生きるための思想

脱・引きこもりする気のない半引きこもりです。引きこもりへの社会保障を求めている。旅とかブラブラすることが好きです。気軽にコメントやメッセージ下さい。

ドゥルーズ/引きこもり/ノマド/個人単位

 

【目次】

 

 

1.引きこもりは幽閉されたノマドである

 

 人類は長らく森の中で遊動生活をおくっていた。人は、その日に必要な食料を森の中で採取し、貯め込まずその日暮らしをしていた。食料は十分あり、余暇も多く、「豊かな生活」をしていた。住んでいる地域で食料がなくなると森の中を移動し住む場所を変えていく。人類の初期はノマド的生き方だった。定住生活に移行したのは約一万年前の縄文時代からだ。支配者が生まれ、食料の徴収、蓄財、分配のために法が整備された。国家の徴税システムにもっとも適した定住民は農耕民だ。計画的な土地区分に拘束される。資本主義は徴税のために人に定住を強いる。さらに、資本の利潤拡大のために人を継続的に労働させる。これは、遊動(アナーキー)から定住(資本主義)への移行だ。ドゥルーズの言うところの「平滑空間」から「条里空間」への移行である。

 

 

「条里空間」→ 計測が可能な空間で国家に管理される。

「平滑空間」→ 海や砂漠のように指標となるものが失われた空間で、権力からの把握を逃れていく。

 

参考:檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる〔増補新版〕』ちくま学芸文庫

 

  

 「条里空間」の敷き詰めにより「隙間」(=「平滑空間」)が失われ、ノマドが生きられなくなる。ノマド的感性をもった人は今の主流秩序には適合できず、引きこもりや生活保護利用者となって鉄のオリに入れられている。引きこもりは、閉鎖的で抑圧的な「条里空間」に耐えられずにスピンアウトした人たちだと言える。固定された空間や人間関係では弱い立場になりやすい人たちである。だから、移動を基本とした根無し草のノマド的な生き方が向いている。引きこもりはノマドであるが、秩序に太刀打ちできず今の体制では引きこもらざるをえなくなった。だから、引きこもりにとって安定するのは、どこかの組織やコミュニティといった固定した場ではなく、絶えず流動することで可能なのかもしれない。

  

 いわゆる引きこもりといっても外出している人が大半だ。ただ、ブラブラしたいのにも関わらず、世間がなかなかそれを許さない。働いていない人は外に出て関係もつくりにくい。自分の正体を明かしにくい。だから、外に居場所をつくれず家に引きこもらざるをえなくなってしまう。生活保護利用者も同様の問題を抱えている。フーコーによると、近代にできた監獄は病人や働けない人、浮浪者を収監したという。これらの人があてもなく街をブラブラして徘徊することで街の規律が乱れるということで捕らえられた。同じようなことは現代でも起きている。生活保護利用者は最低限の生きる金だけを渡され地域から孤立させられる。人との交流もしにくく人目を気にしてコソコソと外出しなければいけない。これは、監獄生活とそんなに変わらないのではないか。引きこもりも金がなく、世間で肩身の狭い思いをするので身動きがとれない。実家が監獄の機能を果たしている。国が監獄の機能を家族に肩代わりさせているとも言える。ブラブラするノマドは世間から追いやられ幽閉されてしまう。

 

2.資本主義は家父長制に支えられ維持される

 

 資本主義は人を定住化させることで持続できる。日本の終身雇用システムやマイホーム主義は定住を前提としている。日本の雇用システムは正規職を有利にしていて、非正規・フリーランスを不利にしている。制度が定住型を強く推している。資本主義で求められるのは、定住・定職・持続性・計画性である。これらに適合しにくいノマド的な人(なんらかの障害をもつ人、衝動性や多動性をもつ人、対人関係やコミュニケーションでハンディがある人など)が不利になり秩序の下位に置かれやすい。

 

 さらに、日本型雇用の年功序列制は家族給発想となっている。正規職だけに支給されるボーナスや各種手当ても家族を養うことを前提としている。逆に非正規は世帯主に養われることを前提とされ賃金が低く設定される。被扶養者は女性に多く、非正規の賃金の安さが正当化される。最低賃金の低さは家族単位にもとづく女性差別が原因である。ケアやサービス業などのエッセンシャルワークに女性が多く従事し、薄給であるのもジェンダー役割に基づく差別であると言える。

 

 このジェンダー差別に基づく日本型資本主義を維持するのが婚姻制度となっている。男女の地位や経済力における格差があるため、結婚して子どもを産み育てるようになると、男性が正規職の稼ぎ手、女性がパート・主婦になりやすい。婚姻制度は中流の標準家族(男性:正規職/女性:パート・主婦)を制度上優位にしていて、婚姻制度が主流のジェンダー規範に人々を誘導していると言える。

 

 資本主義は婚姻主義に基づく(シスヘテロ)家族主義をビルトインすることで、労働力の再生産を家族に担わせる(その負担は女性に偏る)。生殖の単位をシスヘテロ男女のペアとする。「正しい性愛」をシスヘテロカップルに置き、それ以外の性愛は非推奨の逸脱として社会ではフタをされてしまう。シスヘテロ規範に基づく婚姻主義は資本主義の「条里空間」の補強・存続のために機能させられる。

 

 

3.人々の欲望が「条里空間」の補強のために動員される

 

 人々の欲望は多様であるが、秩序によって資本主義的なものと家族主義的なものに収斂させられる。そして、それらに合致しない欲望を無意識の中に抑制しようとする。人は自己の欲望を実践しているように見えて、実は秩序からはみ出る欲望を削り取り、自己を無力化していると言える。精神病は非主流の欲望が無意識からあふれ出した現れとも言われる。非主流の欲望は無意識の中に閉鎖され、ノマド的な実践をとれなくしている。ドゥルーズの哲学は、非主流の欲望を発現できることが自由の実践であり、ノマドの解放だと言っているようだ。

 

 ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、フロイトが精神病における無意識の欲望を家族関係(=親子関係:エディプス・コンプレックス)ばかりに還元していることを批判したものらしい。無意識の欲望はもっといろいろあるし、資本主義の問題といったクリティカルな部分を無視しているという。

 

宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』「第3章 欲望の哲学」より

 

 

 資本主義は、人々の欲望を経済的価値により意味付け、貨幣と貨幣に従属する労働へと欲望を変形させる装置だと言える。欲望は金銭的価値に画一化されていて、人は金銭を得るために自分の欲望の実現を延期して労働する。欲望を抱かせ絶えず労働させることでシステムそのものを持続できているように見える。人は欲望の実践のためにすすんで労働者となり無力化されているとも言える。

 

