1.「生きづらさ」は克服されるべき対象ではない
ニート、引きこもり、低所得生活などの情報を、いろんな媒体を見て思うのだが、いわゆる「生きづらさ」について、かゆい所に手が届くような情報が少ないと感じる。
ニートや引きこもりは、脱出すべき対象として、社会復帰できたハッピーエンドの事例ばかりが紹介される。
また、ニートや引きこもりを肯定する識者インタビューなども、識者自身が社会的に地位を得た人であるため、生きづらさについて語られても空虚感を感じることもあるだろう。
phaさんや大原扁理さん達が、社会に適応できない人がゆるい生活を送り、仲間たちと楽しく生活している様子を本で描いて、社会にオルタナティブを提示したことは画期的ではあった。
しかし、どうも社会に提示される「生きづらさ」への処方箋では、「生きづらさ」は克服されるか、楽しみに変えていこうという方向性しか示されていないようだ。
しかし、生きづらさを抱えた大抵の人は、彼らのように器用ではなく、つまらなくて変化のない日常を送っている。実際は苦しさの中でもがいている人が多い。
仲間もいないし、楽しみを見つけることもできない、あるいは、楽しんでいる余裕すらないのかもしれない。
「生きづらさ」は簡単に乗り越えられるものではないし、そのまま肯定されてよい。
2.灰色の生活でも仕方ない
逆に言うと、みんなが真似できない憧れの生活をphaさんたちが実現しているからこそ注目され本が売れるのだ。誰もが実践できる生活は憧れの対象でもなんでもなくなる。
しかし、生きづらさを抱えた人の多くは、不器用で、大した能力ももっていなく、思うようにいかない灰色の日常をおくっている。
残念ながら、そのような灰色の生活を描いた本はつまらないので売れないだろう。
つまらない生活は避けられるものとして価値を与えられてない。ネガティブなことは隠すべきことで無化されてしまう。
でも、生きづらい人は、つまらない生活を送っている他人の存在を知ることで、共感できることが多く、心の安定にもつながるのでは無いだろうか?そこから繋がりも生まれそうである。
3.「生きづらさ」をそのまま見せつける
生きづらい人には、楽しいニート生活とかの情報ではなくて、楽しくない、パッとしない日常を、何とかしのいで生きているという存在証明が必要ではないかと考える次第。
楽しい情報を見てると、自分のつまらない日常と比較して心がヘコんでしまわないだろうか?
生きづらい人には、むしろ逆に、人生を楽しめていない人の情報こそ価値があるかもしれない。
だから、つまらなくて苦しい日常を公開して、ブログを書いたりツイッターでつぶやいたりすることで、他の生きづらい人への貴重な情報を提供していることになりうる。
「私たちは、21世紀日本での生きづらさの中で、なんとか生きている」
私たちは生き証拠を発信している。歴史的資料を残しているのだ。
なので、生きづらい人は面白くなくても、どんどん自分の情報を発信していけばよいのでないか。きっと誰かの心の安定に寄与するはずだ。