生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

社会の役に立たない人間はゴミだと?

1.社会の役に立たない人間はゴミだという論理

 

発達障害者は社会にとって迷惑だから、子孫を残さないでくれ」、「障害者はゴミ」というメッセージが、ツイッターの質問箱を通して発達障害者当事者に送られていることが騒ぎになっている。

 

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以上の「障害者は社会の迷惑で、ゴミだ」という発言と、それに対する反論等を見ていて思う所があるので、ブログに書いておきたい。

 

 

 

まず、「障害者」とはそもそも存在するものではなくて、社会的に構築される。

 

マジョリティと相対的に異なり、その程度が甚だしかったり、生きるのに不自由がある者が、医療により「障害者」と名づけられる。社会が均質性を求め不寛容になるほど「障害者」は増える。

 

空気を読むことが求められたり、お笑い番組などの影響で会話の中に面白さやイジリなどの要素が求められたりと、コミュニケーションが複雑化して、それについていけない、耐えられない人たちが「発達障害者」や「精神障害者」と判を押されるのではないか、という見方もある(周りと同調できない人を「アスペ」と呼んだりするのに典型的)。

 

障害者はマジョリティの支配する社会では生きづらいので、公的サポートやマジョリティからの支援や理解を要請する。そこで、マジョリティと異なる言語コードをもつため軋轢をおこしたり、自立できない障害者に対して、「障害者は役に立たない」「社会にとって迷惑だ」というマジョリティ側の発言がよく露出する。

 

以上の発言に対して、「障害者も輝かしい実績をあげている」、「障害者も社会で役に立つ」という語り方で、障害者を肯定する流れが出てきている。

 

しかし、「社会で役に立たない者は必要ない」という発言に対して、「無用と思われているモノが実は役に立つ(人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり)」(荘子)とか、「種の中に多様性があるほうが、種の存続が保たれる」などという反論の仕方は、何かしら違和感を感じざるを得ないのだ。

 

「役に立たないと思われていた人間も、見る視点を変えれば役に立っている」という主張も、結局は誰もが社会の役に立つことが必要だという前提があるからである。

 

多くの場合、社会の役に立つこととは、富を生み出したり、富を生み出す者を支えたりする行為である。

 

私は、この市場経済において評価されるか否かで、人の存在価値が決まってしまうという根本的な選別的思考が問題だと考えるのである。

 

 

2.存在自身が無条件に肯定されることが必要

 

マルクス経済学での「労働」の定義は、有用つまり役に立って価値を生む人間活動ということです。ただし、この価値というのは交換価値、つまり「売れる」、市場に出してお金と交換できるということ

 

(落合恵美子(1994)『21世紀家族へ』、有斐閣選書、p.35)

 

一般的に「役に立つ人間」という言葉は、マルクスの言うところのお金を生み出す「価値のある人間」という意味で使われる。

 

発達障害者でいうと、ビル・ゲイツやスティーブン・ジョブス、科学技術が富と結びついた現代ではアインシュタインなどは、「役に立つ人間」とされる。

 

「歴史に残る天才や社会変革を起こした人物は発達障害者が多い。発達障害者は社会に必要だ」という主張は、発達障害者は何らかの才能をもち、「社会に役に立つ」=「価値を生み出す」存在にならないと肯定されない、という危うい選別的思想を導き出すことに繋がりかねない。

 

障害者や生きづらさを抱えた人にプレッシャーを与えることになると思う。

 

例えば、ニートが自身への嫌悪感を込めて「自分は社会の役に立たない。お荷物だ」と言う。

 

この社会が市場経済の価値に支配されているから、「役に立たない」=「価値を生み出さない」存在として自分を蔑んでしまっているのだろう。

 

 

価値を生み出す有用なことをしなけらばいけないと私たちはプレッシャーを受ける。

 

存在自体が無条件に肯定される社会を目指すべきではないのか?