 また、ジェンダー規範においては、恋愛や結婚を生殖主義で正当化している。性愛規範では、「生殖可能性のある性愛」が正しい欲望とされ、「生殖に向かわない性愛」はアブノーマルで時に病的なものと見られる。ジェンダー表現やセクシャリティの抑圧となっている。

  

 このように、資本の論理やジェンダー規範が道徳観念として確立され、個人個人にもそれが植え付けられる。むかし、役所に生活保護申請を拒否され、「おにぎり食べたい」というメモを残して餓死した人の問題があった。飢えている人は食べる欲望があるのに、窃盗をしたり他人にすがることをしない。これは、労働して得た金で食べ物を買いたいという労働規範に沿った欲望が、生存欲望を押さえつけ自死や餓死をもたらしてる。欲望が主流秩序に適合したものに押し込められ、生存まで脅かされている状況がある。

 

4.個人単位化によるノマドの解放

 

 家族単位の社会とは経済力がない人が家族に依存させられ自立できない社会だ。逆に、個人単位の社会は個人に生活保障がなされ、個人で自立ができる社会である。引きこもり、生活保護利用者、困窮者の貧困や生きづらさを緩和するためには社会システムが家族単位から個人単位にならなくてはいけない。

 

 個人単位の発想では成長主体から再分配主体の社会になる。家族の経済力に依存せず個人で経済的自立ができるように最低賃金を1500円以上に上げる(同一労働同一賃金)。扶養義務を弱め家族に負担をかけず引きこもりなどが社会保障を利用しやすくする(社会保障の個人単位化)。ベーシックインカムを導入して生活費の軽減をはかる。これにより、正社員になってもいいが、フリーターとして職や住むところを転々とするノマド的生き方も実践しやすくなる。

 

 法人税率、富裕層や高所得者、金融投資家への課税率を引き上げる。金を貯め込ませにくくする。今の不景気は金が富裕層に溜まりすぎていて市中に流通していないから生じている。消費の不活性が経済の停滞となっている。貧困層は金がないから消費ができない。貧困層への再分配により消費は喚起され経済はよくなる。再分配は金を循環させるシステムであり最大の景気対策なのだ。個人単位の社会は経済の好循環を導く。金を多く貯めなくても社会保障により落とし前がつけられる社会だ。個人単位の社会はその日暮らしの生き方が可能になる社会なのだろう。ヤケッパチな人に優しい。比較的自由にブラブラできて秩序や組織への拘束も弱くなる。望むのは、自由に逃げられる社会だ。

 

【図式】

 

条里空間 VS 平滑空間

=定住型 VS 遊動型(ノマド

=キャリア型 VS その日暮らし型

=家父長制 VS ジェンダー・フリー

=家族単位 VS 個人単位

 

  

5.「リゾーム」の発想によるしょぼいノマド的実践

 

 個人単位の社会となれば、国家や資本主義の枠内でも、その日暮らしやノマド的生き方がやりやすくなると書いた。とはいっても、システムは早々に変化することは期待しにくい。システムの問題だけを言うのでなく、個人個人がしょぼいノマド的実践をすることで各々がエンパワーされることも大切だ。行動や意識レベルでの個人単位化と言えそうだ。

 

 車上生活の映画が話題になっている。車上生活は現代のノマド的な生き方だけど、車が買えない人や運転すらできない人もいるのでやや敷居が高い。だから、日常の中にノマド的要素を取り入れしょぼい非日常を楽しむやり方もあみだしていく。日常において旅をする。

 

 ノマド的感性とは地に足をつけられず浮足立っている感覚といえる。これは、無意識の欲望にある程度従っていてフワフワしている状態だ。計画性というよりも偶然性に身を任せる。将来にピントを合わせて行動するだけでなく、「いま・ここ」に中心を置き、その場その場で楽しみの供給をしていく。

 

 知らない場所にひょいっと出かけたり、知らない人と話すのを恐れず、思いがけないことを期待してワクワクしながら毎日をおくる。変わった格好やジェンダーを揺らすような装いをして日常世界を変える。今の秩序に適合できない人は、ヤケッパチになってもがくしかない。ヤケッパチになって、何か思わぬことが起きないかとワンチャン狙って生きていく。その都度、その都度、迫ってくるものに応じていく。

 

 これらは、計画、規則にとらわれないカオスのように見えるが、実は無意識の中にある別の秩序の表出なのだ。ドゥルーズは既存の序列や規則によらない別の秩序(多様体)を「リゾーム」(地下茎)と呼んだ。ちょうど、色んなところに根がポコポコと出てきて各々が自由な欲望を体現していく感じだ。ツリー型の主流の価値体系(幹を中心とした序列化)によらないリゾーム型の価値追求をしていきたい。個人個人が能動的に自己の欲望を体現できることが自由の実践となる。自由とは状態ではなく、自由に向かう実践の中でこそ自由が立ち現れる。だから、課題は「反復するかどうかではなく、どのように反復すべきか」(バトラー)なのだろう。引きこもりの人にふさわしい言葉は、「一丸となりバラバラに生きよ」だとも言えそうだ。

 

 ※「ツリー」と「リゾーム」については、宇野邦一(前掲書)の第4章「微粒子の哲学」を参考にしました。

 

 

【実践しやすい】

・知らない路地に入る

・知らない駅やバス停で降りて街を散策する

・電車移動を徒歩で移動してみる

・いろんなコミュニティにちょろちょろ足を運ぶ

 

【すこし思い切ってできること】

・街で知らない人に話しかける

・路上パフォーマンスをする

 

 

 

【文献】

檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる〔増補新版〕』ちくま学芸文庫

宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』講談社選書メチエ212

話しかける

 

 たびたび街で知らない人に話かけて会話をする。こちらから一言話しかけたら、それに応じて向こうが近況や身の上話をたくさん話すこともある。街の人と話していると、【高齢+貧困+独居】の人(特に男性)の社会的孤独がかなり目につく。暇そうな人と話してみたらたいてい長話になる。長話になるのは普段思い思いに自分のことを話せる相手が不足していることの裏返しだとも思う。わたしのようにロクに働けない半引きこもりのくせしてヘンクツな人間は、人とも親しくなりにくい。京都には話し相手がいなかったが、2月に路上一揆して出会ったおっちゃんとは社会福祉関係の話で意見が合うので、家に遊びに行ったり花見したりした。引きこもりにとって近くに話し相手が一人できたのは非常に大きいのだ。このように、路上での生存権アピールで、生きづらさについて視点が合う人と出会えることもある。ただ、そういうレアなことはそうそうないので、街でブラブラして素性がよく分からない人にも話しかけてみて、しょぼく孤独解消をやっていくのも大事であると思う。

 

 

【目次】

 

 

※いろいろ前置きの文章が長くなってしまったが、わたしの経験した街の人との会話エピソードは【3】からです。

 

