生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

生き延びるための負債論:しょぼいアナーキズム

 

 

 貧乏人や弱い立場にいる人たちは助け合えばいい。もちろんそうなのだが、現実的に社会的弱者同士が連帯するのは難しい。むしろ、偉い人やお金持ち、能力がある人たちほど人脈をたくさんもち助け合いや利益誘導がたくさんおこなわれている。アナーキズム的な関係が市場によらない相互扶助と言うならば、相互扶助の格差は厳然としてあり、つながりを持ちにくい社会的脆弱層ほど連帯が難しい。このような、アナーキズムにおけるパラドックスというか難点を指摘する。

 

 さらに、主流に適合できず孤立しがちな人が社会とどう関わるか、人との負債関係をどうつくっていけるか、わたしの路上での経験や、西成のおっちゃんや路上の人たちから見聞きしたことを踏まえて書いてみたい。結論を言えば、見知らぬ人とお金やモノをやり取りしたり、話しかけるなどであり、かなり無軌道で思い切ったやり方しか思い浮かばない。ヤケッパチになるしかなさそうである。厳しいが、現実として自分にとってのユートピアは自分が主体となって動くことでこそ可能になると思うところだ。

 

※ 人と人とのつながりや社会の連帯は「負債」関係によって成り立つ。「負債」関係が市場やお金での等価交換のみに限られてくることが、社会的に立場の弱い人の「生きづらさ」となっていると言える。

 

 

【目次】

 

 

1.社会的脆弱層ほど助け合いがしにくい

 

 貧しい人同士や立場の弱い人同士ほど、つながりをつくったり助け合いをするのがよいと言われる。それは正しい。しかし、社会的脆弱層ほど人との関わりがつくりにくく、相互不干渉になりやすい。引きこもり同士が、境遇が似ているからといってつながりを作りやすいかと言えばそうではない。こじらせていたり、押し付けをしあうしんどい関係になってしまうことも多いと思う。生活保護利用者も、お互いに関わって面倒事になるのは嫌だからと相互不干渉になる場合も多いようだ。よくある例だと、精神科の待合室にいる人同士は、精神障害や生きづらさなど似たような悩みを抱えた人が多いと思うが、待合室では誰も話をせず、交流はおこりにくい。

 

 社会的に弱い立場にある人は、過去にひどい目にあったり、傷ついたりした経験が多い。それだから、誰かと関わるとまた心無いことを言われるのではないかという不安がある。だから、人との関わりにも後ろ向きになり、自分から積極的に話しかけることもしにくくなる。自分が他者に好意的な振る舞いをして、それがよい結果になるか分からないし、厄介事に巻き込まれるのを避けたいからかもしれない。

 

 西成のドヤ街の孤立問題について指摘した白波瀬達也さんの著書(参考文献⑤:『貧困と地域』中公新書)によると、西成あいりん地区では独居の高齢男性が増え、生活保護利用世帯も40%を超える勢いである。むかしのドヤ街は、若い日雇い労働者が多く流動性も高かったが、生活保護の利用者が増え定住化が進んでいる。定住すると今度は自分の訳ありの過去を探られたくなかったり、人との衝突を避けるために自室に引きこもりがちになるなど、社会生活上の孤立化問題が生じているという。「生活保護パラドックス」である。就労によらずに社会と関わる場や関係が求められているという。

 

 伊藤亜紗さんによる「利他」に関する著書(参考文献④:『「利他」とは何か』集英社新書)を読んで気づいたことだが、相互扶助や利他的振る舞いは「信頼」がないところでは発生しにくい。なので、今の秩序において弱い立場や差別を受けやすい人たちは、世の中の人に「信頼」を抱きにくく、人との交流や助け合いがなされにくい不利な状況となる。

 

❖❖ 「利他」について書いた過去記事 ❖❖

(その1)「利他」の原理 - 生きるための自由研究

(その2)「利他」の原理(2) - 生きるための自由研究

 

2.人は「負債」関係により社会とつながる

 

 人と人との関係は「負債」によって成り立つ。社会的に孤立するのは人との「負債」関係を築けないことによる。グレーバーの『負債論』などで指摘されている。

 

