生きるための思想

脱・引きこもりする気のない半引きこもりです。引きこもりへの社会保障を求めている。旅とかブラブラすることが好きです。 メッセージなど →→ haruka.omae@gmai.com

男性の「生きづらさ」は女性差別に由来する

 

 11/19は国際男性デーということで、思うところをTwitterでツイートしてみた。そうしたら、ツイート内容が気に食わない人がたくさんいたようで引用RTで、「男性の「生きづらさ」は女性による男性差別があるからだ」、「女性の加害性を指摘しろ」、という反応がちょこちょこあった。これがいわゆるミソジニーである。これを材料に男性の「生きづらさ」は女性差別に由来していて、男性の解放は女性差別の解消によってしか実現しないことを書いてみたい。

 

 

 

1.「男らしさ」と「女らしさ」はフラットに扱えない

 

 男女が非対称のジェンダー体制における「男」と「女」というカテゴリーは、単なる《二つの差異》であるだけでなく、それらが階層的に序列づけられて《一つの差別》となっている。「男」とされるカテゴリーが優位性をもつためには、「女」とされるカテゴリーを有徴化し劣位に置くことによって可能となる。

 

「男」は「男」ではない存在を作りだすことによってのみ――つまり「女」というもうひとつのカテゴリーを作りだすことによってのみ――みずからのカテゴリーを保持することができる

 

竹村和子、2000、『フェミニズム岩波書店、pp.19-20)

 

 

 ジェンダー化とは、「女」のカテゴリーに特殊性や他者性をもたせることで劣位におくことであり、それによって「男」が「普遍的な人間主体」として君臨できる。つまり、ジェンダー体制とは「女」を性によってしるしづける記号支配のシステムのことである。このため、ジェンダー差別において「男らしさ」と「女らしさ」をフラットに扱うことはできない。この二者には階層的な非対称性がある。そのため、否定的に意味づけられた「女らしさ」の地位を回復し、「男らしさ」のもつ抑圧性を無くすによって、「〜らしさ」に由来する息苦しさを解消できる。「女らしさ」から否定的意味付けがなくなれば、男性も「男らしさ」から外れることに恐々とせずにいられるので、男性の解放にもつながる。

 

 2.男性が経済力を求められるのは家父長制による

 

  男性が経済力をもたなければいけないという社会的圧力は家父長制(=ジェンダー差別)に由来する。男性の「生きづらさ」として、経済力を求められたり過重労働になりやすい問題がある。これは、男性が一人で家族を養うことを前提に設計されている日本型雇用システムがもたらす「生きづらさ」だ。男性は経済力を得て家長として女性や子どもの上に立つことができるが、そのコストが男性に過重労働として跳ね返る。つまり、男性はたくさん働き、たくさん稼ぐべきだとするプレッシャーは日本型雇用システムが生み出し、それを支えるのが家父長制である。日本における家父長制は、女性に多い非正規労働者の賃金が低いために、男性の正規労働者がたくさん稼がなければいけないというジェンダー構造をつくっている。非正規労働者は誰かに養われることが前提になっているから低賃金が正当化され、逆に正規労働者は家族を養うことを前提としているから高い給与を得るために過剰労働となる。このように、家族の扶養関係に基づいて設計された家族単位の労働システムが労働において男性への重圧となっている。誰かに扶養されなくても生活できるように個人単位の賃金水準となれば、男性が家族を扶養するための負担も減っていく。非正規や女性の賃金が上がれば男性にかかる経済的負担は解消されるので、一人ひとりが経済的自立できるように最低賃金を大幅に引き上げなければいけない(時給1,500円以上)。女性差別に基づく日本型雇用システムを改め、ジェンダー・フリーな労働体系にすれば男女ともにジェンダー・ロールの重圧から解放されることになる。

 

 

労働システムの個人単位化については以下を見てください。

 

nagne929.hatenablog.com

  

3.生殖イデオロギー脱構築

 

 「男に女をあてがえ」という主張が、「少子化解消のため」という大義を都合よく動員してなされるので、それへの対抗言説を書いておく。

 

① 生殖行為は本能によるものではない

 生殖行為は本能によるものではない。性行為は性欲(=生理的欲求)からなされるというよりも支配欲(=所有欲)からなされるという事はよく指摘されている。性行為は生理的欲求を満たすというよりも、性行為に付随するイメージを実現しようとする行為だ。ああやってこうやったらいいなという幻想を満たしたいから性行為をする。性欲を発散させるには自慰行為で十分なはずなのに、他者の身体や生殖器を通して発散させようとするのは、セックスにまつわる思い込み(=性幻想)があるためである。性行為に他者を介したいと思うのは、自分の性欲望に他者を従属させようとする支配欲求に基づく。「性行為は性欲や本能からなされる」という言説は、性行為における他者への支配欲求をカモフラージュするための物語なのである。つまり、性行為を正当化するために用いられる「愛」や「生殖」や「本能」という言葉は、性行為における支配/従属関係から生まれる暴力性を透明化するために動員される物語にすぎない。「生殖は本能によるものだ」という言説こそ性行為を正当化するための幻想なのである。

 

② 「女をあてがえ」と言いたいために少子化解消が大義として都合よく動員されている

 

 自分の欲望を満たすために他者を動員する性行為はデフォルトで暴力であると書いた。そして、他者を妊娠・出産させることもデフォルトで暴力であることを指摘しておきたい。生殖を正当化する出生主義(=子どもを生むべしという支配的な考え)は産む側に一方的に負担をかける。そして、産む側が不利益を被りやすい社会において、その社会の構造を度外視したまま産む側に結婚や出産を迫ることは差別となる。このように、生殖行為はデフォルトで暴力であるから、当事者間の合意や産む側の負担を軽減する社会システムが求められるわけである。つまり、ジェンダー・フリーを進めることに気を払わず、ただ自己の欲望を満たしたいだけのために、「少子化解消のために女性は男性と結婚しろ」とか、「女性をあてがえ」と言うことは差別への加担となる。結婚して子どもが欲しいと言うのであれば、せめて今のジェンダー構造をつくる主体(=マジョリティ)となっているシスヘテロ男性が、女性が結婚・出産しやすい体制をつくることに積極的に動くべきであろう。

 

③ 子どもの生存保障がなされるべきである

 