 

1.孤独による生きづらさ

 

 4月のはじめに京都の三条京阪の路上で生存権カフェ(しょぼい一揆)をしていると、通りがかった70代前半のおっちゃんと話しになった。おっちゃんも働いているけど、2万円代の炊事場共同の安アパートで貧乏生活している。生きづらさや孤独問題のことで話を聞いた。高齢者の働く場がないことが問題だという。仕事がないと社会に居場所がなくなってしまうという。高齢者が年をとっても働こうとするのは、お金のためだけでなく、仕事をしなければ居場所ごと失ってしまうためでもある。家に一人でいてもしんどくなりマイナスの感情に襲われるという。孤独でいるとよからぬ事を考えてしまう。それで衝動的に自殺する人も多いのではないかと話していた。そのため、おっちゃんは気晴らしのため外でブラブラするようにしているという。これは、路上で出会うおっちゃんからよく聞くことだが、生活保護を利用している人には自殺者が多い。これは、データでも示されている。生活保護利用者の自殺率は全国平均の2倍だ。さらに、教育社会学者の舞田俊彦さんの記事によると、生活保護利用者の自殺率は30代が一番高く全体の5.5倍だという(10年前の統計に基づくものだが)。働き盛りの人が働けないことによる世間からのプレッシャーが大きいためではないかと語る。人を死に追いやるのは金銭的欠乏によるだけではなく労働規範による圧力も大きいのだと察するところだ。

 

tmaita77.blogspot.com

 

 

2.孤独な人が多いのにマッチングしにくい問題

 

 生活保護利用者の方から聞くのは、支給額が削減されて社交に使える金がほとんど無いという問題だ。カフェ、飲食店、居酒屋などに入れず、社交の機会がもちにくい。交通費も負担であり移動に制限がかかり人とも会えなくなる。わたしが路上で出会った生活保護を利用しているおっちゃんは、「生活保護費の削減は、利用者から自由を奪い、精神的に追い詰めることで自殺に誘導している」と語った。人と交流するためのお金がないだけでなく、生活保護利用者という弱い立場ゆえ差別的な扱いを受けやすく、その懸念から人を避けるようにもなる。人との出会いや行動が制限されると希望や楽しみも得にくくなっていく。世間からの目も厳しい。働いてない人がブラブラしていると咎められる。咎められなくても後ろめたい気持ちにさせられる。障害者や困窮者を気軽に街でブラブラさせてくれない。世間の目という見えない権力が張り巡らされ「監獄」と化している(フーコーのいうパノプティコン)。近代社会は街から浮浪者をつまみ出して監獄に入れて街を見かけ上キレイにした。同じように、障害者や困窮者を街にブラブラさせないように家に居させたり作業所に誘導する形で、街からそういった人たちの存在を不可視化させているとも言える。

  

 

 街で人と話してみて思うのは、話し相手がいなくて誰かと話したがっている人は多いのに、そういう人同士がうまくマッチングできていないという状況がある。誰かに話をしたい寂しめのおっちゃんと、孤立した引きこもりの人が上手いことマッチングできたらええのになと思ったりする。おっちゃんはある程度の人生経験があるから話も退屈しないだろう。街で落ち着いて居られるところが失くなりつつある構造的な問題もあるのだが、見ず知らずの人に話しかけにくいという見えない抑圧もある。他人にスキを見せにくい社会だし、女性なら知らない男性から声をかけられるとナンパやキャッチではないかと警戒してしまう。この問題はもちろん頭に置いた上で、半引きこもりのわたしのようなしょぼい人ができることをやってみたいなと思う。タイミングなどが合えば相手に負担をかけない形で話かけてみる。「知らない人に話しかけてみる」の実践である。

 

 

 生活保護の利用者が誰かと良好な関係をつくるのは簡単でない。引きこもりの人なども同様の問題を抱える。特に、引きこもりの人の抱える弱点はタフな人間関係がしんどくなるということだ。いろいろ弱みを突かれる立場であるため余計に困る。他者からのジャッジ(承認/否定)に気を張るため、相手とうまく話ができない。これらは、引きこもりの人が過去のキビシイ経験などから身につけた思考やコミュニケーションのパターンであり、本人だけの責にはできない。どうしようもない。どうしようもないが、まだもがきたい。フツーの関わりが難しいなら、フツーとはズレたイレギュラーなやり方で人と関わっていくことも考えたい。ある組織やコミュニティーで立派な構成員になるなどキレイな社会復帰だけを是とするのではなく、宙ぶらりんでギコチナイ形での社会との接し方を模索することにも目が向けられるべきだと思う。それは、網野善彦の言うところの「無縁」のようなものじゃないだろうか。主流社会の中には組み込まれてないが、時折オモテに現れて人と接する芸能民タイプの人である。タフな人間関係やめんどうな付き合いが苦手なら無理をする必要はない。自分の対人能力や精神的状況が優先されるべきだろう。固定する人や組織との密で継続的な関係は急がない。できたらいいなくらいのオマケと考える。主流の人間関係が難しいのであれば、断片的な関係でしょぼい物語をつくっていくことでまず進んでいきたい。

 

 

3.街で知らない人に話しかけてみた 

 

① 会話のフラグが立つと話しやすい

 会話がしやすそうな雰囲気を漂わせていたり、会話してくださいというサインを出してくる人を見つけたら話しかけてみる。 

 

・公園でワンカップもったおっちゃんがVサインしてくる

 

 これは、わたしに絡めというサインだから、絡みに行くしかない(笑)。西成は向こうから話しかけてきたりサインを出す人が多くて、会話のフラグがすごく立ちやすい。

 

・手持ち無沙汰でぼんやりしてるおっちゃん

 

 街でミカンの木を切ってるおっちゃんに話しかけたらミカンをもらった。町内会でミカンを収穫していたそうだ。たくさんミカンをもらったので、街の誰かにあげようとした。河原で水筒をぶら下げて何分も立ってるおっちゃんに思い切って 「ミカンいりませんか?」と話しかけてみたら、会話になった。定年退職して大学院の聴講生をやってるがコロナで休校になり暇で外をブラブラすることが多くなったらしい。コロナ初期には会社クビになって公園で暇つぶししている人も多かったとか。女性や非正規が多かったとか。ブラブラして色んな人と話してるそうだ。ブラブラの達人だ。

 

・ブラブラしてるおっちゃん

 