 前回のブログ記事でも書いたが、生活保護利用者が社会的に孤立しやすいのは、他人との「負債」関係がもちにくいからだ。具体的には、モノやお金のやり取り、貸し借り、ちょっとした売買もしにくい。それは、制度で制限されていたり世間からのプレッシャーによる。人と人とはモノやお金をもらったりあげたり、貸し借り、売り買いなどを介して関係が継続される。生活保護制度は、そういった人と人との関係をつくりにくくしている。

 

 人の世話をしたり、世話になったりという負い目や見返りによって人との関係は続いていく。グレーバーは、このような「負債」による相互性を断つのが市場による等価交換だという。

 

「交換はわたしたちの負債の解消を可能にしてくれる。交換は負債をチャラにする手段、つまり関係を終わらせる手段を与えてくれるのである」

(D.グレーバー、『負債論』、p.156)

 

 

 逆説的だが、人間関係はバランスが安定しないシーソーゲームで継続する。つまり、人と人とは負債の連鎖でつながりを保つ。自分が相手に何かを与えると、相手は恩義を感じお返しで自分(や他の誰か)にまた何かを与える。このように、他者への負い目により関係は続く。この負い目を厳密に帳消ししようとすると、それは相手との関係を断ち切ることになる。お金の厳密なやり取りで「交換」に基づく対等性が達成されると、人と人との負債関係はなくなり、二者の関係は解消する。

 

 交換原理は負債関係をチャラにする役目を果たす。買い物客と店員はレジでやり取りをするが、その関係が続かないのは、決済による等価交換をおこないすぐに関係を解消するからだ。ややこしい紛争の解決や、罪の報い方を単純化するためにもお金による償い(=交換原理)が用いられ、賠償金や慰謝料の支払い、養育費の支払いなどお金が一応の責任(=負債)を果たす手段となる。お金による交換は面倒な関係を省く反面、つながりもつくりにくくする。生活保護を利用すると、市場でのお金のやり取りだけに制限され、それ以外での「贈与」や「交換」がしにくく、人との関係の契機がつくりにくくなるのである。ツケがつくれないのである。

 

❖❖ 前回の記事 ❖❖

社会のすみっこを居場所にする - 生きるための自由研究

 

 

3.社会はアナーキズムにより成り立っている

 

 あらゆる社会はアナーキズムを基盤にして成り立っているとグレーバーは書く。グレーバーは、アナーキズムによる「贈与」や相互扶助的な関係を、共産主義コミュニズム)とも表現している。今回の記事でもこれらは同じ意味と捉えていただきたい。共産主義は理想的なユートピアでもなければ、いま現在のうちに存在していて、程度の差こそあれあらゆる人間社会に存在するものである(『負債論』、p.143)。そして、「あらゆる社会システムは、資本主義のような経済システムさえ、現に存在するコミュニズムの基盤のうえに築かれている」と指摘する(同書、p.143)。この原理は、日常の中の二者関係でも常に見られる。

 

 共産主義とは単に人びとが「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原理にしたがって行動するということである。これは人びとが何事かを実現しようとするとき、常にとっている姿勢である。二人の人が、導管を修理しているとき、一人が「レンチをとってくれないか」と言う、その際、頼まれた方は「その代わりに何をくれる?」とは言わない(この作業を実現したいならば)。このことはベクテル社シティグループといった大企業で働いている人びとにしても同じである。彼らは共産主義の原理を活用している。それのみが、現に仕事をうまく運ぶ方途なのだから。それはまた自然災害や経済的崩壊に直面したとき、都市や国が、何らかの、間に合わせ的な共産主義に転化する理由でもある。

 

(D.グレーバー『資本主義後の世界のために』、p.181)

 

 