 「少子化解消のために女性は男性と結婚すべきだ」と言う男性には、少子化解消を大義名分にして女性を自分の支配下におきたいという欲望が透けて見える。人口が減ると経済の活力もなくなってよくないと思われがちだが、地球規模では環境破壊や資源収奪が進んでいて人口増加は好ましくない。資本主義における経済成長は労働力と資源を収奪することでしか成り立たない。ゆえに、貧困や環境破壊を根本的に解決するには脱・成長の方向しかないと指摘されている(*)。つまり、経済成長よりも富の再分配によって社会問題は解決されるしかない。現在の経済や社会保障の仕組みは右肩上りの人口増加・経済成長を前提としたもので制度疲労をおこしている。人口が増加しないと年金などの制度が維持できないと言うならば、低成長を前提とした制度へとシフトするべきである。その上で、少子化解消を言いたいならば、婚姻外の親子への差別をなくし、子どもの生存保障を整えることが近道である。むしろ、子育て支援が十分にないことで男性が多く稼がなければいけない構造になっている。男性の経済的負担を減らすには、女性や子どもの生存権が保障されるシステムにするしかない。女性の賃金が上がり生存権も保障されれば、男性に多くの経済力を求めることもなくなっていく。男性の解放は女性が「自立」しやすい社会になることで可能となる。

 

(*)斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(2020、集英社新書)より。

 

 

詳しくは以下の記事でお願いします。

 

nagne929.hatenablog.com

 

4.男性は「大きな問題」を話したがる

 

 内田樹さんの「引きこもりは里山に行けばいい」という提言がひどく不評だった。山村問題へのアプローチの仕方が間違っているという指摘もあるが、山村問題という大きな社会問題について何か言いたいがために、引きこもりの人をダシにしたことも批判された。引きこもりの当事者がおかれた事情を度外視して、引きこもりの人たちを「100万人の引きこもり」という束で見て、社会問題解決のために自分が動員できる資源(=モノ)として雑に扱ったことで不評を買った。このようにリベラルや左翼的だと見える人でも、安保や原発といったデッカイ社会問題には積極的に飛びつくが、生きづらい人やマイノリティには無関心であり雑に扱うことが少なくない。知識人、特に男性は政治や経済などデッカイ問題ばかり論じがちだけど、それはマッチョイズムの姿勢ではないか。大きな社会問題を論じるほど威信を示すことができる。そのような「大きさ」が「男らしさ」の標識となり、高いポジションを得やすい。逆に、社会的弱者やマイノリティに関する細やかな話題は、目立たなくて地味だから関心を寄せない。

 

 「公的なこと」が男の領域で、「私的なこと」が女の領域というジェンダー的な構造があり、男性は「公的なこと」に取り組むことで権威づけられる。逆に男性が「私的なこと」に取り組んでも、社会的に評価されにくく、いいポジションを得られない。だから、男性は大きな話題ばかりに飛びついて、ミクロな問題を見たがらない。男性は「公的な存在」になることによってしか男性としての価値を認められにくい。男性は「公的なこと」を話すべきで、「私的なこと」を話したらみっともないと思われる。だから、男性は個人的な悩みを言いにくく、それが生きづらさとなっている。細やかさが取るに足りないことだと軽んじられやすいのは、生産性の論理が支配したマッチョイズムのためだろう。男性が安心して細やかさに敏感でいられる社会になるべきである。そのため、男性がもちやすい大艦巨砲主義の思考方式は改めていくべきである。

 

 

5.弱者男性問題は男性差別ではなく主流秩序による差別である

 

 いわゆる弱者男性問題というのは、男性というジェンダーだけに由来する「生きづらさ」ではなく、経済力、能力、ルックス、コミュ力など他のパラメーターによって不遇な状態になってしまう問題である。男性差別」という言葉があるが、ジェンダー構造において男性は女性よりも有利であり、男性の「生きづらさ」は他の要素に由来するところが大きい。あえて男性の「生きづらさ」をジェンダーの問題に還元したがるのは、他の要素を捨象して男性を一方的な被害者としたい発想があるためである。この発想は、「男性も生きづらいんだ」と言うことでどっちもどっち論に持ち込み、ジェンダー構造において下に置かれやすい女性の「生きづらさ」や、女性差別の問題を矮小化する方向に向かいやすい。だから、弱者男性の「生きづらさ」を語る際には、「男性差別だ」と言って女性を糾弾するのは筋違いで、主流秩序によって人のもつあらゆる要素がランク付けされる社会の偏差値主義を問うべきである。

 

 

6.非モテの問題

 

 非モテの一人として、非モテというのはしんどい人にはしんどい。非モテに対して、モテなくてもいいじゃないか、恋愛しなくてもいいじゃないかという意見はそのとおりなのだが、性愛幻想をもってしまった者は欲望を無意識の中に押し込むとこじらせやすいという問題がある。

 

 非モテというのは、異性との関係がないだけでなく、同性との関係も希薄である人が多いように見える(ここでは、シスヘテロに限る話をします)。だから、恋愛関係をつくろうと急ぐのではなくて、同性や異性に関わらず人との友好な関係をつくることをまず目指すべきなのであろう。男性は「強さ」を示すことで承認を得ようとしがちだが、「強さ」を示して人つながろうとすると競争原理に駆り立てられてしまう。競争原理では人との親密な関係には発展しにくい。男性的な「強さ」で競い合い、「強さ」で連帯をつくるやり方ではホモ・ソーシャルにも転じやすい。これでは、自分が優位になろうとするあまり他者に対して抑圧的になる。弱者男性にも、抑圧された状況から脱したいと思うだけでなく、抑圧構造の上に登り自分が支配する側に立ちたいという覇権主義的な発想をもつ人はいる。非モテの男性が「男らしさ」を獲得してホモ・ソーシャルの中で地位を高め、女性をモノにして支配したいと志向することは、ジェンダー差別への加担となってしまう。被抑圧者が抑圧者の側に立とうという発想は、自分が上に立つかわりに別の被抑圧者を生む。だから、他者を抑圧しない形の関係つくりを目指していくしかないだろう。

 

 

7.「ケアの関係」の構築

 

 男性の関係は《競争原理》に偏りがちだと述べた。これは、戦いの論理だ。だから、《尊重原理》に基づく平和的な関係をつくりにくくなる。自分が一方的に評価されて承認を得ようとばかり考えるのではなく、与え与えられる相互扶助的な「ケアの関係」を構築する必要がある。肩書き、スペック、能力といった「男らしさの鎧」でコミュニケーションをするのではなく、「鎧」の中にある自分自身を出して対話をしていくべきだ。「強さ」を見せて近づきがたい雰囲気を出すのではなく、スキをつくることで人が接しやすくする。かといって、「弱さ」ばかり見せて相手から温情を買うことをしたり、従属したいわけでもない。「強さ」も「弱さ」も積極的に志向せず、「変わった人」として規範からズレることで、誰かに対して抑圧的にならず自由度を上げるやり方をわたしはやっていきたい。