 この前、公園のベンチでぼんやりしてたら自転車でやってきたおっちゃんと目があって、「どうも〜」って挨拶して会話になった。80代でコロナで居酒屋とか喫茶店に行けなくなったので、外でブラブラすることが多くなったそうだ。長距離散歩することも多くなりよかったとも言っていた。今の住宅地の昔の様子について聞いたり、戦後の食糧難の時代に親が日本海若狭から自転車で闇米を運んでいた話を聞いた。親は立派やったと語っていた。野菜ドロボウもしていたそうで、「それ、まさに火垂の墓ですやん」と思わず返してしまった。「おっちゃん、他にも悪いことしてたでしょ?」と聞いたら、「浮気をちょっとな」という話をされたり。おっちゃんから、悪いことは早いうちにしとけよと言われた。「人生は後悔と失敗だらけや」と言うおっちゃんはたいてい楽しそうなので、後悔や失敗は怖くないなと思ったりした。こうやって街の中で闇米や野菜ドロボウの話をするおっちゃんも10年後にはいなくなるのではないだろうか。

 

 おじいちゃんおばあちゃんも、家族の中では言えないようなケシカラン話ができる人が欲しいのだろう。ガス抜きだ。ただ、公民館で茶話会のような場が与えられれば十分だという訳でもないのだろう。

  

・動物を見ている人

 

 野良猫にエサをやってたり見ている人には、猫の話題で話しかけやすい。野良猫の説明を聞いたりできる。猫はかすがいと言えそうだ。

 

 河原でヌートリアが水浴びしているのを発見した。横でおばちゃんも見ていた。おばちゃんに話しかけてみるとヌートリアの調査をやったことがあるらしい。下流まで車で移動しながらヌートリアを数えるそうだ。ヌートリアは野菜とかも食べてしまうらしく、河川敷の畑で育ったおいしい京野菜を食べているそうだ。

 

・変わった格好をしている

 

 奇抜な格好や変わったファッションをしている人は話しやすい。帽子に人形をつけていたり、頭の上に荷物を載せている変わったスタイルの人に話しかけたりした。わたしも女装していると話しかけられやすいし、こちらが話しかけたら話のネタをつくりやすい。

 

 

② 話しかけてみたら路上生活者を支援に近づけたことも

 

 西成の夜道のイスに座って競馬新聞を見ているおっちゃんがいた。「おっちゃん、競馬負けたんじゃないですか?」と話しかけてみたら、お金がないから缶コーヒーを買って欲しいという話になった。滋賀県の会社に勤めていたが、病気で職場復帰が難しくなり寮を出ていくことになった。それからの経緯について、住居があるのか生活保護を申請したのか話が錯綜したが、日雇いをして簡易宿泊所に泊まろうと考えて数日前に西成に来たらしい。わたしが、「生活保護とらないんですか?」と聞いたら、自力で頑張りたいと言っていたので支援者の名前だけ教えてその場を去った。後に、路上生活者の見回りをしている知人に連絡して事情を話したら駆けつけてくれて、おっちゃんにまた会う。すると、おっちゃんは支援があるなら利用したいと前向きになり、とりあえず無料シェルターを案内した。おっちゃんも自分の事情をうまく説明しにくそうなので、後の手続きは支援者に任せるしかない。このように、路上でたまたまおっちゃんに声をかけたことで支援に近づけることもできた。西成で困ってる人がいたら「ふるさとの家」に行ってもらうのがいいそうだ。

 

 路上で、目的もなく人に声をかけることで思わぬことをもたらすこともある。社会で分断されつつある人と人との信頼関係を編み直すのはそういうミクロなところからではないか。根拠はないがわたしは前向きな自信をもっている。北九州で困窮者支援活動をするNPO法人抱僕の奥田知志さんと歴史学者の藤原辰史さんとの対談に示唆された。藤原辰史さんの『縁食論』では、子ども食堂においては「貧困支援」と強く打ち出さず、とりあえずみんなでご飯を食べましょうという弱目的性のゆるさを出すことによって、結果的に困窮者が気軽に来やすくなるという。また奥田さんは、路上生活者と会話になっているのかよくわからないような言葉のやり取りを重ねるうちに、相手が心を開いて思わぬ進展になることがあるという。弱目的性の会話によって予測不可能な「誤配」も起こる。対話になってないように見えるが心のどこかには何かが響いている。そのような、「メタ対話」と呼べるようなものにも可能性はあるのだろう。

 

 

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努力主義の脱構築

 

【目次】

 

 

1.「努力」という言葉がトーンポリシングのために使われる

 

 よく、引きこもりや生活保護利用者などに対して「努力してるのか?」と聞いてくる人いるじゃないですか。何もしてなかったりブラブラしていると白い目で見られる。マジメに努力してる態度を求められ、常に緊張を強いられる。働いてない人に厳しく当たり、みんなへの「みせしめ」にしている。まるで監獄の囚人だ。でも、逆だよ。外に出て活動的になったり人と交流したりすることが社会復帰を促すからね。困窮者などが「あなた努力してるの?」と問いつめられると、相手から非難されるのをかわしたいから努力していることを証明させられるじゃないですか。あれがすごくバカバカしい。努力とかそんなの関係なく困窮したらみんな社会保障で生活をカバーされなきゃいけない。だから、福祉利用はその人の経緯ではなく今置かれている状況(保護水準)から判断されなくてはいけない。生存権保障に努力義務が課されると、当人が努力しているかが立場の強い者により恣意的に判断されるスキを与え、生存権における無条件原則に反してしまう。生存権の話で努力がなんだと持ち出してくるのは、単に困窮者に対する追い打ちであり「懲らしめ」の意味しかない。働けない人ってお情けで生かされていると思われてるじゃないですか。だから、お情けを買うために健気に努力してる姿が求められる。実績や能力を示せない人は、その替わりに誠実さや努力する姿勢といった内面を差し出すことを強いられ無力化される。これこそ、魂まで奴隷にされるというやつです。人を従属させるために「努力」という言葉が都合よく使われる。

 

 

2.努力主義を脱構築する

 

 教育社会学では、能力主義のもと平等をうたうメリトクラシーのシステムがむしろ階級の再生産をおこなっているとされる。タテマエでは教育はみなに開かれていて、能力に応じて適当な職に就けるが、現実には学力のつけやすさは親の収入や環境に依存するので機会は平等でない。よく、貧困家庭に生まれたり幼少期にグレたりしたが、その後に成功した事例が感動物語として持ち上げられる。そして、そのような著名人の発言力が高まると、逆境にあっても上手くいくかどうかは本人の努力次第だという言説が強まる。しかし、教育社会学では努力できるか自体も階級や環境に左右されることが定説になっている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』中公新書)。努力が価値あるものだと思うには、努力は報われるものだという意識がもてなければいけない。親が努力して成功したのであれば努力は価値あるものと信じやすいし、勉強熱心な人が多い進学校などの環境では努力することが高く評価される。逆に、努力するのはクダラナイという人に囲まれると、努力は評価されにくいし、時に疎んじられるため、努力そのものがしにくくなる。このように、環境により努力に対する価値づけが違うことを考えると、努力できる機会も不平等だといえる。ここから、「努力できるかは条件次第」という言説が生まれる。