 共産主義的な助け合いの関係は、あらゆる人間関係や組織を成り立たせるものだ。いちいち、対価を要求する交換をおこなっていたら効率が悪い。人間関係や仕事を進める上では、皮肉にも共産主義的なやり取り(=贈与・相互扶助)が効率がいいのだ。だから、資本主義社会は共産主義の原理に寄生して成り立っている。このグレーバーの指摘は、目からウロコだった。資本主義が社会を成り立たせているのではなく、むしろ社会の連帯を利用して資本主義が成り立っている。ここでの問題は、相互扶助の関係が資本主義的な集団や、それを支える家族の中に制限され、それらの枠組みの中にいないと相互扶助の網の目から外れてしまうということだ。

 

4.相互扶助(=アナーキズム)における格差問題

 

 グレーバーが指摘したとおり、大企業の中でも同僚同士は無償の助け合いを頻繁におこない、偉い人や能力ある人同士は助け合いのネットワークをもつ。主流秩序の中にいる人ほど相互扶助がよくなされアナーキズム的な恩恵を享受しやすい。そして、主流から外れ、どこにも属せず脱権力化されてアナーキーな立場になるほどアナーキズム的関係(相互扶助)ができないというパラドックス(難点)がある。

 

 自民党や維新の議員とかは、お互いめちゃくちゃ助け合っているだろうし、電通パソナも政権と一体になって、事業誘導や派遣業で優遇されている。助け合いは利権の強化になっている。今の秩序や資本主義体制で勝ち上がった者ほど、相互のネットワークが強固になり、その中で助け合いや富の分配をおこなっている。皮肉だけど、今の資本主義体制に順応できる人ほどアナーキズム(助け合い)に恵まれるのである。相互扶助は秩序の上位の人たちの利益独占のためになされるが、秩序でワリを食ったり低い位置にいる人たちほど相互扶助がしにくいというジレンマがある。

 

 

5.平和な社会の条件:個人が十分に与えられること

 

 『贈与論』でモースは、「贈与」の連鎖が社会をつくると指摘した。「贈与」の体系は、「お返しをする義務」によって構成されるという。この、「贈与」と「返礼」の繰り返しが人とのつながりをつくり、社会を形成していく。

 

 モースの『贈与論』における、「贈与」と「返礼」の体系は、「権利」と「義務」の関係を考えるうえでも示唆的である。「義務を果たしてから権利を言え」と世間ではよく言われるが、むしろ逆で、「権利が保障されないと義務も果たせない」のではと思う。人は十分に与えられない限り奪われる側になってしまい、他者に与えられる資源が不足し、かつ、返礼(義務)する意思さえも削がれてしまう。与える前には、まず十分に与えられなければいけないのである。

 

 「贈与」は、他者に対する権力の行使でもある。「贈与」はつながりを作るが、危なっかしいものでもある。誰かから与えられることで恩を買うのが嫌いになることもある。少数の人からの「贈与」だけでは支配関係になりやすい。だから、多くの人から適度に「贈与」されることで、依存先が適度に分散され、他者からの支配力を薄める。そのような相互依存の体系により平等で民主的な社会に近づくのだろう。個人単位の生活保障(現金給付)が、この考えから導き出せる。

 

 「贈与」に基づく完全な一体化も危険であり、かといって「贈与」関係を断ち完全に孤立するのでもない、他者と適度な距離をもてることが大切になる。むしろ、与えられることが期待できる社会ならば、人と人とは適度な距離を保つことができ、平和的な関係でいられる。平和な社会は、個人が十分に与えられることで可能になると言える。モースの『贈与論』からわたしが思ったことである(モースの『贈与論』については、参考文献⑥:山田広照さんの『可能なるアナキズム』での紹介にかなりを負っている)。

 

 善や幸福を遠くまで探しに行っても無駄である。それが存在するのは、平和状態、公共のためと個人のためとに交互にリズムよく行われる労働、蓄積され再分配される富、教育によって身につく互いの尊敬と寛大さの中なのである。

 

(M.モース『贈与論』、p.291)

 

 

6.小さな共産主義

 

