き方だった。定住生活に移行したのは約一万年前の縄文時代からだ。支配者が生まれ、食料の徴収、蓄財、分配のために法が整備された。国家の徴税システムにもっとも適した定住民は農耕民だ。計画的な土地区分に拘束される。資本主義は徴税のために人に定住を強いる。さらに、資本の利潤拡大のために人を継続的に労働させる。これは、遊動(アナーキー)から定住(資本主義)への移行だ。ドゥルーズの言うところの「平滑空間」から「条里空間」への移行である。

 

 

「条里空間」→ 計測が可能な空間で国家に管理される。

「平滑空間」→ 海や砂漠のように指標となるものが失われた空間で、権力からの把握を逃れていく。

 

参考:檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる〔増補新版〕』ちくま学芸文庫

 

  

 「条里空間」の敷き詰めにより「隙間」(=「平滑空間」)が失われ、ノマドが生きられなくなる。ノマド的感性をもった人は今の主流秩序には適合できず、引きこもりや生活保護利用者となって鉄のオリに入れられている。引きこもりは、閉鎖的で抑圧的な「条里空間」に耐えられずにスピンアウトした人たちだと言える。固定された空間や人間関係では弱い立場になりやすい人たちである。だから、移動を基本とした根無し草のノマド的な生き方が向いている。引きこもりはノマドであるが、秩序に太刀打ちできず今の体制では引きこもらざるをえなくなった。だから、引きこもりにとって安定するのは、どこかの組織やコミュニティといった固定した場ではなく、絶えず流動することで可能なのかもしれない。

  

 いわゆる引きこもりといっても外出している人が大半だ。ただ、ブラブラしたいのにも関わらず、世間がなかなかそれを許さない。働いていない人は外に出て関係もつくりにくい。自分の正体を明かしにくい。だから、外に居場所をつくれず家に引きこもらざるをえなくなってしまう。生活保護利用者も同様の問題を抱えている。フーコーによると、近代にできた監獄は病人や働けない人、浮浪者を収監したという。これらの人があてもなく街をブラブラして徘徊することで街の規律が乱れるということで捕らえられた。同じようなことは現代でも起きている。生活保護利用者は最低限の生きる金だけを渡され地域から孤立させられる。人との交流もしにくく人目を気にしてコソコソと外出しなければいけない。これは、監獄生活とそんなに変わらないのではないか。引きこもりも金がなく、世間で肩身の狭い思いをするので身動きがとれない。実家が監獄の機能を果たしている。国が監獄の機能を家族に肩代わりさせているとも言える。ブラブラするノマドは世間から追いやられ幽閉されてしまう。

 

2.資本主義は家父長制に支えられ維持される

 

 資本主義は人を定住化させることで持続できる。日本の終身雇用システムやマイホーム主義は定住を前提としている。日本の雇用システムは正規職を有利にしていて、非正規・フリーランスを不利にしている。制度が定住型を強く推している。資本主義で求められるのは、定住・定職・持続性・計画性である。これらに適合しにくいノマド的な人(なんらかの障害をもつ人、衝動性や多動性をもつ人、対人関係やコミュニケーションでハンディがある人など)が不利になり秩序の下位に置かれやすい。

 

 さらに、日本型雇用の年功序列制は家族給発想となっている。正規職だけに支給されるボーナスや各種手当ても家族を養うことを前提としている。逆に非正規は世帯主に養われることを前提とされ賃金が低く設定される。被扶養者は女性に多く、非正規の賃金の安さが正当化される。最低賃金の低さは家族単位にもとづく女性差別が原因である。ケアやサービス業などのエッセンシャルワークに女性が多く従事し、薄給であるのもジェンダー役割に基づく差別であると言える。

 