 

我々は、「この世に生を受けたからには、何か成さねばならない」という強迫の軛(くびき)から解放されるべきだ。

 

これは、障害者に限った話でなく、生きづらさを抱えた人にも当てはまる考えである。

「生きづらさ」を問い直す

1.「生きづらさ」は克服されるべき対象ではない

 

ニート、引きこもり、低所得生活などの情報を、いろんな媒体を見て思うのだが、いわゆる「生きづらさ」について、かゆい所に手が届くような情報が少ないと感じる。

 

ニートや引きこもりは、脱出すべき対象として、社会復帰できたハッピーエンドの事例ばかりが紹介される。

 

また、ニートや引きこもりを肯定する識者インタビューなども、識者自身が社会的に地位を得た人であるため、生きづらさについて語られても空虚感を感じることもあるだろう。

 

phaさんや大原扁理さん達が、社会に適応できない人がゆるい生活を送り、仲間たちと楽しく生活している様子を本で描いて、社会にオルタナティブを提示したことは画期的ではあった。

 

しかし、どうも社会に提示される「生きづらさ」への処方箋では、「生きづらさ」は克服されるか、楽しみに変えていこうという方向性しか示されていないようだ。

 

しかし、生きづらさを抱えた大抵の人は、彼らのように器用ではなく、つまらなくて変化のない日常を送っている。実際は苦しさの中でもがいている人が多い。

 

仲間もいないし、楽しみを見つけることもできない、あるいは、楽しんでいる余裕すらないのかもしれない。

 

「生きづらさ」は簡単に乗り越えられるものではないし、そのまま肯定されてよい。

 

 

2.灰色の生活でも仕方ない

 

逆に言うと、みんなが真似できない憧れの生活をphaさんたちが実現しているからこそ注目され本が売れるのだ。誰もが実践できる生活は憧れの対象でもなんでもなくなる。

 

しかし、生きづらさを抱えた人の多くは、不器用で、大した能力ももっていなく、思うようにいかない灰色の日常をおくっている。

 

残念ながら、そのような灰色の生活を描いた本はつまらないので売れないだろう。

 

つまらない生活は避けられるものとして価値を与えられてない。ネガティブなことは隠すべきことで無化されてしまう。

 

でも、生きづらい人は、つまらない生活を送っている他人の存在を知ることで、共感できることが多く、心の安定にもつながるのでは無いだろうか?そこから繋がりも生まれそうである。

 

3.「生きづらさ」をそのまま見せつける

 

生きづらい人には、楽しいニート生活とかの情報ではなくて、楽しくない、パッとしない日常を、何とかしのいで生きているという存在証明が必要ではないかと考える次第。

 

楽しい情報を見てると、自分のつまらない日常と比較して心がヘコんでしまわないだろうか?

 

生きづらい人には、むしろ逆に、人生を楽しめていない人の情報こそ価値があるかもしれない。

 

だから、つまらなくて苦しい日常を公開して、ブログを書いたりツイッターでつぶやいたりすることで、他の生きづらい人への貴重な情報を提供していることになりうる。

 

「私たちは、21世紀日本での生きづらさの中で、なんとか生きている」

 

私たちは生き証拠を発信している。歴史的資料を残しているのだ。

 

なので、生きづらい人は面白くなくても、どんどん自分の情報を発信していけばよいのでないか。きっと誰かの心の安定に寄与するはずだ。

遊動生活のススメ

1.定住化による暇と退屈

以前、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)のレビューを書いた。

 

それとも関連させて、今回は遊動生活のススメを書いてみる。

 

人類は人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた

が、1万年前(縄文時代)より定住生活を始めると書いた。

 

 

遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。

しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。

 

現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかについて、資本につけこまれないような暇の潰し方が必要であると説いた。いや、暇さえも楽しんでしまえという趣旨だった。

 

 カネを使わない暇つぶしの方法を見出すことは、phaさんや大原扁理さんなども提言していたことである。

 

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

 

2.定住に向かない人は遊動を

理論上は以上の通りなのだ。しかし、私みたいに暇つぶしが下手くそで、常に新しい刺激を求めてしまう、そういう落ち着きのない人間もいる。

 

そういう人間は、どう生きるべきか?

 

その一つとして、遊動生活を挙げてみたい。

 

ずっと同じところに住んで、同じ仕事を毎日やって、同じ面々と顔を合わす生活って、ウンザリしませんか?