 

モテるかモテないかはよく分からないが、これらは人間関係つくりにおいて基本ではないかと思う。

 

これは、以前ブログで書いたので見て頂きたいです。

 

 

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年金は払ったら負けだ

1.年金払えないし、払っても将来生きられない

 

 国民年金の保険料は月額16,540円である(令和2年度)。この額はワーキングプアーの人には重すぎる。しかも、20歳から60歳まで40年間きっちり満額収めても、月65,000円程度しかもらえない(*1)。ワーキングプアーの人は生活費を削って年金をまじめに納めても、将来の生活すら保障されない。貯金もできないし年金だけでは生活ができない。何のために年金を払わされるのだろう。

  

*1 日本年金機構によると令和2年度は国民年金の満額は65,141円だ。

  

2.そもそも年金制度は社会保障ではない

 

 年金は社会保障ではなく保険である。年金は掛け金が多いほど受給額も多くなる。金がある人がより多く金を得られる仕組みであり、富の偏りをならす再分配ではない。だから、低所得者は年金制度の恩恵を受けにくい。年金が社会保障制度だとみんなに思われているために、ちゃんとした生存保障が整備されないままだ。政府も年金制度を形だけ維持することに必死で、庶民の暮らしのことは真剣に考えてない。集められた年金はどう運営されているかもよく分からない。集められた年金は年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)という組織で株式投資に使われているらしい。知らぬ間にトンデモナイ多国籍企業に投資されている可能性もある。GPIFはたびたび大赤字を出している。コロナ下の2020年1~3月期には18兆円の最大規模の赤字を出した。払った年金がアベッチやスガッチの株遊びで蒸発してしまう。GPIFは集めた年金で130〜160兆円規模の事業体となり「世界最大の機関投資家」「クジラ」などと呼ばれる。以前は、国民の資産をリスクに晒さないという観点から国債中心の低リスクの運用をしていた。しかし、安倍政権は2014年10月に基本ポートフォリオを大幅に変更し、株式への投資を全体の半分にまで増やすことを決定した。要するに、年金が株式購入の原資となりバクチに使われるようになった。株が当たって一時的に利益を上げたとしても、何兆円規模の赤字が出るとまたたく間に泡と消える。そして、アベノミクスでは株価引き上げのために年金が利用されるようになった。日銀による公的資金とGPIFの年金で大量の株が買われた。これで株価が上がって見せかけの景気回復を演出してハッタリをかましたのがアベノミクスであった。年金は政府が株遊びをするためのお小遣いとなっているのが実態だ。

 

 *アベノミクスで年金が溶けたことについての記事

lite-ra.com

 

3.賦課方式は世代間対立をあおり、将来世代にツケを回す

 

 現行の年金制度は昭和の高度成長が続くことを前提とした仕組みだ。将来に人口が増え、GDPも右肩上がりにならないといけない。しかし、人口は微減し経済成長も見込めない。現役世代が老齢世代を支える賦課方式では今の社会に対応しきれない。現行の年金制度では将来に年金が払われるかも分からない。これでは、将来世代にツケを回す「大洪水」となる。低収入の高齢者も多いため年金だけでは対応できない。また、若年者にも低所得者が多く年金を払う余裕もない。世代間扶助の発想ではお金を取るべき人から取れず、取るべきでない人のお金を取ることになり不公正が生まれる。このやり方では、富の再分配の問題がぼやかされる。若年世代に不公平感が植え付けられることで世代間の軋轢をうみ、若者VS高齢者という安易なトロッコ論法に足をすくわれやすい。これで得するのは資本家や富裕層だけだろう。現行の年金システムは社会的公正をもたらさない。

 

・年金制度を守るために少子化対策をするのは間違っているという記事

 

nagne929.hatenablog.com

 

4.年金は差別的なシステムである

 

 会社員などに扶養されている配偶者は保険料0円でも年金を納めているとみなされる第3号被保険者制度も見直されるべきだ。第3号は、正規職の男性と、その男性に養われる専業主婦やパート主婦の組み合わせを標準家族として優遇している。婚姻家族を基準にした税制や年金制度は、日本型雇用(=正規職・年功制度・家族単位賃金)のもとで働き家長になる男性と、主婦化する女性というジェンダー規範を再生産している。家族単位のシステムは主婦を経済的に支えるように見せかけて、家父長制を存続させることが目指されている。今の国民年金は正規職とその配偶者(第3号)しか事実上加入できない(あと、金持ちの経営者や資産家)。そして、日本で正規職に就けるのは《日本人、男性、シスヘテロ、モノアモリー、高学歴、中流、健常者》がメインとなる。年金はみんなに中立に見えるが、実際にその恩恵を受けられる層は限られているので差別的システムといえる。現行の年金制度ではマイノリティほど不利になる。だから、誰に対しても中立な無条件の生存保障が必要になる。

  

5.お金のない人は西成方式でいこう

 

 西成などで日雇い労働をして暮らしてる人は、収入がその日暮らしの水準であるため年金を払えない人や払ってない人が多い。貯金もできずに年齢を重ねる。高齢になったり病気になって働けなくなると生活保護を利用する人が多い。そもそも非正規や日雇いでは貯金もできず、年金も払えない構造となっている。今のように貧困層が貧困から抜け出せない社会では、できるところまでサバイブして、お金が尽きたら生活保護に移行する西成方式で生きるのが現実的となる。社会は将来不安をあおって人を働かせ、納税させ、年金や保険を収めさせ、貯金もさせる。将来不安をあおることで人々を資本のもとに‘包摂’する。しかし、低収入者が将来の安泰を求めてがむしゃらに頑張っても、手元にお金は残らずジリ貧でずっと生きざるを得ない構造となっている。だから、マジメに働いて将来に備えようという自己責任論の発想は問題の解決に結びつかず、きちんと生存権を求め続けることが重要になってくる。時代遅れで運用のやり方が怪しい年金制度を維持するのではなく、みんながちゃんと生存保障されるマジメな社会保障システムが作られるべきである。

即席の居場所をつくる:遊動型アジール

1.居場所とは「自立」ができる空間

 