 共産主義と聞くと、マクロな政治や経済のシステムのことだと思いがちだけど、市場によらないモノのやり取りや、人と人との関係つくり、相互扶助などミクロな領域での実践としての共産主義もある。今の社会における「生きづらさ」の問題に対して、人とのつながり、居場所、ケアなどが大切だと言われる。これらは非資本主義的であり、共産主義的なオルタナティブだと言える。大きな社会体制が変わらなくても、共産主義的な関係や取り組みはいたる所で実践されている。相互扶助の関わりである共産主義は、資本主義によって埋もれうまくオモテに出にくくなっている。そのような共産主義的な関係は非日常の瞬間の中でふと出てくることもある。人の中にある「共産主義的なもの」を何らかのキッカケで引き出したい。

 

 

7.「負債」関係をヤケッパチでつくる

 

 社会にうまく適合できず孤立しがちな人はどのように人間関係をつくればいいか。うまい方法がない。ヤケッパチである。西成の路上で闇市をしてたおっちゃんは、路上で人との関係をつくっていて居場所になっているように見えた。おっちゃんも生活保護だけで部屋の中に閉じこもると孤立してしまうだろう。道頓堀で路上生活をしている人は、物乞いをしながら路上での関係をつくっていた。

 

 わたしも路上で、人と話したり、投げ銭をもらったりする。また、モノや食べ物をあげたりもする。これが「負債」関係を生んでいると思う。人にモノをもらったりするのは手っ取り早く関係をつくるということだ。これで、かろうじて社会と関わっているのだと思う。無理やりな形でもしょうがない。うまく社会のレールに乗ることはできないが、しょぼく社会のすみっこで誰かと関わる感じでも精神的な安定にはよい。

 

 自分が声をかけられたり、関わってもらい何らかの負い目(=負債)を感じることで、自分もまた何か返礼しなきゃなという意思ができる。わたしが誰かから関係されているということは、わたしも社会に何かを「贈与」している見返りでもあるだろう。

 

 人が好意的に利益を度外視で自分と関わってくれることは、日常の中に立ち現れる共産主義的な関わりなんだと思う。利他やシェアの原理による共産主義的な関係は色んなところで見られるが、その関係は引きこもりがちな人には得がたい。でも、路上での何気ない出会いの中にそのような関係はふと現れる。断片的な共産主義を繋いでいけたらいいなと思う。

 

❖❖ 過去のブログ記事:ヤケパッチのすすめ ❖❖

ドゥルーズ/引きこもり/ノマド/個人単位 - 生きるための自由研究

 

 

8.「贈与」してくれる他者の存在

 

 引きこもりがちな人には、西成のおっちゃんみたいにいきなり話しかけてくれる人が実は助けになると思ったりする。自分から人と関わりにくい人には、多少強引にでも心の扉が開かれる経験が変化のキッカケになったりする。「ゆるい引き出し屋」みたいな人とうまく出会えたらよいと思う。非日常に連れて行ってくれるメンターのような存在がいたらいい。でも、そのためには色んなところに出かけたりして人との接触機会を増やすのが必要だと思う。

 

9.自分に合う居場所は自分でつくるしかなさそうだ

 

 カントは人を手段にしてはいけないと言った。人そのものを目的とすることが倫理的なのだと。つまり、人そのものに向き合われ、存在が尊重されたり、関係を楽しまれる場が居場所となる。

 

 人が手段としてモノのように扱われるのではなく、贈与や扶助がベースとなる共産主義的な人間関係をユートピアと呼んでみよう。ユートピアは、遠い国や山里の中、どこかの教団や共同体といった特別な所にあるわけではない。何気ない日常やその辺の道端でも、ふとした瞬間に現れたり、間に合わせでできてしまうものである。ただ、キッカケをつくるためには色々試したり、ズレた振る舞いが必要かもしれない。厳しい現実であるとは思うが、自分のユートピアをつくれるのは自分の実践にあると言えそうだ。

 

 

【参考文献】

①D.グレーバー(2009)『資本主義後の世界のために』似文社

②D.グレーバー(2011=2016)『負債論』似文社

③M.モース(1925=2009)『贈与論』ちくま学芸文庫

伊藤亜紗編(2021)『「利他」とは何か』集英社新書

⑤白波瀬達也(2017)『貧困と地域』中公新書

⑥山田広照(2020)『可能なるアナキズム』インスクリプト