 

現代社会では、一つの場所に定住し、学校や職場など一つの集団に属する。 しかし、集団のメンバーが長期に固定されると、そこには強者・弱者が生まれ権力関係が形成されるようになる。 学校や職場でのイジメなどが好例だ。

 

しかも、学校や企業などの集団は閉鎖的で内部が外からは見えにくく、いびつな人間関係がはびこりやすい。 どうしても風通しが悪くなってしまい、外部からは見えにくくなる。外部の監視が届かない集団で、メンバーが固定されると権力関係が生まれてイジメなどが発生する。

 

いびつな人間関係が形成されるのは、日本人が民主的な人間関係に無頓着だからであり、一朝一夕ではどうにもならない。

 

だから、一つの集団の同じメンバーといつづけることは危険なんだ。個人にできることは、集団から離れるくらいしかできない。いちいち、改革と言って人に説法をするのも面倒だろう。

 

人間関係はシャッフルしていく必要がある。

 

以上は、内藤朝雄『いじめの構造』(講談社現代新書、2009年)のいじめ研究から得た知識に基づく。

 

いろいろな集団を渡り歩いていく遊動生活は、権力関係に侵されにくい。 嫌な集団に属することになれば、身軽に離れられるのが遊動生活のメリットだ。

 

考えてみろよ。短期バイトばかりやってたらイジメなんて起こらないし、嫌になってもすぐ辞められる。

 

 

たびたび、場所を移動するのも刺激になり、常に新鮮な気持ちを持ち続けることができて楽しい。

 

 

 

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 

3.遊動は本来あるべき姿

柄谷行人の『遊動論』(文春新書、2014年)によると、柳田国男も、定住化が権力関係を生み出したと書いていた。それ以前の遊動民の生活では富と権力の不平等や葛藤がないような社会が存在していたのではないかと書いてあった。

 

まだ、ちゃんと読んでないがな。笑

 

マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』によると、ジャングルで遊動生活をおくる未開人なんて、食材確保と調理で4時間しか生きるために働いてない。あとの時間は昼寝だ。

 

ジャングルの中に食材は豊富にあり狩りをして肉も食べれる。未開人の生活は貧相だと思われがちだが、実は豊かな生活が存在していた。

 

その未開人たちに、先進的な生活と現金収入を勧めるために農場で働かせたところ、仕事をやめてジャングルに戻ってしまったらしい。

 

それほど、遊動生活は気楽だったらしい。

 

毎日、10時間も働いてカネはあってもしんどそうに生活している現代人はいったい何なんだい??

 

 

 

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

 

 

 

石器時代の経済学 (叢書・ウニベルシタス)

石器時代の経済学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

消費社会における暇と退屈。

國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)を読んだ。

 

人類はいつから暇を手に入れ、退屈するようになったのか?

現在社会では、暇と退屈が資本によって搾取される。資本主義における暇と退屈との付き合い方を考えてみた。

 

●暇と退屈の誕生

 

p.71-

退屈は、人類の歴史の中でも比較的新しい現象だという。退屈は多くの場合近代と結び付けられる。

 

人類は400万年前に誕生してから、長らく遊動生活をおくっていた。

 

ところが、1万年前(縄文時代)より定住生活を始める。定住生活の開始とともに退屈に襲われるようになる。

 

p.87-88

遊動生活では、移動のたびに新しい環境になるので、毎日が刺激に富んでいる。

しかし、定住生活ではいつも同じ所にいるので、新しい刺激はなく、退屈を感じるようになる。

 

そこで、大脳に適度な刺激をかけるべく、高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体型や芸能などを発展させた。

 

縄文時代では、土器には使用するのに必要ないにも関わらず複雑な装飾が施されていたり、数々の工芸品がつくられた。

 

こうして、定住化による退屈の発生は「文明」を生じさせた。

 

●消費社会における暇と退屈

 

さて、資本主義が発達した社会において、人々の暇は新たな問題に直面するようになった。

 

マルクスの『資本論』に出てくるような時代には、人々は1日の大半を過酷な労働に費やされ暇や退屈はなかった。

 

p.23

長時間労働は依然深刻だが、先進国の人々は裕福になるとともに余暇を手に入れるようになった。

 

だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からないという問題が生じる。

 

 

 

p.34-38

パスカルの退屈論によると、人々は部屋でじっとしていられないから、退屈しのぎとして気晴らしを求めるという。

 

ウサギ狩りをする者は、ウサギを欲しているだけではなく、狩りをして退屈をしのぎたいのだ。

 

賭け事をしている人に金を渡しても、賭け事をやめないのと同じである。

 

p.17

ガルブレイスの『ゆたかな社会』(1958)によると、現代人は暇な時間の中で、自分が何をしたいのか分からない。そこで、広告屋などに「これが欲しいんでしょう?この趣味がいいですよ」と言われて始めて、それらのモノやサービスが欲しくなるのだという。