 この社会での人間関係は生産性の論理に支配されている。学校では学力やスポーツ能力、教室で上手く立ち回るスキルなどが求められる。これらの能力による序列づけがスクール・カーストとなり、学生は序列の下位にいかないように能力をつけることに必死になる。仕事では職務能力に加え、組織で上手くやる能力、コミュニケーション能力などが求められる。学校や仕事といった公的領域において評価されなければ家庭という私的領域(=親密圏)でも居場所を失う。自分の立場を失わないために生活のいたるところで自分の有用性を示さなければならず気が休まらない。社会全体が評価原理で覆われていて人の存在そのものが尊重される空間がない。人は生産性の論理に従属することでしか自分の価値を示せなくなっている。つまり、生産性の論理が支配している限り、人は「自立」ができない。

 

 「自立」というのを「支配されていない状態」と捉えたい。「自由」とも言い替えられる。「自立」の反対が、規範や評価原理に支配された「従属」の状態である。「自立」を困難にしているのは個人の能力の問題ではなく、人をある基準により序列づけようとする主流秩序の仕組みである。主流秩序では学力、地位、経済力、ルックス、モテ力、コミュ力など人のあらゆるパラメータが資本の論理で序列づけられる。ランク付けの発想が支配する社会では、人は誰かの上でいることでしか自己の価値を示すことができず、誰かを蹴落としたりディスったりすることを平気でやってしまう。

 

 資本の論理が支配する社会では人の存在が無条件には肯定されず否定されることがデフォルトになる。そのため、社会で下位に置かやすいマイノリティや経済的弱者が常に踏みつけられ自尊感情まで奪われる。その秩序のあり方を変革する試みをしつつも、その秩序の風圧から逃れられる空間も必要になる。評価原理に侵されていない空間において、はじめて人は「自立」ができる。そのようなアジール(=避難所)の重要性を提言することは可能だが実際に作り出すのは難しい。だから、居場所つくりなどが手こずっている。

 

 

2.資本の論理から離れたくて人は居場所を求める

 

 資本の論理から離れた居場所は宗教共同体が担うことが多い。アメリカや韓国など日本よりも新自由主義が強く競争が激しい社会では、キリスト教がバッファーとなっていることで社会がパンクせずに回っている。日常から離れる非日常の空間が宗教的空間となっている。そのような後ろ盾があるから日常でも戦える。逆に宗教ネットワークに属さない人は不利になりやすい。日本では村落社会が近代化によって崩れ、都市に流れた人々は寄る辺を失う。この孤立感を埋めるように創価学会などの新興宗教が発展した。また、資本主義的な価値観を否定するヤマギシ共同体なども生まれた。このように寄る辺のない人や主流秩序で疎外される人々を吸収する形で宗教共同体は成り立った。しかし、オウム真理教サリン事件が起こると日本では宗教に対して悪いイメージがもたれるようになった。金儲けや権力に走る宗教団体もある。宗教は教義を共有することで成り立つ空間であるから、必ずしも生きづらさや社会的価値を共有する場ではない。そのため、宗教によらず、生きづらさやマイノリティ属性を通した繋がりをつくることが志向されている。日本における居場所つくりの盛り上がりは宗教共同体の代替を求めるものなのかもしれない。

 

 

 しかし、当事者の居場所などでも人間関係によって問題が生じやすい。メンバーが対等な関係でいようとつとめても、能力や力関係によってだんだん関係性に傾きが生じやすい。マイノリティの中でも、さらにマイノリティの立場にある人が居場所を奪われやすい(例えば、ジェンダー/セクシャル・マイノリティの中における経済力格差やコミュ力格差など)。どのようなコミュニティも面倒な人間関係がつきものだ。主導権を握ろうとする人が現れたり、上下関係が生まれたり、陰口やいじめなど誰かを「いけにえ」にしてしまうなど(=スケープゴートの論理)。人が集まると群生論理が支配しやすい。人の価値は他者との差異により意味づけられ、その意味づけは資本の論理に支配されやすいため、人間関係は階層的な序列づけに傾きやすい。

 

 

3.遊動型アジール

 

 固定された人間関係だけで居場所をつくるだけでなく、偶然出会った人と一時を過ごして即席の居場所をつくる非日常の実践でも「生きづらさ」は低減されると思う。街で知らない人に話しかけて会話をしたり、旅やブラブラして非日常を経験するなど場当たり的なやり方である。子どもの道草を思い浮かべてほしいが、学校帰りに小川で遊んだり、小さな塀をよじ登ったり、道や空き地で何か見つけて興味を掻き立てられる経験はその場で非日常を作り出す行為といえる。既存の居場所が空間や人が固定された「定住型」とすれば、空間や人が常に変わる居場所は「遊動型」と言える。知らない人や普段会わない人とならば、損得や日常のしがらみを気にせず比較的自由でざっくばらんな会話ができたりする。知らない人とならば非日常モードをつくりやすい。このような、その場限りの非日常もアジールとなる。非日常を経験すると超絶がおこり、もとの日常に戻っても違う自分に生まれ変わっている。このような、ポイント・オブ・ノーリターンを繰り返し自己の更新をおこなう。非日常のアジールを連続させることで、資本の論理からズレた「主体」をつくり上げることができる。このように、オモテとウラの複数領域をまたがる存在となることで、オモテの世界をなりすまして生きることができる。それによって、生きづらさを低減させることができる。

 

 

4.わたしのアジールつくり

 

① 街でゆるそうな人に話しかける

 

 街でブラブラしてるおっちゃんに話しかけたら、たまに会話が続き色んな話を聞くことができて面白い。手持ち無沙汰で誰かと話したい人もいる。そういう人には話しかけたら喜ばれる。

 

* わたしの出会った変わったおっちゃんは4コマ劇場で描いてます。

 

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② 旅をして偶然の出会いを楽しむ

 

 旅をして景色を見たり名所に行くことも楽しいが、普段出会うことのない人と出会える楽しみもある。歩き旅や鉄道旅などで大きな荷物をもっていると、旅モードの非日常感が出て人から話しかけられやすくなる。旅人はその存在が非日常なのだ。旅人でなくても日常から離れた存在になると一期一会の出会いが生まれやすくなる。

 

③ 野外で何かする

 河原でコーヒーを沸かしたりお茶をつくると、その場が、自分のアジールになったような気がする。その場を自分の居場所とする。焚き火などもよいね。

 

 


河原で野外カフェ

 

 

④ 電車でアーレントの本を読んでたおっちゃんに話しかけてみた

 

