生きるための自由研究

脱・引きこもりできそうにない半引きこもりです。

路上で物乞いしたら元気になった話

 

【目次】

 

1.路上で投げ銭をもらうと元気になった

 

 題名の通りだ。30代の半引きこもりのおっさんが女装して「引きこもりアイドル」を名乗って路上で投げ銭をもらうようになった。はっきり言うと「物乞い」である。自分でもケシカランことだと思う。でも、普通に考えて欲しいのだけど、仕事もできないし、社会保障もない、家族にお金をせびるのも気が引けるとなったら、お金の供給源がなくなるわけだ。じゃあ、路上で物乞いするしかなくなるのではないか。何をやっても上手くいかないのだから、これはもう、ヤケッパチになってしまえと思った。

 

 と書いたものの、路上で投げ銭をもらうのは意外に楽しい。物乞いまがいのことは惨めに思われるけど、実際やってみると人の好意を受けてエンパワーされるのだ。

 

 でも、路上で投げ銭もらう活動は体力使うし、あんまりヤヤコシイことは起こしたくないから、ほどほどにはしときます。

 

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 引きこもりが路上で通行人にお金をせびっている姿を見たら、95%の人はケシカランと思うだろう。それは、まあ常識だ。でも、心の中でケシカランと思っている人は話かけてくることもなく素通りする。心の中で何を思っているかは見えないので、アンチの声は聞こえないわけである。声をかけてくれる人は、路上で何かやっている人に興味をもったり、引きこもりに理解がある人、派手な女装姿を楽しんでくれる人などだ。つまり、褒めてくれる人や自分のことで楽しんでくれる人が話しかけてくるので、プラスのバイアスがかかり、テンションや気分のよさが爆上がりになる!笑

 

 「アイドルです」と言ってる訳のわからないキャラだから、頭のネジをゆるめて羽目を外すができる。通行人に話しかけてもらえるし、好意の言葉をもらえるし、お金がもらえるし、ご飯がもらえるし、話し相手ができる。正直、物乞いしたらいい事だらけなんだけど・・笑。

 

 

 衆目の前に自分の姿をさらすこともまたエンパワーになりうると思う。自分の生きざまを緊張の中で開示することの効果というものもあると考える。安全でない自助グループのようなもの。Twitterでわたしがアイドルを名乗って路上で投げ銭もらっていることをつぶやいても、反応はほとんどない。しかし、路上では話しかけてくれたり、投げ銭してくれる人がちょいちょい現れる。わたしのような人を目の前にしたら、ウズウズして何か話しかけたくなるのかもしれない。ネットでは感じられないリアルな現前の熱量の作用じゃないだろうか。

 

 

2.路上でもらったもの

 

 投げ銭なのか物乞いなのかよくわからない事をしてると、いろんな人からお金をモノをもらえる。でも、集まるお金は大したことがない。お金が目的なら最低賃金のバイトをした方がマシだ。でも、人から直接もらったものは好意の塊である。金額そのものではない生温かさに価値を感じるのだ。労働を介さない金の授受には、人との関係がキモになる。この感覚は値段にしがたいプライスレスなものだ。

 

① 留学生の話し相手として

 

 ロリータ・ファッションに興味があり、わたしの格好にも何となく興味をもってくれた留学生の女性がいる。路上の居場所として日本語の練習の場として、わたしを見かけたら遊びに来てくれる。わたしを見かけたら、「はるちゃん、今日も仕事してるね〜」と声をかけてくれる。差し入れでドリンクをもらったりする。

 

② ギャルにウケた

 

 「引きこもりアイドル」を名乗って女装姿をさらしていたら、通りがかりのギャルの女の子に、「なにこれ、おもしろ〜」と言われてウケた。「めっちゃ、かわいいし〜」と言われ、写真を撮られまくってインスタに投稿された。ついでに、投げ銭をもらった。ワイワイするのが好きなようだ。

 

③ 夕食のおにぎりをいただく

 

 「引きこもり」というワードが気になり話しかけてくれた女性がいた。中高年に引きこもりや精神障害を抱えた人が多いねという話になった。こうやって路上でワイワイやって人と話すキッカケがつくれると元気になるんじゃないかと語った。生きづらさを感じる人は、「ケアされるよりもケアする側に回るのがいい」というわたしの話にも納得してもらえたようだ。夕食にと、デパートのおにぎりをもらった。

 

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④ お姉さんに手を振ったらジュースをもらった

 

 天王寺の駅前で投げ銭活動してて、通りがかった仕事帰りのお姉さんに「ばいばーい」と言って、手を振ったらジュースをもらった。お姉さんも微笑んでくれた。心温まる思い出だ。

 

 

⑤ たまに女装をしてる方から投げ銭もらう

 

 自分もたまに女装をして街を歩いているという方から投げ銭をもらい、お話もした。女装など変身をすると違う自分になれて心地いいという話を聞いた。わたしが、「街で写真撮られたりしませんか?」と尋ねたら、そういう経験はないそうだ。わたしはよく写真を撮られるので、わたしの女装姿はなかなかイケてるということじゃないのかな?笑

 

 

3.路上で暮らす人達との交流

 