 このジェンダー差別に基づく日本型資本主義を維持するのが婚姻制度となっている。男女の地位や経済力における格差があるため、結婚して子どもを産み育てるようになると、男性が正規職の稼ぎ手、女性がパート・主婦になりやすい。婚姻制度は中流の標準家族(男性:正規職/女性:パート・主婦)を制度上優位にしていて、婚姻制度が主流のジェンダー規範に人々を誘導していると言える。

 

 資本主義は婚姻主義に基づく(シスヘテロ)家族主義をビルトインすることで、労働力の再生産を家族に担わせる(その負担は女性に偏る)。生殖の単位をシスヘテロ男女のペアとする。「正しい性愛」をシスヘテロカップルに置き、それ以外の性愛は非推奨の逸脱として社会ではフタをされてしまう。シスヘテロ規範に基づく婚姻主義は資本主義の「条里空間」の補強・存続のために機能させられる。

 

 

3.人々の欲望が「条里空間」の補強のために動員される

 

 人々の欲望は多様であるが、秩序によって資本主義的なものと家族主義的なものに収斂させられる。そして、それらに合致しない欲望を無意識の中に抑制しようとする。人は自己の欲望を実践しているように見えて、実は秩序からはみ出る欲望を削り取り、自己を無力化していると言える。精神病は非主流の欲望が無意識からあふれ出した現れとも言われる。非主流の欲望は無意識の中に閉鎖され、ノマド的な実践をとれなくしている。ドゥルーズの哲学は、非主流の欲望を発現できることが自由の実践であり、ノマドの解放だと言っているようだ。

 

 ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、フロイトが精神病における無意識の欲望を家族関係(=親子関係:エディプス・コンプレックス)ばかりに還元していることを批判したものらしい。無意識の欲望はもっといろいろあるし、資本主義の問題といったクリティカルな部分を無視しているという。

 

宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』「第3章 欲望の哲学」より

 

 

 資本主義は、人々の欲望を経済的価値により意味付け、貨幣と貨幣に従属する労働へと欲望を変形させる装置だと言える。欲望は金銭的価値に画一化されていて、人は金銭を得るために自分の欲望の実現を延期して労働する。欲望を抱かせ絶えず労働させることでシステムそのものを持続できているように見える。人は欲望の実践のためにすすんで労働者となり無力化されているとも言える。

 

 また、ジェンダー規範においては、恋愛や結婚を生殖主義で正当化している。性愛規範では、「生殖可能性のある性愛」が正しい欲望とされ、「生殖に向かわない性愛」はアブノーマルで時に病的なものと見られる。ジェンダー表現やセクシャリティの抑圧となっている。

  

 このように、資本の論理やジェンダー規範が道徳観念として確立され、個人個人にもそれが植え付けられる。むかし、役所に生活保護申請を拒否され、「おにぎり食べたい」というメモを残して餓死した人の問題があった。飢えている人は食べる欲望があるのに、窃盗をしたり他人にすがることをしない。これは、労働して得た金で食べ物を買いたいという労働規範に沿った欲望が、生存欲望を押さえつけ自死や餓死をもたらしてる。欲望が主流秩序に適合したものに押し込められ、生存まで脅かされている状況がある。

 

4.個人単位化によるノマドの解放

 

 家族単位の社会とは経済力がない人が家族に依存させられ自立できない社会だ。逆に、個人単位の社会は個人に生活保障がなされ、個人で自立ができる社会である。引きこもり、生活保護利用者、困窮者の貧困や生きづらさを緩和するためには社会システムが家族単位から個人単位にならなくてはいけない。

 

 個人単位の発想では成長主体から再分配主体の社会になる。家族の経済力に依存せず個人で経済的自立ができるように最低賃金を1500円以上に上げる(同一労働同一賃金)。扶養義務を弱め家族に負担をかけず引きこもりなどが社会保障を利用しやすくする(社会保障の個人単位化)。ベーシックインカムを導入して生活費の軽減をはかる。これにより、正社員になってもいいが、フリーターとして職や住むところを転々とするノマド的生き方も実践しやすくなる。

 