 電車の座席に座っていると、向かい側に座っていたおっちゃんがアーレントの本を読んでいた。気になったから「アーレント読んでるんっすね?」と話しかけてみた。おっちゃんにはビックリされたが、わたしが「労働主義が全体主義に結びついてますね」などと自分の考えを話したらおっちゃんも同意してくれた。おっちゃんはシャイだったため、あまり会話は続かなかったが、その場でアーレント的な価値をもつ人と一時を過ごすことができたことに意味があると感じた。こういうのを「しょぼい現れの空間」と呼んでみたい。

 

⑤ 変わった格好や行動をしてスキをつくる

 

 わたしはしょぼい女装をしている。女装をするなど変わった格好をしていたらスキができて人が接近しやすくなる。いろんな人から話しかけられた。「あんた、なんやその格好は」とおっちゃんから絡まれワイワイ話したことが楽しかった。変わった人になれば今までとは違う世界が少し開けてくる。

 

 

・非日常にスピンアウトすることの意味を書いた記事

 

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労働主義と全体主義

1.「仕事さえできればいいんだ」という考えが甘えを生む

 

 この社会では仕事により「自立」ができたら一人前と見なされる。だから、みんな身を立てるために頑張って仕事をしようとする。仕事ができなければ本人の能力だけでなく人格や態度まで問題視される。労働はただ生活のためにするだけでなく、差別されないためにするという動機が大きい。労働・結婚・家族という主流秩序の王道にいたら、それらが「鎧」となりその人の落ち度が突かれにくくなる。逆に、働けない人はそのような「鎧」がないため、内面や態度がジャッジの対象にされやすく、落ち度が過度に問われるようになる。主流秩序に乗ることで落ち度を問われない特権が得られる。見かけ上の経済的「自立」を達成していれば、他の面については問われにくい。金さえあれば他のことを問われない立場になることが特権なのだ。

 

 例えば、家庭内でわがままだったり、職場でパワハラや嫌がらせなどをする人でも、仕事ができたらひどい行為は度外視され放免されやすい。労働さえできれば多少ひどい事をしても問題ないという「認知の歪み」が生まれる。労働主義が仕事のできる人を甘えさせていると言える。アルコール依存症の人も、大酒飲みでも仕事がデキる人が多い。夫が依存症で家族が困っていて妻が誰かに相談しても、「旦那さんは金稼いで家族を支えてるんだから大目に見てあげなさい」と返されることも多い。このように、労働主義がいろんな問題を見えにくくさせ事態を深刻化させることが多い。依存症は「否認の病」とも言われる。アルコール依存症の人の多くは「俺は酒飲みやけど仕事ができているから問題ない」と依存症であることを否認する。仕事ができることがかえって依存症に向き合わない口実にされる。仕事ができることが隠れ蓑にされ、その人のもつ負の問題にメスが入りにくくなる。

 

 

2.労働主義が「凡庸な悪」を生む

 

 一般社会では善良に見える人でも、職場で高い地位にいると、人を呼び捨てにしたり、大声で怒鳴ったり、自分より目下の人をひどく扱う。あれは立場に甘えているからできることだ。善良に見える人も立場を得ると人が変わる。これは、「凡庸な悪」だろう。「凡庸な悪」とは、普段は善良な市民に見える人が、何らかの形で自分が優位な立場にいると思い込むことで、他人にひどい事を平然とでするさまを表現した言葉だ。労働では地位や能力での序列づけが正当化されるので「凡庸な悪」を量産する。能力主義がものをいう空間ではデキる人がデキない人を蹴散らして支配する人間関係がはびこり、人権という市民社会の光がかき消されやすい。労働の場こそ暴力や差別が公然とまかり通る空間ではないか。労働主義こそ全体主義の温床になっていると言える。

 

 東日本大震災原発事故以後に「0円生活」の実践や「いのちの電話」をしている作家の坂口恭平さんがYoutubeで話していたことで印象に残ったエピソードがある。反原発デモに出かけて、抗議する人たちの前に立ちふさがり警備する一人の警備員の顔を見ると泣いていたという。権力の側としてデモ隊の前に立っているが、こんな仕事したくなかったという思いがあったのだと思う。権力の尖兵は必ず「悪」なのか。仕事のために、生活を人質にとられて「悪」をやらされているのではないか。ブルシット・ジョブという言葉がある。社会にはあってもなくてもどうでもいい仕事や、むしろ社会に害を与える仕事で溢れている。そういった無駄な仕事や害になる仕事はやっている人の良心をも傷つけていく。労働主義によって「悪」が正当化され、人々の尊厳が傷つけられている。

 

3.社会正義のためには労働至上主義からの解放しかない

 

 ハンナ・アーレントによると、労働主義が強まり人々が私的利益の追求ばかりするようになると、社会から公共的なものが衰退し全体主義に陥ったという。アーレントは人々の営為を「労働」「仕事」「活動」という言葉で表現した。金が稼げる「労働」ばかりが肥大化すると、創作活動などの自由な「仕事」、政治や社会問題の話し合いなどの民主主義に欠かせない「活動」の割合が減っていく。労働で余裕がなくなると人々は社会に目を向けなくなる。経済力をつけ主流秩序の上に行くことばかりを考えるようになり、立場の強い者をより強くし、金持ちが優遇される政治を求めるようになる。人々が労働でてんやわんやになりジコチューになったほうが社会の主流秩序は強まり権力には願ったりかなったりだ。そうすると、多様性が損なわれ社会的弱者やマイノリティの生きにくい社会がうまれる。

 

 労働主義を強めるには、労働でしか生存できない社会にすることである。社会保障をなくし生産手段を奪うことで労働でしか生きられないようにする。労働時間が長いと自分で料理をする暇がなくなり、外食やできあいの惣菜を買わせられる。このように人から自分で生活の要素をつくる手間や自給する資源を奪い、商品を買わせるサイクルをつくることで資本主義は拡大していく。資本主義では金を払えば何でも買えるが、「商品」を消費することでしか生きていけず、労働−消費の相互依存により人を資本に完全に従属させる。また、人々が金をもてあまして貯金されたら人々は労働しなくなるので、働いても金がたまらないように低賃金にして常に貧困状態にしておく。さらに、貧困層が働いても金が残らない課税システムをつくる。このようにして、人々が労働では豊かになれない仕組みをつくる。「働いたら負け」の構造をつくりつつも、働き続けることを強いる奴隷状態に人を置く。社会は労働が美徳だとメッセージを発するが、労働主義は社会を壊す。民主主義や倫理的な生活というのは労働時間の削減や生存保障なくしては実現ができない。労働至上主義は社会正義と両立できない。

ケアの論理

1.「女をあてがえ論」ふたたび

 

