生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

「利他」の原理(2)

 

【目次】

 

 

1.路上で投げ銭をもらって思ったこと

 

 女装して、路上で「ひきこもりアイドル」を名乗り通行人から投げ銭をもらうことをやっている。この前は西成で路上一揆をやったが、ビックリしたことに、お金を気前よく投げてくれるおっちゃんが多かった(それを見て、俺も俺もと立て続けに投げてくれる人たち)。でも、京都ではみんなあまりお金をくれません(前から薄々思ってたけど、金持ちほど財布のヒモが固いな〜という印象がある)。

 

 西成ではお金やお酒をねだられる事もあるけど、今度は別の誰かからモノをもらったりして、結局はトントンになる。これは、シェアの原理が根底にあるのではないか。自分が与えても、損にならないという感覚があれば、気前よくお酒をおごったりモノをあげたりするのではないか。逆に、ケチな金持ちは一方的に収奪をしていることになる。お金をため込むだけの金持ちこそ真のドロボーだと言えるのかもしれない。

 

 

2.みんな気前のいい人になると、利他的な振る舞いをしやすくなる

 

 気前のいい人には、自分が与えても損をしないだろうという期待があるのではないか。気前のいい人が多いとみんな寛大になる。逆に、気前のいい人が少なくなると、自分だけが与え損する感覚になる。気前のいい人が少なくなると、「気前のよさ」は美徳だが損をするから誰も率先してなりたがらない。

 

 主流の感覚ではないため生きづらさを感じる人には、めちゃめちゃ人に与えたいが、与えすぎて疎んじられたり損になる人がいるように見える。いろんな人に与えられればよいのだが、他人から疎んじられやすいため、与えられる相手が少なく、少ない人に与えすぎて困らせてしまう。このような特性は、交換原理や利得で動く社会では「狂気」となってしまう。でも、そういう与えたがるポトラッチ人間ばかりになると、市場経済もお金もなくても社会はそれなりに回るんじゃないだろうか。つまり、一方的な利他や贈与を「特殊」として脇に追いやることで、市場経済は主流たりえていると言える。利他人間が増えると資本主義も成り立たなくなってしまう。

 

 この社会は交換原理でできているから、見返りを条件に人は与えることが多い。自分が一方的に与えても見返りが十分に期待できないと損をすると思うためだ。与えても損をすると分かっていると、「利他」は生まれにくい。「利他」は、相手や社会も「利他」で動くという期待がもてないとなかなか発動しにくいと言える。

 

 

3.なぜ「利他」は実現しにくい?:ゲーム理論的な視点

 

 「利他」が働きにくい社会での人の行動について、ゲーム理論的な説明を加えてみたい。下の図を見ながら読んで下さい。AさんとBさんの二人がいるとする。相互に与え合う利他社会④の実現には、まず、どちらかが与えなければいけない。ここで、まずAさんがBさんに与えたとしよう。図では②の状態だ。でも、Aさんが与えてもBさんが与えない②の状態が続けば(Aさんだけ「利他」)、Aさんは与え損になる。Bさんがそれで出しぬくかもしれない。結果、Aさんは与えるのをやめてしまい①の状態に戻ってしまう。同様に、Bさんが与え、Aさんが与えない③の状態でも同じようなことがおこる。自分が与えても返されることが期待できず、与え損になると強く思われる社会では、自分が与える側に率先してなろうとは思いにくい。利他が働きにくい社会からは、お互いが与え合う④のユートピア状態になりにくい。①から、④に移動するには中々難しいわけである。

 

 

       B

与えない

与える

  A

与えない

①(0、0)

③(、0)

与える

②(0、

④(

 

 

4.みんな人から頼られたい

 

 生きづらさを感じる人は、誰かから気にかけてもらうだけではなく、実は誰かから頼りにされたいのではないだろうか。でも、社会から爪弾きにされやすい人ほど、誰からも顧みられなることが多い。ケアが必要な人というのは、実は自分がケアを与える側になることでケアされるのだと思う。おっちゃんたちが若い人の前で、親身にしてくれたり、人生訓を語りたがったり、時に強気になるのも、みんなから頼りにされたいという思いがあるからじゃないのか。

 

 みんな実は自分のもってるモノや考えや、いろんなものを与えたくてウズウズしてる。受け取ってもらえると、そこから会話や交流も生まれる。でも、中々それをこころよく受け取ってくれる人がいない。そうなると寂しい。これが、生きづらさの核だと思う。与えてるのに受け取ってもらず、つらい思いをするのがツイッターですよね〜。

 

 自分が他者に対してどのように貢献したり、よい影響を与えているのかは分かりにくい。でも、分かりやすく見える化したいから、売り上げとか、「いいね」の数といった数値化で測ろうとする。しかし、そうすると、今度は数値を目的としてしまい、「利他」で動かなくなる弊害も出てきたりする。ネットは相手の表情が見えない分、数値化に支配されやすい。それで、空回りして一人で疲弊することもある。だから、外に出て直接人と接する方が相手からの手応えを実感しやすい。自分が自由を感じられるのは、自分が得意なことや心地よくなる話を十分にできる空間や関係の中にいることだろう。そこにおいて、自分は能動的な与え手になることができる。それが、居場所になると思う。自分に関心がもたれ、楽しんでもらったり話ができる場や仕組みをなんとかつくるのも手だ。わたしは、これを「しょぼい権力」と呼んでいる(下の関連記事を参照)。わたしは路上活動でそれをしているのか、少しずつエンパワーされているようにも思える。逆に、路上を離れると寂しくなる。

 

 

5.「利他」が希少だからこそ、「利他」が輝く

 

 完全に「利他」で動く社会はユートピアである。でも、完全なユートピアでは幸せや快という感覚はあるのだろうか。わたしは、利他が社会の隅に追いやられがちな不完全な社会でこそ、ひょっこり現れる「利他」の輝きが増すのだと思う。奇跡を感じたい。「利他」が現れる場や仕組みをつくるのが楽しいのだと思う。社会は「利他」では動きにくいが、それでもなお、自分は与えるのだという姿勢をもち意識的な振る舞いをしていくことが大切なのだと思う。

 

 

❖❖ 関連記事 ❖❖

 

◉ 合理性を求められている状況が、「利他」を摘んでいること

 

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◉ 「しょぼい権力」について

 

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