 

それまでの経済学の定説とは逆に、「ゆたかな社会」では、人々の需要は、供給側に操作されるのだ。

 

p.23

人々の暇と退屈に、資本主義がつけ込むのだ。文化産業が産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。

 

人々は暇の中で、退屈することを嫌う。だから、広告などに楽しみを提示されると、それを購買してしまう。

 

p.142

これからわかることは、消費社会は退屈と強く結びついていることだ。

 

p.145

ボードリヤールによると、現代社会において我々は物に付与された観念や意味を消費している。

 

例えば、どこかの有名なレストランで料理を食べた時、そこで提供された料理を味合うとともに、「有名なレストランに行った」ということで満足を得ているのだ。

 

このような、いわば記号の消費には限界がない。いくら消費しても満足がえられず、消費を続けてしまう。それでは、資本の思うがままになってしまう。

 

●暇と退屈の扱い方

 

現代消費社会において、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか?

 

 

資本は退屈につけ込んでくる。資本のとりことならない楽しみ方が必要である。つまり、何でもモノやサービスを買って満足を得たり、退屈しのぎをしないことである。観念の消費なんて終わりがない。

 

知人と、これについて少し話をしたが以下のような楽しみ方がいいのではないかという話が出た。

 

・読書をする

・芸術活動に打ち込む

・仲間とだべって時間を過ごす

・散歩をする

 

カネを使わず素朴にできることを大切にしていきたい。これは、phaさんや大原扁理さんなども提言していることである。

 

國分功一郎氏が、どこかのブログ記事で語っていたのは「暇な時間をぼんやりと過ごす」ことの大切さである。

 

氏の近著『中動態の世界』の紹介でも書かれていたが、「暇な時間をぼんやり過ごす」ことは、依存症や精神病の人にとっても重要なことだ。

 

なぜなら、依存症の人は、暇な時間に耐えられず、手持ち無沙汰で依存物に手を出してしまうのだから。

 

暇な時間や退屈を、何もせずに耐える力も必要かもしれない。

 

私みたいな落ち着きがなく、じっとしているのが苦手な人間にとっては難しい。だから苦しんでいる。笑

実務的な勉強は身に入らぬ

現在、職業訓練に通っている。

 

職業訓練のパソコンスキルの勉強は関心が無いのでやっても頭に入ってこない。けっこう勉強したつもりがテストの成績も悪かった。

 

やっぱり、仕事のための勉強=有用性のある勉強は好きになれない。ただ、金稼ぎのスキルをつけるための実務的な勉強はしんどいだけだ。

 

 

バタイユは、生産活動が非生産活動よりも優位にあることを批判した。有用性のない非生産活動こそが人間が生の満足を得られるものだ。

 

 

「人間の生の真の目的が非生産的な消費(祭典、豪奢な大建造物、遊戯、見世物、芸術etc…)にあるにもかかわらず、近代の西欧社会は生産と蓄積という人間の生にとっては手段の地位にある活動ばかりを重視してきた。消費が肯定されてもその消費は生産に貢献する消費でしかなかった」

酒井健バタイユ入門』ちくま新書、p.104)

 

人間の真の目的である非生産的なことこそ真の喜びが得られる。

内面からあふれだす、純粋な知的好奇心からの勉強がしたい。

モテる人になりたい!

宮台真司の『きみがモテれば、社会は変わる』は、今の閉塞する日本社会にはどういう人が必要であり、どういう人がモテてほしいかを書いた本である。

 

今の日本社会では、ひとたび職を失いカネを失うと、人との縁が切れ、孤立してしまう。

 

カネの切れ目が縁の切れ目。

 

男は会社での人間関係に偏重し、地域コミュニティーとの関わりが無いので、職を失うとたちまち人間関係が無くなり孤立してしまう。また、離婚して一人になると待っているのは孤独死である。

 

なぜそうなるか?