 もてない独り身の男性をケアするために「お節介なおばちゃん」が必要だというツイートが話題になった。街のおばちゃんは、孤独に苦しんでいる男性にも暖かく声をかけ、関心を寄せ、いろいろお膳立てしてくれる存在なのだという。「非モテ男性に女をあてがえ」と言っている男性は多いが、これは女性を自分の地位達成・情緒的ケアのために都合よく動員する発想なので性差別であると非難されてきた。今回のツイートでは、若い女性にケアを求める発言をするとあからさまな女性のモノ化だと非難を受けそうだから、「女性」の規格から外れた「おばちゃん」を持ち出してきたのだと思う。男性同士でケアをする発言が出てこないのは、やはり女性にケア役割を求めているためだろう。また、おばちゃんなら自分たちに積極的にお節介を焼いてくれるから、自分から動かなくても自動的にケアを受けられるという発想があるのかもしれない。女性はすすんで男性をケアすべきだという無償のケア要因として女性を位置づける社会のホモ・ソーシャルは根強い。

 

 

2.「ケア」は稀少財となっている

 

 ジェンダーロールとして女性はケアの与え手になるべきという規範がある。男性は企業で働くなど前線で戦い、女性は男性を後方支援すべしというジェンダーロールは根強い。表舞台で活躍する男性を、女性は影で目立たないようにさりげなくケアするのが美徳だとされる。ケアは「愛」からなされるのが美しいとされ無償ですることが正当化される。ケアは労働者を支える再生産労働というシャドウ・ワークとなり貨幣評価から度外視される。ケアは人を支え、よりよく生きるための資源を与えているにも関わらず、効果が目に見えにくく些細なことだと見られタダ働きとなりやすい。例えば、キャバクラやクラブなどは非日常空間で女性と会話を楽しむ場であり、ケアはサービスに入ってない。しかし、金を払っているんだからと男性客がホステスさんにケア役割を求めがちになる。このように、スキがあれば女性からケアを引き出そうとする。競争がはげしく肯定感を得にくい社会では人はケアを求めたくなる。しかし、男性は女性にケアを押し付けがちとなる。これは、男性がケア関係をつくりにくいことにも原因があるだろう。

 

 女性は男性をケアすべきだというジェンダー規範は、まず、特定の人にばかりケアを押し付けるから不平等だと言える。ケアというものは時間や傾聴力、対話力、相手への関心をもつ努力など、いろいろな資源を使う作業だ。しかし、精神的な癒やしは目に見えにくいからケアは大したことがないと思われてしまいがちである。だが、これだけの資源を相手から奪うのであるから対価があってしかるべきなのだ。ゆえに、自分がケアをしてもらいたければ、①対価を払うか、②自分もケアの与え手になり相互扶助的にやることでフェアとなる。

 

 自分だけが一方的にケアをされたいといのは、相手の資源を一方的に収奪することになる。だから、セラピーには対価が発生する。自分が思っていることを話して誰かに話を聞いてもらうというのは、対価を払う以外には親密な関係性をつくることで可能だろう。しかし、そのような親密な関係性は現実では作りにくいからケアは難しいものとなる。言いっぱなし聞きっぱなし方式でお互いの話を聞きあう依存症の自助グループなどは「ケアの相互扶助」という原理で成り立っているのだろう。親密性は贈答原理によるので、相手から与えられるには、自分も与えなければならない。つまり、「過剰」な人になる。祝祭的な存在にならないといけない。

 

 

3.承認欲求オバケはなんで疎んじられるのか?

 

 承認欲求をこじらせている人が疎んじられるのは、自分が一方的に与えられる側(=奪う側)にいるからである。人はなぜ他者に話したがるのか?自分の言葉が他者に受け入れられ他者を変化させる感覚を得ることで“快び”を感じるからだろう。つまり、他者と関わることで自己効力感が得られるからだ。相互に言葉を投げあいお互いに影響を与え変化を感じることに学びやケアはあるのだろう。だから、言いっぱなし聞きっぱなし方式ではなく対話方式の方にセラピー効果があるのだと察する(オープンダイアローグなど)。しかし、自分が承認されることだけを考えている人は、自分が相手の言葉を真摯に受け止めたり、相手に何かを与える余裕がない。だから、与える側は手応えを感じることができない。相手との対話を無視して自分の話ばかりしていると、相手に対して自分を受け入れるよう求めるだけで相手の資源を一方的に消尽することになる。相手の言葉を聞いていたとしても、相手から学ぼうという姿勢がないなら、相手の言葉を受け止めることができない。だから、話す側は砂漠に水をまいてもすぐ乾いてしまうような徒労感をもってしまう。のれんに腕押し的な空回り状態となる。自分だけが一方的に与えられることで満足しようと考えている人は、相手からの資源を奪うだけで、相手にとっては学びがないので相互的な関係が築きにくい。

 

 

4.男性は「資本の論理」で関係をつくりがち

 

 誰かにケアされたいなら、自分が与えまくる存在にならければいけないだろう。損得を考えず与える。ポトラッチだ。「過剰」を振り回し祭りのように生きてると、知らず知らずのうちに誰かにいろんなものを与えている。だから、他人からもいろいろ与えてもらいやすくなる。「男らしさ」というジェンダーには、理性的で落ち着いて、感情的になってはいけないという規範がある。つまり、シラフでいることが求められる。これは、会社人間的な存在でいろという資本の要請かもしれない。「男らしさの鎧」という表現があるが、男性は肩書きや地位といった「鎧」でコミュニケーションをしがちである。男性は資本主義社会で通用する学歴、地位、所有物を「鎧」として身にまとって競い合いをしたり、同格の「鎧」をもつ人とは連帯感をつくる。だから、「鎧」を外せない。「鎧」を外せなければ自分の内面を見せられないので、ケアからはどんどん遠のいてしまう。このように、男性のコミュニケーションは資本の論理によりなされがちだ。

 

 

5.ケアの論理は「かけがえのなさ」で成り立つ

 

