生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

(都知事選)働く時間を減らしていきたい

私が選挙などで重視することは、候補者が現在の日本の長時間労働や頑張りすぎなければいけない生き方を変革する必要を言及しているかにある。


都知事選で、小池さんがワークライフバランスについて都庁職員から残業ゼロを実施すると言ってるのは大きい。


鳥越さんも、生き方についてもっと言及した方がいい。

 

blogos.com

 

私は、仕事の時間を短くして、仕事から開放された時間に社会活動などに関わり人的ネットワークを広げることが重要だと考える(ブロガーなんかでもよいと思う)。

 

会社人間は人間関係が会社に固定されるため、退職後や無職になった時に人間関係を失うことになる。


孤独は危険だ。
孤独は寿命を縮めるという研究もある。

 


孤独を回避するためにも、仕事以外にいろんな活動をしてネットワークを広げるのがいいだろう。

弱さでつながりたい

またもや、頭が重く体調がかんばしくない。

 

私は、ネット上で自分の弱さを積極的に開示している。

 

弱さの自己開示が必要だと考えている。

 

自分の弱さが他人に見られることで、「社会には弱い人もいるんだ」という認識が広まり、マッチョな社会が少しでも弱さに寛容な社会になっていくと思う。

 

自分の弱さを認め発言することは勇気がいるが、他人にも優しくなれる。

 

そして、弱さでつながることで静かな社会変革もおこせるだろうと思う。

 

弱さを抱えた者が、弱さを抱えたまま、ありのままで生きていける社会が、私の希望する社会です。

 

 

マジョリティの生き方について行けない、しんどさを感じるのなら、マジョリティとは異なった言語コードを使って、自分の生きやすい世界を構築していくしかない。

 

その結果、マジョリティの世界も掘り崩されていく。

 

 

競争よりも交歓を

 私は、若い人ほど保守やネオリベになびいていくのが理解できない。

 若い人ほど、就職難や奨学金などで経済的困難に直面している。

 

 しかし、若い人ほど自助努力や自己責任論を推し進めることに(消極的にでも)首肯し、お互いに競争する社会を形作ることに貢献している。

 

 競争を向上心と呼んだりするが、その向上心とは、自分が社会の中でいい地位を占め競争に勝つことを目的とした、自己利益のためのものではないか?

 自分を高めることはいいかもしれないが、それによって何を成し遂げたいのか?

 

 勝ち組の人は、「自分みたいにしたら勝ち組になれるよ。負け組になりたくなかったら自分にならって勝ち組になりなさい」と競争をあおるばかりだ。

 

 勝者がいれば、そこには多くの敗者がいる。敗者が敗者のままのんびり生きていくことを、勝者は「向上心がない」とたたく。

 

 競争をあおるのではなく、お互いに弱さがあれば、その弱さを認め合い、弱いままで連帯できないものか?

 競争ではなく、お互いの弱さを認め合い分かち合う交歓。

 

 私は、そういう生き方を韓国の帰農者(田舎に移り住んで素朴に生活する人達)から学んだのだ。

人に頼って生きる

 私は、経済力や物資で人に頼って生きている。

 人に頼りまくって生きる類の生物なんだと思っている。

 

 人に頼って生きるのは自律してないと批判されるが、私は「人のヒモになれるのは、ヒモになれるパーソナリティがあるからだ」と言うつもり。

 

 カネを稼ぐ仕事には力が入らない。モチベーションが沸かない。

 かといって、カネに依存しない生活を実践するのも、飽き性のため続かない。

 自分で生活に必要なものを作ったり、生活のあり方を工夫するのも正直、元気が無いとできない(努力するパワーが沸かない)。

 

 仕方なく、私の目指してる生活は、アルバイトで月13万円で食費と保険くらいまかなえて、残りは、人に頼って生きていこうと考えている。 

 

 人に頼るためには、相手にもそれなりの見返りをもちろん提供する必要がある。

 

 私は、生活費については同居人に頼り、野菜などを畑のおばちゃんからオコボレをもらっている。 正直、ありがたい。

 

 こういう、人に頼って生きていくのも立派な経済活動だと思う。

 

 カネを稼げなく、元気がない人で、極貧生活は送りたくない人は、他人に頼るしかありません。 

 

 ただ、人に頼るのには才能やパーソナリティが重要です。

 

 上手いこと頼る人を見つけて、この社会を楽しく泳いで生きましょう。ハイエナ的に生き延びるのです!

生産過剰社会における仕事

 仕事がしんどくて、訳のわからん業務をしなければいけないのはなぜか?

 

 それは、モノやサービスが過剰生産状態にあるから。

 

 現代消費社会はモノがあふれていて、供給過剰でモノやサービスが売れないのだ。

 

 モノをつくるよりも、モノを買ってもらうほうが難しい。

 

 そのため、生産サイドはモノやサービスを消費者に買ってもらおうと必死になるのだ。

 

 売れないモノやサービスを売りつけるために、無駄な努力をしなければいけない。

 

 仕事選びでも、本当に必要なモノやサービスは何かを考えて就職しないと、売れないモノを売るための訳のわからん業務をしなければいけないハメになる。

カネを使わない楽しみを見つける

 私たちは、楽しみや満足をカネを払って手に入れることに慣れてしまっている。

 

 カネがある者は、商品を買い続けて欲求を持続的に満たすことができる。

 

 しかし、貧乏人は、カネがないので、カネを払って商品を購入する市場経済の中での欲求充足ができない。

 

 カネを払って手に入れる商品やサービス以外にも、楽しみや満足を得る手段はある。

 

・自分の食べる野菜をつくる。

・自然の中で遊ぶ。

・絵を描いたり、文章や詩を書く。

・映画を見たり、催し物に参加して楽しむ。

・他者との交流を楽しむ。

 

 カネをかけずに楽しみを得ることは質素に思われるが、当人がそれによって大きな満足を得られるのであれば、それは贅沢(バタイユは「蕩尽」と言った)に変容する。

 

 貧乏人が人生を豊かにするには、カネを使わない楽しみ=贅沢をつくれるかにかかってくる。

 

 カネでは買えない贅沢をして人生を楽しみたい。

危険な道を進んでしまう人

 安全な道を進める人もいれば、危険な道ばかりを進む人がいる。

 

 安全な道を進む人からは、危険な道を進む人の行動原理が理解できない。逆に、危険な道を進む人からは、どうやれば安全な道を進むことができるのかが分からない。

 

 僕からしたら、安全な道を進める人は、何もしなくても安全な道を進むように遺伝的にインプットされているように見える。

 

 意図してか意図しなくてか、安全な道から外れてしまう人がいる。

 

 自らの意思で危険な道を選ぶ人は、神経が図太くて世の中を渡っていけるが、意図せずに安全な道から外れてしまう人もいるだろう。

 

 私は、大学院生活をもんもんとした気分で過ごし、精神障害で休んでいる間に、いつの間にか安全な道から外れてしまった。 自己責任と言われればそれまでだが、本人も危険な道を進みたくて安全な道を外れたわけではない。よかれと思って選んだ道が危険な道だったのだ。

 

 危険な道をよかれと思って進んでると、しんどいわけで・・・

 

  なので、意図せず安全な道から外れて困った人が、どう楽しく生きるかを示していくことが僕の仕事なのだと感じる。