 

 

 しかし、わたしは「努力できるかは条件次第」という言説のその先に行きたい。わたしたちは有用な成果を生み出すことをすると努力したとみなしがちだ。有用な成果とは大抵はお金を生み出すことだ。また、お金にならなくても人に対して分かりやすい効用や成果をもたらした時にも努力したとみなされやすい(もちろん金を生み出す行為の方が評価は上)。それに対して、社会的評価がされにくい行為をすると努力してないと言われるが、その行為にはエネルギーが使われていないのだろうか。鬱でしんどい人はメールを読むのも風呂に入るのも苦労する。発達障害を抱える人には部屋を掃除したり、遅刻しないで学校や会社に行くのも大変だという人もいる。コミュニケーションが苦手な人は誰かと少し会話するのもエネルギーがいる。このように、何らかのハンディがある人は生活を成り立たせること自体にかなりのエネルギーを消耗し努力している。しかし残念ながら、エネルギーは使っているが社会的に評価されにくいから努力とは判定されにくい。このように、努力の基準は有用性に偏っている。努力評価の基準に偏りがあるため、社会的評価がされにくい行為で苦労したりエネルギーを消耗している人が低く評価され、いつまでもエンパワーされにくくなる。秩序に適合しにくい人たちの地位を回復するには、生産性で努力量を測ろうとする資本の論理を脱構築することが求められる。

 

 

3.社会で上手くいくかは努力ではなく適合できるかの問題

 

 人はそれぞれ違うがゆえに、それぞれができることや持続できることも異なる。ある人が自分のもつ特性や能力で努力できる事が、主流秩序に適合するどうかは分からない。主流秩序に適合した特性や能力をもっていたり身につけやすい人が、マジョリティとなりやすく優位なポジションを得る。努力の判定もマジョリティ基準であり、努力評価はフェアではない。努力主義の強調により、特定の特性や能力を有利にする社会構造の問題が、努力という意思の問題にすり替えられ、構造により格差が生まれている本質的な問題がぼやかされる。

 

 

 高度に発展した資本主義では、人が生きていくには高度な能力を求められる。金が稼げる資格を取得したり技能を蓄積するには年単位を要する。資本主義の中で評価される能力をもてるのは、コツコツ努力できる持続性のある人だ。これが、勤勉・勤労を美徳とする近代のエートスとなっている。これは、前資本主義における狩猟採取民がその日暮らしで拠点を点々とする遊動型であったのに対して、定住・定職を基本とした計画的な生き方を求める定住型と言える。資本主義では、この定住型パラダイムに沿った人が制度的に有利になり、コツコツできない遊動型は不利になる。システムがその日暮らしのヤケッパチ人生をよしとしない。資本主義で生きにくくなる特性の例として、発達障害でよく見られる衝動性や多動性がある(診断はないが、わたしもこれらが強い)。場当たり的に行動することや持続性がないことは組織生活や技能蓄積に不利であり安定した職に就きにくい。また、主流のコミュニケーションができるかも秩序への適合具合を決定づける。主流のコミュニケーションがしにくい人は「コミュ障」とバカにされたり、疎外されやすい。以上のような特性は、チームや組織で行動したり、有用な成果を出すのに不利である。このように、定住・定職・持続性・計画性を求める資本主義社会の標準モデルがそれに適合できない特性をもつ人を不利にしていると言える。逆に西成などに行くと、みんないきなり文脈関係なく言いたいことを言ってくるので、コミュニケーションのあり方を気にしなくなる。

 

 上で書いたように、社会で上手くやっていけるかは努力できるかよりも適合しているかの問題である。そして、社会に適合しにくい人ほど適合するための努力を強いられる。適合しにくい人はシステムでワリを食っていると言える。金、教育、ジェンダーフリーなど機会の平等はなされるべきだが、機会の平等さえ整えば著しい格差は許容されるのかといえば、そうではないと言いたい。システムでエンパワーされやすい特性や能力をもつ人は階層の上位にいけるが、そこではシステムでワリを食って下位になる人の存在が必ずいる。ある人の優位性が際立つのは、別の人を劣位に置くシーソーゲームによる。上位の人には自らのエンパワーのための資源になった下位の人に対する相応のコストは課される。人は自分の実力だけでは優位に立てず社会的な関係性を必要とする。自分を勝ち上がらせるのを可能にした社会(=他者)に対するコストと捉えたい。

 

 

 

【過去記事】

 

◉コミュニケーションは個人の能力よりも適合の問題であること

 コミュニケーションの可否は自分の発話能力の問題だけでなく、相手や環境にも依存する。「コミュ障」なのは自分のせいなのかと悩む人に読んでもらいたい。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉自分の社会的成功は自分の力だけでは成されない

nagne929.hatenablog.com

 

炎上商法としての陰謀論

 

 街の中心で、「コロナは嘘」と大声で集会している陰謀論者をよく見かける。しかも、日に日に勢いを増している。街の中心ではビッグイシューのおっちゃんも販売活動していて、陰謀論者が勢力を広げると、おっちゃんの営業活動が妨害される。また、街から居場所も奪うことになる。

 

 

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【目次】

 


1.裏口からワンチャン狙うのが陰謀論

 

 陰謀論にハマる過程をツイッターでわかりやすく説明したのは高知東生さんだ。「俺だけがこの動画にたどり着き、世の真実を知ってるんだと。そうか、やっぱり!と。どんどんハマっていきました」。つまり、自分だけが知っているという優越感を簡単に得られるから陰謀論にハマりやすいという。自助グループの仲間に陰謀論をマジメに話すと笑って間違いを指摘されたことで、自分を修正できたという。仲間から笑われたが、それを素直に受け止め、後にネタに昇華できたことが陰謀論脱出によかったという(これは、依存症からの回復にも通じるだろう)。

 

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

 陰謀論者はデタラメな事を「みんなが知らない真実」とでっち上げて、それを知っているワレワレという超越的立場を得ることを目的としている。裏ワザでワンチャン狙っているのだ。いびつな形での権力欲の発現だといえる。「コロナは嘘」だと路上で騒ぐことで、衆目を集めてインチキな仲間との連帯感をもつ。彼らにとってはたまり場であり非日常を味わえる居場所にもなっているのだろう。カルトや陰謀論の人たちも主流秩序に乗れなかった人たちなのだろうとは思う。でも、ただの非主流のダサい生きざまはつまらないから、デタラメをカマして注目をあびたり権力を取ろうとしている。これは炎上商法といえる。 

 