 資本の論理が貫く日常の領域では、どれだけ「役に立つか」という有用性に基づいて関係がつくられる。つまり、《交換原理》が支配する。仕事の同僚などである。一方、親密な関係は損得では測れない《贈答原理》に基づく。無条件に与え合う関係だ。友人や仲間などであろう。しかし、「男らしさの鎧」を身に着けた男性は資本の論理に基づくコミュニケーションを友だちや恋愛でもしがちなのではないか。男性が女性を自分のものにするために金品を与えて歓心を引こうとする。また、気の利いたリッピサービスも頻繁におこなう。それで相手の心はつかめるか。金品そのものや耳ざわりのいい言葉だけでは難しいのではないか。モノや金、誰でも言えるセリフは、その人でなく他の人でも与えられるので代替可能なものだ。つまり、《交換原理》によるもの。しかし、代替可能なプレゼントや言葉でも、自分と相手との深い関係によって意味付けされると代替不可能な特別なものに変わる。これが、「かけがえのなさ」なのだろう。このように、相手との感情の交流となるケアの関係も代替不可能な《贈答原理》に基づくだろう。だから、《贈答原理》が求められる相互的なケア関係で、金や肩書きを示して《交換原理》を持ち出すとチグハグになる。くさい言葉だが「かけがえのなさ」はお金だけでは買えない。尊重の原理に基づく内発的な情動に基づく。時間と深い関わり合いを必要とする。子どものとき友だちだった人に経済力や役に立つことを求めていたか。それを考えてみればいいのではないか。《業績ベース》の人間関係ではなく、《存在ベース》の人間関係の中にこそケアの論理はあるのだろう。

 

 

6.「変わった人」になる

 

 「男らしさ」というのはしっかりした態度や、頼りがいがある様子などを指す。社会で生きる男性の行動原理は資本の論理に基づくのでガチガチのロボットみたいになる。街中で誰かに話かけようとしてもスーツ姿のサラリーマンには話しかけにくい。忙しそうで急いでそうだから。スーツ=戦闘服なので、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。人から構われたり話しかけてもらいやすくするには、スキをつくるのがいいと思う。「男らしさの鎧」を脱いでいくと人がつけ込むスキが生まれるのではないか。多くの人はスキができるのが怖いのかもしれない。しかし、スキをみせてヘラヘラしていると人が寄ってくる。「男らしさの鎧」をまとっていると表面的な部分でしか他人と関われず、人の奥にダイヴできない。人は、シラフではシンクロしにくい。シラフでない「祭り」の要素が必要になる。だから、非日常の「過剰」な存在にならないといけない。

 

 わたしは、このような「男らしさ」の堅苦しさからズレようと女装っぽいことをしている(のかもしれない)。一言でいうと、訳のわからない格好をして「変わった人」を実践している。これで、街を歩いていると物好きな「変わった人」から声をかけられることがある。訳のわからない格好をしてるとツッコミどころがあり、人から関心をもたれやすくなり、構われやすくなる。スケベ目的が多いが、街の人たちと談笑しやすくなるのはよい傾向だと思う。女装をしなくても、知らないおっちゃんに声をかけて話が始まったりもする。自分が話しかけてもらうのを待つだけでなく、自分から声をかけていくのもいいのではないか。街にいるおっちゃんも寂しさを抱えて手持ち無沙汰でブラブラしてる人も多い。そういうおっちゃんに話しかけて、孤独感や疎外感をお互い埋め合わせれば世の中から孤独が薄れていきよいのではないか。話しかけたら気さくに応じてくれるおっちゃんも多い。街の人はたいてい一期一会の関係だ。その場限りの会話なので、後に引きずることがなくちょっと突っ込んだ無礼講的な楽しみを得られる。職場で緊張して当たり障りのない会話をするよりははるかに気が楽ではないか。男性は体面を気にせず「変わった人」になっていくべきなのかもしれない。世間ではトンデモナイと思われることをして「変わった人」になることで、スキができて人との関係の契機が生まれる。

 

 また、女装?には意外な効果がある。男性の多くは女性に癒しを求めるが、わたしは女装?により自分を女性化して自分自身で癒しを自給できているのかもしれない。女装?はセルフ・ケアや、セルフ・エンパワーメントになっているのかもしれない。

 

 もし、あなたが孤独をかかえていて街で知らないおばちゃんに声かけて欲しかったら、わたしが声かけてあげます。だから、京都か西成に来なさい。笑

 

 

写真①:西成の公園にいる猫たち。猫のように街中で気楽に交流できれば孤独も減るかもしれない。

 

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写真②:女装っぽい格好。これで、自分の殻(=男らしさの鎧)をすこし破ることができたかも。

 

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4コマ劇場(4)

わたしの経験したことや、聞いたことを4コマ漫画にしてます。

ブログでは硬派なこと書いてるけど、他愛ないことが好きです。

 

 

◉ はじめてのパトカー

 

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◉ 西成とジェンダー

 

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◉ あいりんセンターのおっちゃん

 

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◉ 青春っすね〜

 

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◉ 嘘つきのおっちゃん

 

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「自立」について

1.マナー(=規律)はキモい

 

 わたしは、2017年にパソコン関係の職業訓練を受けていた。通所していると給付金がもらえるためである。また、当時は友だちの家に住ませてもらい世話になっていた。働かずにブラブラするのは友だちからいい顔をされず家を追い出されそうだったので、仕事をする意志を見せておくために職業訓練に行っていた。つまり、仕事をしないことを職業訓練でカモフラージュしていた。当然やる気は沸かなかったし講習にもついていけなかった。というか、パソコンの練習をしても全く上達しない。講習のスピードも速すぎてついていけない。三ヶ月ほど過ぎた後、マナー講習なるものがあった。講師のおばちゃんが来て、話し方やお辞儀の仕方などを受講生にやらせた。お辞儀の角度などもいろいろ言われた。安くこき使われるのに、そんなに礼儀正しくすることがバカバカしく感じて気持ち悪くなった。そのマナー講習で、職業訓練そのものに嫌気が指した。すべての給付金を受け取れることが確実になると職業訓練をやめた。働く気もなくて、なんだか旅に出たくなった。職務能力はまったく身につかず、給付金だけもらってお遍路に出かけた。

 

 さて、仕事などでマナーを求められて嫌な思いをした人は多いはずだ。わたしの知り合いが昔、職業訓練に行っていたときに受講生に元ヤクザの人がいて、マナー研修の時間に「そんなかったるい事やってられるか」と怒鳴って帰ったそうだ。いわゆる「社会人」になるためには、型にはまったマナーとか訳の分からないものが求められるから、働く意欲があっても働きたくなくなる人が増えるのだ。

 

 

2.「自立」のために進んで権力に「従属」する

 