 7月のはじめに、大阪の道頓堀で「引きこもりアイドル」の看板を置いて投げ銭をもらった。道頓堀には、物乞いで暮らす人達がいる。その中の80代のおばあちゃんとお話をした。おばあちゃんの方から話しかけてくれた。雨で人出が少ないから今日はお金があまりもらえないと話した。お金をくれる優しい人もいれば、タバコの吸殻を投げてくるひどい人もいるそうだ。おばあちゃんは物乞いや路上生活で何かトラブルがあると警察に連絡して助けてもらうこともあるという。「警察と消防にはすでに届け出を出しとる」と言っていた。ええっ,警察公認の物乞いって、すごい・・。物乞いの人も警察と共存関係にあるようだ。おばあちゃんは戦中生まれで、焼夷弾が降ってきて鼓膜が破れた話などをしてくれた。「B29にやられた〜」と言っていた。おばあちゃんの肩もみをして500円のお小遣いをもらった!

 

 わたしのように訳のわからない人が突然やってきて物乞いを始めても、もともとその地域で物乞いをやっていた人たちの反応はみんな好意的だった。親身になって話をしてくれたり、物乞いの事情を教えてもらえる。自分たちと同じようなことをしている人に親近感を覚え、話が通じると思うからいろいろ話しかけてくれたのだと思う。一時的ではあるけど、仲間として迎えてもらえた。あるおっちゃんは、「物乞いは運や」と言っていた。普通はまったくお金は入ってこないが、たびたび1万円札をもらってバズることもあるという。わたしが次の日仕事があるからと帰りの挨拶をすると、「あんた、仕事なんてやめて、路上で飯食ったったらええやんか。わしなんてもう仕事やめて数年たつわ」と言われた。わたしが物乞いのような事をすることで、地域の路上生活者の人と共通の話題ができて交流ができた。つまり、相手と同じ地平に立つことで連帯意識が生まれたのだと思う。これは、一般社会のレイヤーから路上のレイヤーに入るということだ。ウラの領域に飛んでしまった感があった。

 

 その日のエビス橋の夜は、アイドル活動で投げ銭をもらうわたしと、ナンパ師、ぼったくりバーの客引きがひしめきあう空間になった。

 

 

 4.「労働」って何だろう?

 

 「物乞い」は軽犯罪とされている。見せしめ的に捕まるケースもあるようだ。でも、わたしはアイドル活動の投げ銭を名目にしているので、このへんは他の路上パフォーマーと変わらない(多分ね・・笑)。「物乞い」はなぜケシカランと思われるのか?労働主義に反するからだろう。働きもせずに他人にお金をせびるのはケシカランという勤労道徳があるためだ。でも、労働って何だろう。何らかの利益を生み出した対価としてお金をもらう行為が一般的には労働だと思われる。しかし、物乞いの人は、その姿を路上で見せて人に憐れみの情を抱かせたり、その場での話相手になるなど、相手の心を突き動かしてお金をもらっている。そう考えると、物乞いの人はお金をもらってはいるが、それと引き換えに目に見えない何かを対価として与えているのだ。いかなる時でも、他人からお金をもらうことは何らかの対価が発生している。通行人の人が道頓堀の物乞いのおっちゃんを見て、「あんなの、みっともないわ」と言ったが、「いや、僕は立派な金稼ぎだと思います」と言い返したんだけどね。汗水たらして苦労して金を稼げというが、物乞いの人も一日中外に立ってそれこそ汗水たらしている。物理的な体力消耗としてはかなりものじゃないのか。それなら、どうでもいい仕事で大金稼げるブルシットジョブなんかは何なんだろう。コロナがひどくてもオリンピックを強行して、そのおこぼれに預かる利権企業などは「物乞い」と呼ばれないのはなぜか。富裕層や利権集団は株や税金の配当など不労所得をたくさん得られるが、下々の人たちは安い給料で労働していろと暗に言われている。結局、お金の配分を正当化する根拠が支配者側に有利に設定されている構造が分かってくる。

 

 物乞いをする人は、通行人を脅してお金を巻き上げるわけでもないし、お金を渡すかどうかは通行人の完全な任意である。ただ、路上に座っているだけなのに、不当に貶められているなと思う。それを考えると、貧しい人からも税金を強制的に巻き上げて、あまつさえ税金を利権集団で独り占めできるようなシステムの方が悪質だと言える。

 

 

 5.投げ銭活動すると居場所がつくれる

 

 女装をしたりアイドルの看板を掲げたり、投げ銭を求めているいろんな情報を路上でちらつかせて、自分の存在そのものが他人を引き寄せている。自分が他人の意思や行為に働きかけている点で、わたしは路上で権力を行使していることになる。物乞いは衆目に自分を晒したりお金をもらうが、これにより他者に従属するだけではない。自らの存在感を路上で示し他者を動かしているので、むしろ場を支配しているとも言える。わずかなお金でも、自分の生きざまや自由にふるまう姿を晒して、自分の身一つでお金を得ているという自負も感じられる。自分が路上の人からいろんな好意を受けて、関係の中で生きているんだという実感を得られる。自分の自信にもなると思う。このように、自分を主体とした場がつくれるという点で、一時的な居場所にもなるのだ。