 オウム真理教はその中がピラミッド型の階級秩序となっていた。ナントカ大臣など現政府と相似した役職をつくって疑似的に権力を体現していた。しかし、自前の組織での権力ゴッコにとどまらず、メディアや選挙に出るなど主流社会でも権力を志向していく。そのこじらせた権力欲が数々の殺人事件ともなった。カルトや陰謀論に自分が一体となってアクションをすると万能感を得た気分になる。この気分から降りることができず、そこが居場所となってしまう。これはやがて、活動の目的そのものではなく、組織や居場所を維持するだけの活動になってしまう。

 

2.「満たされなさ」がカルトや陰謀論を勢いづかせる

 

 カルトや陰謀論の原動力は「満たされなさ」だろう。主流秩序からの疎外感を、みんながしないことをして特別な存在として自己をアイデンティファイしようとして誤魔化しているのではないだろうか。疎外された人がブレずに立ち止まっていられることは難しい。やり場のないやるせなさの向け先がわからない。見えない自由が欲しくて見えない銃を撃ちまくりたいのだ。社会で通用する高い実力をもっていたり、何らかの自信をもっていないかぎり、それを穴埋めする形でヘンテコなスピ系、カルト、陰謀論などに飛びついてしまう心理は他人事として片付けられない。人はもろいからだ。居場所というのは自分の力をうまく体現できる場や人間関係なんだろう。自己表現ができる居場所が得にくいと、大きな敵と戦うストーリーで連帯して一体感を得ようとしたり、マジメに反社会的活動をやって安易なガス抜きに走りやすくもなる(ネトウヨ、過激派、カルト、陰謀論)。

 

 いわゆるパリピなどの陽キャは、派手に遊んでつながりも作りやすい。うまいこと気晴らしをしながら生きられる。対して、陰キャはそういった派手なことに憧れつつも、それができないでいて「満たされなさ」を感じやすい。陽キャのようにワーッと騒げないが、内面には騒ぎたい欲求がある人も多いのだ。その欲望を発露できる場としてカルトにスライドしやすい。だから、意外にも、地味な人が一発逆転的な感じでカルトなどに行きやすい。例えば、大学ではよく宗教勧誘がなされているが、まだ大学で知り合いができていない新入生がターゲットとなる。また、ハミゴになりやすい性格がおとなしめの学生が勧誘されやすいという。疎外感による寂しさが付け込まれやすいのだいう(島田裕巳『わたしの宗教入門』ちくま文庫)。

 

 疎外感は自分が他者に影響を及ぼせていない不全感に由来する。自分が権力の主体になれず風を切ってる感じから生まれる。社会や他者に自分なりの関わりができないことが生きづらさとなる。自分のしっくりくる形で社会に存在できている実感が大切で、そうでない形でごまかしながら社会と関わってるとインチキな承認となり自己がぐらつく。わたしは以前ブログで、抑圧的になりすぎない形でしょぼい権力をさりげなく行使できることが大切だと書いた。

 

nagne929.hatenablog.com

 

 

3.裏ワザに走らず、あくまで正攻法にとどまる

 

 「生きづらさ」とは、生産性主義/能力主義/家族主義といった主流秩序による問題である。陰謀論に走るのは、正面から主流秩序はおかしいと問うことが抑圧されていて、さらに正論がダサいと思われている風潮も理由にあるのではないか。これは、陰謀論だけでなく、教祖系、奢られ系、レンタル系などの人たちがインフルエンサーとして崇められ、秩序のあり方は問われずテクニックばかり強調されることにも重なるのではないか。浮足立って安易な裏ワザに走ろうとせず、腰を据えて主流秩序を問うたり、ズレるような実践をしていきたい。それで仲間や話のわかる人とつながり、対話をしていく正攻法が自己をエンパワーして社会の変革にもむすびつく。

「いま・ここ」の哲学

 

 

 ある日、朝の仕事がおわり河原でぼんやり歩いていた。そしたらカラシナをみつけた。思いがけない春の訪れを感じた。あてもなくブラブラして繁華街に向かった。そこでは、「コロナは嘘だ」と大声で集会してる連中がいた。通りを挟んでビッグイシューを販売しているおっちゃんがいた。おっちゃんに話しけてみた。「コロナは嘘やと言ってる人たち、うるさいですよね。営業妨害やって言いにいきましょうよ〜」と冗談まじりで話しかけてみた。ビッグイシューを買ってから、わたしも路上で生活保障のことをアピールしていると言った。「おっちゃん、僕、女装してんねんけど」と言って女装の写真を見せたら、ウワーっとおっちゃんが驚いてウケた!ひとりで路上アピールしていると通りがかりの人からお小遣いをもらった話とかをしたら、「おお。じゃあ、ワシも女装しよかな〜」とおっちゃんも話を面白がってくれた。アイスブレイキングである。

 

 ビッグイシューは路上生活者の自立のためのビジネスなので、話題としてはマジメな社会問題としてオカタイものだ。おっちゃんたちと交流するにしても、どうしても話題は貧困問題などマジメな話を中心とした表面的なものになってしまいがちなのではないか。でも、わたしが思い切って、自分のやってる女装をネタにして話してみたら、笑いのモードになった。気持ちのゆるみ(スキ)が生まれたと思う。「変な人」であることを自己開示してオフザケがしやすくなると、相手との境界線も超えやすくなる。このようにスキを見せる行為も、生産性からズレる実践だと思う。スキをつくるのも意識しないとやりにくい。

 

◉ 河原でみつけたカラシナ。パスタにしようかな。このように偶然に野草を見つけるのも小さな非日常である。

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 無駄に見えることやズレることをするのは、生産性の論理から外れる行為である。人はデフォルトで生産性のある行為をしがちだ。わたしたちは観念や行動パターン(ハビトゥス)までも生産性の論理に支配されている。知らず知らずのうちに役に立つかどうかで判断したり、常識や他者目線で行動してしまう。気を抜くと主流に流され、無駄なことをしなくなる。無駄にみえることやズレることをおこなうことは主流に逆らい自分自身を拠り所にしようとする行為だ。自分を律することで主体的になり、それが「自立」になるのではないだろうか。小さなことだが、普段なら電車で行く所を歩いていく。そうすると、道端や空き地で野草をみつけたり、知らない人と会話になったりする。スピンアウトすることで、予期せぬ偶然がおこる。「誤配」である。このように脇道にそれたり寄り道をするのも意識的にやらないとできない。さらに、野草や何かおもしろいものがないか意識を払うことや、誰かと話そうとするのも意識しないとできない。また、素朴なものや何げない事を楽しむ技能も必要だ。さっきのビッグイシューのおっちゃんとの出会いも、ある勉強会に行く途中に街をブラブラしてたから起こった。

 

 