 こういった社会人に必要なマナーというのは、学校時代から身につけさせられる。歩き方に始まり、起立・礼・着席、集団行動の法則、授業の受け方、食べ物の食べ方、人との会話の仕方まで、すべてに定型があるかのように訓練させられる。しょうもないやつでも型だけのマナーができていればあまり咎められない。フーコーのいう規律訓練だ。規律訓練はあからさまな暴力という形ではなされず、規律に従うのは何となく正しいことだとみんなに思い込ませ、知らず知らずのうちに規律に従う身体をつくりあげ、権力へ従属させることで達成される。自分の周りの人たちからの影響だけでなく、メディアや主流の言説などを通して、無自覚に規律的な行動をおこなう従順な身体を権力はシレーっとつくりあげる。むしろ、自発的に規律を身に着けようとする人たちもいる。自発的隷属いいじゃないか、主流秩序バンザイである。

 

 このように、社会不適合者を社会に適合させようとするために規律訓練がなされる。引きこもりやニートの就労支援や作業所などの現場でも多くなされていることだろう。人を社会復帰させる時には、職務能力だけでなくマナーといった規律も身につけさせようとする。こうやって主流秩序を脅かさない従順な「主体」を作りあげる。社会のいうところの「自立」とは、権力への「従属」である。キツく言うと奴隷の育成である。こういったマナーなどを過度に求める社会のあり方が、マナー講師などどうでもいい無駄な仕事(=ブルシット・ジョブ)を生んでいる。

 

 資本主義社会では、金を稼ぐことが人として認められるための前提となっている。人はちゃんと仕事をして他者から一人前と認められて、やっと「自立」しているとみなされる。「自立」なるものが、他者の承認に「依存」している。だから、人は一人前に「自立」するために、積極的に資本の論理に「従属」する。ん?なんだか矛盾してないか??

 

 

3.弱者を追い詰めるために使われる「自立」という言葉

 

 自分が生活するための金を稼げる事が「自立」とされ、みんなが達成すべき状態として高い地位に置かれている。このため、このような見かけ上の経済的「自立」を達成していれば、他の面については問われにくい。金さえあれば他のことを問われない立場というのが特権なのだ。

 

 資本家は労働者の生み出した剰余価値をかすめ取って利潤とするし、株主も自分が何も手を動かさず労働者の生み出した富から利益を得ている。高い報酬や給与というのは、誰かの犠牲の上で成り立っている。それは、国内のワーキングプアーや、途上国のサバルタンの人たちの低賃金労働によってかもしれない。資本家や株主、高給取りの人たちが、見かけ上は経済的「自立」をしていても、それは労働者の生んだ利益を土台としている。金さえ手に入れば「自立」しているんだという自立観念が、労働者の生んだ富に寄生する資本家や株主という図式を問えないでいる。

 

 そもそも、人は他人・制度・資源などに依存していて生きていて、誰一人「自立」していない。しかし、経済力がある事が「自立」だとする狭い自立観念により、自分が経済的に強い立場になると「自立」していると思いやすくなる。自分が多くのものに依存して生きているのにも関わらずそれに無自覚でいると、自分の状況を差し置いて、弱い立場の人にだけ「自立しろ」と迫る傲慢な人間になる。自分が社会の多くに依存していることに気づかず無自覚でいられることがマジョリティの特権性なのだろう。このように、「自立」という言葉は経済的に強い立場の人により都合よく使われる。お金だけあればいいんだという自立観念が、自分が社会に依存している存在であることを無視するエゴイストを生んでいる。労働さえすれば社会的責任を果たしていると思い込むことで、労働さえすれば他の事や社会の事はどうでもいいのだという社会的無責任も生んでいる。

  

 生活保護を利用したりする人を税金泥棒と言う人たちがいる。少額の万引きに対しても過度な刑罰が課せられバッシングの声も大きい。こういった発想を支えるのは「私的所有の原理」だ。土地や資源などは本来誰のものでもないのに、法によって誰かの帰属物として正当化される。しかし、この「私的所有の原理」は、弱い立場の人を追い詰めるために用いられる場合が多い。ホームレスのおっちゃんが数百円の万引きをしただけで世間はギャーギャー騒ぐけれど、桜の会や森友、オリンピックや万博、GOTOの利権、中曽根の葬儀などで税金を食いあさる権力者のかっぱらい行為は堂々と見逃されている。「私的所有の原理」はその適用のされ方において不公平なのだ。生きるためにわずかな金を社会に依存していることは咎められるのに、庶民から吸い上げた税金を自分たちの友だちで回して食い物にする権力者が牽制されないのは不正義なのだ。このように、一見中立でもっともらしいルールも立場の強い人たちによって都合のいいように歪んで運用されてしまう。

 

 

4.家族単位のシステムが「自立」を妨げている

 

 日本はシステム上、個人を自立させないような仕組みとなっている。それは、家族単位のシステムに問題がある。最低賃金が安いため一人暮らしをするのに十分な稼ぎを得られない。そのようなワーキングプアーは家族に依存せざるを得ない。女性の賃金も安いため稼ぎのある男性と結婚することが生存戦略となってしまっている。経済的なことは家族に依存すればいいという発想をもとに低賃金が正当化され、労働システムが家族主義に貫かれている。社会は個人に経済的自立せよと迫るが、自立がしにくい構造なのだ。また、福祉を利用することは「自立してない」と差別され社会的制裁を受けるために、低賃金でも働き続け、家族の下にとどまろうとする。このように、家族単位の社会では人間関係は家族に依存することが前提となる。家父長制のもと家族内では稼げる男性と依存する女性という二者関係となり、「依存/支配」がベースになる。家庭内では、男性が女性を支配するジェンダー差別と、親が子どもを支配するエディプス構造という二重の抑圧が生まれる。この家族の外延に学校・会社などの組織がある。社会全体が家父長制の擬似的家族となる。これに対し、個人単位の社会では「自立/連帯」がベースになっていく。個人単位で生存保障がなされることで、誰からも支配されない自立した個人が、選択的に色んな人と適度な距離感で関係しながら生きていける。人との関係が尊重ベースになる。

 

   わたしなりに「自立」を定義すると、「他者への抑圧をできるだけ減らしながら自由になること」となる。多くの富を得ることはそれだけ誰かを蹴落とすことになる。偉くなってふんぞり返って自分の特権性を顧みず威張り散らすのもみっともない。みんなが偏差値70にはならない。どこかにしわ寄せがくる。主流秩序の上へ上へと目指すことは差別への加担になる。だから、上にいる者はその特権性に付随して社会的な責任も生まれてくる。その責任にちゃんと応えようとする倫理的態度が求められる。ただ金稼げばいいのだという日本的金満は社会の格差と差別を助長するだけだ。主流秩序における自分のポジションを自覚した上で、できるだけ、ほどほどに生きるのがいいのだろう。