 法人税率、富裕層や高所得者、金融投資家への課税率を引き上げる。金を貯め込ませにくくする。今の不景気は金が富裕層に溜まりすぎていて市中に流通していないから生じている。消費の不活性が経済の停滞となっている。貧困層は金がないから消費ができない。貧困層への再分配により消費は喚起され経済はよくなる。再分配は金を循環させるシステムであり最大の景気対策なのだ。個人単位の社会は経済の好循環を導く。金を多く貯めなくても社会保障により落とし前がつけられる社会だ。個人単位の社会はその日暮らしの生き方が可能になる社会なのだろう。ヤケッパチな人に優しい。比較的自由にブラブラできて秩序や組織への拘束も弱くなる。望むのは、自由に逃げられる社会だ。

 

【図式】

 

条里空間 VS 平滑空間

=定住型 VS 遊動型(ノマド

=キャリア型 VS その日暮らし型

=家父長制 VS ジェンダー・フリー

=家族単位 VS 個人単位

 

  

5.「リゾーム」の発想によるしょぼいノマド的実践

 

 個人単位の社会となれば、国家や資本主義の枠内でも、その日暮らしやノマド的生き方がやりやすくなると書いた。とはいっても、システムは早々に変化することは期待しにくい。システムの問題だけを言うのでなく、個人個人がしょぼいノマド的実践をすることで各々がエンパワーされることも大切だ。行動や意識レベルでの個人単位化と言えそうだ。

 

 車上生活の映画が話題になっている。車上生活は現代のノマド的な生き方だけど、車が買えない人や運転すらできない人もいるのでやや敷居が高い。だから、日常の中にノマド的要素を取り入れしょぼい非日常を楽しむやり方もあみだしていく。日常において旅をする。

 

 ノマド的感性とは地に足をつけられず浮足立っている感覚といえる。これは、無意識の欲望にある程度従っていてフワフワしている状態だ。計画性というよりも偶然性に身を任せる。将来にピントを合わせて行動するだけでなく、「いま・ここ」に中心を置き、その場その場で楽しみの供給をしていく。

 

 知らない場所にひょいっと出かけたり、知らない人と話すのを恐れず、思いがけないことを期待してワクワクしながら毎日をおくる。変わった格好やジェンダーを揺らすような装いをして日常世界を変える。今の秩序に適合できない人は、ヤケッパチになってもがくしかない。ヤケッパチになって、何か思わぬことが起きないかとワンチャン狙って生きていく。その都度、その都度、迫ってくるものに応じていく。

 

 これらは、計画、規則にとらわれないカオスのように見えるが、実は無意識の中にある別の秩序の表出なのだ。ドゥルーズは既存の序列や規則によらない別の秩序(多様体)を「リゾーム」(地下茎)と呼んだ。ちょうど、色んなところに根がポコポコと出てきて各々が自由な欲望を体現していく感じだ。ツリー型の主流の価値体系(幹を中心とした序列化)によらないリゾーム型の価値追求をしていきたい。個人個人が能動的に自己の欲望を体現できることが自由の実践となる。自由とは状態ではなく、自由に向かう実践の中でこそ自由を体感できる。だから、課題は「反復するかどうかではなく、どのように反復すべきか」(バトラー)なのだろう。引きこもりの人にふさわしい言葉は、「一丸となりバラバラに生きよ」だとも言えそうだ。

 

 ※「ツリー」と「リゾーム」については、宇野邦一(前掲書)の第4章「微粒子の哲学」を参考にしました。

 

 

【実践しやすい】

・知らない路地に入る

・知らない駅やバス停で降りて街を散策する

・電車移動を徒歩で移動してみる

・いろんなコミュニティにちょろちょろ足を運ぶ

 

【すこし思い切ってできること】

・街で知らない人に話しかける

・路上パフォーマンスをする

 

 

 

【文献】

檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる〔増補新版〕』ちくま学芸文庫

宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』講談社選書メチエ212