 人は常に外部からの影響や刺激の中にいて、みずからの意志だけで行為をしているわけではない。スピノザは、自由であるとは能動的になることであると言ったそうだ(國分、p.110)。能動であるとは、自ら自身が原因となって何かをなすことをいう。自分の力がうまく表現できる行為をつくるだすことが、自由になるために一番大切だという。人には、生産性の論理に従った発想や行動をとる慣習(=コナトゥス)が染み込んでいる。自分自身の力の表現というものは、そのような主流の流れから自由になれたところでこそ発揮されるのではないか。予定調和でない非日常においてこそ「現れ」が生まれる。それが、誰のものとも代えがたいオリジナルな経験となり自分のアイデンティティの核にもなる。小さな思い出をつくっていく。

 

 

 見返りを求めたり、将来のことを念頭に置いた考えや行動は、目の前の現実に対峙するのではなく先のことに基づいてしかモノゴトを判断しなくなる。それは、目の前のことをおろそかにして「いま・ここ」を疎外する。それが有用性の発想なのだろう。有用性に押し込められない「過剰」が真に自由になるためのカギではないか。街をブラブラして、何かを発見したり偶然出会った人と目的のない会話を楽しむ。何か目的があるから話をするのではなくて、ただ話すことだけを目的とする。目の前に現れた現実や予想外のことを楽しもうという姿勢をもつ。目の前のことに自分なりに関わろうとすると、有用性の枠からあふれた非日常が立ち現われ「祭り」となる。「いま・ここ」の哲学なのだと言いたい。

 

 

【参考文献】

國分功一郎、2020、『はじめてのスピノザ講談社現代新書 

 

しょぼい一揆でいやほい!:路上でできる対話型アジール

 

 

 2021年2月11日に京都の路上でひとり一揆をやった。生存権を求めるアピールだった。一律給付金の支給と生活保護制度の改善(扶養照会の条件緩和)などをホワイトボードに書いて、通行人に見せていた。同じことは年始から数回した。途中、友人がチューハイ片手に遊びに来てくれた(西成によく出かけて面白い人と絡んだり、引きこもりの事情や貧困問題について詳しい)。その友人とダラダラ話していたら、通りかかったフォトライターの方と話した後に写真をとってもらい、ブログで紹介された。いきなりモデルになってしまった。通りすがりの酔っ払いのおっちゃんから大した理由もなくお小遣いをもらったりもした(カオスや)。さらに、アナーキー生活保護利用者のおっちゃんが通りかかって、生活保護利用者が置かれている状況や、働かない生き方の心構え(笑)について話を聞いた。このように、ひとり一揆をやったら、モデルにもなれて、お小遣いももらえて、アナーキーなおっちゃんとも知り合えて、一挙四得となった!

 

 路上を一時的な〈コモン〉 として、みんなに開かれた対話型アジールにできる可能性を示唆したい。これにより、固定された場所や同一の人間関係でない遊動的な居場所として、権力が生じにくい人との関わり合いをつくれないだろうか。

 

 今までも、街でブラブラしてるおっちゃんと話になって、変な話やケシカラン話をして楽しんでいた。今回のように生存権のアピールをして、話しかけてくれた人と生存権のことや社会問題について対話するのも心地いいなと感じた。対話もケシカラン話も両方好きです。

 

 

【目次】

 

 

1.フォトライターの方に写真を撮られてモデルデビューした

 

 路上アピールをしながら友人とダラダラ話をしていたら、通りかかった人が話かけてくれた。コロナにおける生活保障について話をしていて、生活保護については、保護費をもっと上げるべきだと語った。そうしないと、保護を利用しても生活が困窮したままになる。利用しにくいのは保護制度に不備がありすぎるからだという話をした。また、「首相が「最後に生活保護がある」と言ったのだから、役所に行ったら「首相が生活保護を取れと言ったから、取らせてください」と窓口で言ったらいい」と話して、みんなで「それ、いいですね〜」と言い合った。首相がお墨付きを与えたのだから、みんな堂々と生活保護を申請しよう。また、森喜朗の問題について、「今までの政治への怒りが爆発して、森喜朗を追い込んだ。性差別発言をする偉い人をちゃんと退陣させることができたのは、ジェンダー平等にとって大きなことではないか」と話した。話を終えた後、フォトグラファーであり街で出会った人を写真に撮ってブログで紹介しているとのこと。わたしについても写真で撮ってもらった。女装してからモデルをやってみたいなと思っていたが、路上でいきなりモデルデビューを果たしてしまった。立派なカメラに撮られるのは初めてで、これでも緊張しましたのよ。

 

 

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撮影してもらった写真(モデルデビュー作)

 

 

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みかんで話のきっかけつくり

 

 

2.酔っ払いのおっちゃんにお小遣いをもらった

 

 先のフォトライターの人が去った後、通りがかりのおっちゃんが「お前かわいいの〜」といきなり言ってきて、財布から1000円を取り出して手渡した。おっちゃんは顔を赤くしてめっちゃ酔っ払っていて機嫌がよかった。生存権のアピールをしていると言ったのだけど、それには反応してなくて、とにかくわたしの格好がお気に入りだったみたいだ。何か容姿をいじられそうだったので、先手をとっておっちゃんにありがとうと言って抱きついたら、ウワーと驚かれササッっと離れていった。女装して見た目のジェンダーをズラして、見てくれを「変わった人」にしていると、物好きや変わった人が話しかけてくる。男性的な格好でゴツゴツした感じよりも、女性ジェンダーをちょっとチラつかせてソフトな感じにした方が、人が接しやすくなると思う。「変わった人」になってスキをつくることで、街の知らない人と話すきっかけがつくりやすいと思う。まさか、お小遣いをもらえるとは。美人は得することもあるよね〜。笑

 

 

3.アナーキーなおっちゃんから生活保護の実情と、脱労働のススメを聞いた

 

 その後、自転車で通りがかったおっちゃんから生活保護についていろいろ話をしてもらった。おっちゃんは生活保護を利用して暮らしている。生活保護利用者が置かれている問題として、消費税が上がったにも関わらず、保護費が削減されているため生活が逼迫していると言われた。消費増税対策はおこなわれたが、それらは生活保護利用者には適用されないという問題を聞かせてもらった。おっちゃんは、年金生活者支援給付金が支給されても、収入認定されてしまい役所に没収されるそうだ。これはおかしいと役所に訴えていて、役所の対応次第では裁判をしたいとも語っていた。

 

 この問題については、みわよしこさんの『生活保護のリアル』に記事を見つけたので抜粋しておく。

 

 消費増税の前に、値上がりが生活を圧迫している。しかし、食料品には軽減税率がある。低所得層には「プレミアム商品券」、年金生活者には「年金生活者支援給付金」がある。クレジットカード利用者には、ポイント還元もある。 