 

まずは、打算的につながるだけの人間関係があるだろう。

 

もう一つは、単に学校や会社が同じだということでの繋がりが多いためだ。

 

つまり、人と人とが真の親密さによって繋がっていないのだ。場所の共有がなくなると、それだけで縁が切れてしまうもろい関係。

 

宮台真司によると、アリストテレスは、本当に良い社会とは、経済的に豊かな社会でも犯罪が少ない社会ではなく、徳のある人があふれる社会だといった。

 

カネの切れ目が縁の切れ目という社会が変わるためには、徳をもった人間が増える必要があるという。損得だけで動くあさましい人間はいらない。他人の痛みを理解し、他人に共感する有徳=内発的な振る舞いができる人間が必要だと。

 

他人に共感できる人は、尊敬・尊重を集め、周囲に感染的な模倣(ミメーシス)を与えるという。 そのようにして、多くの人が徳ある行動をするようになった社会が、よい社会。

 

他人を思いやり、共感できる人が増えれば、人の縁がそう簡単に切れない強靭な社会ができると思う。

 

人から理解され、肯定され、承認されるという感情的な安全は、自分にとって、そして相手にとって「生命の安全」さえ保障するという。

 

人が幸福に生きられる社会には必ずそうした<包摂>があるという。

 

他人を幸せにすることで、自分も幸せになる、そういう関係を築いていけるのか?

 

 

モテる人間が増えなければならない。

 

俺もモテる人間になりたい。

 

 

 

きみがモテれば、社会は変わる。 (よりみちパン!セ)

きみがモテれば、社会は変わる。 (よりみちパン!セ)

 

 

働きたくても働けない社会

 若年無業者についての本を読んだ。

 

www.amazon.co.jp

 

 

 この本では、職に就かない者を無業者と呼んでいる。ニートと異なるのは、何らかの職業訓練などを受けている者も無業者に含めているからである。

 

 若年無業者の数は200万人を超え、15〜39歳の若者の16人に1人の割合となっている。

 

 この本では、働いていない若者は働きたくないから無職状態にあるのではなく、「働きたいのに働けない」、つまり働けない状況に若者が追い込まれていると指摘する。

 

 正社員では、パワハラ長時間労働などが横行し心身を壊し仕事を辞める若者。さらに、そういった経験がトラウマとなり就業意欲を失って無職状態を長引かせてしまう者。

 

 人とのコミュニケーションが苦手であったり、HSP(神経が繊細であり、他人からちょっと怒られただけでも萎縮してしまう人)であったりするため、仕事がしにくい人たちもいる。また、そのような性格の者で、仕事をすることに対して一歩前に踏み出せずにいる人たちもいる。

 

 この本では、誰もが無業状態になりうる可能性があり、無業状態から抜け出しにくい社会を「無業社会」と呼ぶ(p.148)。

 

 日本社会では、一度、無業状態になってしまうと、人間関係や社会関係資本、意欲も失ってしまいがちなのである(p.25)。

 

 湯浅誠氏が「すべり台社会」と言うように、いったん「正規ルート」から外れてしまうと、すべり台に乗るように、そこから先、下げ止まらない。

 

 ニートなど就労意欲がない若者が話題となっているが、本当に働きたくないと思っている若者は少ないのではないか。

 

 私がオフ会で会った無職の男性(25歳)は、アニメーターとして働いていたが、仕事の覚えが悪かったりして、上司から「冗談抜きで、知的障害ではないか?」と言われ辞職に追い込まれた。彼は働く自信を失っていた。現在は就労支援施設に通う。

 

 私が「仕事はしたいんですか」と問いかけると、「仕事をしたい。仕事をしていることで社会と繋がっている感覚をもてるから」と語った。

 

 私もできることなら働いて金を稼ぎたいと思っているが、条件の合った求人に出会えないことや、仕事がキツくて尻込みしてしまうのだ。

 

 

 皆が働ける社会になるには、無業状態にある若者が働く自信をつけるだけでは不十分で、労働環境が働きやすいものへと変わる必要もあると考える。

 

 労働教の支配する日本社会での仕事は容易ではない。日本では仕事をするためのハードルが高い。仕事を少しのミス無く完璧にこなすことを求められる。それで、仕事が少しでもできない者は助けられるどころか、攻撃されひどい扱いを受けたりする。

 

 少々のミスが大目に見られて、社員がお互いにフォローしあう労働環境となれば、どれだけ働きやすくなることか。 仕事の難易度が下がり、ひどい扱いを受けることが減れば皆が働きやすくなり無業者も減ることだろう。

 

 働きたい者が、自分に適した働く場所を見つけられて、適切なフォローを受けながら働くことができれば、人々から社会不満も消え生きやすい社会になっていくと考える。