 

 政府が準備している対策は、消費増税そのものや便乗値上げに対して、十分な手当てにはならないかもしれない。しかし一般低所得層の人々は、それらを並べて「まあ、これで、なんとかしなくては」と考えることができる。 

 

 生活保護で暮らす人々には、そのすべてが無縁だ。もしも、225000の商品券が入できる「プレミアム商品券」を入したら、差5000が召し上げられる。年金生活者支援付金を得たら、その分が生活保護費から減額される。クレジットカードの使用は禁止されているため、ポイント還元の恩恵もない。

 

 理由は、生活保護費が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しており、生活保護で暮らす以上、その「最低限度」の範囲で生活することが求められていることにある。

 

 

(引用記事のリンク、4-5ページ面)

diamond.jp

 

 

 また、生活保護利用者の生活は厳しくなっているが、その窮状について声が上げにくくなっているという。片山さつき橋本徹などの政治家や有力者が生活保護バッシングをしたため、生活保護に対するスティグマが強まり、利用者をより肩身の狭い立場に追いやっているという。このように生活保護利用者は政治により無力化され、現代社会の「いけにえ」にさせられていると語った。生活保護では芸術や文化が楽しみにくいという。文化は高所得層だけが楽しめばいいものではなく、庶民や貧しい人もある程度楽しめるものでないと文化として成り立たない。多くの人が消費活動や文化的な楽しみができてこそ文化や経済が活発になり社会が成り立つと語った。資本主義は完全な競争とすると社会が壊れてしまう。低賃金で過重労働させていると労働者の再生産はできず、貧困層を増やすと消費活動が停滞して資本主義が成り立たなくなる。資本主義は再分配を通してしか維持できないとするピケティの考えが頭を巡った。

 

 「ぼく、引きこもり気味であまり働けないんだけど、将来は生活保護を考えています」とおっちゃんに言うと、「それでいい。働かなくても、堂々と生きたらいい」と答えてくれた。おっちゃんもゆるく生きたい志向で脱労働を勧めていた。働かなくてもブラブラ遊んでいたらいいと語った。アナーキーだ。若い頃からゆるく生きたくて、働いてみたり失業保険で暮らしたり、タイで10年くらいブラブラして、最後のシメで生活保護を取ったそうだ。あまり働かずゆるく生きてる人と出会って話を聞けるのは大変心強い。今度、おっちゃんのところに遊びに行かせてもらう予定です。

 

 

4.匿名の存在として「対面」することで自由な対話空間が現れる

 

 このように、路上でひとり一揆をしてたら予期せぬことが起こった。生存権についてアピールしていると、思わぬ人と出会って対話ができたり、意外なことが起こって非日常空間が立ち現れる。一揆は「祭り」なのだ。わたしは、生存権のアピールそのものよりも、路上で何かしらアクションをすることで意外なことが起こるのを楽しみにしている。スピンアウトによって予定調和でないことを楽しむ。思わぬ出会いを楽しむ。レヴィナスは、他者とは無限の可能性なのだと言っていたそうだど、自分の広がりは他者によって可能になる事が多い。「個」の自己完結の孤独を破るのが他者の存在だ。時には見知らぬ他者の中に自分を投げ出していくことも大切だと思う。路上には無数の他者がいる。路上は宇宙なのだ。

 

 たくさん人がいる集会などは街の通りがかりの人も近寄りにくいけど、一人や少数でだらだらしながらアピールをしていたら街の人が話しかけやすくなる。声を荒げたり左翼用語を連発して威嚇するようなアピールをしていると人も近づきにくいだろう。マスでなくて個として市民と向かい合うなら、交流や対話もしやすくなるとも思う。目の前の個人に開かれている姿勢を見せることも大切だろう。

 

 今日は街で知らない人と生存権のことを話し合ったけど、対話の可能性について思ったこととして、立場の弱い側に対して聞く耳をもつこと、他者に対して開かれていることは前提となるだろう。相手にこちらの話が聞かれる余地があると感じた時、対話の可能性は生まれる。相手が「顔」として現れるのではなく、「壁」となると対話はできなくなる。路上での出会いは、世間や共同体から離れた「無縁」という立場の人にはピッタリだ。固定された集団ではなく、その場その場の出会いに重きを置き、「いま・ここ」を生きる実践になる。一期一会の出会いで生温かい思い出を積み重ねる人生もいい。しがらみから離れると人は思っている事を言いやすくなる。しがらみの中にいると、わたし自身が語るのではなく、しがらみの論理でしか語ることができなくなる。しがらみを離れ匿名の存在になることで、一人称の「わたし」が語り出すことができる。人は世間の立場を離れた「無縁」な存在になることで自由になれる。人は匿名の存在になってこそ言いたいことを言うことができ、対話をも可能にする。路上で出会う人は、みな一時的に平等に接することができる。立場や階級を離れた「対面」に可能性を感じる。

 

 奇跡はいずれ起こるだろうか。しかし、奇跡は何気ない小さな非日常やズレの集積の上で起こる。完全なる偶然はなく、常に偶然は何かの結果である。だから、しょぼいわたしたちにできることはズレる実践の反復のみなのだろう。

 

※今後は、路上での見知らぬ人との「対面」について考察していきたい。

 

Youtube】 


ひとり一揆(2/11)

 

 

【以前やった路上での活動】

 

 コロナ以前に引きこもりへの生存権保障(社会保障の個人単位化)についてビラ配りを何回かした。新聞記者の方や、引きこもりの甥をもつ人と話をして問題を説明できた。そこでも対話ができた。

 

note.com

 

 

【過去の関連記事】

 街や公園にいる緩そうなおっちゃんに声をかけて話ができることがよくある。西成ではよく見ず知らずのおっちゃんと話をする。いきなりギャグを言ったりアカン話をする変わったおっちゃんが多い。変わったおっちゃんとの出会いで心が軽くなる。超絶である。生きづらい人は変わったおっちゃんに出会って頭のネジを緩めていくのがいいと思う。

 

◉ 意識的にスピンアウトすることで非日常をつくる

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ 主流の価値から反転したアジールについて

nagne929.hatenablog.com

 

nagne929.hatenablog.com

 

◉ 「無縁」という匿名の存在になることについて 

nagne929.hatenablog.com

 

 

◉ 聞く姿勢をもち双方に変化をもたらすような対話がエンパワーにつながる 

nagne929.hatenablog.com

 

4コマ劇場(8)

経験した出来事を4コマにしました。変わった人に会うことで心がスッとラクになると思います。36〜40作目です。

 

【題目】

 

 

◉ 貧乏人の生き方

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◉ ドヤの風呂

 

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◉ パンツ事件

 

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◉ ラムネ?

 

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◉ ウィッグ

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